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断罪されるヒロインに転生したので、退学して本物の聖女を目指します!  作者: オレンジ方解石


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終章.それぞれ

1.レオポルド






「お持ちしました、殿下。こちらです」


 ノベーラ公太子の寝室で。

 ロドルフォが、ベッドの上のレオポルドに一枚のハンカチを差し出す。

 うけとったレオポルドはしげしげと見つめた。


「これが、例の…………」


「はい。セレス嬢が直々に刺繍し、レースを編んでくださったハンカチです」


 ハンカチは端にロドルフォ・タルラゴの頭文字が飾り文字で美しく刺繍され、繊細なレースで縁取りされている。

 貴族男性の持ち物としては平凡な品だが、だからこそ日常的に持ち歩きしやすい。


「私だけでなく、ニコラスやイサークも同じ物をいただきました。殿下と四人、我々の友情の証、我らの絆が末永くつづくよう祈って、と」


 ロドルフォが背後をふりかえると、ニコラス・バルベルデとイサーク・グラシアンが同じ色とレースのハンカチを手に、並んでいる。ハンカチの端にはそれぞれの頭文字の刺繍。


「レオポルド殿下も、同じ物をお持ちでした。ご記憶にありませんか?」


「いや…………」と、レオポルドは頼りなく首をふって、ロドルフォにハンカチを返す。


「母上か父上が、処分させたのだろう。探してみたが、見当たらないんだ」


「殿下…………っ」


 レオポルドの寂しげな口調に、ロドルフォが声をふるわせる。


「来てくれて、ありがとう。忙しいところを呼び出して、すまなかった」


「殿下! 謝罪など無用です! 私は、我々は一生涯、殿下の家臣で友です!!」


 涙ぐむロドルフォに、レオポルドは優しくも弱々しい声で応じる。


「ありがとう、ロドルフォ。それに、イサークとニコラスも。あれこれ、思い出せない事柄が多くて…………君達は、幼い頃から共にいた友人だ。これからも色々教えてもらうだろう、頼りにしている」


「殿下…………!!」


 ロドルフォはレオポルドの手をとり、涙を流す。

 常に冷静沈着なニコラスが、


「殿下は、まだ本調子ではない。そろそろ退室しよう」


 と、ロドルフォをうながし、イサークと三人、公太子の私室を出て行く。

 宮殿の庭園で、ロドルフォが大柄な体を曲げて男泣きした。


「なんと不憫なことだ。あの輝かしかった御方が、ああも弱られて。あれほど深く愛された女性のことも、覚えておらぬとは!!」


 ノベーラ大公国公太子レオポルド。その優れた能力と容姿から、大公夫妻からも宮殿中からも将来を嘱望されていた公太子だが、今はその地位は危うい。

 クエント侯国へ同盟の申し込みに赴き、帰国したレオポルドは、邪竜に襲われ、強すぎる魔力に憑依された後遺症により、目覚めた時には記憶の多くを失っていた。

 自分の名前や年齢、ノベーラ公太子という立場、大公である父や母や周囲の側近達はだいたい覚えているのだが、ここまでの人生の多くを共に過ごしてきた人物――――最愛の婚約者については、きれいさっぱり忘れてしまっていた。

 今はセレスティナ・デラクルスの肖像画を見せても、眉一つ動かさない。

 彼女のためにイストリア侵攻さえ唱えた、と聞いてもぴんと来ないようで、あまりのそっけなさに大公や大公妃、大臣達のほうが「演技ではないか」と疑っているほどだ。

 今、彼はクエント侯国との同盟のため、クエント侯女との婚約が成立したものの、先行きは明るくない。

 帰国した彼の肉体は明らかに衰弱して、病への抵抗力も落ちている。即位しても摂政などを置いて実権はそちらがにぎることになるだろうし、そもそも長くは生きられないだろう、とのもっぱらの噂だった。

