第31話 自由の先にある選択
リーヴェルの町へ続く街道には、朝から多くの人々が行き交っていた。
野菜を積んだ荷馬車を引く商人。大きな荷物を背負った旅人。腰に剣を下げ、革鎧を身につけた男たち。
その誰もが、自分の目的地へ向かって歩いている。
ユウキは彼らを眺めながら、そっと自分の手首に触れた。
もう、鉄の枷はない。
昨日までそこにあった重みも、動くたびに響いていた鎖の音も消えている。
それなのに、人が近くを通るたび、身体が反射的に強張ってしまう。
帝国兵ではないとわかっていても、制服に似た服を見れば息が詰まった。誰かが大声を上げるだけで、背中に冷たいものが走る。
「ユウキ、足は大丈夫か?」
隣を歩くバルドが尋ねた。
「はい。少し痛みはありますけど、歩けます」
「無理はするなよ」
「ありがとうございます」
ユウキが答えると、バルドは安心したように頷いた。
その前では、トーマが落ち着かない様子で周囲を見回している。
「ねえ、ユウキ。あれ見てよ!」
トーマが指さした先には、大きな荷車があった。
荷台には色とりどりの布が積まれ、商人らしい女性が客と値段の交渉をしている。
「すごいな。こんなに物があるんだ」
「そうだね」
ユウキも思わず足を止めた。
灰の鉱山では、食事も衣服も自分で選べなかった。
与えられたものを受け取り、命じられた仕事をこなす。それだけで一日が終わっていた。
しかし、目の前の人々は違う。
値段が高いと文句を言う者がいる。買い物を楽しそうに選ぶ者がいる。荷車の横で眠そうにあくびをする子供さえいた。
当たり前の光景だった。
だからこそ、ユウキには眩しく見えた。
「町に入ったら、まず宿と食料だ」
地図を畳んだドランが言った。
「それから、できれば身分を証明できるものを手に入れたい」
「冒険者ギルド、でしたっけ?」
「ああ。登録できれば、仕事を受けるための身分証にもなるらしい」
バルドが町の門を見つめた。
「問題は、わしらが怪しまれずに入れるかどうかだな」
ユウキも同じ方向を見た。
町を囲む石壁の中央には、大きな門が開いている。
その脇には武装した衛兵が二人立ち、入ってくる旅人たちを確認していた。
ユウキの胸が小さく跳ねた。
帝国兵とは違う。
わかっている。
それでも、武器を持つ兵士を見ると、鉱山での日々が頭をよぎった。
「ユウキ」
バルドが声をかける。
「怖いなら、わしが話す」
ユウキは一度俯き、それから顔を上げた。
「……お願いします。でも、俺もちゃんと答えます」
バルドは静かに頷いた。
「それでいい」
四人は、ゆっくりと門へ向かった。
◇◆◇
「次の者、前へ」
門の衛兵に呼ばれ、ユウキたちは足を止めた。
衛兵は四人の服装を見渡す。
古びた外套。
すり切れた靴。
長い逃亡生活の痕跡が残る荷物。
「旅人か?」
「はい。仕事を探して、この町へ来ました」
バルドが答えた。
「身分証は?」
「持っておりません」
衛兵の眉がわずかに動いた。
「全員か?」
「はい」
短い沈黙が流れた。
ユウキは自分の心臓の音を聞いていた。
もし帝国から逃げてきたことが知られたら、どうなるのだろう。
王国が助けてくれるとは限らない。国境を越えたからといって、すべての人間が自分たちの味方になるわけではない。
衛兵は四人の顔を順番に見た。
「仕事を探しに来たというなら、冒険者ギルドか?」
「そのつもりです」
ドランが答える。
「なら、入門記録を取る。名前と、滞在の目的を言ってくれ」
ユウキは思わず顔を上げた。
「入っても……いいんですか?」
衛兵は少し不思議そうな顔をした。
「身分証がない旅人など珍しくない。問題を起こさなければ、入門自体を断る理由はない」
その言葉を聞いても、ユウキはすぐには安心できなかった。
名前を記録されることには怖さがあった。帝国の追跡が完全に終わったわけではないからだ。
それでも、町へ入らなければ生活を始められない。
「ユウキ・コバヤシです」
