葛藤 1
朝目覚めて、もはやいつも通りの日々が戻らないことを知っていた。
手を広げて、意識を集中すると手のひらが発光を始める。
どうして、再び力が解放されているのかがわからない。
臨海学校が終わって、数日後以降の記憶が真唯佳にはない。
だが、もはや記憶が途切れていることはどうでもよかった。
——球技大会当日。
ソフトボールで、真唯佳は打席に立ったところ、腕にデッドボールを受けた。
救護テントに行ったものの、保健室に行くように促された。
近道をするため、高等部との境の校庭を横切っていたが、腕の痛さに途中のベンチで休憩していた。
——周りには誰もいない。
痛む腕を何度もさすっていたが、急にその痛みが抜けていく。
それと同時に、さまざまな記憶が流れ込んできた。
何がきっかけだったかわからないが、力が解放されていた。
それと同時に彼女を襲う、絶え間のない頭痛。
幸い、腕の痛みは退いた。
保健室に行かなかったが、チームと合流し、自分の棄権を申し出た。
皆、デッドボールの瞬間に、今後のプレーは絶望的だと思ったらしく、問題なく聞き入れてくれた。
帰宅後も頭痛は止まらない。
必死に苦痛に耐えながら、ニーベル人としての気配を消すのに必死だった。
デッドボールの話を知って、体調を気遣う彬に対し
「今は体調が良くないけど、寝ればきっと回復するから。もう寝ます」と言って、真唯佳は自室に入った。
目覚めてしまったことを相談するよりも、だんだんと湧き上がってくる黒い衝動を抑えるのに必死だった。
昼間よりも、その欲望は確実に強くなっていた。
しかし、押さえ込むのに今ならまだ間に合うと思い、月光の力を借りて、もう一度自分で自分を封印していたのに——。
未だに、自分が何をどうしたいのかわからない。
ただ——
彬や叉夜と過ごした何気ない日常も
学校で過ごした穏やかな日々も
全て、終わりを告げた
——待っているのは、生きるか死ぬかの権謀術数渦巻く世界。
――――――――――
真唯佳は、叉夜に渡されたドレスを着て地下室に行く。
シンプルながらも美しいクリーム色のサテンのドレス。
袖は長めで、袖口にレースがあしらわれていた。
その上から深いエメラルドグリーンのローブを纏っている。
ローブは豪華な装飾を抑え、機能性を重視したもので、所々に刺繍された金糸の細かい模様が彼女の身分を示していた。
地下に行ったところ、ニーベルの貴族の服装にフード付きのマントを着ていた彬が、先に待っていた。
彼は、暗いチャコールグレーの、全体を隠すフード付きの長いコートを着て、頑丈な黒革のブーツを履いていた。
貴族としての品位を持ちながらも目立たないデザインだが、フードは大きめで、顔を深く隠せるようになっている。
コートの下には、ウールの濃紺と黒のタイトな上着とパンツを着用。
無駄な装飾はなく、手は黒い革手袋をはめている。
手元からも、誰が護衛しているかを推測されないようにしていた。
人間界での状況報告に行く時に、何度か見かけた格好だ。
彬は、真唯佳が降りてきたのを見ると、フードを被り、手に持っていた仮面をつけ、扉を開ける。
二人は赤の世界に足を踏み入れた途端、その風貌が変わる。
彬は、黒に近い焦茶の瞳と、その色に近い髪色だったが、フードの奥では胸あたりまで髪が伸び、黒に近い濃紺の色に変化をする。
仮面の目の部分から、木や土の加護を受けているかを連想させる、濃い緑色の瞳が見える。
恐らく、本来の年齢である二十代前後の顔つきに変化しているはずだ。
真唯佳は、長い黒髪から、長さはそのままに緩やかなウェーブのエメラルドグリーンの髪に変わり、瞳も茶色から藍色に変化し、十代後半の見た目になっていた。
目の前に広がるのは、自国の静かな風景だった。
遠くには山々が連なり、川のせせらぎが耳をくすぐる。
王女は小さく息を吐き、どこか懐かしさと緊張が混じった表情でその景色を見つめた。