 ロドルフォが吠えるようにまくしたてる。


「俺は絶対に、殿下のおそばを離れん! 殿下にとってもセレス嬢にとっても、一番大事な時に、任務の都合とはいえ、おそばにいられなかった。守れなかった。せめて今後は二度と、命尽きるその時まで、あの御方のそばを離れん! 俺は殿下の騎士だ、剣に賭けて誓う!!」


 言い捨て涙をぬぐうと、そのまま駆け出して行ってしまった。

 ニコラスが呼び止める間もない。

 ニコラスは肩をすくめると、隣のイサークを見た。


「ロドルフォはああ言っているが。お前はどうする? イサーク」


「…………なんで、そんなことを訊くんですか?」


 少年の目尻には涙がにじみ、わずかに赤く染まっている。


「そういうニコラスこそ、どうなのですか。殿下をお支えしないのですか?」


「私は宰相の息子で、バルベルデ侯爵の嫡子だ。次期侯爵として未来の宰相候補として、己の職務をまっとうする。それだけだ。それがひいてはこの国のためにも、殿下のためにもなるだろう」


「僕も同じです」


 イサークはきっぱり言った。


「僕も聖神官として、父の跡継ぎとして、己が職務を果たします。セレス嬢がどうあろうと、それが殿下とノベーラに対する、僕の役割だと思うから――――」


 目尻を赤くしながらも、まっすぐ前を向いた少年の目に涙はない。

 それから二言、三言かわして、イサークも庭園を去って行った。

 まだ小柄な背は、それでもしゃんと背筋を伸ばして歩いて行く。

 一人残されたニコラスは木漏れ日を見つめながら、


(けっきょく、アリシア・ソルの一人勝ちか?)


 と、セレス嬢が異様に敵視していた存在を思う。

(いや)と、すぐに打ち消した。


(我々に目がなかっただけか)


 自虐的に思う。

 実際、セレスティナ・デラクルスは途中までは大変巧みに猫をかぶっていたのだ。


(伝説に語られるような、美しく優雅な聖なる乙女などいない)


 夢見る子供だったのが、自分達の敗因だった。

 ニコラスは自嘲の笑みを浮かべると、かつて、よく五人でお茶をたしなんだ庭園を出る。






2.セレスティナ






「まあ、すてき」


 赤、白、青、緑。色とりどりのドレスが並んで、次から次へと仕立て屋達が新しいデザイン画を見せてきます。


「セレスティナお嬢様。そろそろ休憩なさってはいかがでしょう?」


「あら、アベル」


「セレスティナお嬢様のお好きなベリーのケーキを用意いたしました。お茶はリラックスできる薔薇茶(ローズティー)です」


「まあ、おいしそう。そうね、少し休憩しましょう」


 わたくしは仕立て屋達に指示して、椅子に移動します。

 アベルが恭しくお茶をカップに注ぎました。


「お疲れではありませんか? 今日も朝からずっとドレスの仮縫いで」


 アベルが訊ねてきます。相変わらず彼には隠し事ができません。


「少しね。でも結婚式まで、あと少し。結婚式のあとは、皇后の即位式。そのあとも貴族や外国の大使から祝辞をいただく式典や、お祝いの宴やら舞踏会やら、色々あるもの。ドレスも宝石も、たくさん用意しないと。みすぼらしい格好をして、レオ様に恥はかかせられないわ。これも公務の一環よ」


「その意気です、セレスティナお嬢様」


 アベルはお茶のおかわりを差し出しながら「そういえば」と報告してきます。


「『聖なる姫君』店では、セレスティナお嬢様が考案した新しいケーキが大評判で、焼いても焼いても、すぐに売り切れてしまうそうです。旦那様(デラクルス公爵)は二号店を出すため、腕のよい菓子職人を探して奔走されていますし、セレスティナお嬢様のおかげで公都ではケーキが流行して、最近ではちょっとした好景気だと、レオポルド陛下も『さすが私のティナ、聖女にも皇后にもふさわしい』と、喜んでおられます」


