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第1話 終わりの日、始まりの世界

 人は、どうして人を傷つけるのだろう。


 小林ユウキは、幼い頃から何度もその疑問を抱いていた。


 誰かを殴れば、その人は痛い。


 ひどい言葉を浴びせれば、その人は悲しむ。


 そんなことは、子供にだってわかるはずなのに。


 どうして大人は、それを平気でするのだろう。


 少なくとも、ユウキには理解できなかった。


 そして十七歳になった今も、その答えは見つかっていない。


 ◇◆◇


「おい、ユウキ!」


 怒鳴り声が家中に響き渡った。


 その瞬間、ユウキの肩が小さく跳ねた。


「……はい」


「聞こえねえのか! こっちに来い!」


「今、行きます」


 ユウキは手にしていた教科書を閉じ、ゆっくりと立ち上がった。


 時計は午後九時を少し回ったところだった。


 明日は学校で小テストがある。


 本当なら、もう少し勉強しておきたかった。


 だが、そんな事情が父親に通用しないことは、嫌というほど理解していた。


 廊下に出ると、居間から酒の匂いが漂ってきた。


 嫌な予感がした。


 父親が酒を飲んでいる日は、決まって機嫌が悪い。


 いや、正確には、機嫌が悪くなる理由を酒に求めているだけなのかもしれない。


「お前、今日どこ行ってた?」


 居間に入るなり、父親が低い声で尋ねてきた。


「……学校だけど」


「ああ?」


「学校に行って、そのあと図書館で勉強してた」


「嘘つくんじゃねえ!」


 テーブルが激しく叩かれた。


 ユウキは反射的に身体をすくめる。


「お前、俺を馬鹿にしてんのか?」


「そんなこと……」


「口答えすんな!」


 頬に衝撃が走った。


 視界が横に流れ、身体が床に倒れる。


 じんじんと熱を持つ頬を押さえながら、ユウキはゆっくりと顔を上げた。


「……ごめんなさい」


 謝る。


 それが、ユウキが十七年間で身につけた最も確実な処世術だった。


 自分が悪くなくても謝る。


 理不尽だと思っても反論しない。


 相手の機嫌を損ねないよう、表情を読み、声の大きさを調整する。


 そうすれば、少なくとも事態が悪化する可能性を減らせた。


「まったく、役立たずが」


 父親は吐き捨てるように言うと、再び酒をあおった。


 台所では母親が黙々と食器を洗っている。


 助けてくれる様子はない。


 ユウキは母親を責めようとは思わなかった。


 何度も助けを求めたことはある。


 しかし、返ってくる言葉はいつも同じだった。


『お父さんを怒らせるあんたが悪いのよ』


 だから、いつからか期待することをやめた。


「……部屋に戻ってもいい?」


「ああ? 誰が戻っていいって言った?」


「……ごめんなさい」


 父親は舌打ちをした。


「お前、最近調子に乗ってるよな」


 ユウキの背筋に冷たいものが走った。


「……そんなことないよ」


「俺に隠し事してるだろ」


「してない」


「じゃあ、これは何だ?」


 父親がテーブルに一枚の紙を投げつけた。


 ユウキの呼吸が止まった。


 それは、アルバイト先の近くにある不動産会社でもらった賃貸物件の資料だった。