声は少し震えたが、最後まで言えた。
衛兵が名前を書き留める。
続いて、バルド、トーマ、ドランも名乗った。
簡単な確認を終えると、衛兵は道を開けた。
「ようこそ、リーヴェルへ。ギルドなら大通りを進んで、噴水広場を右だ」
「ありがとうございます」
バルドが礼を述べる。
四人は門をくぐった。
背後で、別の旅人を呼ぶ衛兵の声が聞こえた。
追いかけてくる足音はなかった。
誰も、ユウキたちを引き止めなかった。
「……入れた」
トーマが小さく呟く。
「ああ」
ドランも息を吐く。
ユウキは振り返った。
開いた門の向こうには、さっきまで歩いていた街道が見える。
その先には川があり、川の向こうにはゼルガ帝国がある。
けれど、今いる場所は違う。
ここはアルヴェイン王国だ。
自分たちが選んで来た場所だった。
◇◆◇
リーヴェルの町は、ユウキが想像していた以上に賑わっていた。
石畳の道には荷馬車が行き交い、両側には小さな店が並んでいる。
焼きたてのパンの香り。
果物を売る商人の声。
鍛冶屋から聞こえる金属音。
ユウキは歩きながら、何度も周囲を見回した。
鉱山とは、何もかもが違う。
「おい、あれ!」
トーマが指さす。
店先に吊るされた大きな肉の塊を見て、目を輝かせていた。
「肉だ! あんなにたくさん!」
「見ればわかる」
ドランが呆れたように答える。
「でも、すごいじゃん!」
その様子に、バルドが笑った。
「腹が減ったか?」
「減った!」
「正直でよろしい」
ユウキも笑いそうになった。
けれど、すぐに気づく。
自分たちには、ほとんど金がない。
食事を買うにも、宿を取るにも、金が必要だった。
「……仕事、探さないとですね」
ユウキが言う。
ドランが頷く。
「ああ。いつまでも野宿するわけにはいかん」
バルドはしばらく考え、それからユウキを見た。
「だが、仕事を始める前に一つ覚えておけ」
「何ですか?」
「ここでは、わしらが仕事を選ぶんだ」
ユウキは瞬きをした。
「選ぶ……」
「嫌な仕事を無理に受ける必要はない。危険すぎると判断したら断っていい」
バルドはゆっくりと続けた。
「仕事ができない日には、休むことだってできる」
そんなことを言われても、すぐには実感が湧かなかった。
鉱山では、働くことを拒めば罰があった。
疲れたから休みたいと伝えることさえ、許されなかった。
けれど、今は違う。
「……はい」
ユウキは頷いた。
その声を聞いて、バルドは満足そうに笑った。
◇◆◇
大通りを進んだ先に、石造りの大きな建物があった。
入口の上には、剣と盾を組み合わせた紋章が掲げられている。
建物の前には武装した男女が集まり、依頼書らしき紙を見ながら話し合っていた。
「ここだな」
ドランが言った。
冒険者ギルド、リーヴェル支部。
ユウキは建物を見上げた。
「ここで、冒険者になれるんですね」
「登録できればな」
バルドが答える。
トーマはすでに目を輝かせていた。
「早く入ろうよ!」
勢いよく扉を開けたトーマに続き、三人も中へ入る。
途端に、賑やかな声が飛び込んできた。
「だから、その依頼は昨日終わったって言ってるだろ!」
「薬草の採取なら東の森がいいぞ」
「おい、誰か護衛依頼を一緒に受けないか?」
冒険者たちの声。
酒や料理の匂い。
壁一面に貼られた依頼書。
ユウキは、思わず足を止めた。
剣を背負った大柄な男。
杖を持つ女性。
弓を携えた若い冒険者。
それぞれが違う装備を身につけ、違う目的のために集まっている。
その光景は、ユウキが日本で読んだ物語の世界によく似ていた。
「……本当に、異世界なんだな」
小さな呟きが漏れた。
「ユウキ?」
トーマが振り返る。
「ううん。何でもない」
ユウキは微笑み、仲間たちの後を追った。
受付には、淡い茶色の髪を後ろで束ねた女性が座っていた。
四人に気づくと、穏やかに微笑む。
「いらっしゃいませ。冒険者ギルド、リーヴェル支部へようこそ」
「登録をお願いしたいのですが」
ドランが言う。
