69.アリシア
「消えた…………のですか?」
ルイス卿が呆然と呟く。私もすぐには信じられない。
「アベル!」
デラクルス嬢が喜びの声をあげ、レオポルド殿下の外套を羽織っただけの姿で、忠実な下僕に駆け寄った。殿下も慌ててあとを追う。
「ありがとう、アベル。わたくし達を助けてくれたのね」
「セレスティナお嬢様…………」
アベルはふらふらで、立っているのもやっと、という様子だ。
「私からも礼を言う、アベル。そなたとソル聖神官がいなければ、あの危険な男は倒せなかった。よく、ティナと我々を守ってくれた」
「礼には、及びません。私は、セレスティナお嬢様の、望みを叶えるため…………」
アベルの体がぐらり、と、かしぐ。
「アベル!」
反射的にレオポルド殿下がアベルへ手を出した。
その殿下の手を、アベルががっちり、つかむ。
そのまま、にぎっていた緋と黒に染まった短剣を、レオポルド殿下の心臓に突き立てた。
悲鳴があがる。
「レオ様!! なにをするの、アベル!!」
アベルは主君の問いには答えず、どさり、とレオポルド殿下の長身が地面に倒れる。
「レオ様! レオ様っ!!」
デラクルス嬢が半泣きで倒れた殿下にすがる。
レオポルド殿下の心臓に突き立った短剣の刃からは、殿下の心臓に飲み干されるかのように色が、緋と黒が抜けていき、最初の水晶のような透明感をとり戻す。
アベルは一息に短剣を引き抜いた。鮮血は一滴も流れない。
「え…………アベル、これはいったい、どういう…………」
しきりに瞬きするデラクルス嬢の目の前で、レオポルド殿下は変化していく。
「あれは…………まさか」
教皇猊下が瞠目し、呆然と見守る私達の前で、レオポルド殿下の全身から緋と黒の光が放たれ、まぶしさに目をつぶる。
そろそろと目を開くと、レオポルド殿下は両足で立っていた。
上着の、心臓の部分に刃の大きさの穴が開いている。
そして陽光のごとく輝いていた金色の髪は緋色に、澄んだ紫水晶のようだった二つの瞳は漆黒に変化していた。
「レオ様…………? いったい、これは…………」
困惑するデラクルス嬢の前で、髪と瞳の色が変わったレオポルド殿下は周囲を見渡し、自身の手と体を見下ろす。
「ティナ…………? アベル…………どういうことだ、これは………すさまじい力がみなぎるような…………」
アベルは恭しく答える。
「あの邪竜の魔力を移植しました。ご自身の名がわかりますか? 殿下」
「私の名…………私の名は、ブルガトリオ…………いや、レオポルド…………?」
自分の内側をさぐるように、殿下は名を口に出す。自分でも明確でないようだ。
「私は、レオポルド…………けれど、ブルガトリオでもある…………?」
「成功したようです」
アベルは満足げにうなずき、デラクルス嬢に向き直った。
「ご安心ください、セレスティナお嬢様。魔術は成功しました。レオポルド殿下は邪竜ブルガトリオの魔力を宿しました。殿下は人間でありながら、竜の力を継ぐ存在となったのです。人間として、これ以上の強さがありましょうか。今の殿下は、人間でありながら神の力を手に入れた、まさに伝説に語られる数多の英雄のごとく、半神半人となられたのです」
「アベル!?」
デラクルス嬢が青玉の目をみはり、私も驚愕と共に教皇猊下をふりかえる。
「そんなことができるんですか? 人が神の力を、って…………」
「――――本来は不可能にちかい技です。神を降ろす巫の資質を持ち、修行を修めた者でさえ、神の力の一部をお借りするだけ…………ただ、あの竜はソル聖神官の聖魔力でかなり弱っていましたし、その上で、優れた術者が優れた道具を用いたなら、あるいは…………」
「じゃあ、本当に…………?」
呆然と三人を見守る私達にかまわず、アベルはレオポルド殿下に提案する。
「殿下。魔力の使い方はおわかりですか? 試しに一度、お使いになってはいかがでしょう」
アベルは空を指さす。
「ふむ…………」とかなんとか呟いたレオポルド殿下は、大きな手を天空へ向けた。
その手の平から、先ほど見たばかりの緋と黒の炎が噴き出し、柱のようにそそり立つ。
「っ!!」
私達の間に緊張が走る。
逆にアベルは、ますます満足そうに笑みを深めた。
「お見事にございます。もう魔力を使いこなしておられる」
「魔力…………これが?」