「まあ、レオ様ったら」


 恥じらうわたくしに、見本のドレスの移動や仮縫いをしていた仕立て屋やお針子、召使いの女達が「まったくですわ」と、アベルに同調します。


「これほど稀有な聖女様は、ノベーラどころかイストリア大皇国の歴史にも稀でしょう。こんな優れた聖女様を帝后に迎えることができるなんて、我が国の栄光は約束されたも同然ですわ」


「聖女認定されてから、いっそうお美しくなられて。レオポルド帝王陛下のご寵愛もますます深く、もはや寵姫の座を狙う令嬢もいないとか。みな、聖女様の美しさを目の当たりにすれば、太陽の前に霞む星同然と思い知るのでしょう」


「聖女にして帝后ですもの。国中の娘は、誰もが聖女様に憧れております。宮殿は聖女様の噂で持ちきり、まさに理想の姫君、女神のような御方ですわ」


「もう、みなさまったら…………恥ずかしいですわ。わたくしはただ、聖女として帝后として、この先も使命を果たしていくだけです」


「まあ、なんて謙虚で高潔な聖女様、帝后様」


「この世でもっとも神聖で高貴な選ばれし主人公、セレスティナ聖帝后陛下!!」


「もう、皆様ったら」


 女達はころころ笑い、わたくしもつられて、ほろほろ笑いました。

 不意に、わたくしの胸に寂しい虚しい風が吹き抜けます。


「ああ。レオ様にお会いしたいわ。お顔だけでも拝見できないかしら? アベル」


「残念ながら、セレスティナお嬢様。レオポルド陛下は式典の予行練習(リハーサル)のため、昨日から大神殿に滞在中です。お帰りは明日の夕方です」


「ああ、そうね。そうだったわ…………なんだか、とても寂しくて…………」


 アベルは気遣いの笑みを浮べます。


「さすがに疲れがたまっておられるのでしょう。今夜は早めに休めるよう、予定を調整できないか訊いてまいります。セレスティナお嬢様は、そろそろドレスの仮縫いへ」


「そうね。お願いね」


 わたくしはティーカップを置き、立ち上がりました。


「ヒルベルト様との結婚式まで、あと数ヶ月。本当に、寝る間もないとはこのことね。イストリア大皇国の聖皇后就任式ですもの、いたしかたないけれど」


 わたくしはふたたびドレスの試着に戻ります。

 再度、胸に不安が生じました。


「ねえ、アベル。ブルガトリオ様は、本当に大丈夫かしら? 聖竜だもの。わたくしの望みとはいえ、人間のように結婚式を挙げるのはお嫌かもしれないわ」


「杞憂です、セレスティナお嬢様。ブルガトリオ様はお嬢様に喜んでいただきたくて、結婚式を了承したのです。それだけセレスティナお嬢様を愛しておられる証です。ご案じなさいますな」


「そうね。わたくしはブルガトリオ様の妃。この世界で、もっとも高貴で神聖な聖竜妃だもの。もっと、しっかりしなければ」


 わたくしは仮縫いを進めていきます。


「ねえ、アベル」


「なんでしょう、セレスティナお嬢様」






3.アベル






「まあ、すてき」


 赤、白、青、緑……………古びた長椅子やテーブルの上に並んだ色の褪せた数枚のドレスを前に、セレスティナが手を合わせて明るい声を出す。


「すばらしいわ、最新のデザインばかり! 布地もレースも、最高級のものばかりだわ!」


 ドレスは一昔以上前のデザインばかりで、レースも形だけ。虫食いの穴すらあいている。

 だがセレスティナの目には、大帝国の結婚式や即位式にふさわしい、最高級の晴れ着に映っているらしい。


「セレスティナお嬢様。そろそろ休憩なさってはいかがでしょう?」


 アベルが粗末な盆を古びたテーブルに置くと「あら、アベル」と、主人がふりむいた。


「セレスティナお嬢様のお好きなベリーのケーキを用意いたしました。お茶はリラックスできる薔薇茶(ローズティー)です」


「まあ、おいしそう。そうね、少し休憩しましょう」


 セレスティナは笑って、並べられたドレスの周囲の、誰もいない空間に向かって「少し休むわ。あとはお願いね」と指示を出す。

 セレスティナは布も張っていない固い木の椅子に座ると、ティーソーサーを手に持ち、アベルが邸の裏庭の菜園から摘んできた香草(ハーブ)で淹れたお茶を、さも最高級の品のように香りをかいで、優雅に味わう。

