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『スキルなし』と鑑定され追放された俺、実は見た技を全部喰らう《万象写し》だった件  作者: さぼてん


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第5話: 無能の名が売れる

 ギルドの扉を開けたとたん、酒場の喧噪がぴたりと止んだ。


 十を超える顔が、一斉にこっちを向く。


 ……え、なに。俺、なんかした?


 いや、した。昨日した。


「おう、来たぞ! 本人だ、本人!」


 奥の卓でモークが立ち上がった。肩には、昨日俺が縛った布がまだ巻かれている。


 その卓を、朝っぱらから冒険者がぎっしり囲んでいた。


「いいか、もう一回だけ話すぞ。棘がこう、雨あられと降ってきてだな」


「それ、さっきも聞いたぞ。おっさん」


「さっきは百本だったろ。今、千本って言わなかったか」


「数えてる暇なんかあるか! 空が黒くなるくらいだ!」


 盛ってる。一晩で、棘が十倍に増えてる。


 ゆうべ門で別れたあと、俺は宿へ直行して寝た。薬草の納品はついでに出しといてやるとモークが言うので甘えた。


 甘えた結果が、これだ。


 モークはあの肩のままギルドへ行ってネルに報告した。治療院に寄る金は、どうやら酒に化けたらしい。布が昨日のままなのは、そういうことだ。


 それから酒場で同じ話をした。卓が替わるたびに、何度も。


 そのたびに、鉄棘猪が一回りずつでかくなっていったらしい。


「で、その棘をだ。坊やが風でぐるっと巻いて一本にまとめて、ずどん!」


「風の魔法か?」


「スキルなしなんだろ。魔法なんか使えるかよ」


「じゃあ素手か」


「素手で鉄棘猪を殴り倒したってのか」


「しかもな、撃つ前に叫んだんだ。ばん……ばんなんとか、らせん、なんとかって」


「技の名前かよ!」


「スキルなしが、技の名前を叫ぶのか」


「叫んでたんだよ! 舌かみそうなやつを、でっけえ声で!」


 卓がどっと沸いた。


 ……モークさん。目ぇ閉じててくれって、あれほど。


「俺は、どっかの貴族の隠し子だって聞いたぞ」


「誰からだよ」


「裏の鍛冶屋のせがれから」


 ……もう、誰の話なのか分からなくなってる。


 卓の端で、若い男がしきりに頷いていた。革の胸当てに、門番の札を下げている。


「いや、本当なんだって。見張り台から、この目で見たんだ」


 若い男が身を乗り出した。


「草地のまんなかに風の柱がずどんと立ってさ。鐘を鳴らすか迷ってるうちに、猪が倒れてた」


 ああ。昨日、鐘の綱を握ったまま固まってた、あの見張りか。


「鳴らさなかったのかよ、お前」


「鳴らす前に終わったんだよ! 隊長にもそう書いて出した。日誌に『風の柱、一本』って」


「なんだその報告」


「ほかに書きようがあるかよ」


 なるほど。門の詰め所からも、話は上がっていたわけだ。


 法螺吹きのおっさん一人なら、笑い話で済んだ。そこへ見張り台の証言が乗った。


 俺はそっと回れ右をした。


 今日は溝さらいでも取って、地味に、目立たず——


「レンさん」


 受付から、静かな声が飛んできた。


 ネルだ。笑っていない。羽根ペンを握ったまま、こっちを手招きしている。


 ……逃げられないらしい。




「おはようございます。座ってください」


「立ったままじゃだめ?」


「長くなるので」


 受付台の上に、紙の束がどさりと置かれた。


「これ全部、昨日の件です」


「多くない?」


「多いです。Fランクの依頼表に、上位個体を仕留めたときの欄なんてないんですよ」


 ネルが一枚目を指でとんとんと叩く。


「薬草採りに出かけた新人が、薬草と一緒に鉄棘猪を仕留めて帰ってきた。そんな前例、うちの支部にはありません。だから書類を一から作ってます。朝から」


「……ごめん」


「謝るところじゃないです。モークさんの命の恩人なんですから」


 口ではそう言いながら、ネルの目の下にはうっすら隈がある。


 悪いことをした。猪の件より、紙の量のほうで。


「討伐の報酬は出ます。死骸は今朝いちばんに回収班が確かめてきました。上位個体なので、銀貨十二枚」


「十二」


 声が裏返った。登録料が一枚だった。宿代なら、ひと月はいける。