「邪竜ブルガトリオの魔力です。これからは殿下の御力です」
「私の…………」
両の拳をにぎったり開いたりするレオポルド殿下が、ゆっくり笑みを浮かべていく。
「レオ様!!」
明るい声が響いて、デラクルス嬢がレオポルド殿下に抱きつくように問うた。
「レオ様! わたくしがわかりますか!? セレスティナですわ!」
「ああ。むろんだとも、ティナ」
レオポルド殿下が優しくほほ笑み、一気にこれまでの殿下の印象が強くなる。
「貴女はセレスティナ・デラクルス。私の愛する、ただ一人の婚約者。未来の妃。喜んでくれ、ティナ。私は今度こそ、君を守る力を手に入れた。ヒルベルト皇子からも邪竜からも、君を傷つけるすべてのものから、君を守ってみせる――――!!」
「レオ様…………っ!!」
デラクルス嬢は歓喜の涙と共にレオポルド殿下にすがりつき、彼の胸に頬を寄せる。
「嬉しい…………嬉しいですわ、レオ様。やはりわたくしの真の運命の相手は、レオ様だったのですね…………っ」
「ティナ…………!!」
レオポルド殿下とデラクルス嬢はかたくかたく抱き合って、ここだけ見れば、二人の様子はデラクルス嬢がノベーラを出る前と、なんの違いもない。
「ヒルベルト皇子やブルガトリオの妃と言っていたのは、どうなったのよ…………」
私は思わず、ぼそっ、と呟かずにはいられなかったし、うんうん、とルイス卿も首を上下にふっている。教皇猊下とエルネスト侯子も、詳しい経緯は知らないまでも、つい先ほどまで邪竜を『夫』と呼んでいたデラクルス嬢が当たり前のようにレオポルド殿下と抱き合う姿に、驚きと呆れの視線を送っていた。
だが恋人達は、どんどん二人の世界を展開している。
「ノベーラに帰ろう、ティナ。陛下にも大臣達にも、誰にもいっさい反対はさせない。私の妻になるのは君だけ、君こそ私の愛するただ一人の女性だ。私はこの竜の魔力を用いて、君もノベーラもすべて守り抜いてみせる。セルバ侵攻をもくろむイストリアも、この力で倒して、ノベーラをこの大陸の覇者としてみせよう――――!!」
「レオ様…………っ、なんて凛々しく頼もしい。ああ、こんなに輝かしいレオ様は初めて。まさに、伝説に語られる神の血を引く英雄の生まれ変わり。レオ様、レオ様こそは、この世界の新たな英雄、新たな王、いえ皇帝ですわ。千年先の未来にだって、その名が語り継がれましょう」
「そして君が、その英雄の皇帝の皇后だ」
「レオ様…………っ!! 嬉しいですわ、わたくしの真の運命…………っ!!」
恋人達はひし、と抱き合う。
「聞けば聞くほどしらけます」
普段、冷静沈着なルイス卿が、珍しく私情を露わにする。私も、
「まったく同感」
と返した。
「まあ、無事にまとまったのなら、結果としては問題ないのかも」
「無事、でしょうか?」
肩をすくめた私に、ルイス卿が懐疑的に応じる。
私は頭を切り替えた。
先ほど殿下が述べた『セルバ』という単語に、本来の目的の片方を思い出したのだ。
「教皇猊下。デラクルス嬢は、教皇猊下にお任せします。レオポルド殿下も、責任もってデラクルス嬢に罪を償わせる、と約束されたのですから、文句はおっしゃらないでしょう。私達は、もう王宮に向かわないと――――」
日が暮れはじめている。
裾の埃を叩く私に、ルイス卿が慌てて言った。
「お忘れですか、アリシア様。クエント侯への謁見には、レオポルド殿下も同行しなければ。大公陛下から親書を託され、同盟を申し込む役目を仰せつかった使者は、公太子殿下です」
「あ、そうか」
すっかり忘れていた。
「じゃあ、殿下…………」
私はお邪魔虫になる覚悟を決めて、殿下に呼びかける。
と。
デラクルス嬢が私を見ていた。
不気味なくらい、じっと。まばたきもせず。
けれど突然、視線をそらすと、愛する恋人の胸にふたたび顔をうずめる。
「レオ様。愛していますわ、レオ様。わたくしの願い、聞いてくださいますか?」
「むろんだとも、ティナ。なにが望みなんだ?」
デラクルス嬢は殿下の胸から顔をあげ、私を見て、にっこり笑う。
「あの女を殺してくださいませ」
白い指の先を、私にむかって突きつける。
「あの女、アリシア・ソルは悪女です。大勢の人々をたぶらかして、わたくしを散々に苦しめた、希代の魔女ですわ。あの女が生きている限り、わたくしは自分の幸せを信じられないし、安心して生きることができないのです」
