最終話・第十八話
完全に日が落ち、萩尾山は辺り一面が闇夜に塗りつぶされた。さっき通り過ぎた小雨のなごりが、テントの甘い縫い目から執拗に滴り落ちて、鳩子の首筋を濡らす。夏の夜らしく、昼間に溜まった熱が地面から這い上がってきて、肌にしつこくまとわりつく。夏の夜らしい、窒息しそうな蒸し暑さだった。
「重田は毎年、父親と姉の命日にここに来ている。『掃式』の調査資料に間違いはない」
狭いテントの中で、常夜先輩は窮屈そうに、ポットにしたためたアイスコーヒーを紙コップに注いだ。運動会で保護者席に置かれているような、存在感たっぷりの無骨で大きなポットだった。
「今年も来るとは限らないでしょ?」
私が意地悪な声色で常夜先輩に問うと、常夜先輩は静かに口元を歪めた。
「来るわよ、重田は同じパターンで行動したがる脳の持ち主だもの」
重田則定、彼はこの地で母とその不倫相手・都世原を自らの手で殺害し、鬱蒼とした土の下に埋めた。父親と姉の死は、この二人の保険金目当てで仕組んだ殺人であり、正当な復讐だと信じている。
だが、重田は何も知らない。いや、自分の都合の良い現実を守りたいがため、何も知ろうとしないのだ。
重田の父親も姉も、全く別の人間によってひき逃げされたのだ。私がバイトをしていたコンビニに二度強盗に入った男、瀬野純也。二度目の強盗で逮捕された際、過去のひき逃げ事件について自白した。その被害者こそが、重田の父親だった。
車ではなく、原付バイクでの不運な事故だった。市会議員として顔が広い瀬野の父・正勝は息子の事件を裏でもみ消していた。その罪の重さに瀬野は精神を病みみ、次第に狂っていったという。
八月八日になると事故現場に現れては、一人虚空に向かって謝罪を繰り返していたという。二度目のコンビニ強盗事件を起こしたのも「今度こそしっかりと捕まって罪を償いたい」という歪んだ信念からで、あのとき果物ナイフで私を斬り付けたのも、確実に刑務所に入りたかったからだと、先日真田さんの口から聞かされた。父・正勝の力の及ばないところにまで行かないと、自分の犯した罪さえも償えない。我が子可愛さではなく、市議会議員としての立場だけを考えた父親の身勝手な保身が、結果として息子の精神をここまで狂わせていったのだ。
重田の姉・弓江さんのひき逃げ犯は、あの廻准一だった。捜査一課の追加調査で明らかになったと真田さんから聞かされた。初動捜査の不備で、ひき逃げ犯・廻を逃していたのだ。年間で七千件弱起きるひき逃げ事件のうち、逮捕にまで至るのはおよそ五千件程度。約七十%の検挙率。裏を返せば、残りの三十%は廻のように逃げおおせているということだ。
廻がひき逃げ犯だと判明したのは、私が「姉・真理が誘拐事件などに巻き込まれていないか?」と何度も左上警察署に足を運んだことがきっかけだったそうだ。時を同じくして、廻の妻からも要請があり廻の身辺調査が開始された。そこで見つかったのが、個人事業主としては不自然極まりない相当額の脱税。捜査二課も本格的に動き出したことで、空疎な探偵事業の全貌が明らかになった。廻は依頼からの調査で入手したわずかな事実に、もっともらしい『ストーリー』をでっちあげて依頼人に提供する。聞けば、廻の前職は週刊誌の記者だったそうだ。
重田の姉・弓江さんは廻から手に入れた「母の不倫と父の保険金殺人のストーリー」を母親の幸恵に突きつけるつもりだったのだろう。不倫をうかがわせる写真は本物だとしても、それが本当に不倫かどうかは証明できない。だから、廻は『重田の父を引き殺して保険金を手に入れた』という、それっぽいストーリーを捏造して報告書に仕立て上げたのだろう。だが、ここにある事実というのは、重田の母・幸恵は「都世原と親しくしていた」「「事故死した夫の保険金を手に入れた」、ただそれだけだった。
廻の不正はおそらく私の姉、真理も知っていただろう。いや、弓江さんのひき逃げについてさえも、本当は気づいていたのだと思う。真理は情の人というか、あまりに義理堅いというか、時に法律や倫理、モラルなんかを感情で容易に突破してしまう人なのだ。
ここまで調査を終えながらも、捜査一課・二課ともに瀬野に関しては立件し、廻に関しては被疑者死亡を盾にして事件化を見送った上からの命令でもあったと、真田さんはひどく悔しそうに私に説明してくれた。。
ただの元カノの妹にどうしてここまで話してくれるのか、と思う。けれど、真田さんがこの事件に深く執着したのは、「本当に真理は重田を愛していたのか?」と言うこと、人から見れば嫉妬にも似た感情だと、自ら吐露した。
