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キザシ 13

アルバス城 大広間


舞踏会の中心で国王夫妻一曲踊り終えた。

中年のセルヴェイン侯爵夫妻が歩み寄る。

侯爵が王妃にダンスを申し込み、マディラは自然な足取りでフロアへ出る。

ゆるやかに回転する中で、距離がわずかに近づく。

香りが混じる。

侯爵の纏う重厚な香水と、マディラのほのかな甘い香り。

その混ざり合いが、一瞬だけ意識を引く。


「……私のリードに問題はありませんか」

再び、耳元で問われる。

その声音が、ほんのわずかに柔らかい。

マディラは一拍置いて答えた。

「問題ありません。とても踊りやすいです」

その言葉に、侯爵は満足そうに微笑む。

そのまま一曲を踊り切ると、周囲から自然と拍手が起こった。


ダンスが終わる頃には、空気が変わっていた。

王妃は、国王以外とも踊る。

その事実が、若い貴族たちの間に一気に広がる。

「次はぜひ私と」

「殿下、よろしければ一曲——」

遠慮がちだった声が、次第に積極的なものへと変わっていく。

マディラはその一つ一つに、過不足なく応じていった。


堂々とした立ち居振る舞い。

過度に近づきすぎず、しかし壁も作らない距離感。

踊るたびに、彼女の評価は静かに、しかし確実に上がっていく。

若い貴族たちは次第に気づき始めていた。

——この王妃は、特別扱いされる存在であると同時に、同じ場で言葉を交わせる相手でもあるのだと。


ダンスの合間には、自然と会話も生まれる。

「王妃殿下は、しばらく公の場にお姿を見せておられませんでしたよね」

「ええ。少し、家のことに時間を使っていました」

柔らかく、しかし曖昧に。

「それでも、こうして戻ってこられて……本当にお美しいままで」

「ありがとうございます」

感情を過度に乗せない応答。

だが、拒絶もない。

その距離感が、かえって彼らを引き寄せた。


やがて話題は、軽い世間話へと移る。

「そういえば、陛下は近々地方へ赴かれると聞きましたが」

「ええ、数日ほど。単独での視察になるそうです」

「では、その間は王妃殿下がお一人で宮に?」

「そうなりますね」

その言葉に、何人かの若者がわずかに視線を交わした。

だが、マディラは気づかない。

あるいは、気づいても気にしなかった。


一方で。

少し離れた席に戻っていたジュリアンは、静かにグラスを置いた。

視線は、自然とフロアへ向く。

まだ戻ってこない。

何人目だろうか。

マディラが別の相手と踊る姿を、彼は淡々と数えていた。


——問題はない。

彼女は完璧に振る舞っている。

むしろ、想定以上だ。

それでも。

グラスに触れた指先が、わずかに力を帯びる。

(……少し、長いな)

ただそれだけのことを、心の中で呟く。


国王としてではなく。

ほんのわずかに、個人的な感情として。



舞踏会の熱気は、時間とともにゆるやかに形を変えていった。

最初の緊張はほぐれ、音楽はより軽やかに、会話はより私的なものへと移り変わる。

その一角に、マディラを中心とした小さな輪ができていた。


「先ほどは、ありがとうございました。王妃殿下と踊れるとは思っていなかったので……光栄でした」

そう言って一歩前に出たのは、若い男だった。

レオニス・ヴァルグレン子爵。

まだ二十代前半、社交界に出て間もない新進の若手貴族である。

整った顔立ちに、どこか自信過剰にも見える微笑。

先ほどマディラと一曲踊ったばかりだった。


「こちらこそ。丁寧にリードしていただいて、助かりました」

マディラは他の者と同じように、過不足のない礼で応じる。

だが、その“過不足のなさ”こそが、彼の誤解を生んだ。

(……やっぱり、少し違う)

彼の中で、先ほどの感触が反芻される。


距離を詰めすぎれば、わずかに引く。

だが完全に拒むわけではない。

視線も、言葉も、どこか柔らかい。

(他の連中と同じ対応……のはずなのに)