 テーブルに置かれたケーキも、アベルが摘んできた野生の木苺を用いた、アベルの手作り。

 辺境なので、最寄りの町に出ても高価なケーキなど手に入らぬのだ。

 だがアベルは公爵邸にいた頃と同じ洗練された所作を崩さず、恭しくセレスティナに訊ねる。


「お疲れではありませんか? 今日も朝からずっとドレスの仮縫いで」


「少しね。でも結婚式まで、あと少し」


「みすぼらしい格好をして、レオ様に恥はかかせられないわ」と、二人きりの居間ではりきるセレスティナに「その意気です、セレスティナお嬢様」と、アベルは優しい笑みで応じ、さらに「そういえば、セレスティナお嬢様が考案した新しいケーキが大評判で…………」と、主人が喜ぶ話題を即興で提供する。


「まあ、レオ様ったら」


 謙遜しつつも、彼女の中では誰かに何か褒められたのだろう、


「もう、皆様ったら」


 と、誰もいない空間に向かって、ほろほろ笑う。

 ご機嫌なセレスティナが着ているのは、何十年も前の流行の、赤がすっかり褪せた簡素な室内用ドレス。寸法も少し小さい。

 これでも、この館で探し出したドレスの中では一番マシな品で、銀色の髪は、古すぎて歯が欠けた櫛で梳いて、もとの色がわからないほど褪せたリボンで結んでいる。

 連日の粗食で白磁のようだった肌がくすみだしているせいで、ドレスもリボンも妙にしっくり合っているのが皮肉だった。

 邪竜ブルガトリオが封印されたあと。

 アベルとセレスティナは《聖印》を盗んだ罪で教皇庁に捕らえられ、取り調べをうけた。

 元は他国の公爵令嬢だ。教皇庁の待遇は劣悪だった、というほどではない。少なくとも平民よりは、よほど丁重な扱いだっただろう。

 しかし幼い頃から未来の公太子妃、最近では聖女候補としても、最高級の芸術品のように扱われてきたセレスティナにとって、罪人の肩書だけでも屈辱的だったうえに、周囲の者達は彼女の命令に従わず、賛美もしない。

 セレスティナには文化的衝突(カルチャーショック)どころではない衝撃だったのだろう。

 あっという間に精神の均衡を失った。

 アベルはそれを知ると、数人の犠牲と引き換えに、セレスティナを連れて教皇庁から脱出したのだ。

 が、自由になっても、セレスティナの正気は戻らなかった。

 あるいは正気に戻る必要性を感じなかったのかもしれない。

 今、正気に戻れば、ノベーラ公太子妃としての未来を約束された公爵令嬢でありながら、イストリア皇子や邪竜にだまされて捨てられ、故国を敵国に売り、世界の危機を招いた、という現実に向き合わなければならない。

 一見、気高く芯が強いように見えて、その実、自尊心ばかり高い、脆弱で幼稚な精神性のセレスティナには耐えられぬ事実だったのだろう。

 彼女は現実に戻ることを拒絶し、自身の描く理想(ゆめ)の中で生きる道を選んだ。

 ならばアベルは、主人のその妄想(ゆめ)に何年でも付き合うだけだった。

 今、アベルは、教皇庁の追手から逃げる途中で見つけた、森の中に忘れ去られた邸にセレスティナを置いている。聖女や皇后には似つかわしくなさすぎる場所だが、幸い、主人はここを大帝国の宮殿の一室と信じて、アベルが家探しして発見した古いぼろぼろのドレスも、結婚式や即位式に着ていく最高級のドレスと思い込み、毎日うきうきと着たり脱いだりをくりかえしている。

