鳴海城主
何も聞こえない。視界がガタガタ揺れてる。引きずられてるのか。
体を揺すられている。何で揺するんだよ。
ほっぺた触るな。ひっぱたくなっ、痛…くない。
何で痛くないんだ。
誰かが俺の顔を覗き込んでる。叫んでるっぽいな。ワーン、ワーンとしか聞こえないぞ。
てか、お前誰だ。…誰だっけ。
…。 ……。 ……のっ
……どのっ …ょうえどのっ
左兵衛どのっ
「うわあっ」
ここどこだ。何で戦が。
俺は……あ、そうか。いきなり衝撃が来て目の前が真っ白に。何してたんだっけ。
「あ、鉄砲っ」
「下がらせてござる。今は今は長柄が根競べ中じゃ。大丈夫でござるか」
この人は……ああ、岡田どのか。橋介、何で泣いてる。
「俺はなにを」
「撃たれたんじゃ。馬の上から後ろにどすんと落ちた。死んだと思うたわ」
「味方は」
「お主が撃たれたときは皆おろおろしてのう。怒った小平太と作兵衛が、騎馬を二十ほど連れて鳴海勢に突っ込んで行きよった」
「え」
「おかげで鉄砲もお主も下げられたし、鳴海の先手は総崩れじゃ。ま、散々お主に鉄砲撃ち込まれてぼろぼろだったからの」
「なるほど」
「が、相手の中備えが頑張っとってのう。まあ引き付けねばならぬゆえ、こちらの先手を三町ほど下げた。いかんかったか」
「いえ、見事な差引でござる。このままじわじわと引き付けておれば、我等の勝ちじゃ」
「見事は褒めすぎじゃ。…というて左兵衛どの、前立が片方折れとるぞ。そこに鉄砲玉が当たったんか」
む。
…頭か。眉間を狙われたんかよ。くそったれっ。
「追うか。引くか」
岡部親綱は悩んでいる。敵の騎馬に打ち掛かられて、先手は崩れた。が大半は本陣に合流したし、中備えが踏ん張って織田勢を押し返した。
今退却すれば、敵は押し返してくる。足軽たちをまとめられる者が少ない今の状況では、兵は四散するだろう。
退却しなかったら…このままじりじり押し込んでいけば、敵は元々小勢、耐えかねて逃げ出す、…のではないか。
だが、今までのしつこい刈田働きの後の伏兵、その事が親綱をさらに疑心暗鬼にさせていた。
耐えかねて逃げる、と見せかけて、また伏兵を置いているのではないか。刈田働きもそうだったではないか。
…おのれ。ちと様子見じゃ。
鳴海城からは、扇川の中洲がよく見える。
「なんじゃ、ありゃ、中島に砦を造りよる」
「どうする」
「どうする、って、後ろを塞がれたら国に帰れんようになるぞ」
「帰れんようになったら、どうなる」
「この城に籠もらされて、死ぬまで戦わされるわい」
「そんなの嫌じゃっ。……皆どうする」
「どうする、とは」
「そのう……海があるじゃろ。舟も繋いである」
「海。…舟、もあるのう」
「…岡部さまには」
「使いに行ったら、そのまま留め置かれるわい、城に籠もるのは嫌じゃ」
「…言わんでもええか」
「…岡部さまはえらいお人じゃ。何とかするじゃろ。……ほれ、戦の邪魔したら悪かろうし」
「そ、そうじゃな、皆はどうする」
「置いていく気かっ。…一緒に行くわい」
「…まこと、逃げるとはのう。臆病者め」
八郎が、落ちている汁椀を蹴飛ばす。呆れるのを通り越して、怒りが沸いてきたらしい。
「あの中州、中島に打ちかかってくるかと思うたが。当てが外れたわ。まあ、この方が楽でいい」
「ほんにのう。死ぬかもしれんと思うておったのに」
「わはははははは。八郎よう、この信正は策士じゃぞ。そう容易く死なせんわい」
「策士じゃと。誰が」
「だからそれがしが、じゃ。殿に策を…」
「嘘はもうその辺でやめとったがいいぞ」
「……。皆、幟を立てい。今川によう見えるよう、一の曲輪の天辺にな。しかし、可哀想じゃの」
「何が」
「海を見てみい。小舟が皆囲まれて乗り着けられとる。ありゃあ、逃げた連中じゃろ。お、安宅船も居るわい。凄いのう。九鬼の連中は」
「まあ、城抜け、抜け逃げは捕まったら打ち首じゃ。海でも陸でも同じような物か」
「お、岡部さま、城が、織田の旗が」
「城が何じゃ……な、何ゆえ織田の旗が立っておる」
親綱の中で何かが音も無く崩れ落ちていく。
鳴海勢の動きが止まった。皆立ち尽くして、膝から崩れ落ちて鳴海城を見ていた。
「…岡田どの。敵味方に拘わらず、城が落ちたと触れさせなされ。我等の勝ちにござる」
逃げまどう足軽。倒れて嘶く馬。倒れている者は容赦なく逃げる者に踏み砕かれ、逃げずに織田方に斬り込もうとする者も、逃げる群れに飲まれて消える。
織田方は歓声で溢れていた。
「逃げるなっ。踏み留まれっ」
親綱はそう叫んだが、その声は空しくかき消されていく。
「殿」
馬廻りが側に跪く。
「何じゃ」
「殿も落ち延びて下され」