「ただし」


 ネルが指を一本立てた。


「Fランクの方が上位個体を討伐した場合は、鑑定の照会が要るんです。記録に載せる前に」


「照会?」


「前に、よその魔物の素材を買い取って自分の手柄にした人がいたんです。それ以来、才能と手柄が釣り合ってるかを確かめることになってて」


「なるほど。俺のカード、スキルなしだもんな」


「そういうことです。昼すぎに、協会の鑑定官さんが奥の窓口に来ますから」


 ギルドの奥には、才能協会の出張窓口があるらしい。窓口に鉄格子がはまっている。預かった書類を守るためだそうだ。


 鑑定、ね。


 俺は少しだけ口の端を上げた。


 あれなら、よく知っている。この一年、勇者パーティの連中が鑑定を受けるたび、隣で見てきた。何十回と見て、少しずつ喰った技だ。


「平気です?」


「なにが」


「いま、ちょっと悪い人の顔でした」


「生まれつきだよ」


 そこへ、床板を踏み鳴らす足音が近づいてきた。


「法螺だ、そんなもん」


 ザングだ。


 珍しく酒くさくない。今朝はちゃんと素面らしい。


 大男は受付台に手をついて、俺を見下ろした。


「モークのおっさんは昔っから話を盛る。門番の若造は、見張り台から遠目に見ただけだ」


「ザングさん。モークさんの肩の傷は本物ですよ」


「傷は本物だろうよ。猪も本物だろうよ。だが、こいつがやったって証拠はどこにある」


 太い指が、俺の鼻先に突きつけられた。


「お前、俺に二度も恥をかかせやがったな」


「二度目は、ザングさんが勝手に卓にぶつかったんじゃ」


「うるせえ。一度目もだ」


「一度目は、俺がどつかれただけっすよ」


「……とにかく、だ」


 ザングが声を落とした。


「外でやるって言ったろ。裏の訓練場に来い。猪を倒した腕とやらを、俺が確かめてやる」


 酒場のほうが、わっと沸いた。


 見物人には願ってもない余興だ。


 ネルが長いため息をついた。


「訓練場なら、木剣のみ。立会いつきです。私が立ち会います」


「いいのかよ、ネル」


「止めても、どうせ壁の外でやるんでしょう。目の届くところでやってもらったほうが、書類が少なくて済みます」


 そこが基準なのか。


 俺は頭をかいた。


 断るのは簡単だ。腰が痛いとでも言えばいい。


 でも、ここで尻尾を巻いたらゆうべの話は全部法螺になる。俺の話じゃない。肩に布を巻いたまま卓から卓へ回ったおっさんの話がだ。


 それに、この男は断っても引かない。今日逃げれば、明日は壁の外で得物つきで来る。昨日の朝、ザングの手は剣の柄にかかっていた。


 Cランクの剣には、技のひとつくらい乗ってる。


 あのとき喰いそびれた一品が、向こうから皿に乗ってやってきた。


「……じゃあ、お手柔らかに」




 ギルドの裏手は、土を踏み固めた広場になっていた。


 壁際に木剣が立てかけてある。刃のない、ただの樫の棒だ。


 見物人がぐるりと輪を作った。十人どころじゃない。二階の窓からも、鈴なりに顔がのぞいている。


 モークが輪の最前列で腕を組んでいた。


「レン! 手加減してやれよ!」


「どっちに言ってんだ、おっさん!」


 ザングが怒鳴り返す。


 俺は壁から木剣を一本取った。握るのは久しぶりだ。勇者パーティにいたころは、荷物と鍋ばかり持たされていた。


 ザングも木剣を構える。


 でかい。棒を持つと、なおでかい。


「始め」


 ネルの短い声。


 ザングは最初の一歩で、もう間合いを詰めていた。


 速い。でかい図体のくせに、足が軽い。


 腕はそこそこ、とネルは言っていた。その「そこそこ」の幅が、思ったより広い。


 横薙ぎ。かわす。


 突き。半身でずらす。


 どれも技の乗らない、ただの剣だ。ただの剣なのに、風を切る音が重い。


「逃げてばっかか、坊や!」


「逃げ足だけは、自信あるんで」


「なら、逃げ場ごと割ってやる」


 ザングが大きく跳び退いた。


 木剣を頭上に振りかぶる。膝が沈む。肩が沈む。全身の重さが、木剣の先の一点へするすると集まっていく。


 来た。


 俺の眠い目が、勝手に開いた。


「兜割りッ!」


 木剣が振り下ろされる。


 俺は横へ跳んだ。


 さっきまで立っていた地面に、樫の棒が叩きつけられた。


 踏み固めた土が、ばくりと割れる。