 お茶も菓子も、周囲の森や邸の菜園からアベルが採ってきて調理したものだが、主人には宮殿で出るごちそうや、都の高級店で購入した高級菓子に見えているらしかった。

 セレスティナは突然、不安そうにアベルに訴えてくる。


「ああ。レオ様にお会いしたいわ。お顔だけでも拝見できないかしら? アベル」


「残念ながら、セレスティナお嬢様。レオポルド陛下は式典の予行練習(リハーサル)のため、昨日から大神殿に滞在中です。お帰りは明日の夕方です」


「ああ、そうね。そうだったわ…………なんだか、とても寂しくて…………」


 アベルは主人に話を合わせる。


「さすがに疲れがたまっておられるのでしょう。今夜は早めに休めるよう、予定を調整できないか訊いてまいります。セレスティナお嬢様は、そろそろドレスの仮縫いへ」


「そうね。お願いね」


 セレスティナはティーカップを置き、立ち上がる。


「ヒルベルト様との結婚式まで、あと数ヶ月。本当に、寝る間もないとはこのことね。イストリア大皇国の聖皇后就任式ですもの、いたしかたないけれど」


 アベルの手を借り、古ぼけたドレスを仮縫いと信じて着ていたセレスティナは、ふたたび不安な表情を浮かべる。


「ねえ、アベル。ブルガトリオ様は、本当に大丈夫かしら? 聖竜だもの。わたくしの望みとはいえ、人間のように結婚式を挙げるのはお嫌かもしれないわ」


「杞憂です、セレスティナお嬢様」


 セレスティナは今「自分は大帝国の帝后かつ聖女となるための結婚式と即位式を控えている」という幻想()の中に生きている。

 その結婚相手、セレスティナに至高の地位を約束する男はその時々で名前が入れ替わり、イストリア皇国を倒したノベーラ大帝国のレオポルド帝王陛下の時もあれば、地上に降臨した聖なる竜ブルガトリオ、はたまた大陸全土の覇者となったイストリア大皇国のヒルベルト皇帝陛下の時もある。

 アベルはその都度、セレスティナが口にした名前に合わせて話をすり合わせ、主人が不安にならないよう、幻想が破れないよう、丁重に受け答えしていく。

 この邸に来て一息ついたあと。アベルは残っていた最後の惚れ薬を捨てた。

 もはや必要ではなくなっていたからだ。

 あの本物のアンブロシア(聖女)、アリシア・ソルの聖魔力を浴び、体内の魔物すべてを浄化されて、八年前にセレスティナへの忠誠の証に飲んだ、惚れ薬の効力さえも消え去ってしまったあと。

 それでもアベルの中のセレスティナへの想いは消えなかった。

 アベルにとってセレスティナは相変わらず甘ったれで幼稚で、自尊心と虚栄心の権化のような、彼がすべてを捧げて尽くすべき、ただ一人の主君(女性)だった。

 この事実を証明してくれただけで、あのアリシア・ソルには感謝の言葉を捧げられる。

 アベルは昔も今も変わらず、セレスティナに恋する心を持った人間だった。


「ねえ、アベル」


「なんでしょう、セレスティナお嬢様」


 アベルは哀れで愚かな主人の幻想に、とことん付き合う。

 邸の外、森の中からこちらを観察する視線があることに、鋭敏な感覚が気づいた。

 数日前から察知していた視線だ。

 こちらからも少し探ってみた結果、ノベーラ大公国からの追手の可能性が高いと判明した。

 ただし大公家やレオポルド公太子からではなく、デラクルス当主からだ。

 セレスティナがヒルベルト皇子と共にノベーラを出て、例の宣誓書を渡したことで、セレスティナはノベーラの裏切り者となり、デラクルス公爵は失脚した。これまでの功績に免じて命はかろうじて残されたものの、公爵位は剥奪されて所領と財産の大半も没収。公爵自身は出家を命じられ、病弱だった公爵夫人も自ら出家して夫婦二人、わずかな供と共に神殿に入った。

