離別 9
早朝。
夜がうっすらと明けていくのと同じくして、彬が目を覚ます。
体を起こし、そして——
隣に真唯佳が寝ていることに気づき、じっと見つめる。
僕はそのまま彼女の部屋で寝ていたのか。
まいったな……どうする?これから。
そう思いつつ、あまりの愛おしさに、思わず彼女の額に口付けをする。が。
触れた瞬間、はっとし、とっさに顔を起こす。
一瞬、真唯佳が起きて頭をあげた気がしたのだ。
だが、彼女はまだそこに寝ている。
——おかしいな、気のせいか
そう思った瞬間、足元の方向で人の気配を感じ、すぐさま彼は視線をそちらに移す。
「あなたは……!」
壁際に立っていたのは、まばゆいばかりのオーラを放つ10代後半の女性。
端正な顔立ちに、緩やかなウェーブのエメラルドグリーンの髪を腰まで伸ばしている。
「……あなただったのですね。ずっとそばにいてくださったのは」
そっと話しかけるその凛とした声。
「ジュリアン・ソレイユ様」
「マディラ様……」
そう、彼女こそは本来のマディラ姫だった。
ジュリアンが幼いころに王宮で会った姫が、成長したまさにその姿。
「なんとお礼申し上げればよいのかしら」そう、マディラは静かに話す。
「いえ、お礼だなんてそんな……自分がなすべき事と思いしたことですから」
「あなたには苦労をかけました。身をもって守っていただいたこと、大変感謝いたします。そして幼い、未熟な私の言動に心を痛められて、禁忌の術に手を染めてしまわれた。大変申し訳なく思います。」
「その事は……」
彼女の言葉に、彬は一瞬動揺をした。
いつも「真唯佳」と接していたので、意識することもなかったが——。
禁忌の術を施された姫本人がどう思うか、当時は想いを馳せる余裕がなかった事を、彼は後悔した。
あの時、そこまで冷静に考えが及んでいれば、こんなことをしなかったはずだ。
「あなたがされた事は、本来許されることではありません。……しかし、少なくとも私達にとっては救いの術でした。
そしてあなたがずっとそばにいて、誤った方向に行かないように見守ってくださったからこそ、今の私たちがここにある。
……どうか、ご自身を責めないでください」
「もったいなきお言葉です」
本来なら騎士としての活躍が帳消しになるどころか、即懲罰の対象となるので、彬は一瞬ひやっとするも、その配慮に優しさを感じると同時に、彼女に感謝するしかなかった。
「……真唯佳は今、非常に混乱しています。次々と襲い掛かる現実に。ただこれは、誰かが助けてあげられるものではなく、彼女が成長すればいずれは受け入れることができるでしょう。
……時の経過だけが、解決してくれるのです」
そう、ゆっくりと静かに話すマディラ。
いくら王家の人間といえども、彼女はまだ10代半ばの多感な年頃。
政治的陰謀に巻き込まれたり、友達と思って心を開きかけたところで裏切られるなんて、いくら事情を聞いても、とてもじゃないが気持ちはついてこない。
「……ですから、私はここ数日の記憶とともに、眠りにつきます。
——わかりますね。こうなってしまった以上、これから先、われわれは決して触れ合ってはいけない存在。
……恐らく真唯佳は、あなたを特別な存在だと思っていますが、本来のあるべき生活に戻れば、その想いを抱き続ける事はとても困難です。」
彬の目をしっかりと見ながら、強い意志を持って、そうはっきりと話す王女。
彼女のその発言の意味するところは、王家と一貴族ということだけを意味しているのではない。
彼女がこれから置かれる境遇は、彬が個人的に彼女をどう思おうが、決して踏み込めない領域なのだ。
「あなたのおかげで、私は彼女を寝かしつけることに専念できます。
——真唯佳という存在が作られたおかげで。
きっとこの世に再び生まれてきたのも、何か意味があるのでしょうが……少なくとも、今はまだ目覚めの時間ではない」
「全て、ご存知だったのですね」
彼女の言葉に、そう彬が返事をすると、マディラは寂しそうに微笑んだ。
だから、見えないふりをしていたと言っていたのか……。
後天的に作られた真唯佳ならいざ知らず、自分が置かれた境遇も、これからニーベルで待ち受ける試練も、姫が何も知らないはずがない。