人の心はわからない。まして数年前に付き合っていただけの相手のことなどなおさらだ。
重田の姉・弓江さんを廻が意図してひき逃げして殺害したことに、真理は激しい負い目を感じていたのではないか。
ひき逃げは廻の犯行だと告発したかったが、間接的に脱税や不正な調査に加担しているために、言い出せない。だからせめて自分にできることはと考えた真理は、重田の要求に応えようとしていたのではないかと。その要求の正体は何であったにせよ、歪んだ時間とともに、いつしか愛に似たものへと変わっていったのかもしれない。真理はひどく優しい人だったから……。
どれくらい時間が経ったのだろう、私はいつのまにか浅い居眠りに落ちていた。首筋にテントから滴り落ちた雨粒が、私を強制的に現実に引き戻した。
「座ったまま眠れるなんて、器用ね」
鳩子先輩がからかうように囁くと、常夜先輩が温かい湯の入ったコップを差し出してくれた。この人のバックの中は、一体どれだけのポットが詰まっているのだろう。
夜はしんしんと更けていくが、まだ二十一時。重田が現れるとするなら、日が変わるまでのあと三時間。さっきまでシャツの擦れた音くらいしか聞こえなかった静寂さの中に、突如として明らかに地面を踏みしめる乱れた音が近づいてきた。
暗視スコープで鳩子先輩が縦にカーブした獣道の様子をじっと見る。
親指を一本立てる合図は重田。人差し指と中指のⅤサインは高篠藤巳とあらかじめ決めていた。
鳩子先輩は親指を立てた。重田だ。だが、その指は人差し指と中指も加えて、妙な三本指の形を作った。
「重田が藤巳くんを人質に取ってるね」
鳩子先輩の声も態度も、どこまでも冷静だ。高篠藤巳は『死ぬことがない存在』である以上、実質的には何の、誰の人質にもなり得ない。その絶対的な安心感からか、重田程度の男ならいつでも制圧できるという自信からか、この鳩子先輩も常夜先輩も不気味なほど落ち着き払っていた。
重田は遺体が埋まっている切り株の前で足を止めた。高篠藤巳の背中に、じりじりとナイフを当てているようだった。
鳩子先輩と常夜先輩は静かにテントを出て、姿勢を低く斜面を滑り降りた。あっという間に、重田たちと三メートルほどの距離を取って対峙する。
「鳩子!」
高篠藤巳は、暗闇の中での意外な出会いに、声を荒げた。ここに来てはいけない! と叫びたいのだろう。だが、ピンチなのは高篠自身なのに、私も両先輩に感化されたのか、随分と冷静だった。
「藤巳くん、どうしてここに?」
「美紀ちゃんを、何とかして生き返らせられないかと思って。でも、獣道の途中で、重田に捕まったってわけ」
重田はかかとで、カツカツと美紀が埋まっていると思われる穴を穿った。
「みなさん、状況わかっています? 今日こそ、高篠藤巳を殺します。それで、僕の粛清はチャラだ!いいよな!!」
重田の甲高い声が、夜の斜面に反射して響いて聞こえる。鼓膜が嫌な振動を重ねる。小雨が止んだせいか、野鳥が仲間に注意喚起するような細切れのさえずりだけが不快で邪魔だった。
「藤巳くん、須藤美紀は死んでないよ」
鳩子先輩は私に懐中電灯を向けた。暗闇に目が慣れてきていた頃だった。
私の顔を視界に捉えて、言葉を失い絶句したのは重田だった。それとは対照的に歓喜の声をあげたのは、高篠藤巳だった。
「もう、自首したら?」
投げやりに鳩子先輩が諭す。
「五人殺してるんだ、死刑は間違いないだろ!」
重田は重田なりの正論をぶつける。今の彼にとって背負う罪にとって、自首には何の意味もない。自首といった後悔や反省といった陳腐で生ぬるい茶番が、重田が背負うべき罪を、ほとんど削り取らないのだから。
「でも、高篠藤巳に危険が及べば、それだけで暗殺対象になるよ」
そもそも高篠藤巳に掃式から正規の暗殺案件などなかったのだから。真田さんによる合法的な復讐だったとしても、現時点でもなお、掃式から重田に対する暗殺依頼は発令されていない。こうした前提も、そもそも掃式の存在目的が『高篠藤巳保護』ということすら重田は知らない。だから、重田にとって、鳩子先輩の言葉は意味をなさず、理解不能な雑音でしかなかった。
「すべて知りたいのなら、自首してください。知りたくないのなら、この場にいる人間を全て殺せばいいんですよ。サイコパス君」
足音もなく、懐中電灯で足もとを灯しながら、真田さんが獣道を上がってきた。スーツに革靴といういつもの出で立ちだ。
