11.セレスティナ
さて。方針が決まると、可及的すみやかに対処すべき問題がありました。
(彼と出会わなくては。そのためには…………)
わたくしは数日間、うんうんと記憶をさらうことに集中すると、あくる日、さり気ない風を装って父の執務室を訪ねました。
書記官が慌ててわたくしを執務室から出そうとしますが、一人娘を溺愛している公爵は書類を置いて「おいで」と、わたくしを手招きします。
わたくしは父に駆け寄り、大きな膝の上に乗りました。そして重厚な執務机の上に並べられた何枚もの書類へと身を乗り出します。目当てのものは…………ありました。
「お父さま、わたくしもお仕事を手伝います。大きな数字の計算も習いましたわ。ほら、ここ。計算が間違っています」
わたくしの小さな指がさした箇所を、公爵は「うん?」とのぞき込みます。
「こことここを足したのだから…………あら? これで合っているのですね、ごめんなさい」
しゅん、と気落ちしたふりをします。
けれど父の表情はゆっくりと変化していきました。
父は乳母を呼んでわたくしを預けると、厳しい視線で書記官と書類をめくりはじめます。
(うまくいったかしら…………?)
結果は数日後に出ました。
普段は公都の公爵邸に住む父に代わって、デラクルス公爵領を管理する、父が直々に選んだ文官達。その一人が、相当額を着服していた事実が明らかになったのです。
きっかけは数日前のわたくしの一言でした。
「お嬢様の指摘で、旦那様が計算の不自然さに気づかれたのです。まだ八歳というのに、なんという聡明さ。信じられません」
あの日、居合わせた書記官の口から、事情が一気に公爵邸中に広まります。
「なんてすばらしい。お嬢様は神が遣わした、知恵の天使に違いありません」
しきりに誉めそやす乳母や召使い達に、わたくしは「偶然よ」と笑ってごまかします。
(まさか「前世の漫画で知っていたから」とは言えないもの。…………ここからが肝心だわ)
「お父さま、わたくしも領地に連れて行ってください。久しぶりにお母さまにお会いしたいの」
公爵領へむかう父にわたくしも同行し、数日間の馬車旅を経て、領地の古城に到着します。
父は休息もそこそこに、公爵邸を預かる次期デラクルス公爵である兄や側近達と帳簿の調査にとりかかり、わたくしは母と過ごしました。デラクルス公爵夫人は生来の病弱ゆえ、風光明媚な公爵家の城で療養生活を送っているのです。
数日後。マルケスという部下の不正が発覚しました。
父は激怒しました。この男はたんに優秀なだけでなく、父に抜擢されたおかげで高給取りとなり、街に家を建てて家庭を持つことができたのですから当然です。
マルケスの家と財産は没収され、家族ともども投獄、という決定が下されました。
城の中庭に縄をかけられたマルケス一家が引きたてられ、公爵家の私兵がとり囲みます。
「お待ちください、お父さま。子供まで牢獄に入れるのは、かわいそうですわ」
わたくしは父に駆け寄りました。
「城の中にいなさい、セレス。子供が見るものではない」
「でも、お父さま。悪いことをしたのは父親でしょう。罰は父親にだけ与えるべきですわ」
「いや。長男は十八歳、立派な成人だ。父親が給金以上に浪費している事実にも気づいていたというし、無罪とはいえない。次男は十三歳だが、許嫁はいる。まったくの子供扱いはできん」
父の言い分にわたくしは頭を抱えました。前世の日本では十三歳はまぎれもない子供ですが、ノベーラでは異なるのです。
「でも次男は妾の子で、ずっと妾の家で育ったと聞きました。それなのに父親と暮らしていた長男と同じ扱いをするのは、おかしいです。せめて次男は罰をかるくしてあげてください」
わたくしは黒髪の少年を指さしました。
「次男は、わたくしの執事にしてください。父親の罪は、我が家に損失を与えたこと。それでは、その損失を、我が家のために働くことで埋め合わせさせるのです」
父は目を丸くしました。ついで、ため息をつきます。
「そんなに見過ごせないのか…………優しいのだな、セレスは」
よしよし、と大きな手がわたくしの頭をなでます。
「未来のノベーラ大公妃の温情だ。主犯のマルケスは投獄。しかし家族はセレスティナに免じて罪を減じ、妻と嫡子は公爵領から永久追放。非嫡子は公爵邸で下男として働くものとする」
縄をかけられていた女と青年と二人の娘が安堵に泣き出し、父親も無言で涙を流します。
ただ一人、次男だけが冷静でした。
その夜。召使いも下がって、夜警の兵士以外、誰もが寝ついた頃。
二階にあるわたくしの部屋のバルコニーに、やすやすと登って来た者がおりました。
例の黒髪の少年、マルケスの次男アベルです。
「突然の無礼、お許しください。昼間はありがとうございました」
アベルは礼儀正しく頭をさげます。
「質問をお許しください。何故、私をお助けになったのですか?」
わたくしは愛らしく小首をかしげて答えます。
「無関係な者まで処罰されるのは、おかしいと思ったからよ。それだけだわ」
「ですが、そのために公爵閣下に逆らうとは」
「おかしいかしら。お父さまは、あなたを助けてくださったわ。不服なの?」
「…………」
少年が黙り込みます。まさか、本当に減刑が不服だったのでしょうか。
(そんなはずないわ。だって漫画では…………)
戸惑うわたくしの前で、少年はしばらく黙考すると、すっと膝を折りました。
「私は貴女に命を助けていただきました。お礼に貴女の提案通り、貴女のために働きます。貴女に忠誠を誓いましょう、セレスティナ・デラクルスお嬢様」
少年は「誓いの証にこちらを」と、三つの小瓶を差し出してきました。
「母が調合した惚れ薬です。母は本物の魔術師、魔女でした。マルケス氏も、それが目的で母と懇意になったのです。家に公爵家の私兵が乗り込んで来た時も、母だけは逃げおおせました。これは、その母が置いて行った物です」
わたくしは目をみはって、少年の両手に乗る、なんの変哲もない小瓶を見つめます。
「瓶は三本あります。一本を私に飲ませてください。そうすれば私はお嬢様の虜。一生、お嬢様を裏切ることはありません。ご安心できるはずです」
「そんなこと…………」
わたくしは戸惑いました。
助けた彼に惚れ薬を飲ませる。これは漫画に沿った展開なのでしょうか?
