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アラフォー刑事と犯罪学者  作者: 新橋九段
Study 2 左側の死体
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7.左側の死体

 矢野家でのひと悶着から3日後の夕方。私は署の喫煙室で煙草をふかしていた。案の定私(と紫木)の行いは警部の耳に入ったらしく、捜査第1課のオフィスは大荒れの雷雨とも言うべきコンディションになっていた。自分が原因ではあるけれど、元をただせば紫木の奇行が招いた事態であるという1歩距離のある関わり方のせいか、私は警部の雷の巻き添えを食った他の刑事に悪かったなと素直に思うことができた。

 薄暗く殺風景な喫煙室のベンチに座り、私はここに来て3本目になる煙草を缶から引き抜いてジッポで火をつけた。携帯をちらりと見て、まだメールも電話も入っていないことを確認する。

「ああ……こんなところにいたんですね」

 喫煙室の扉が開き、川島が入ってきた。スーツにしわが寄り、心なしか足取りもふらついている。この数日で彼は加速度的にヨレヨレになっていた。無論原因は例の犯罪学者だ。

「よお。首尾はどうだった?」

「なんとかこぎつけましたよ。あと30分もすれば来るはずです」

 川島は左腕の腕時計を見ながら私の質問に答えた。そして私の隣にどっかりと腰を下ろすと、スーツのポケットから煙草を取り出した。

「悪かったな。それにしても流石だよ」

「なんですか?」

「よく矢野を署に来させる気にさせたな」

「ああ……大変でしたよまったく」

 川島が大きくため息を吐く。煙草の煙が吐き出され、狭い部屋に充満した。

 私たちは紫木の指示で、この3日間矢野英明を京都府警に連れ出すために奮闘していた。とは言っても実際に奮闘したのは川島以下この事件の捜査を中心的に取り仕切る同僚刑事たちで、私は喫煙室にでも座りながら彼らの報告を待つだけだった。あの騒動の渦中にいた私が出向いても説得には逆効果だろうという判断だ。

「しかし、その犯罪学者の先生って人、一体何を考えているんでしょうね。何か聞いていませんか?」

「いや、私も詳しくは聞いてない。ただ慎重に進めたいからとだけ」

 私はそれだけ言うと、ため息を吐いた。携帯を取り出し、紫木へ矢野のことをメールで伝えた。すると驚くほど素早く、「今すぐ行きます」とだけ書かれたメールが返ってきた。

 あの後、何度も紫木に詳しい説明を求めたのだが、彼はただ「予断を与えたくないのです」とか「矢野さんに誤解を与えないように、正確に説明するために慎重をきす必要があるのです」などと言ってはぐらかした。証言の正確性を確かめるのに「矢野に説明する」というのも変な話だったが、ともかく紫木は説明しない意図を明かそうとしなかった。

「本当に大丈夫かな……」

 先月の事件では、紫木の予測は見事なまでに当たった。その推測は当人をして「ここまでうまくいくことは滅多にない」と言わしめるほどの正確さだった。しかし今回は先月の事件と話が違う。この前は地理的プロファイリングというもので連続殺人犯に繋がる手がかりを見つけ出したが、今回は連続殺人ではない。しかも犯人を捜すのではなく証言が正しいかを確かめるのだ。勝手が違うにもほどがある。

「最悪、また先輩の引責問題が復活したりして」

「シャレになんないよな、まったく……」

 川島の発言に私はまたため息を吐いた。今回の発端は警部の指示による聞き込みだったとはいえ、そこから先の行動、特に紫木と目撃者を引き合わせたのは私が勝手にやったことだ。自分で自分の首を絞めていては世話がない。

 いい加減喫煙室にいるのも飽きたなと思った私は、煙草を灰皿に押し付けて火を消すと立ち上がって伸びをした。低い天井に手がぶつかってがつんと鈍い音を立てる。

「戻るんですか?」

「いや、受付にいる。警部のいるところには戻れないだろ」

 尋ねてくる川島に私はそう答えた。オフィスで警部の雷を浴びるよりは、受付で紫木を待っていた方がいいだろう。私は川島を残して、喫煙室の扉を開いた。

「あ、そうだ。川島ってさ」

「なんですか?」

 喫煙室を出る直前に思い出したことがあったので、私は上半身を逸らすように室内に戻すと川島を見て尋ねた。

「下の名前なんだっけ?」

「……克己ですけど。どうしてですか?」

「いや、ちょっと気になって」


 私は相変わらず閑散としている受付のベンチに座って、紫木を待つことにした。平日の夕方にわざわざ警察署へ来る市民は少ないようで、受付を担当している婦警も暇を持て余すようにペンをくるくると回していた。警察署が繁盛しないのは平和な証拠だ。