 裂け目が一直線に、俺の足元まで走ってきた。


 樫の棒で、これか。鉄の剣なら、兜ごと頭が割れる。名前に嘘はない。


 そして、見た。


 ザングの踵が土に沈む。その沈みが膝へ、膝から肩へ上がる。肩甲骨が寄って、腕へ。腕から切っ先へ。重さを一点に落とす、その道筋をまるごと。


 喰った。


 腹の底が、ずしりと重くなる。昨日の棘より、ずっと鈍くて腹にたまる重さだ。


 ごちそうさまでした、Cランク殿。


 輪の見物人がどよめいた。


「出た、ザングの兜割り!」


「かわしたぞ、坊や!」


「まぐれだ、まぐれ!」


 ザングが木剣を引き抜き、もう一度振りかぶる。


 二発目が来る。今度は、かわさせない構えだ。肩の向きで、俺の逃げる先を塞いでいる。


 ……さて、どうする。


 喰ったばかりの兜割りを、そのまま返すのは簡単だ。


 でも、それをやったら輪の全員が見る。無判定の坊やが、ザングの技をそっくり真似た、と。


 それは、ちょっと噂の種類が悪い。


 昨日の棘を一度しまって、今のと持ち替える。


 持ち替えながら、頭の中で組み替える。


 こいつの兜割りは、重さを上から下へ落とす技だ。割れるのは、落ちた先にあるもの。


 なら、落とす先を選べばいい。


 狙うのは、振り下ろされてくる木剣そのものだ。


「兜割りァッ!」


 二発目。


 真上から、樫の棒が落ちてくる。


 俺は逃げなかった。下から、自分の木剣をそっと差し出した。


 打ち合わせるんじゃない。切っ先を、ザングの木剣の先端に、点で当てる。


 喰った重さを、その一点に落とす。


 樫の木目に沿って、真っすぐに。


「重さってのはな、落とす先を選べるんだよ。


 ——【万象《ばんしょう》・柾目割《まさめわり》】」


 ぱきん。


 ザングの木剣が、先端から柄まで縦に裂けた。


 二枚になった樫の棒が、ザングの両手の中でぱかりと開く。


 俺の木剣には傷ひとつない。ザングの頭にも、指一本触れていない。


 訓練場が、しんと静まり返った。


 ……あ。


 またやった。


 昨日の今日だぞ。しかも今朝、モークの卓であれだけ笑われた、その名前を。


「レンさん。今の、モークさんの話に出てきた『ばんしょう』ですよね」


 ネルが、立会いの位置からこっちを見ていた。


「くしゃみ、です」


「ずいぶん大きなくしゃみでしたけど」


「土埃が鼻に入って。ばんしょ、ばんしょって」


「そんなくしゃみ、あります?」


「田舎のくしゃみは、だいたいこうっすよ」


「それだ!」


 輪の最前列で、モークが両腕を振り上げた。


「それだよ、それ! ばんなんとか! 俺が朝からずっと言ってたやつだ!」


「おっさん、くしゃみだってよ」


「くしゃみで猪が倒れるか!」


「倒れたんだろ。あんたの話じゃ、棘が千本も降ってたんだから」


 どっと笑いが起きた。モークが真っ赤になって何か言い返し、隣の男に肩を叩かれて引っこむ。


 ……おっさん、ごめん。助かった。法螺吹きの看板が、今だけは俺の盾だ。


 ネルの眉がぴくりと動いた。信じていない顔だ。でも、書類を増やしたくない顔でもある。


 彼女は何も書きつけず、羽根ペンを耳に挟んだ。


 笑いが引くと、今度は木剣のほうに火がついた。


「割れた! ザングの木剣が、縦に割れたぞ!」


「当てただけだぞ、今の! こつんって当てただけで!」


「木剣が古かったんじゃねえのか」


「今朝おろした新品だよ、それ!」


 ザングは、手の中の二枚の棒を見下ろしていた。


 怒鳴らない。赤くもならない。


 ただ、裂け目の断面を、太い親指でゆっくりなぞっている。


「……今の」


 低い声だった。


「今の手応え。俺の兜割りと、同じだった」


 木剣を握る手のひらが、急に乾いた。


 さすがCランク。そこそこ、どころじゃない。自分の技の重さは、自分の手が覚えているらしい。


「たまたまっすよ。一発目で地面が揺れたんで。足がもつれて、木剣がちょうどいいとこに」


「一発目で地面を割ったのは、俺だ」


「はい。おかげさまで」


 ザングは、しばらく黙って俺を見ていた。


 それから、二枚の棒を地面に放った。


「……名前」


「はい?」


「お前の名前だ。坊やじゃねえほうの」


「レンです」


