71.アリシア
「レオ様! しっかり!!」
デラクルス嬢が、倒れたレオポルド殿下の体をゆさぶる。
殿下はもとの金髪に戻っており、意識を失っている様子だった。
「あちらはいったん、置いておくとして」
ビブロスは上を向いた。
「問題はこっちだ」
つられて空を見上げた私達は声をあげる。
「なんですか、あれは!?」
ルイス卿が悲鳴のように問い、教皇猊下とエルネスト侯子殿下も瞠目する。
夜空に緋と黒の炎がぐるぐると、とぐろを巻くように蠢いていた。
「ブルガトリオの本性だよ。五つの封印を破壊して、いよいよ本当の復活だと、息巻いている」
「本当の復活…………? さっきまでの姿は、復活じゃなかったの?」
「あれは解放された魔力の一部を凝縮して実体化させ、それっぽく見せていただけだ。本来の魔力の百分の一以下だよ。情報収集して現状を探るには、あの形態のほうが動きやすいと判断したんだろう。ブルガトリオの本体はセリャド火山の底、溶岩の中に眠る、文字通りの竜だよ」
「そんな…………」
声を震わせたのは誰か。
「どうにかできないの? せめて、封印しなおすとか…………」
「それは星々から命令が届いている。そもそもブルガトリオを封印したのは星々の王で、まだそれを解く意思はないからね。このとおり、新しい封印も用意できた」
ビブロスはなんてことないように、手の上に五つの石を発現させた。どれも聖女像に隠されていたのと同じ、白銀色に輝く水晶のような丸い石だ。
「そういうこと…………」
私は少し安堵する。
が。
「…………これって、誰が使うの? まさか、私!?」
封印に星銀の聖魔力を補充するのが、アンブロシアと呼ばれる聖女の役目。
なので、もしや封印する行為自体も私の役目では、と嫌な予想がわいたのだが。
「まさか」
図書館の魔王はあっさり否定した。
「人間にあれは抑えられないよ。星々だって、そんなことは期待していない。封印は僕が行う」
ほっ、と胸をなでおろしたのもつかの間、最後の一言に新たな不安がよぎる。
「…………大丈夫?」
さっき、自分で『文系』と言っていたのだけれど。
「大概、君も失礼な娘だね」
魔王にじとっ、とした視線で見下ろされたけれど、私の不安や心配はしかたないと思う。
「えっと。じゃあ、私達にできることってある? 他の人達と避難したほうがいい?」
「まあ、星の力が得られる上空でやる予定だから、地上には影響の出ない高度だとは思うけれど…………」
「ど?」
夜空を見あげていたビブロスは何を思ったか、意味ありげに私を見つめてきた。
「ついでに。君、対価を払う気はあるかい?」
「…………」
「有り体に言えば、君が対価を払うなら、僕はブルガトリオを封印して来る」
「…………ビブロス」
「それはあんまりでしょう、図書館長殿!」
背後からルイス卿が口をはさんだ。
「この状況で、アリシア様に『否』の選択肢はありません。事実上の一択です。断れないとわかっていながら返済の上乗せを迫るのは、卑怯というものです。騎士や紳士のすることではありません!」
「騎士や紳士じゃなく、魔王だからね」
一刀両断だった。
教皇猊下が代わって説得する。
「そもそも邪竜の封印は、あなたが星々から依頼された役目では? 仮にソル聖神官がお断りした場合、あなたは星々の依頼を捨てるおつもりなのですか?」
教皇猊下の問いは無視して、ビブロスは私に説明を足す。
「別に、本以外でも可能だよ?」
「そうなの?」
「僕は魔力での支払いも受け付けているからね。星銀の聖魔力なら申し分ない」
「なんだ、そういうこと」
私は拍子抜けした。
そういえば、そんなことも言っていた気がする。
「そういうことなら早く言って。あまり残っていないと思うけれど、あるだけ持って行って」
私は手を差し出した。
「でも聖魔力以外の対価も欲しい」
「…………」
また面倒くさいことを言い出した。
「君が欲しい」
「――――――――は?」
私は思考が止まったし、背後も沈黙したのがわかる。
「聖なる乙女が人々を救うために身を捧げるというのは、よくある話だ。捧げる対象が死か魔性か、というだけだよ。君がこの僕、図書館の魔王ビブロスの花嫁になるなら、僕はブルガトリオを封印してくる。それでどうかな?」
「どうかな…………って」
私の顔に、先ほどの竜の炎とは別種の熱が集まる。