しばらくぼうっとしていると、署の入り口の自動扉が開いて杖をついた猫背の男が入ってきた。紫木だ。同じフロアにいる全員の視線が彼に注がれると、その視線がそのまま下がった。大部分がスラックスに隠れているとはいえ、左足に比べて大きく無骨な右足の義足は否が応でも注目を集めるようだった。紫木はそんな視線にはもう慣れっこなのか、一切気に留めることなく私の方へ歩いてきた。彼を見つめる無数の視線も、それについてくる。

「どうも、神園さん」

「わざわざありがとう、先生。矢野はまだ来てないけど」

「そうですか」

 紫木は少しぶっきらぼうに言うと、持っていた手提げ鞄を下ろしつつ私の隣に座った。どうやらここで矢野を待つ気らしい。

「で、先生。いい加減もうちょっと詳しく説明してくれてもいいんじゃないの?一体何考えてるの?」

「僕も秘密主義ではないですし、どこかの探偵みたいに『まだ仮説の段階だよ』とはぐらかすつもりもないのですが、今回に限っては特殊な事態でして。普段より慎重に話を運びたいのです。準備も必要でしたし」

「慎重っていうけどさぁ、どういうことなの?」

「説明を聞いていただければ納得してもらえると思いますが……そうですね、しいて言うならば矢野さんの今後の人生に大きく関わる可能性があるというところでしょうか」

「……はぁ?」

「いまはこれしか言えません」

 すいません、と紫木は小声で謝って頭を下げた。私は、彼の思惑がますますわからなくなる。

「……本当に大丈夫なんでしょうね」

「それは保証しますよ。証言の謎、見たはずの死体を見なかったという謎はきちんと解決します。その点は任せてください」

 紫木は曲がって背中をぐっと伸ばして、誇らしげに言った。私は、そんなところだけはっきりと断言されても困るので何も言わなかった。

「……あ、来ましたね」

 紫木が入口の方を見ながら言った。私が見ると、開いた自動扉から矢野英明と英子ちゃんが入ってくるのが見えた。英子ちゃんは紫木に言われた通り、父親についてくることにしたようだ。

「わざわざご足労すいません。ありがとうございます」

 私はベンチから立ち上がると、彼らに声をかけた。英子ちゃんはにこやかに手を振ってくれたが、矢野は私の隣にいる紫木に気がつくと途端に不機嫌そうな顔になった。

「ああ、矢野さん。ありがとうございます」

 ちょうど階段から降りてきた川島が現れて、同じように矢野に声をかけた。川島は矢野を案内するように再び階段を上がっていく。私と紫木もそれに続いて階段を上った。紫木の足取りは義足とは思えないほど軽やかで、スキップでもしそうなほどだった。これから事件の謎を解くとあって、張り切っているのだろうか。

 私たちは3階まで上がり、小さな会議室のような部屋までたどり着いた。川島たちがその部屋に入って行くのに続いて私と紫木も入ろうとすると、背後から「おい」と野太い声で呼び止められた。振り返ると、後ろに仁王立ちの警部がいた。

「げぇ」

「なにがげぇっ、だ」

 警部は雷神そっくりの顔つきのまま私たちに近づき、そのまま紫木を睨み付けた。私ほどではないが警部も大柄な方なので、紫木を見下ろし威圧するようなかたちになった。

「ああ、警部さんでしたか。初めまして。鹿鳴館大学の紫木と言います」

 その威嚇に紫木は一切動じることなく、ポケットから名刺を取り出して警部に差し出した。「モード」に入った紫木のメンタルは鋼のごとくだった。その強さを少しでも人見知りモードに分けられないのだろうか。

 警部は名刺をちらっと見ると、舌打ちして無視した。

「困るんだよな、素人に捜査をひっかきまわされちゃ」

「すいません。お邪魔するつもりはなかったのですが、神園さんがどうしてもというので」

「おい!」

 突然引き合いに出された私は酷く慌てた。どうしてもなどとは言っていない。第一、今回はあれよあれよという間に紫木の方から事件に関わっていたのだ。紫木の言葉を受けると、警部が鬼のような形相をこちらに向けてきた。