たしかに漫画では「命を助けられたお礼に、生涯仕えます」と誓うキャラクターですが…………。
わたくしはアベルの申し出に従うことにしました。
『本物の魔女が作った、本物の惚れ薬』という触れ込みに興味がわいたせいもありますし、彼がわたくしに忠誠を誓うのは漫画どおりの展開ですから、実害はありません。
むしろ、そうすべきなのでしょう。
わたくしは小瓶を一本とると栓を抜き、少年に飲ませました。
少年のまだ細い体がゆれましたが、すぐに体勢を整え、ふたたびわたくしを見つめてきます。
「本当に、効いているのかしら?」
「ええ、間違いなく」
アベルは断言し、わたくしをまっすぐに見上げてきます。
恭しく膝をついて臣下の礼をとる少年に、わたくしは試してみたくなりました。
「それでは、アベル。わたくしが前世を覚えているといったら、あなたは信じるかしら?」
「前世。古い信仰の教義のことでしょうか? 死んだ人間の魂は天に昇らず、しばし地上をさまよい、やがてまったく別の肉体に宿って、新しい人間として生まれ変わるという」
「そう。その生まれ変わりよ。わたくしはデラクルス家に誕生する以前は、別の世界の名門の娘として生きていたの。その人生が終わったあと、こちらの世界に来て、セレスティナ・デラクルスとして生まれ変わったの。そしてこの世界は、わたくしがその別の世界で読んでいた漫画…………ええと、物語の中の世界なのよ」
「さようでございますか」
「…………あなたは驚かないの? わたくしの正気を疑ってもいいのよ? 子供の戯言と笑ってもかまわないわ」
「疑いませんし、笑いもしません。唯一の主人の言葉を、どうして嘲弄できましょう。セレスティナお嬢様は別の世界から生まれ変わって来られた方で、この世界は、セレスティナお嬢様が前世で読んだ物語の中の世界。お嬢様がおっしゃるなら、そうなのでしょう」
至極当然、というその口ぶりに、わたくしの中に急速に彼への信頼が芽生えます。
少年が、前世や別の世界の存在を信じたか否かは問題ではありません。
肝心なのは、彼がわたくしの話を笑わなかったこと、疑わなかったこと、仮に呆れていたとしても、それを表面に出さなかったこと。
この少年はこの年齢で、すでに自分を抑えること、主人の言葉に心から従うことをわきまえているのです。なんて優れた部下でしょう。平等を尊ぶ日本では、このような人材は、まず見つかりません。
わたくしは嬉しくなりました。
「あなたが興味あるなら、今度もっとくわしく前世の話を聞かせてあげるわ。前世のことはお父さまにも公太子殿下にも、誰にも話したことがないの。わたくし達だけの秘密よ」
「光栄です。そのような重大な秘密を、私だけにお話しくださったとは」
アベルはわたくしの手をとりました。
「私の体、私の命、私の忠誠のすべてを、貴女一人だけに捧げます。麗しき公爵令嬢、可憐なるセレスティナ。私は生涯、貴女だけの下僕です」
アベルはわたくしの手に、かすかに自分の額をあてました。
日本では経験することのなかった騎士のような仕草に、わたくしの胸は一瞬ときめきます。
そうして、わたくしは手に入れました。
アベル・マルケス。セレスティナの専属執事。
彼はセレスティナに命を救われて以降、セレスティナが公太子に婚約破棄されようと、ヒロインに不当に貶められようと、公太子から高額の報酬と引き換えに寝返りを持ちかけられようと、けして主人を裏切らず、最後の最後までセレスティナを守り抜いた絶対の味方でした。
(ようやく一つ安心できたわ)
漫画のとおりなら、今後は彼の力を必要とする場面が山ほど待っています。
頼もしい味方を得て、わたくしは大いに心がかるくなりました。
その後、アベルはわたくし達と共に公都のデラクルス公爵邸に戻りました。
わたくしは彼がわたくし付きになるよう、父にお願いしましたが、
「未婚の令嬢の側仕えに若い男は不要だ。人手が必要な時は、女の召使いを呼びなさい」
と、とりあっていただけず、アベルはわたくしと接点のない下男にされてしまいます。
わたくしは落胆しました。
が、さすがは悪役令嬢の信頼する優秀な部下。
アベルはまたたく間に頭角を現して、お父さまも彼の能力と忠誠心を認めざるをえなくなり、気づけば二年と経たずに彼は、わたくし専属の侍従として邸内で認められていました。