 高校を卒業したら、この家を出る。


 そのために、ユウキは少しずつお金を貯めていた。


 学校の勉強を続けながら、アルバイトをして、安い部屋を探していた。


 誰にも迷惑をかけず、静かに暮らしたかった。


 ただ、それだけだった。


「家を出るつもりか?」


「……それは」


「誰が許した?」


「卒業したら、自分で働いて……」


「ふざけんな!」


 再び衝撃が走った。


 今度は腹だった。


「ぐっ……!」


 息が詰まり、ユウキは床にうずくまった。


「誰のおかげで飯食えてると思ってんだ!」


 腹を蹴られる。


 一度、二度。


 ユウキは頭を抱え、身体を丸めた。


 痛い。


 苦しい。


 怖い。


 それでも、声を上げるわけにはいかなかった。


 泣けば、余計に怒られる。


 だから歯を食いしばり、嵐が過ぎ去るのを待った。


 いつものように。


 ただ、今日はいつもと違った。


「……もう、いいだろ」


 自分でも驚くほど小さな声だった。


 父親の動きが止まる。


「あ?」


 ユウキは床に手をつき、震える身体を起こした。


「俺、ちゃんと働くから。もう迷惑かけないから……」


 声が震えていた。


 それでも、言葉を続けた。


「だから……もう、放っておいてよ」


 沈黙。


 ほんの数秒だった。


 しかし、ユウキにはひどく長く感じられた。


 父親の顔がゆっくりと歪んだ。


「……誰に向かって口きいてんだ?」


 まずい。


 ユウキは本能的に悟った。


「ち、違う。そういう意味じゃ……」


「俺がお前を育ててやったんだぞ!」


 父親は椅子を蹴り飛ばした。


 大きな音が響く。


 台所にいた母親が一瞬だけ振り返った。


 だが、何も言わなかった。


 父親はふらつきながら台所へ向かう。


 そして、包丁立てから一本の包丁を引き抜いた。


「……え?」


 ユウキは呆然とした。


 父親の手には、銀色の刃が握られていた。


「お前なんか……お前なんか、生まれてこなきゃよかったんだ!」


 その言葉を聞いた瞬間。


 胸の奥で、何かが小さく砕けた気がした。


 何度も聞いた言葉だった。


 それでも、慣れることはなかった。


「……父さん」


「黙れ!」


 父親が近づいてくる。


 一歩。


 また一歩。


 ユウキは後ずさった。


 背中が壁に当たる。


 逃げ道はなかった。


 足が震えている。


 頭では逃げなければと思っているのに、身体が動かない。


 幼い頃から染みついた恐怖が、彼をその場に縫いつけていた。


 父親が包丁を振り上げた。


 そのとき、ユウキの頭に浮かんだのは、憎しみでも怒りでもなかった。


 ただ、一つの願いだった。


 ――まだ、死にたくない。


 友達と遊びたかった。


 好きなものを食べたかった。


 誰にも怯えずに眠りたかった。


 いつか自分の家を持って、誰かと笑い合いたかった。


 そんな当たり前のことを、一度くらい経験してみたかった。


「……生きたい」


 絞り出した声は、誰にも届かなかった。


 父親の腕が振り下ろされる。


 その瞬間だった。


 ――カッ!