「新規登録ですね。では、まず皆さんの登録状況を確認させてください」
受付の女性は紙を取り出した。
「お名前と年齢、それから現在の職業を教えていただけますか?」
ユウキたちは順番に答えていく。
「ユウキ・コバヤシ。十七歳。職業は……無職です」
「バルド。五十八歳。無職だ」
「トーマ! 十六歳、無職!」
「ドラン。四十六歳。無職だ」
受付の女性は手を動かしていたが、最後の言葉を聞くと少しだけ顔を上げた。
「皆さん、職業をまだ設定されていないのですね」
「はい」
ユウキが答える。
「何か問題がありますか?」
「いいえ。問題はありません。ただ、冒険者として活動するなら、ジョブの選択も考えていただいた方がよいかもしれません」
ユウキは首を傾げた。
「ジョブ……ですか?」
「はい」
受付の女性が頷く。
「ジョブは、使用者の経験や適性に応じて取得できる職業のことです。設定すると能力値への補正や技能の獲得など、さまざまな恩恵を受けられます」
トーマが身を乗り出した。
「じゃあ、ジョブを選べば強くなれるの!?」
「ある程度は。ただし、職業によって恩恵は異なりますし、必ず戦闘能力が高くなるわけではありません」
彼女は少し表情を引き締めた。
「それから、とても大切なことがあります」
四人が耳を傾ける。
「一度設定したジョブは、原則として変更できません」
ユウキは目を見開いた。
「……変更できない?」
「はい。ジョブは魂に定着するものです。極めて特殊な例外を除いて、後から取り消すことはできません」
受付の女性は続けた。
「人物レベルが上がれば設定できるジョブの数も増えますが、すでに選んだジョブが消えるわけではありません。だから、皆さんには慎重に選んでいただきたいのです」
ユウキは自分の胸元へ目を落とした。
魂に定着する職業。
一度選べば、原則として取り消せない。
それは、思っていた以上に重い選択だった。
「選ばずに、冒険者になることはできますか?」
ユウキが尋ねる。
「もちろんです」
受付の女性は微笑んだ。
「ジョブは強制ではありません。登録だけして、後から選ぶ方もいますよ」
その言葉に、ユウキは少し安心した。
バルドも静かに頷く。
「なるほど。急ぐ必要はないということだな」
「はい」
受付の女性は立ち上がった。
「よろしければ、ジョブを選択するための魔道具をご案内しましょうか? 候補を見るだけなら、その場で決定する必要はありません」
ユウキは仲間たちと顔を見合わせた。
トーマは興味津々といった様子だった。
ドランも、魔道具という言葉に反応している。
「見てみたいです」
ユウキが答えると、女性は頷いた。
「では、こちらへどうぞ」
◇◆◇
受付の奥には、静かな小部屋があった。
壁には古い魔法陣が刻まれ、中央には一つの台座が置かれている。
その上にあったのは、一冊の本だった。
厚い革表紙。
銀色の金具。
そして、表紙全体に刻まれた複雑な紋様。
ユウキは思わず足を止めた。
「……本?」
受付の女性が微笑んだ。
「はい。職業選定の魔導書です」
ドランが目を細める。
「ほう……これが」
「ご存じですか?」
「名前だけはな。実物を見るのは初めてだ」
受付の女性は台座へ近づいた。
「この魔道具は、約三百年前に開発されたものです」
彼女は本の表紙へ目を向けた。
「昔はジョブを選ぶために、高位の司祭による儀式が必要でした。高位司祭のいる神殿へ行けない人は、ジョブを取得することさえ難しかったそうです」
ユウキは静かに聞いていた。
「ですが、リュミナ聖教国のグレイ家に生まれた一人の天才が、その仕組みを変えました」
女性は、少し誇らしそうに名前を告げた。
「マーリン・グレイ。後世に名を残す、稀代の魔道具開発者です」
ドランが頷く。
「高位司祭の儀式を、魔道具で代替できるようにした男か」
「そのとおりです」
受付の女性は続けた。
「マーリンが開発した本型魔道具は、長い年月をかけて世界中へ広まりました。今では、すべての冒険者ギルドに設置されています」