「レン、か」


 ザングは鼻を鳴らし、輪を割って歩き出した。


「覚えといてやる。次は鉄の剣でやる」


「鉄の剣って、得物っすよね。抜いたら減点じゃ」


「外でだ、外で!」


 捨て台詞は、昨日とひとつも変わっていない。


 でも、昨日と違って誰も笑わなかった。


 ザングの後ろについていた槍持ちの男が、足を止めて、割れた木剣を拾い上げた。断面を日に透かして、ぼそりと言う。


「……新人の木剣の当て方じゃねえぞ、これ」


 見物人の何人かがザングの背中を見送って、それから俺を見た。


 値踏みする目だ。昨日まで俺の上を素通りしていた目が、今日はこっちで止まっている。


 ……やりすぎたか。いや、壊したのは木剣一本だ。セーフ。たぶん。


 輪がほどけていく途中で、ふと引っかかった。


 二階の窓。さっきまで鈴なりだった顔のなかに、ひとつだけ笑っていない顔があった。


 灰色の外套の襟を立てた男だ。窓枠に小さな帳面を広げて、ペンを動かしている。


 俺が見上げても、そいつは顔を隠さなかった。


 最後まで書き終えてから、帳面を閉じる。立てた襟の内側で、小さな銀色のものが日を返した。それから、こっちへ向けて、ほんの少しだけ顎を引いた。


 会釈のつもりらしい。


 男は急ぐでもなく窓から離れ、廊下の奥へ歩いていった。


 見物人なら、木剣が割れた瞬間に声を上げる。あいつは、書く手を止めなかった。


 ……気のせいってことにしておこう。今日のところは。




 昼すぎ。


 ギルドの奥の小部屋は薄暗くて、紙とインクの匂いがした。


 鉄格子の窓口の向こうに、白髪まじりの女の鑑定官が座っている。胸元に、才能協会の小さな銀の札。


 親指の爪ほどの、銀の札。


 さっき二階の窓で、襟の内側に光ったのと同じ大きさだ。


 ……気のせい、の棚が、そろそろいっぱいになってきた。


「レン。十六。登録時の判定は、スキルなし」


 鑑定官が書類を読み上げる。声に抑揚がない。毎日こうして、人の値段を読み上げているんだろう。


「上位個体の討伐記録の照会ね。手を出して」


 格子の隙間から、手のひらを差し出す。


 鑑定官の指が、俺の手首に触れた。


 彼女の目の奥に、薄い光がともる。


 知っている光だ。


 手首の内側が、ひやりとした。


 光が細い糸になって、脈に沿って這い上がってくる。肘を過ぎ、肩を過ぎて、胸の奥へ。持っている才能が並んでいる場所だ。


 そこで、腹の底に寝かせてある鑑定がぴくりと身じろぎした。


 同じ技どうしだ。向こうの糸が、こっちの鑑定に触れる。


 触れたとたん、糸は行き先を見失った。先を探って空をかき、何もつかまずにほどけていく。


 十六の儀の日と、同じ空振りだ。


 俺は何もしない。何かすれば、かえって指先に伝わる。息を浅くしてほどけ終わるのを待つだけだ。


 光が消えた。


 鑑定官のまぶたが、ゆっくり下りた。


「……スキルなし」


 詰めていた息を、俺は細く吐いた。


 はい、知ってます。


「討伐は、目撃者の証言と見張り台の報告で裏が取れてる。スキルなしで、上位個体を一撃ね」


「運がよかったんで」


「運、ね」


 彼女は書類に何か書きつけ、それからふと手を止めた。


 自分の指先を、じっと見ている。


「……白いわね」


「白い?」


「何も持たない人を読むとね、普通はもっとざらつくのよ。空っぽの箱にも、木目くらいはあるものだから」


 鑑定官は首をかしげた。


「あなたのは、箱そのものがつるっと白い」


 心臓が跳ねた。


 顔には出さない。眠そうな目のまま、首をかしげ返す。


「田舎育ちなんで。中身が少ないと、そうなるんじゃないすかね」


「そういうものかしらね」


 彼女はそれ以上何も言わず、書類の端に判を押した。


 それから引き出しを開けて、もう一枚、紙を出した。協会の紋が透かしで入った薄い紙だ。


 そこにも、さらさらと何か書く。


「それは?」


「照会の写しよ。気にしないで。ひと月ぶんまとめて、王都の本部へ送るだけ」


 まとめて送る、だけ。


 その紙が、格子の向こうの木箱にすとんと落ちるのを、俺は黙って見ていた。


 王都、ね。




 受付に戻ると、ネルが小さな布袋を台に置いた。


 じゃらりと、重い音がした。