 ささやかな領地と財産と家名、そして世間からの侮蔑と嘲笑の視線を継いだ新たなデラクルス()()――――セレスティナの兄や、その他の親族は当然、おさまらない。

 彼らは、セレスティナがお気に入りの侍従と共に、教皇庁の牢から姿をくらませたあとも、執拗に行方を追っていた。一族の恥に決着をつけ、少しでもノベーラでの地位を回復させるために。

 アベルは、邸をとりまく気配が徐々にその包囲網をせばめていくのを察知する。


「接触する前に逃走する予定でしたが…………致し方ありませんね」


 アベルは、ヒビの入った鏡の前で「こちらがいいかしら。それとも、こうかしら」と、艶がなくなってきている銀髪をあれこれ結いつづけるセレスティナを呼ぶ。


「セレスティナお嬢様。知らせが参りました。陛下がどうしてもセレスティナお嬢様のお顔を見たいと、リハーサルを抜け出して来られるそうです。少しだけ外に出ましょう」


「まあ。レオ様が?」


 セレスティナの表情がぱっ、と明るくなり、そこだけは変わらぬ青玉(サファイア)の瞳がきらきら輝く。


「ええそう、レオポルド陛下です。他の者には内緒で、早く行って、早く帰って来ましょう」


「ええ、そうね。早く行きましょう。ああ、なんだか何年もレオ様のお顔を見ていなかった気がするわ――――」


「くれぐれも、お静かに。誰にも見つからぬよう、私の指示に従って――――」


 アベルは限りなく丁寧な手つきで優しくセレスティナの手を引き、無慈悲なまなざしで、もう一方の手に武器をにぎった。






 数日後。森の奥に放置されていた『幽霊屋敷』と呼ばれる邸が焼失していることに、偶然、通りがかった狩人が気づく。

 邸の燃え跡には何体もの黒焦げの遺体があり、さては夜盗か山賊の寝床になっていたかと、肝を冷やした狩人は慌てて近くの村へ男手を呼びに行く。

 そこでどれほど激しく無慈悲で凄惨な戦闘が繰り広げられたか。

 神ならぬ狩人達は知る由もない。






4.アリシア






「アリシア様、そろそろお時間です」


「はあ…………いえ、はい…………」


 ルイス卿の呼びかけに、私はあいまいに応じる。

 再度、ため息が漏れた。


「どうして、こうなるの…………」


 邪竜ブルガトリオの再封印から二ヶ月。

 私は神聖レイエンダ帝国の教皇庁で正式にアンブロシア(聖女)認定を終え、今日はアンブロシア就任の式典の日だった。

 ちなみに、イストリアからの侵攻は中断中だ。

 ノベーラ大公国とクエント侯国が同盟を結んだあと。収集した情報をまとめたところによると、イストリア第三皇子ヒルベルトに捨てられたデラクルス嬢は、邪竜ブルガトリオを復活させたあと、彼を連れてイストリア皇宮の晩餐会に乗り込み、ヒルベルト皇子に自分への謝罪を要求していたらしい。

 けれど、見知らぬ不審な男を同行したデラクルス嬢の抗議に対し、ヒルベルト皇子も招待客も「売女風情が、もう新しい男をくわえ込んだ」と嘲笑するばかりで、とりあわなかったという。

 怒ったデラクルス嬢は邪竜に、妃の汚名をそそぐよう、頼む。

 幸い、イストリア皇帝と皇太子はその場にいなかった。しかし多くのイストリア貴族が焼死体となり、第二皇子も巻き込まれて、ヒルベルト皇子は婚約者を庇って公女ともども落命した。

 多くの要職にある貴族や第二、第三皇子をたてつづけに失い、イストリア皇帝は侵攻計画や政治的方針の大きな変更を余儀なくされたのである。

 要は、しばらくはセルバ地方どころではなくなった。

 それだけの被害を出したあとにクエント侯国の大神殿に来て、私達とあの騒動をくりひろげたわけだが、デラクルス嬢の態度にはそんな経緯を微塵も感じさせなかったのが恐ろしい。