よく見れば、ビブロスは珍しく笑っていた。いたずらっ子…………というより、悪だくみの笑みだったけれど。
「…………この状況で、それを言う?」
「君、僕のことが好き、って言ったじゃないか」
「いや、っ…………言った、けど…………っ」
背後から「あらまあ」「おやおや」という空気が伝わってきて、私の顔に血がのぼる。
「『子供は無理』って、言ったじゃない!!」
「まあね。今でも無理だけれど」
ビブロスは否定しなかった。
「けど、魔王の僕が納得するほど君が大人になるのを待っていたら、たぶん君は先に寿命を迎えるんだよ。これでも千年以上、生きているものでね」
なるほど、人外の定番設定。
「だから体が大人であればいいかな、と」
「…………その言い方は怪しい」
「肉体上の諸条件が成人規定に達していれば、精神面での未熟及び経験不足は考慮の範疇に入れないものと、特例で認可することにしたよ」
「…………っ」
私は考える。でも、今さら考えなければならないことなんてない、と、わかってもいる。
「どうする?」
「…………なんか、うまいこと丸め込まれている気がする」
「こういうことは勢いだよ」
背の高いビブロスがちょっと屈んで、私に視線の高さを合わせる。
「…………やっぱり、もっとちゃんと正々堂々とした形が良かった。脅し半分、みたいな感じでなくて」
「じゃあ、今度あらためて申し込むよ。今はとりあえず、練習ということで」
白い前髪がさらり、と私のストロベリーブロンドの前髪に触れ、漆黒の瞳が目の前にある。
あらためてよく見れば、ビブロスはかなりの美男子だ。あと守本奴。
「とりあえず、予約だけ入れさせてもらえるかな。他の男に持っていかれないように」
「予約だけね」と、言えたかどうか。
ふわり、と、かすかな風に吹かれるような感覚があって、音も視界もすべて遠ざかって、頬にビブロスの手を、唇に彼の体温を感じる。
一秒が百秒にも千秒にも感じられたあと、私はふと、まぶたを開いた。
金色の光が鼻先にある。
「星銀の聖魔力というのは、星々の領域なんだよ」
目の前の青年は言った。
「何故、星銀の聖魔力を持つ人間が『アンブロシア』と呼ばれるのか。アンブロシアは、古の神々の食べ物。口にすれば不老不死を得て、神々の仲間入りを果たす。つまり神格を得る」
白かった髪はより長く伸び、金色の輝きを放つ。
「それは神々とて同じ。神々もかつてはアンブロシアを食することにより、神格を維持していた。神々が地上を離れて天に昇り、星となった今でも、アンブロシアのその効能は変わらない」
漆黒だった瞳が金色に輝いている。
「人間を癒すのも、星々の封印に聖魔力を補充するのも、すべては余波、二次的な作用だ。アンブロシアの真の役割はこれ、必要に応じて神々の神格を復活させること。――――堕天した神でさえも」
ビブロスだった誰かは、さらりと私の頭をなでた。
「さて。それでは行ってくるよ。さっさと終わらせて帰ってくる」
そう言うと、ふわり、と夜空へ飛んで行って、見えなくなった。
空を埋める緋と黒の炎のとぐろの中にただ一点、金色の星が光るだけだ。
「なるほど。『アンブロシア』とは、そういう意味があったのですね」
呆然とする中、教皇猊下が一人でうなずく。
******
炎が渦巻く。大気に強力な熱と魔力が満ちる。
竜はゆったりと首をもたげた。
『王に命じられて、我を封じに来たか。「知の神」「学問の導き手」「知識と記録の守り手」「文字を発明した者」「書記の守護者」。数多の肩書を得ていたものが、堕ちたものだ』
「あいにく、天に昇らせてもらえず、地下に堕とされた君と違って、僕は自分から交渉の末に、地上に条件付きで残ることを選択した身でね。僕にとって、無限の書物と記録が生み出される人の世は、まどろむような星の世界より、はるかに刺激的だ。他の神々が昇天したため、残る僕だけが地上で神格を維持することは、けじめとして許されなかったけれど、魔王に堕とされても、僕だけの図書館の主となれたこと、後悔してはいない。こういう事態が起きた時の使い走りにされたことだけは不本意だけれどね」
『貴様が我を封じるか? 座って紙をめくっているだけの文弱の男が』
「君の父上から、必要な許しと道具はもらっている。花嫁も見つかったことだし、早く帰らせてもらうよ」