なぜか、自分には少しだけ特別に見える。


若さゆえの錯覚。

あるいは、願望。

だが彼は、それを疑わなかった。


「殿下は、普段はどのようにお過ごしなのですか?」

輪の中で、自然な流れを装いながら問いを重ねる。

「特別なことはしていません。宮の中で、静かに過ごすことが多いですね」

「それは……少し、退屈ではありませんか?」

「どうでしょう」

彼女はわずかに首を傾げる。

「静かな時間は嫌いではありません」


曖昧で、しかし拒絶のない答え。

それがまた、彼の期待を強めた。

「では、外に出られる機会は貴重なのですね」

「ええ、そうですね」

「……でしたら、今日のような夜は特別だ」

さりげなく、声のトーンを落とす。


「もしよろしければ、もう少し落ち着いた場所でお話しできませんか。この場は、少し賑やかすぎるように思えて」

周囲の視線を気にしながらも、彼は一歩踏み込んだ。


マディラは一瞬、周囲を見渡す。

確かに、談笑の輪は広がり、声も重なっている。

一人ひとりの話を丁寧に聞くには、少し騒がしい。

そして——

(断る理由も、特にない)

彼女の中で、その判断はあまりにも自然だった。


「そうですね。少しだけでしたら」

その一言で、彼の表情がわずかに明るくなる。

二人は、談笑の輪から静かに抜けた。

その様子を、離れた位置から見ていた者がいる。

ジュリアンだった。


グラスを手にしたまま、視線だけがわずかに動く。

マディラが、一人の若い貴族と並んで歩き出す。

方向は——庭園側。

(……外か)

一瞬だけ、思考が速くなる。

だが、すぐに抑えた。

ここは公の場。

国王が、特定の人物だけを追うような行動は許されない。


視線を戻す。

表情は変えない。

「陛下、次の地方視察の件ですが——」

隣にいた大臣が声をかける。

「……ああ」

ジュリアンはそちらへ向き直る。

だが、その会話に完全には入っていない。

意識の一部が、確実に別の場所へ向いている。


(護衛は……)

一拍。

(近くにはいるが、距離があるな)

視界の端で、動く影を確認する。

だがそれだけでは足りない。


ジュリアンは、ごく自然な動作で、背後に控えていた使用人へと視線を送った。

それだけで、合図は伝わる。

「……少し、外の様子を」

小声で、短く。

「承知いたしました」

使用人は一礼し、何事もなかったかのようにその場を離れる。


ジュリアンは再び前を向く。

会話は続いている。

音楽も、途切れることなく流れている。

だが——


指先に残るわずかな緊張だけが、彼の内側の違和感を示していた。



――――――――――



庭園へと続く扉を開けた瞬間、ひんやりとした空気が頬を撫でた。

空を見上げれば、いつの間にか雲は厚くなり、細かな雨粒が静かに降り始めている。

「……降ってきましたね」

レオニスがそう言って、すぐに足を止めた。

「濡れるといけません。こちらへ」

彼は自然な動作で、マディラを屋根のある回廊の方へと誘導する。

一度は庭園へ出かけたものの、結局二人はすぐに引き返す形になった。


屋根の下。

雨音が、石畳を細かく叩いている。

軒はあるが、決して広くはない。

二人が並ぶには、わずかに狭い。

「こちらへ」

そう言って、レオニスはマディラを壁側へと導いた。


自然に見える配慮だった。

雨粒が当たらないように。

——だが結果として。

彼はマディラの正面に立ち、片手を壁に添える形になる。


「……先ほどの続きですが」

声を落とす。

「殿下のような方が、宮の奥で静かに過ごしているのは、少しもったいない気がします」

距離が近い。

だが、マディラはそれを特別なものとしては受け取らない。

ただ、話を聞く姿勢を崩さない。


「そうでしょうか」

「ええ。もっと——」

言いかけたところで。

「王妃様」

後方から、控えめな声がかかった。

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