 目の前が赤く染まった。


「なっ!?」


 父親の驚愕した声が聞こえた。


 ユウキの足元に、見たこともない模様が浮かび上がっていた。


 幾重にも重なった円。


 複雑に絡み合う文字。


 血のように赤く輝く光が、床を這うように広がっていく。


「な、なんだこれは!」


 父親が何かを叫んでいる。


 だが、その声は次第に遠ざかっていった。


 代わりに、別の声が聞こえ始めた。


『……いやだ』


 誰かの声。


『お願い、助けて……』


 女の人だろうか。


『おかあさん……どこ……?』


 幼い子供の声。


『まだ……死にたくない……』


 男の声。


 老人の声。


 赤ん坊の泣き声。


 数え切れないほどの声が、ユウキの頭の中に流れ込んできた。


「な、なんだ……これ……」


 耳を塞いでも、声は止まらなかった。


 むしろ、ますます大きくなる。


 悲鳴。


 祈り。


 後悔。


 そして、絶望。


 見たこともない風景が一瞬だけ脳裏に浮かんだ。


 暗い地下神殿。


 赤く染まった巨大な魔法陣。


 黒い衣をまとった人影。


 無数の人々が、何かに向かって手を伸ばしている。


 その光景の意味を理解する前に、ユウキの視界は真っ白になった。


 最後に聞こえたのは、しわがれた老人の声だった。


『……お前だけでも、生きなさい』


 そして、小林ユウキは世界から消えた。


 ◇◆◇


 同時刻。


 異世界エルディア。


 ゼルガ帝国、帝都地下深部。


 そこには、帝国の歴史書にすら記されていない巨大な神殿が存在していた。


 神殿の中心には、直径数百メートルにも及ぶ魔法陣が刻まれている。


 赤黒い光を放つその魔法陣を、数十人の宮廷魔術師が取り囲んでいた。


「……魔力収束率、九十八パーセント!」


「魂魄の変換を確認!」


「異界との接続、成功しました!」


 魔術師たちの声が響き渡る。


 儀式の最奥。


 黒い祭服をまとった一人の老人が、静かに目を細めた。


 ゼルガ帝国宮廷魔術師団長。


 ヴァルディス・レグナート。


 帝国最高峰の魔術師であり、今回の禁忌儀式を設計した人物だった。


「……ついに、この時が来たか」


 老人は小さく呟いた。


 その背後には、帝国の重臣たちが並んでいる。


 彼らの表情には、歓喜と緊張が入り混じっていた。


 当然だろう。


 この儀式のために、帝国はあまりにも多くのものを費やした。


 莫大な資金。


 膨大な魔石。


 そして――人間の命。


 辺境の村々から消えた住人たち。


 戦場から帰らなかった捕虜たち。


 奴隷市場から秘密裏に運び出された人々。


 赤子も、子供も、大人も、老人も。


 年齢も、身分も、性別も関係なかった。


 儀式に必要なのは、ただ生命そのものだった。


 生贄に捧げられた者たちの正確な人数を、ヴァルディス自身ですら把握していない。


 それほどまでに膨大な犠牲を払って、帝国は一つの目的を成し遂げようとしていた。


 異世界から、神々の制約を受けない存在を召喚すること。


 神の与えた才能に支配されるこの世界で、異界の魂は未知の可能性を秘めている。


 もし、その力を帝国が独占できれば。


 世界の均衡は、根底から覆るだろう。


「召喚対象を確認せよ」


 ヴァルディスが命じた。


「はっ!」


 魔術師の一人が、水晶球へ魔力を流し込む。


 しかし。


「……おかしい」


「どうした?」


「召喚対象の座標が……固定できません!」


「何?」


 次の瞬間。


 魔法陣が激しく明滅した。


 ――バキィン!