「照会、通りました。報酬は計算どおりです」


「どうも」


「それと、これ」


 ネルがもう一枚、紙を滑らせてくる。


「支部長の名前で、Eランクへの昇格推薦が出ました。次の審査で通れば、壁の外の依頼も取れます」


「……早くない?」


「早いです。登録して三日目の推薦は、うちの支部で初めてです」


 ネルは書類の束を、とんとんと揃えた。


「ついでに言うと、木剣代は請求しないそうです。ザングさんが自分で払うって」


「あの人が?」


「『割れたのは俺の剣だ』って。……ちょっと見直しました。ザングさんのこと」


 ネルが小さく笑った。隈の上で、目が少しだけやわらかくなる。


「レンさんのことは、まだ見直してません。書類が多いので」


「それは、ほんとにごめん」


「次は、もう少し紙の少ない手柄でお願いします」


 布袋を懐に入れて背を向けかけたところで呼び止められた。


「それと、訓練場の立会い記録」


 ネルが羽根ペンを耳から抜いた。訓練場で見たのと同じ挟み方だ。


「『木剣一本、破損』とだけ書いておきました」


「……くしゃみは?」


「くしゃみの欄は、ありませんから」


 ネルは顔も上げずに、次の書類をめくった。


 上位個体の欄はないから一から作る。くしゃみの欄はないから書かない。


 見直されてはいない。でも、見逃してはもらえたらしい。




 ギルドを出ると、日は西へ傾きかけていた。


 懐の布袋が重い。


 さて、何に使うか。


 まずは飯だ。肉。ちゃんとした肉。それから擦り切れてない外套。宿代を先払いして、屋根裏の雨漏りも——


 皮算用をしながら、露店の並ぶ通りを歩く。


 焼き串の脂が炭に落ちる音。なめし革と麻の匂い。夕方の値引きを叫ぶ声が、あちこちから重なってくる。


 小間物屋の店先で、女の子が一人しゃがみこんでいた。


 七つか八つ。肩までの髪がほつれて、顔にかかっている。


 見ているのは、台の上に並んだ髪紐だ。赤いのや、青いのや、縁に小さな刺繍の入ったのや。


「お兄ちゃん、これ。この赤いの」


「だめだって。今日は塩を買いにきたんだろ」


 隣で、十二、三の少年が妹の袖を引いている。


「だって、結んでくれるって言った」


「言ったけどさ。紐なら前のがあるだろ」


「前のは、ちぎれちゃったもん」


 少年が困った顔で、懐の小銭を数えはじめた。


 ……ああ。


 軽口が、どこかへ引っこんだ。


 頭の中で回っていた皮算用が、ぷつりと止まる。肉も外套も、雨漏りも、どこかへ行った。


 少年は結局、いちばん安い麻の紐を一本買った。赤くはない。生成りの、ただの紐だ。


 それを、しゃがんだ妹の髪に、不器用な手つきで結んでやっている。


 きつすぎる、と妹が文句を言う。じゃあ自分でやれ、と兄が言う。


 それでも妹は、紐をほどかなかった。


 兄妹が手をつないで、人ごみのなかへ消えていく。


 俺は、通りの真ん中で突っ立っていた。


 喉が、一度だけ鳴った。


 気づくと、指が肩の革袋の口紐を探っていた。


 いちばん底に、布でくるんだままのものがある。細くて、軽い。結び目がひとつ、ついたままだ。


 もう長いこと、一度もほどいていない。布も、結び目も。


 今夜は、あれを出してみようと思った。



最後まで読んでいただきありがとうございました。覇王樹《さぼてん》です。


 噂の回でした。モークのおっさんの棘が一晩で十倍に増えていく場面は、書きながらずっとにやにやしていました。実は最初の稿では「百本」止まりだったんです。でも、酒場の噂が百本で止まるはずがないなと思い直して、千本まで盛らせました。門番の日誌の「風の柱、一本」は、あの若い門番に僕がいちばん書かせたかった一行です。


 ザングについても少し。二話、三話と、ずっと笑われ役をやらせてきました。今回、割れた木剣の断面を親指でなぞるところで、ようやく彼の顔が見えた気がします。木剣代を自分で払う男なんですよ、あいつは。書いてみて、僕のほうが少し驚きました。


 それから、鑑定官の言った「白い」という一言。あれは、ずっと先まで尾を引きます。


 次回は、少し静かな話になります。レンの革袋の底にあるものの話です。よろしければ、次もお付き合いください。

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