トーマが本を覗き込んだ。
「すごい人なんだね」
「ええ。ジョブを選ぶ機会を、多くの人々に与えた人物です」
ユウキは静かに本を見つめた。
高位司祭がいなければ選べなかった職業。
それを、誰もが使える仕組みに変えた人物。
自分が生まれるより、ずっと昔の話だ。
けれど、その発明が今、目の前にある。
「使ってみますか?」
受付の女性に尋ねられ、ユウキは顔を上げた。
「はい」
「では、表紙に手を置いてください。使用者の魂盤を読み取り、現在選択できるジョブを表示します」
ユウキは台座へ近づいた。
革表紙に、そっと手を置く。
冷たい感触が指先へ伝わる。
次の瞬間、本に刻まれた紋様が淡く光り始めた。
「……っ」
ユウキは驚いて手を離しかけた。
「大丈夫ですよ」
受付の女性が優しく声をかける。
「読み取りが始まっただけです」
ユウキは小さく頷いた。
本のページが、誰も触れていないのに開いていく。
ぱらぱらと紙がめくられ、やがて中央で止まった。
そこに、青白い文字が浮かび上がる。
【職業選定の魔導書】
使用者:ユウキ・コバヤシ
種族:人間(異界者)
レベル:2
現在の職業:無職
設定済みジョブ:なし
使用可能ジョブ枠:1
選択可能ジョブを検索しています。
ユウキは息を呑んだ。
自分の名前。
自分のレベル。
そして、自分がまだ何者にもなっていないこと。
すべてが、目の前に映し出されている。
やがて、新しい文字が浮かんだ。
【検索完了】
現在の経験・技能・適性・生き様に基づき、
選択可能ジョブを確認しました。
選択可能ジョブ:複数
詳細を表示しますか?
ユウキはじっと文字を見つめた。
複数の職業。
自分が歩んできた道によって、生まれた選択肢。
鉱山で過ごした日々も。
誰かを助けようとしたことも。
傷つきながら、それでも生きてきたことも。
すべてが、今の自分へ繋がっているのだろうか。
「ユウキ?」
背後からトーマの声がした。
「どうだった?」
ユウキは振り返った。
「いくつか、選べるみたい」
「本当!? 何があるの?」
「まだ、詳しくは見てない」
トーマは楽しそうに笑った。
「じゃあ、早く見てみようよ!」
ユウキも笑いかけた。
しかし、すぐには頷かなかった。
受付の女性の言葉が、頭に残っている。
一度選べば、原則として変更できない。
ジョブは、魂に刻まれる。
だからこそ、簡単には決められなかった。
ユウキはゆっくりと本へ向き直る。
「……少し、考えてもいいですか?」
受付の女性は頷いた。
「もちろんです。今日は候補を確認するだけでも構いません」
「ありがとうございます」
ユウキは深く息を吸った。
選ばなければならないから、選ぶのではない。
自分がどう生きたいか。
何をしたいのか。
誰を守りたいのか。
その答えを考えてから、選びたかった。
ユウキはもう一度、魔導書に手を置いた。
青白い文字が静かに輝く。
――自分の未来を決めるために。
ゆっくりと、次のページが開かれた。
◇◆◇
同じ頃。
リーヴェルの冒険者ギルド、その二階。
一人の男が窓際に立っていた。
灰色の髪を短く整えた、四十代ほどの男だった。
男は机の上に置かれた書類へ目を向ける。
そこには、今朝登録に訪れた者たちの名前が記されていた。
ユウキ・コバヤシ。
バルド。
トーマ。
ドラン。
男は、最初の名前で指を止めた。
「……コバヤシ?」
小さく呟く。
見慣れない名前だった。
アルヴェイン王国でも、ゼルガ帝国でも、一般的な響きではない。
男はしばらく書類を眺め、それから窓の外へ視線を向けた。
大通りには、いつもと変わらない町の景色が広がっている。
「異界者、か……」
その声には、わずかな興味が混じっていた。
男は書類を閉じた。
そして、小さく笑う。
「さて。どんな道を選ぶんだろうな」
その言葉が誰に向けられたものなのか、知る者はいなかった。
――第二章 第1話 完。