 神殿全体を揺るがす轟音。


 水晶球に亀裂が走る。


「術式が逆流しています!」


「制御不能!」


「対象の魂が、召喚座標から逸脱しました!」


「馬鹿な!」


 ヴァルディスは叫んだ。


「これほどの魂を捧げたのだぞ! 失敗など許されるものか!」


 老人は自ら魔法陣へ手をかざした。


 だが、すでに遅かった。


 魔法陣の中心に、見知らぬ文字が浮かび上がる。


 それは、この世界のどの言語にも属していなかった。


 にもかかわらず。


 ヴァルディスには、その意味が理解できた。


《魂の帰属権が確定できません》


《召喚契約が拒絶されました》


《未登録権能の発現を確認》


《――略奪》


「……略奪?」


 ヴァルディスの顔から血の気が引いた。


 そして、すべての光が消えた。


 魔法陣は沈黙した。


 召喚対象の姿は、どこにもなかった。


「……失敗、したのか?」


 背後の重臣が震える声で尋ねた。


 ヴァルディスは答えなかった。


 ただ、最後に表示された文字を思い出していた。


 略奪。


 その言葉が意味するものを、彼はまだ知らない。


 だが、一つだけ確信していた。


 今回の儀式で、何か取り返しのつかないものを世界に解き放ってしまったのだと。


 ◇◆◇


「……うっ」


 冷たい。


 背中に触れる地面の感触で、ユウキは意識を取り戻した。


「……あれ?」


 ゆっくりと目を開ける。


 視界いっぱいに広がっていたのは、見知らぬ木々だった。


 空高く伸びた巨大な樹木。


 濃い緑色の葉。


 その隙間から、柔らかな陽光が差し込んでいる。


 鳥の鳴き声が聞こえた。


 いや。


 鳥なのだろうか。


 聞いたこともない、不思議な鳴き声だった。


「……ここ、どこ?」


 ユウキは身体を起こした。


 辺りを見回す。


 森だった。


 それも、これまで見たことがないほど深い森だ。


 地面には柔らかな苔が生え、見慣れない植物が群生している。


 遠くには、巨大な岩山のようなものが見えた。


「……夢?」


 思わず頬をつねる。


「いっ……」


 痛い。


 夢ではないらしい。


 ユウキは自分の身体を確かめた。


 制服のままだ。


 シャツには父親に蹴られたときの汚れが残っている。


 頬も腹も痛む。


 だが、刺された傷はなかった。


「……生きてる」


 ぽつりと呟いた。


 その瞬間。


 胸の奥から、何か熱いものがこみ上げてきた。


「……よかった」


 目頭が熱くなる。


 気づけば、涙が頬を伝っていた。


 自分はまだ生きている。


 それだけで、こんなにも嬉しいものなのか。


 ユウキは両手で顔を覆った。


 しばらくの間、声を殺して泣いた。


 誰にも見られていない。


 怒鳴られることもない。


 泣くなと叩かれることもない。


 それが、どうしようもなく嬉しかった。


 どれほど時間が経っただろう。


 ようやく落ち着いたユウキは、袖で涙を拭った。


「……とりあえず、ここがどこなのか調べないと」


 そう呟いて立ち上がろうとしたときだった。


 ――ピコン。


「……え?」


 目の前に、青白い光が現れた。


 半透明の板のようなものが、何もない空間に浮かんでいる。


 ユウキは目を瞬かせた。


 そこには、日本語のように読める文字が並んでいた。


《魂盤の起動を確認しました》


《個体情報を取得しています……》


《取得完了》


 続いて、新しい文字が浮かび上がる。


==============


【STATUS】


名前:ユウキ・コバヤシ


種族:人間(異界者)