「なにを、っ!」
ルイス卿が私を背にかばい、教皇猊下とエルネスト侯子の表情も険しくなる。
レオポルド殿下は少し躊躇した。
「しかし、ティナ」
「お願いです、レオ様。わたくしを救ってくださいませ。あの女がノベーラに帰るなら、わたくしはノベーラに戻りません。あの女が生きている限り、わたくしは幸せにはなれないのです」
「いい加減になさいませ」
教皇猊下の声が飛ぶ。
「この期に及んで、まだ貴女は、ソル聖神官に助けられたことも理解できないのですか? ソル聖神官は瀕死の貴女を癒し、貴女をだまして捨てた邪竜からも、貴女の命を守った。その返礼が、それですか? あなたが聖女と認められないのは、あなた自身のその態度が遠ざけているからだと、いい加減、理解できませんか?」
「聖女なんていりませんわ」
デラクルス嬢は吐き捨てた。
「聖女の称号なんて、もう要りません。《聖印》も、どうでもいい。わたくしの高貴や神聖さを理解できぬ愚かな教皇や世間など、認めてもらいたいとも思いません。わたくしはセレスティナ・デラクルス。この世界の悪役令嬢で、レオ様の妃です。ノベーラはいずれ、レオ様のお力でイストリアをも超える大帝国となります。レオ様はその大帝国の帝王で、わたくしは帝后。世間がなにを言っても、聞こえませんわ。わたくしはレオ様だけがわたくしを愛し、守り、認めてくださるなら、それでいいのです。レオ様はわたくしのもの。そしてわたくしのすべては、レオ様のもの――――…………」
「ティナ…………」
デラクルス嬢が甘く切なく潤んだ瞳で、レオポルド殿下を見上げる。
「お願いです、レオ様。わたくし達が永遠に共に在るために――――わたくしとあの女は、永久に相容れぬ存在なのです」
「私めからもお願いいたします、レオポルド殿下。どうかセレスティナお嬢様の願いをお聞き届けください。デラクルス公爵閣下にもヒルベルト皇子にも、私めにも、それは叶いませんでした。セレスティナお嬢様のために、なにとぞアリシア・ソルを…………!!」
黙って見守っていたアベルも膝をついて頭を垂れる。
「世迷いごとを!! アリシア様、すぐに避難なさってください!!」
ルイス卿が私の背を押し、エルネスト侯子も教皇の手を引いて、中庭から出ようとする。
しかし数秒、遅かった。
「――――致し方ない」
レオポルド殿下は心を決められたようだった。
「許せ、アリシア・ソル。私はティナのためなら、竜にも悪魔にもなれる男なのだ」
「要らないでしょ、そんな覚悟!!」
「せめて、君が私やティナを助けたこと、大公陛下には必ず報告しよう。『アリシア・ソル聖神官は、教皇にアンブロシアと認められたものの、不幸な事故で帰国が叶わなかった』、そう伝える。助けられた礼だ、命は守れないが、名誉だけは守ろう―――――」
「逆ですよ、名誉は最低限でいいから、命を守ってください!!」
レオポルド殿下がこちらへ腕を突き出し、その手の平から、邪竜の緋と黒の炎が放たれる。
私は立ち止まってふりむき、星銀の聖魔力で盾を作った。
が、もう力が尽きかけているのだろう、白銀色の光の盾は、薄いガラスのようにヒビが入っていく。
回廊の石の床や柱、壁が黒く焦げていき、頬も髪も熱風で炙られて肺の中まで熱い。背後からも咳き込む音が聞こえる。
(お願い、もって)
音高く破壊音が響いて、光の盾が真っ二つに割れる。
その割れ目の向こうから、炎が私達に迫る様が、妙にゆっくり、鮮明に視認できた。
緋と黒と灼熱に包まれる。
どおん、と激しい爆発に似た音が響いた気がしたが、はっきりしなかった。
あまりに轟音すぎて、人間の聴覚では聞きとれなかったのかもしれない。
気づくと、覚悟していた熱も炎も襲ってきてはいなかった。むしろ涼しい。
びりびりしていた耳の奥が静まっていき、周囲の音が戻ってくる。
「貴様…………何者だ!?」
レオポルド殿下の鋭い誰何の声が聞こえ、私はそっとまぶたを開いた。
聞き覚えある、むしろずっと聞きたかった声が、頭の上から降ってくる。
「図書館の魔王ビブロス。召喚はされていないが、星の要請に従い推参した。アンブロシアは殺させないよ」
「ビブロス――――!!」
白い髪と漆黒の瞳の魔王が、私の肩を抱いて立っていた。