『アンブロシアか? ――――思えば、アイシーリアもおかしな娘だった。神に望まれた身でありながら、人の身にとどまり、凡百の夫を迎えた』
「――――ルーカスは人間だが、凪いだ大海のように深い男だった。幼なじみが一介の村娘から大神殿の巫女、皇女と、様々に地位と環境を変えて、とりまく者達の心と欲がどれほど変動しても、ルーカスだけが、一人の娘としての彼女と向き合いつづけた。だからアイシーリアはルーカスを選んだ。それだけだ」
『そういうことにしておいてやろう。我は長話より、戦いを望むのでな』
炎がいっそう熱く激しく燃えて、熱風が吹きつける。
けれど金色の一粒の星は業火に呑み込まれることなく、輝きつづける。
夜風すら届かぬ上空。星々だけが見守る中、堕天の神がぶつかり合う。
******
「あ」とルイス卿が夜空の一粒を指さす。
その星は一つだけ輝きを増していき、最後には流星のように流れた。
普通の流星と異なるのは、流れた先が私のもと、という点だ。
「済んだよ」
金色の髪に金色の瞳をした青年神は、ぼろぼろになった中庭にふわり、と降り立った。
「ビブロ…………」
私は、倒れて意識を失ったままのレオポルド殿下から離れぬまま、彼の名を呼ぼうとする。
が、出遅れた。
「ビブロス!!」
明るい声をあげて、デラクルス嬢がビブロスに抱きつく。
「ちょっと…………!」
デラクルス嬢は咎める私も、横たわるレオポルド殿下も見えないように、潤んだ瞳でビブロスを見あげた。
「帰って来てくれて、本当に良かった。わたくし、やっとわかったの。こんなに貴方のことが心配だったのは、貴方こそが、わたくしの真の運命の人だったからなのね」
「ぶれないね、君」
ビブロスはもはや呆れすらしなかったし、私や他の人達も同じ気持ちだったと思う。
「お願い聞いて、ビブロス。わたくし、貴方が――――」
「必要ないよ」
ビブロスがとん、とデラクルス嬢の額を指先で押すと、デラクルス嬢は途端に意識を失い、膝を折ってその場に倒れかける。
「セレスティナお嬢様!!」
「眠らせただけだよ。あとは好きにするんだね」
言い捨て、ビブロスは私のもとにやってくる。
そして目覚める気配のないレオポルド殿下を見下ろし、同じように額に指先を触れた。
わずかな聖魔力が移動する気配を感じる。
「少し力をわけた。星銀の聖魔力だ、すぐに目覚めるよ」
「助けてくれるの?」
「僕はどうでもいいけれど、助けないと、君はずっとそのままだろう?」
首をかしげたビブロスの、髪や瞳の色が変化していく。
私のためだと知り、胸があたたかくなった。
私はレオポルド殿下をエルネスト侯子とルイス卿に任せ、立ち上がってビブロスと向き合う。
「お帰りなさい。怪我はない?」
「無傷だよ」
「…………本当に、あの竜を封印したんだ…………」
見上げれば夜空はすっかり平穏をとり戻して、先ほどまでの炎は気配すら残っていない。
「言ったろ。道具はそろっているし、神格もとり戻したんだ」
ビブロスの手が私のストロベリーブロンドを梳く。
彼の髪はすっかりいつもの白に戻り、瞳も漆黒に塗り替えられている。
私の視線に気づいたのか、ビブロスは説明を足した。
「漆黒の瞳は、魔性と堕天の証だ。髪も変化するけれど、一番重要なのは瞳だ。だから堕天した者や魔術師は、総じて黒い瞳をしている」
「そうなんだ…………」
そういえば、あのブルガトリオという竜もビブロスと同じ漆黒の瞳だったし、魔術を扱うアベルも二人ほど濃くはないけれど、黒い瞳だった。
「じゃあ、金色になったのは神様の証?」
「金の瞳は神格の証明。髪の色は神による」
長い指が私の髪をいじって、顔が近づいてくる。
「えっと、じゃあ…………」
「こら」
後ずさりする私を、魔王が止めた。
「どうして後退するんだ」
「え、だって」
「だって?」
「…………なんで近づいてくるの」
「恋人が一仕事終えて帰ってきたんだ。ねぎらってくれないかな」
「…………さっきの、本気だったんだ?」
「逆に、なんで嘘だと思うんだ」
「聖魔力が欲しかったからかと…………」
「そんなわけないだろ」
魔王は明確に否定した。
「君は僕の恋人だよ。ただ一人のね」
「…………そういう読み方をする人、初めて見た」
本心だったが「いいから」と黙らされた。
前髪と前髪が触れる。
そうして私は、生まれて初めてと二度目のキスを経験し、聖女だけれど魔王の恋人となったのだった。