年齢:17


職業:無職


レベル:1


HP:32 / 32


MP:8 / 8


筋力:7


耐久:6


敏捷:9


魔力:3


精神:12


器用:11


【固有権能】


略奪 Lv.1


【称号】


異界からの漂流者


空白の魂


==============


「……ステータス?」


 ユウキは呆然と呟いた。


 ゲームなら知っている。


 昔、友達の家で遊ばせてもらったことがあった。


 レベル。


 HP。


 MP。


 そういった言葉が何を意味するのかくらいは理解できる。


 だが。


「……異界者?」


 聞き慣れない言葉だった。


 そして、もう一つ。


「……略奪?」


 ユウキはその二文字を見つめた。


 奪う。


 他人のものを、自分のものにすること。


 どうして、自分にそんな能力があるのだろう。


 他人から何かを奪うことなんて、考えたこともなかった。


 むしろ、自分の大切なものを奪われることの方が多かった。


「……何なんだよ、これ」


 返事はなかった。


 ユウキが恐る恐る文字に触れようとすると、別の表示が現れた。


《固有権能:略奪》


《詳細情報の一部が封印されています》


《使用条件を満たしていません》


「……使えないのか」


 少しだけ安心した。


 自分に何ができるのかもわからない力など、正直なところ怖かった。


 しかし、次の瞬間。


 ――ガサッ。


 背後の茂みが揺れた。


 ユウキは振り返る。


「……誰か、いるんですか?」


 返事はない。


 代わりに、低いうなり声が聞こえた。


「……え?」


 茂みの奥から、何かが現れた。


 犬に似ていた。


 だが、普通の犬ではない。


 灰色の毛皮。


 異様に発達した前脚。


 口元からは鋭い牙が覗いている。


 そして何より。


 その体格は、ユウキが知っている大型犬よりも一回り大きかった。


「……犬?」


「グルルルル……」


 獣が牙をむいた。


 赤く濁った瞳が、ユウキをまっすぐに捉えている。


 背筋が凍りついた。


 本能が告げていた。


 これは危険だ。


「……ご、ごめん。邪魔するつもりは……」


 ユウキはゆっくりと後退した。


 相手を刺激しないように。


 目を逸らさないように。


 少しずつ距離を取る。


 だが、獣は唸り声を上げながら近づいてきた。


 一歩。


 二歩。


 ユウキの額を冷たい汗が伝う。


 こんな生き物と戦えるはずがない。


 武器もない。


 逃げ道もわからない。


 そして何より、自分は喧嘩すらまともにしたことがないのだ。


「……頼むから、来ないで」


 その願いは届かなかった。


「ガアァッ!」


 獣が地面を蹴った。


 ユウキの視界いっぱいに、鋭い牙が迫る。


「うわあああっ!」


 反射的に身体を投げ出した。


 獣の牙が、先ほどまでユウキの首があった場所を通り過ぎる。


 地面に倒れ込み、泥だらけになりながら転がった。


 すぐに立ち上がる。


 足が震えていた。


 呼吸が乱れる。


 心臓が、痛いほど激しく鼓動している。


 そしてユウキは理解した。


 ここは、あの家ではない。


 父親も母親もいない。


 誰にも怒鳴られない。


 誰にも殴られない。


 けれど。


 だからといって、安全な場所とは限らないのだ。


 目の前の獣が、再びこちらを向いた。


 その瞳には、明確な殺意が宿っている。


「……嫌だ」


 ユウキは震える拳を握りしめた。


「……せっかく、生きられたのに」


 今度こそ、自由になれると思った。


 普通の人生を歩めるかもしれないと思った。


 それなのに。


「……こんなところで、死にたくない」


 獣が跳躍した。


 ユウキは咄嗟に近くの枝を掴んだ。


 細く、頼りない木の枝だった。


 武器と呼ぶにはあまりにも粗末なもの。


 それでも。


 今のユウキには、それしかなかった。


「うあああああっ!」


 夢中で枝を突き出した。


 次の瞬間。


 枝の先端が、獣の開いた口に突き刺さった。


「ギャウッ!」


 獣が悲鳴を上げた。


 ユウキの手に、生々しい感触が伝わる。


「……っ!」


 獣は地面に転がり、苦しそうにもがいた。


 ユウキは動けなかった。


 自分が今、何をしたのか。


 理解が追いつかなかった。


 しかし、獣はまだ生きていた。


 傷ついた身体を引きずりながら、再びユウキに牙をむこうとする。


「……やめて」


 声が震えた。


「……もう、やめてよ」


 獣は止まらない。


 ユウキは折れた枝を握り直した。


 殺したくない。


 生き物を傷つけたくない。


 けれど、ここで手を止めれば、自分が殺される。


 ユウキは目を強く閉じた。


「……ごめん」


 そして、枝を突き下ろした。


 ◇◆◇


 森に静寂が戻った。


 ユウキは地面に座り込み、荒い息を繰り返していた。


 目の前には、動かなくなった灰色の獣が倒れている。