「またお前か」

「でも」

 警部が私に向かって何かを言いかけたが、紫木は構うことなく割り込んで続けた。ペースを狂わされて、警部の表情は苦々しくなる。

「顔を突っ込んだからにはきちんと解決してみせますよ。……先月みたいに」

 紫木はそう言うと、素早く身をひるがえして部屋の中に入って行った。あとには、怒りに震える警部と私が取り残された。私も警部から逃げるように、さっさと部屋に入った。


 会議室の机に向かい合うように、紫木と矢野が座った。矢野の後ろには英子ちゃんが立ち、紫木の後ろには私と川島、それと胡散臭そうな目で彼を見つめる警部が立って2人の様子を眺めていた。警部も紫木の推理を、一応は聞いてみるつもりらしい。

「それは今から、矢野さんがあるはずの死体を見なかった理由について説明させていただきます」

 紫木はそう言うと、手提げ鞄からクリアファイルを引っ張り出して、さらにそこから1枚の紙を引き抜いた。

「あ、今回は質問攻めにしないのでご安心を」

「……」

 本人は気さくに話しているつもりらしい、けれど実際にはまったくもって明るくない口調で紫木が矢野に言う。矢野は紫木の言葉には反応しなかった。

「さて、矢野さん。これからあなたに簡単な作業をしていただきます。ここに横線の引かれた紙がありますね?」

 紫木が取り出したA4くらいの紙を横向きにして矢野に差し出しながら言った。確かに紙には1本の横線が真っ直ぐ引かれている。

「矢野さんにはこの紙に、このペンで縦線を書いていただきます。書く場所は、この横線の真ん中です。ちょうどこの線を2分するように縦の線を書いていただきます」

 そう言うと紫木がボールペンをコートのポケットから取り出して、矢野へ差し出した。矢野は疑いのまなざしでそれを見ると、ひったくるようにペンをとって手早く線を引いた。

「え……」

 そう漏らしたのは英子ちゃんだった。彼女の目は困惑に満ちて見開かれていた。紫木は紙を回収すると「神園さん」と言ってこちらを振り向かずに差し出してきた。私はそれを受け取ると、矢野の書いた縦線を確かめて驚愕した。


 真ん中から大きく外れている。

 矢野の書いた線は右へ大きくずれ、線を右から4分の1くらいの長さのところで切断していた。

 警部と川島も近づいてきて、紙を見つめた。2人とも何が起こったのかわからないといった顔だった。警部は驚きのためにさっきまで感じて怒りをどこかへ放り投げてしまったようだった。

「先生……これは?」

「念のためにこれもやりましょうか」

 紫木は私の問いかけを無視すると、クリアファイルから別の紙を取り出した。そしてその紙を、私たちの反応を見て怪訝な顔をする矢野へ突き出すと、

「ここに丸がたくさん並んでいますね?」

 と言い出した。

「この丸すべてに斜線を引いてください」

 紫木が説明し終わるかどうかのところで、矢野は紙をひったくって作業を始めた。彼は紙の右端からずらりと並ぶ丸に斜線を引いていく。その様子を周りに立つ4人が近寄って見守った。順調に、着実に作業を進めていき、そして真ん中の行の丸すべてに斜線を引くとペンを置いて