「それは無理じゃ。我等の方が兵は多勢居った、が、どれほど挑まれても戦うてはならぬ、と雪斎禅師に云われておったのよ。ワシはそれを破った。破ったあげくこの有様じゃ。戻れぬ」
思わず天を仰ぐ。
「…岡部さま、敵が」
敵が二人、下馬して一礼する。
…何の用だ。
「それがしは服部小平太一忠、これは乾作兵衛和宣…。岡部丹波守どのにござりまするか」
「そうだ」
「勝ち負けは兵家の常、と申しまする。我等に降っては下さらぬか。降って頂けるなら丹波守どのだけでなく、降る者の命は取りませぬ」
「勝ち鬨を上げよ」
「えいおうっ、えいおうっ、えいおおうっ」
鳴海城ではどぶろく祭りが開催中だ。
皆とにかく物凄い。まるで天下を取ったような大騒ぎだ。
俺も最初は飲んでいたのだけれど、前立が折れただけで助かった俺の頭は、額全体が腫れ上がっていて、痛くて痛くてとてもじゃないけどもう飲めない。…いてててて。
俺は武者溜まりの縁側に腰掛けた。水で絞った手拭いが額にとても優しい。 …ぁああ~♪
「殿、まことに無事でようござりました」
長谷川橋介が隣にやってくる。
「馬廻りと自ら任じておきながら、殿が敵に撃たれる始末。死なずに済んだゆえよかったようなものの」
肩が震えている。祝いの席で、泣くやつあるか。
「もういい橋介。俺が撃たれたのはお前のせいじゃない。もう忘れろ」
「殿は…優しゅうござるなあ」
おい、泣き止めよ、もう。
「左兵衛どの」
…お。岡田どの。
「お疲れ様でござる、岡田どの」
「いやいや、ワシは何も」
ガハハハハ、と顔をくしゃくしゃにしている。
「岡田どのが居なければ、我等は何も出来なかった。岡田どのだけでなく、星崎衆の皆にもすごく感謝しております」
「左兵衛どのの策が無ければ、ワシ等はただの国ざかいの見張りにござる。こんな言い方はまずかろうが、一緒に居って楽しゅうござりましたわい、どぶろく殿」
「…いかほどの兵が」
「ん…二百五十のうち、百は下りますまい」
岡田どのは遠い目をして、微笑とも苦笑ともつかぬ表情をしている。
「…申し訳無い」
俺は岡田どのに改めて向き直って、頭を下げた。…こういう時、何を言えばいいんだろう。
「それは違いまするぞ、大和どの」
岡田どのはとても厳しい顔をした。
「戦じゃ。大勢人は死ぬ。誰とて死にとうは無い。が、逃げぬ。分かりまするか」
俺は黙って聴いていた。岡田どのが続ける。
「意地がある。意地が挫けそうなら功名心がそれを助ける。意地も功名心も挫けそうなら皆で助ける。
家も、嫁も子も、皆で助け合うのじゃ。それがワシを支えてくれておる。
家来の日々の暮らし向きも、出世功名も全てワシに乗っかっておる。生きるも死ぬもそれを承知でワシに賭けとるのじゃ。頼られるお方に成りなされ」
「ご教授、有難く」
「ご教授などと、そんな大層なものではござらん。申し訳ない、などと家来に言うてはならん、と言いたかっただけにござるよ、ガハハハハハ」
那古野城の信長の居室。信長はゴロンと横になっている。
「大殿。鳴海が落ちましてござりまする」
「…おう、五郎右衛門か。で、誰が落とした」
「大和左兵衛にござりまする」
「…まことか。あ奴がのう。五郎右衛門、お前は見張りとしてあ奴を星崎に行かせたのであろ」
「左様にござりまする。調略と云うておけば、目を離す事は無かろうと思うて…。まさか、まことに落とすとは思いませなんだ」
「嘘から出たまこと、か。カハハハハ」
信長は大笑いした。
「今川は、動くと思われまするか」
平手五郎右衛門は信長に尋ねてみた。
「…どうかのう。義元、というより雪斎坊主は、石橋を叩いて、という奴の様じゃからのう。鳴海には岡部何とかという奴が入れ置かれておった。譜代を国境に入れるということは、何をされても鳴海は渡さぬという事よ。兄弟分家は頼りにならぬ。この尾張がそうであろうが」
「それがしには分かりませぬ」
と、五郎右衛門は苦い顔をした。
「カハハハ、分かっておろうが。…まあいいわい。で、続きだが」
「はい」
「我等には、今のところ三河に攻める余力は無い。それは今川も分かって居る筈。ということは、鳴海が落ちるとは思うてもおらんかった、ということよ」
「…が、落ちた」
「うむ。思うておらんということはそれに対する策はまだ無い、という事よ。我等が攻めぬのも知っておるし、石橋を叩いた挙句にいくら大丈夫と思うても、雪斎坊主は動かぬであろう。ますます三河の固めに入るだろうよ」
「なるほど。若殿も考えるようになりましたなあ。それがしの親父どのが見たら泣いて喜びましょう」
「ぬかせっ」
「左兵衛に鳴海を与える。福富の一千貫文は返してもらうが、新しい所領は鳴海一帯、五千貫文。悪い話ではあるまいが」