 図書館の魔王が言うには、


「本人は、自分の命令で多くの犠牲を出した事実を、忘れていたと思うよ。自分の精神を守るためにね」


 とのことだ。


「たぶんその時点で、すでに精神の崩壊がはじまっていたのだろうね」


 とも。

 デラクルス嬢、そしてアベル・マルケスの行方は知れないままだ。

 けれど、あの二人が単純に野垂れ死んだとも考えられない。

 私は何度目かのため息をついた。


「普通の、一介の聖神官で良かったのに…………」


「まだ、そんなことを言っているのか」


 控え室に様子を見に来たソル大神殿長様が呆れる。


「よいか。これは数十年に一度の栄誉なのだぞ? 我が大神殿からアンブロシアが出るなど、何百年ぶりの…………」


「それもう三十回は聞きました」


 私はソル大神殿長様のお話をさえぎった。


「気が重いです。私はただ、聖魔力が尽きるその時まで、今までどおり患者を癒しつづけることができれば、それでよかったのに…………正式にアンブロシアになってしまったら、色々面倒なことを言われるようになるじゃないですか」


「その分、できることも増える。兼ね合いをどうするか、だ」


 ソル大神殿長様はいかにも偉い神官様っぽく、重々しい表情でうなずいた。

 私はもう一度、ため息をつく。

 控え室の外から声がかけられてソル大神殿長様が退室し、私も式典会場に向かうよう、勧められる。

 その前に一度だけ、少しだけ一人にしてもらえるよう、ルイス卿や教皇庁の女神官達にお願いした。

 女性達がずらずら出て行く。

 私は化粧用の大きな鏡を見た。

 相変わらずのストロベリーブロンドに、ミントグリーンの瞳。

 服装はいつもの聖神官服ではなく、古代の女神をモチーフにした典雅なデザインの純白のドレス。濃い紫を差し色に用いて、銀糸の刺繍がきらきら輝いている。

 頭には真珠と水晶の額飾り(ラリエット)と、白の薄絹のヴェール。

 十六年間の人生で、間違いなく今日が一番豪華に着飾っていた。

 ここだけ見れば文句なしの聖女、ヒロインの晴れ姿だけれど。


「浮かない顔だね」


 私一人だけのはずの控え室で、横から手が伸びてきて高価なヴェールを指先で弄ぶ。


「嫌なら僕がさらおうか? 僕は人間社会での称号にはこだわらないし、君が星銀の聖魔力を有する事実には変わりないから、アンブロシアとして役目を果たせることにも変わりはない」


 肩に小さな丸っこいトキをのせた図書館の魔王ビブロスが、私のストロベリーブロンドを一束すくって口づける。


「今の状況では、本気で魅力的なお誘いなんだけれど」


「来ないのかい?」


「行きたいけれど…………今は、その時ではなさそう、というか」


 私は告げた。


「前世の記憶は、今を生きるのに必要ない。それは同感なんだけど、思い出したことがあって」


 断片的に思い出した前世の記憶の中で。

 私は大学で学ぶ、学生だった。

 卒業したら将来は貧しい国に赴き、そこで学校を建てたり、食糧生産の技術の改良を手伝ったり、汚れた水を飲むしかない人々にきれいな水を得られる設備や技術を伝える、そんな生き方をしたいと願っていた。