 自分の手が震えていた。


 初めて、命を奪った。


 相手は人間ではない。


 自分を殺そうとしてきた魔物のような生き物だ。


 それでも。


 気持ちが悪かった。


「……ごめんね」


 ユウキは小さく呟いた。


 謝ったところで、何かが変わるわけではない。


 そんなことはわかっている。


 それでも、言わずにはいられなかった。


 そのときだった。


 ――ピコン。


 目の前に、再び青白い文字が現れた。


《対象の生命活動停止を確認》


《固有権能「略奪」の発動条件を満たしました》


《対象の技能を検出しました》


《対象:灰牙狼》


《検出技能:嗅覚強化 Lv.2》


《検出技能:牙撃 Lv.1》


《検出技能:夜目 Lv.1》


《略奪可能数:1》


《技能を一つ選択してください》


「……え?」


 ユウキは息を呑んだ。


 目の前に並ぶ、三つの技能。


 その下には、さらに新しい文字が表示されていた。


《警告》


《略奪した技能には、元の所有者の魂の残滓が付着する場合があります》


《実行しますか?》


 ユウキは画面を見つめた。


 自分が殺した生き物から、能力を奪う。


 それが、この世界で与えられた自分の力。


 もし、この能力があれば。


 もう誰かに一方的に傷つけられずに済むのだろうか。


 もう、怯えながら生きなくてもいいのだろうか。


 ユウキには、まだわからなかった。


 ただ、一つだけ確かなことがあった。


 この森で生き残るには、力が必要だ。


 今の自分には、何もない。


 金も。


 食べ物も。


 帰る場所も。


 頼れる人間も。


 そして、ここがどんな世界なのかさえ知らない。


「……俺は」


 ユウキは震える手を伸ばした。


 青白い画面に触れる直前、あの声が脳裏をよぎった。


『お前だけでも、生きなさい』


 あれは、誰の声だったのだろう。


 なぜ、自分にそんなことを言ったのだろう。


 わからない。


 けれど。


「……生きるよ」


 ユウキは小さく呟いた。


「今度こそ、ちゃんと生きたいから」


 そして、三つの技能のうち一つに触れた。


《技能「嗅覚強化 Lv.2」を選択しました》


《固有権能「略奪」を発動します》


 ――ドクン。


 心臓が大きく跳ねた。


 突然、頭の奥に何かが流れ込んできた。


 湿った土の匂い。


 獲物を追う高揚感。


 空腹。


 恐怖。


 そして、死の間際に見た人間の姿。


「……あ、ぐっ!」


 ユウキは頭を押さえて地面にうずくまった。


 自分のものではない感覚が、次々と意識を駆け抜けていく。


 やがて、それらは嘘のように消えた。


《略奪成功》


《嗅覚強化 Lv.2を獲得しました》


《魂蝕値が微量上昇しました》


 ユウキは荒い息をつきながら顔を上げた。


 その瞬間。


「……なに、これ」


 世界が変わっていた。


 風に乗って運ばれてくる草木の香り。


 湿った土の匂い。


 遠くに流れる水の気配。


 そして、先ほどの獣の血の匂い。


 これまで気づかなかった無数の匂いが、はっきりと感じられる。


「……本当に、奪ったんだ」


 ユウキは自分の手を見つめた。


 小さく震える、血のついた手。


 その手には、確かに新しい力が宿っていた。


 しかし彼は、まだ知らない。


 自分がこの世界に現れるために、数え切れないほどの命が犠牲となったことを。


 自分の存在を、帝国が密かに探し始めていることを。


 そして。


 他人の能力を奪うその力が、やがて神々の定めた世界の秩序さえ揺るがすことになるということを。


 ユウキはゆっくりと立ち上がった。


 森の奥から、再び獣の遠吠えが聞こえた。


 今度は一つではない。


 二つ。


 三つ。


 いや、もっと多い。


「……嘘、だろ」


 ユウキは引きつった笑みを浮かべた。


 どうやら、休んでいる暇はないらしい。


 折れた枝を握り直し、ユウキは森の奥へと走り出した。


 その先に何が待っているのかも知らずに。


 ――こうして、一人の心優しい少年の、残酷で長い冒険が始まった。

魂盤【STATUS】


名前:ユウキ・コバヤシ

レベル:1


HP:32 / 32

MP:8 / 8


STR(筋力):7

VIT(耐久力):6

AGI(敏捷性):9

MAG(魔力):3

MND(精神力):12

DEX(器用さ):11


【固有権能】

略奪 Lv.1


【習得技能】

なし


↓

↓

↓


魂盤【STATUS】


名前:ユウキ・コバヤシ

レベル:1


HP:28 / 32

MP:8 / 8


STR(筋力):7

VIT(耐久力):6

AGI(敏捷性):9

MAG(魔力):3

MND(精神力):12

DEX(器用さ):11


【固有権能】

略奪 Lv.1


【習得技能】

嗅覚強化 Lv.2


【状態】

軽傷・疲労

魂蝕値:微増

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