「少し行った先に馬車が停まっているから」そうジュリアンが彼女に声をかけて、二人は歩き出す。
橋が狭くて馬車が渡れないのと、扉の正確な位置を多数の人に見られないように、少し歩いたところに停めさせていた。
彼らの足元には古びた石の橋が広がり、橋の向こう側には馬車が待機している。
マディラは一歩を踏み出し、軽く息を整えながら橋を渡り始めた。
石の橋は長い年月を経て苔むしていたが、歩みを進めるたびに彼女の心が少しずつ帰郷を実感する。
橋を渡り切ると、待っていた御者が静かに頭を下げ、馬車の扉を開けた。
馬車は豪華ではないが、堅牢で目的を果たすために用意されたものだ。
二人は無言で馬車に乗り込み、向かい合わせで座る。
御者が手綱を引き、馬車はゆっくりと王都へと進み始めた。
窓から流れる景色を見つめながら、マディラは父との再会を考えずにはいられなかった。
どんな顔をされるのだろうか。
ジュリアンもまた、黙したまま座り、彼女の気配を感じながら静かに息を潜めている。
やがて、遠くに王都の城壁が見え始めた。
太陽に照らされた城壁は黄金色に輝き、その向こうに聳える王の居城は威厳を放っている。
馬車は城壁を回り込むように進み、やがて裏門の前で停まった。城の、比較的人目につかない門だ。
裏門は大きな木製の扉で、見張りの兵士たちが厳重に警戒していた。
だが、彼らは王女の馬車を認識すると、静かに門を開ける。馬車は進み、建物の前で再び停車した。
「今までありがとう」
そう言いながらジュリアンの方を向き、ハグをしようと手を広げるマディラ。
仮面の奥で一瞬、驚いたように目を見開き、そして優しい目つきになり、そっと彼女の背中に両手を回すジュリアン。
マディラの耳元で、ジュリアンが周りに聞こえないように小さな声で言った。
「僕の方こそ、今までありがとう。こんなに長く充実した時間を過ごせると思っていなかった。今後は、お互い知らない人の振りをした方がいい。」
お互い体を離し、目線を合わせて二人は共に無言で頷き、マディラは馬車を降りて行った。
青年を”学院”に連れて行くため、馬車は再び動き出し、門を出る。
兵士たちは、周囲に気を配りながら王女を迎える。
彼女は無言のまま、城内へと足を踏み入れた。
これから待ち受ける運命がどのようなものか、王女はただそれを静かに受け入れる覚悟で進んでいた。
――――――――――
王宮内
マディラは、早速父との謁見のために玉座の間に入ったが、その瞬間、空気が重くなった。
彼女は首を垂れた。
久方ぶりに目にする父の姿は、変わらぬ威厳を持って彼女を圧倒した。
玉座に座る国王は、眉間に皺を寄せ、冷ややかな目で彼女を見つめている。
その目は、娘の帰還を喜ぶものではなかった。
「父上、ご機嫌麗しゅうございます。」
王女は恭しく頭を下げ、礼を尽くす。
しかし、国王の表情は少しも和らがない。
「戻ってきたか。」
その声は硬く、冷淡だった。
彼は一瞬も躊躇することなく、玉座から立ち上がり、彼女に向けて言葉を続ける。
「長い間、国を離れていたが、お前の名を再び我が血筋に戻す必要がある。除名された身のままでこの城に居座ることは許されん。復籍の儀式を、早急に執り行う。」
「ありがとうございます、父上。」
だが、彼は感謝の言葉には一切反応せず、まるで娘の気持ちなど問題ではないかのように続けた。
「——そして、お前はもう年頃だ。今すぐにでも、見合いを始めるべきだ。相手は既に考えておる。私の期待を裏切るな。」
国王はそれだけを言い終えると、踵を返して背を向けた。
王女に視線を向けることなく、ゆっくりと玉座の間を後にする。
その背中は、彼女に対する無関心と冷徹さを象徴していた。
マディラは一人残され、父の言葉の重みを受け止めながら、胸の奥にわずかな決意が生まれるのを感じていた。
再び王宮での生活が始まる——だが、その道のりは決して平坦ではないだろう。