 卒業前に事故で死んで、その夢は断たれたが(ついでに『先輩』の告白も聞き損ねたが)、転生した新たな世界で、その夢の一端を叶えることができた。

 今の私は断罪エンドを回避するためではなく、この世界のまだ困っている人々を一人でも多く助けるために、力がほしい。


「前世の願いを現世で叶える、というだけじゃなくてね。今の私自身が、何度も癒しを行ってきて、そう思うようになったの。大勢の人を助ける仕事をしたい、って」


 聖女の地位や肩書は、そのために役立つはずだった。


「打算といえば、それまでだけど。でも今は、やれるところまでやってみたいの。…………いいかな?」


「君らしいと思うよ」


 ビブロスは視線の高さを私に合わせた。


「まあ、聖女になれば、結婚も制限されるし。当面は、他の男に手を出される心配もなくなるだろう、ってことで納得するよ。当面はね」


「いずれは」という裏の意味をこめて、ビブロスは「当面は」を強調する。


「そういえば、対価の返済の件だけれど」


 私は一気に現実に引き戻された。


「まだ、つづいているんだ…………!!」


「当たり前だろ。君からもらった聖魔力は、たいした量じゃなかったし」


「…………っ」


 涙目で絶句する私に、魔王は楽しそうに要求する。


「日記はつづけてもらうよ。僕も返事は書く。これまでどおりにね」


「だけど」と、ビブロスの言葉がつづいた。


「君の日記は誰にも見せない」


 長い指が私の頬に触れる。


「対価の返済として受けとった、これまでの分も含めて。君も、君の日記も、僕だけの読み物だ。他のやつには絶対に見せない、触らせない。だから安心して、好きなことを書くといいよ」


「それって…………」


 もしかして、単純に「まだ交換日記はつづけよう」という、お誘いだろうか。

 私がこくり、と小さくうなずくと、ビブロスは私の唇に軽いキスを一つ、落とした。


「行っておいで。君は僕の最高の愛読書(花嫁)だ。どんな物語を紡いでくれるか、楽しみに読ませてもらうよ――――」


「――――うん」


 私は彼の頬に一つ、キスを返して、控え室を出て行く。






 教皇庁の大礼拝堂は壮麗だった。天井が三階分の高さがあり、有名画家による様々な宗教画と金箔がいたるところに飾られて、太い円柱が何本も並んでいる。

 つやつやの大理石の床の上に真っ赤なビロードの長い絨毯が敷かれ、その先に冠をかぶって長い金髪を背に流した、白と紫紺の正装姿の教皇猊下が待っていた。

 私は予行練習(リハーサル)どおり、しずしずと彼女の前まで進み出て膝をつく。

 教皇が予定通りの台詞を唱えて、私にアンブロシア(聖女)の証となる聖杖を授けた。

 私はふりむく。

 どっと、左右の参列者達の拍手が高い天井に響き渡った。

 前列の先頭近くで、紺と白の正装に身を包んで冠をかぶった、ソル大神殿長様が真っ赤な顔をハンカチで押さえている。

 大礼拝堂を出て教皇と共にバルコニーへ出ると、すでに集まっていた民衆がどっと沸いて、花と紙吹雪が舞った。

 姿は見えないけれど、空のどこかでビブロスが見守ってくれているのを感じる。

 私は聖杖を掲げ、教皇と共に集まった人々の歓呼に応えた。






――――こうして私、アリシア・ソルは聖女に就任した。

 この展開が、前世で読んだマンガの筋書きからどれほど外れたか。

 今の私には、もう確かめようもないけれど。


(でもまあ、行けるところまで行くしかないか)


 少ないけれど仲間もいて、恋人もいて。

 待ち望んでくれる人々もいる。


「行くしかないな、マンガの知識がなくっても」


 私はあらためて覚悟を決めた。




 聖女(アンブロシア)アリシア・ソル誕生である。

やっと完結しました‼

ここまでお付き合いくださった方々、ありがとうございます‼

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― 新着の感想 ―
とても面白くて一気読みいたしました。 アリシア、セレスティナ、いろんなキャラたちがそれぞれ善悪はともかく芯のある人物像で素晴らしかったです。特に女性には魅力的なキャラが多くドキドキしました。 特にセレ…
ちょっとでて来た公女なくなった…… せめて、皇子がかばって生き残ったでもよかった気もしなくない。 結局あの2人はあそこでなくなったかな? まあ、2人だけのワールドでは無害だな。 アリシア×ビブロ…
レオポルドの最後のやらかしのお咎めがないのは、邪竜がやったことになったからかな? それとも政局安定のためとか、どうせ死ぬからとかで、駒になる代わりになかったことにされたとか? ロドルフォはあんなにヘ…
感想一覧
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