「終わったぞ」

 と宣言した。暖房のきいているはずの会議室に冷たい沈黙が流れた。


「なんですか……これ……」

「半側空間無視」

 振り絞るような英子ちゃんの言葉に紫木が答えて言った。

「矢野英明さんは、視界の左半分を認識できない状態にあります。恐らく、事故に遭ってからでしょう」

「なにを言っているんだお前は!」

 矢野が突然激昂した。机を両手で叩きつけ立ち上がる。しかし紫木は涼しい顔で「まあまあ」と制した。

「左側が見えない?そんなはずがあるか!私は現にこうしてきちんと見えているし、目も悪くない!」

「半側空間無視は目の障害ではありません。脳機能、具体的に言えば大脳半球の障害です。そしてこれには、自覚症状が全くありません」

「自覚症状がない?」

「はい。だから矢野さんは僕の話を聞いても信じることができないかもしれません。だから英子さん」

「はい?」

 突然紫木に呼びかけられて、英子ちゃんは体を強張らせた。

「いまから僕がする説明を英子さんもきちんと聞いておいてください。ご家族の方が理解をしておくことが重要になってきます」

「は、はい」

 英子ちゃんは返事をすると、鞄を慌てて探って中からノートを取り出した。紫木はそれを待ってから、話を続けた。

「とはいえ矢野さんにもある程度は状況を理解していただかないと困りますね。そうだな……神園さん」

「うん?」

「さっきの紙を」

 私が紫木に、さっきの横線が書かれた紙を差し出すと、紫木はそれを横向きにして矢野の目の前につきだした。

「矢野さんは今、視界の左側が認識できていません。さて、矢野さんは先程この紙に縦線を書きましたね。僕の言った通り、横線の真ん中に縦線を……少なくとも矢野さんはそう思っているはずです。しかし実際には大きく右にずれてしまっています。そうですね?英子さん」

「は、はい……そうです」

 ノートをとっていた英子ちゃんは、顔を上げるとおずおずと頷いた。矢野は振り返ってその様子を見ると、驚いたような顔をした。娘の証言だ。嘘をついているとは思えないのだろう。

「し、しかし私は確かに真ん中に書いて……」

「矢野さんには横線の左半分が見えていません。だから線の中心から右端にかけての部分の真ん中……横線全体では右から4分の1にあたるところへ縦線を書いたのです。こうするとわかりやすいでしょうね」

 紫木は紙を一度矢野の前からどけると、代わりに人差し指を立てた右手をつきだして

「ここから視線を外さないでくださいね」

 と言った。そして右手はそのままに左手で紙を縦にすると、矢野から向かって右に差し出した。矢野はその紙を見て、息をのんだ。

「視界の右半分は正常に見えているはずですからね。こうすれば矢野さんにも認識できるはずです」

「あ……ああ……」

 紫木の言葉に、矢野が呻くように応じた。今まで中央に書いたと思っていた線が、紙を縦にした途端上へずれているのだから驚きもするだろう。

「丸に斜線を引いてもらったのも同じ原理です」

 紫木は紙と手を引っ込めて言った。

「矢野さんは紙の左側に書いてある丸を認識できていませんでした。だから真ん中の行で作業を止めてしまったのです。ちなみに、この作業は半側空間無視を診断するための正式な検査の1つです」

 紫木はここで1度、息をついた。その場にいた全員が呆然としていた。視界の半分が全く認識できない症状があり、しかも本人がそのことに気がつかないことがあるなんて想像もしていなかった。

「じゃあ……この目撃者が死体を見なかったって言ったのは、見なかったんじゃなくて死体がある方向を認識できなかったからっていうのか……」

「ええ、そうですね」

 警部の呟くような言葉に紫木が反応して言った。

「これもちなみにですが、矢野さんが料理を半分残したのも食卓に並んだ小鉢や皿の上にあるもののうち左側のものを認識できないからです。半側空間無視の患者によく見られる現象ですね。当人には残しているなんて意識もなかったと思います。見えていないのですから。それと怪我を頻繁にするようになったのもそうでしょう。左側にある障害物に気づけずにぶつかってしまうのです」

「ああ……」

 矢野はそれを聞くと、納得したような声を出した。自分は料理を残したとは思っていないのに、家族は残したと思っている。自分と家族との間に起きていた認識の齟齬の理由が分かったからだろう。

「あの……お父さん、これからどうすれば……」

 英子ちゃんがぽつりと呟いた。

「立志社大学病院へ紹介状を書きましょう。知り合いの先生が何人か勤めていますし。あそこは脳機能の研究を専門にやる人がいますから、これからのことに関して適切なアドバイスしてくれるはずです」

「治るのか?」

 矢野が振り絞るように言う。

「いえ、残念ながら治ることはないでしょう。しかし症状が出てから今まで大きな問題なく生活できたのでしたら、これから先もきっと大丈夫でしょう」

 紫木はいつもの冷静な、無責任にも聞こえる口調で言い放った。それを聞くと、矢野の肩ががっくりと落ちた。

「これで僕の説明は以上です。ご清聴ありがとうございました」

 紫木はそう言うと立ち上がって、鞄と杖を取る。そして警部の方を向くと「ね、解決したでしょう?」と言ってほんの少しにやりと、得意そうに笑った。

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