「今までありがとう。そして……」
だんだんマディラの姿が薄らいでいき、彼女の最後の言葉を聞き取る事はできなかった。
彬は、姫が消えた壁をしばらく見つめていた。
そしていつの間にか、自分が真唯佳への想いを自覚したきっかけを思い出していた。
――――――――――
——僕は、一体何をやっているんだろう。
そう一人呟きながら、彬は自室で1000ページほどある本を、ひたすらめくっていた。
小学校5年生の頃。
新しい家で、3人で生活を始めてから1年以上。
当初は他人同士の共同生活に戸惑うこともあったが、これだけの月日を共に過ごすと、流石に生活のリズムが出来てきたある日。
“学院”で出された課題がまとまらず、彬は朝から自室にこもってひたすら調べ物をしているのだ。
確か、この辺にあったはず。
レポートをまとめている最中、引用しようとしている理論が、本当に自分の記憶どおりか確かめたくなったのだ。
10月も中旬を過ぎた、清々しい日の土曜日。
暑くもなく寒くもなく、やっと空気が適度に乾燥して過ごしやすい日なので、世間では遠出をしている人も多いと、今朝のテレビで、ニュースキャスターが話していた。
どうやら、真唯佳は近くの博物館での企画展が気になったということで、彼女も出かけているらしい。
なのに自分は、自室に篭って課題と格闘中だ。
その時、扉をノックする音が聞こえてきた。
「彬様……お昼を用意したのですが、召し上がられますか?」
扉の向こうから、叉夜がそう尋ねる。
一瞬、調べ物をしながら食べようと思ったが——。
出かけられないならせめて、日当たりが気持ちのいいリビングで気分転換をしようと思いつき、下に食べに行くからと伝える。
ダイニングテーブルで彬はサンドイッチを頬張りながら、君は行かなかったの?と叉夜に聞く。
「真唯佳様に、『近くだし、駅まで出ればバス一本で行けるところなので、一人で大丈夫』と言われまして。早めのお昼を取られて、先ほどお一人で出かけられました。」
自分から質問をしたくせに、そうなんだ、と生返事をして、食事が終わった彬はリビングに移動しテレビの天気予報を見る。
今夜遅くから明日いっぱいは雨なのか。
レポートを仕上げても明日の外出は楽しめなさそうだな、などと考えながら
「近くなら一人で出かけれるようになるなんて、ずいぶんここの生活に慣れてきたね、彼女は。」
彼は、紅茶を運んでくれた叉夜にそう話しかける。
二人とも新しい小学校に転校して一年ほど。
真唯佳が、放課後や週末に学校の友達と会っている話はあまり聞かないが、以前のような深刻ないじめに遭っている話も聞かない。
彬は1週間ほどしか前の学校で登校していなかったが、彼女がいじめられていた原因は虐待にあっていたからだと分析していた。
傷が沁みるので入浴回数も少なく、うっすら滲んだ血が洗ってもシミになっていた服が、余計に不潔なイメージを増長していた。
傷口を庇いながらの授業の参加は、学業に専念できていなかったはず。
絶え間ない痛みに、人の話を聞くことすら集中できなくて、何か質問をされてもピントの外れた回答をする結果となり、教師も生徒もさぞかし彼女に苛立ちを覚えていた事だろう。
今はそういったことはないが、以前の学校生活のイメージが抜けていないので、真唯佳は今もなお、周りとの関係構築のハードルを自分から上げている。
また、幼い頃からの人見知りの激しさは、完全には克服できていない。
一時避難先の田舎での生活で、投薬や瞑想で別人格を形成して定着をさせたが、良い影響が出るにはもう少し時間がかかるだろう。
自分の母親のように、明るくさっぱりとした性格なら、もう少し彼女の生き辛さも軽減されるのではないかと彬は思うのだが。
「でも、近所とはいえ小学生が一人で出かけるのも心配だけど、迎えに行くのかい?」と彼が尋ねたところ、「夕方くらいに戻るので迎えは不要とおっしゃってましたよ」と叉夜から返事が返ってくる。
10歳も過ぎれば、そこの博物館なら心配することはないかと思い、紅茶を飲み干して彬は2階に戻り、再び作業に戻っていった。