「あ、そうか」
鳩子先輩が常夜先輩に小さく耳打ちした。何を囁き交わしたかは、私にはわからない。
重田は高篠藤巳の背中に当てていたダガーナイフを、そのまま深々と押し込んだ。刃は容赦なく胃の奥にまで達した。引き抜いて、すぐさま背後から首を抑えつけ。何度も何度も刃を突き立てた。
「首を落とせば、高篠だって死ぬさ!」
そんなコンパクトなダガーナイフで人間の首を落とすのは流石に無理だろう、素人の私にも明らかだった。ただ、高篠藤巳保護という役割がありながらも真田さんは動こうとせず、両先輩に至っては暗闇のなかで、ニヤニヤと不敵な笑みを浮かべたままだった。
「ぐぅうう」
高篠藤巳は苦悶の表情のまま、うつ伏せに倒れた。重田はそのまま背中から馬乗りになって、首を斬り落とそうと、必死にダガーナイフを利き手側に引き絞る。
「死んじゃいますよ、高篠さん」
私の言葉がよほど必死の懇願に聞こえたのだろうか、鳩子先輩は
「これでいいのよ」と言い放った。
高篠藤巳の背中から胃にまで達していたはずの傷口は、恐るべき速度で塞がりつつあった。他の無数の刺し傷も同様だ。首に刻まれた無残な斬り痕ですら、裂けめから肉が蠢糸を引いてくっ付き、すぐさま回復していく。。二人との距離は一メートルほどまでに近づいていたが、重田は狂気に囚われ、高篠藤巳の首を落すことだけに没頭し、私たちに気づかなかったようだ。
斬られ、刺され、回復するその常軌を逸した過程でで、大量の鮮血が大地へと溢れ流れる。切り株南側・六つ目の穴がある場所、そこは姉の真理が埋まっているはずだ。
「大丈夫よ、あそこ埋まってるの真理さんじゃないから」
鳩子先輩はまだ静観している。
切り株南側のもともと空席の穴。重田はそこに須藤美紀が埋まっていると誤認していた。だが、私は今ここに生きている。それなら、あそこには誰も埋まっていないはずだった。高篠藤巳は私を蘇生させるために、甘んじて出血する道を選んだのだろう。だが、私が生きていると分かって斬られっぱなしというのも、高篠藤巳の真意がわからない。
「藤巳くんには教えたわよ、新しい埋葬配置のこと」
鳩子先輩に出し抜かれたのは私だけだった。
「だって、このミッションの目的は、重田則定を非合法で暗殺することでしょ」
溢れ出る高篠藤巳の『再生の血』がある一人の遺骨を目がけて泥の中を縫うように侵入し、にしみ込んでいく。
「真理さんと思わせておいて、あの場所廻と入れ替えておいたんだよね。真田さんのアイデアだけど」
真田さんは重田を取り押さえる素振りを見せることもなく、かといって高篠藤巳を護ろうともせず、私たちの側にぐるっと回って来た。
「俺はアイデアマンだからな」
真田さんがタバコに火をつけたまさにその瞬間だった。高篠藤巳を必死で切り刻んでいた重田の手が止まった。
地面から突き出た、泥まみれの手に掴まれたのだ。ゴツゴツとしている手。重田はその手に、腕をがっちりと掴まれた。あまりに強い握力なのか、Tシャツ越しに重田の肩に、泥だらけの爪が食い込んでいるようだった。
あれが廻の肉体の一部なのかは分からない。分からないが、泥底の墓穴から伸びた異形の手は、重田の身体ごと容易に土中に引きずり込んだ。奇妙なことに、高篠藤巳の身体だけを、丁寧により分け避けてのことだった。
重田の、この世の終わりとも思えるほどの絶叫が夜の萩尾山に響き渡る。雨と血の混ざった赤黒い水たまりが、渦を巻きながら重田の沈んだ底へと吸い込まれていった。
泥だらけで立ち上がった高篠藤巳は、顔を血だらけのハンカチで拭う。
「助けてくださいよ」と鳩子先輩と常夜先輩に不満をぶつけるが、
「いつものことでしょ」と一蹴された。そして、鳩子先輩は、まだ傷が癒えきっていない高篠藤巳を強く引き寄せると、息が詰まるほどの長い、激しいキスを交わした。不思議と見ていられた。常夜先輩も平気そうだった。真田さんは、重田を合法・非合法の枠を超え、自滅という形でこの世から抹殺できたことに、満足気だった。
キスを終えた鳩子先輩は
「混じりっけのある体液は、完全回復には至らないものよね。藤巳くん?」
「どうでしょ。鳩子の口内炎がいつまでも治らないのを見ると、僕の体液を高い純度で取り込まないといけないんでしょうね。でも、まぁいい加減病院に行きなよ」
私がキョトンと立ち尽くしていると
「ほら、廻が蘇生する気配もないでしょ」と常夜先輩が諭すように教えてくれた。
「重田は引きずり込まれた地面のなかで、不完全な再生を繰り返す廻に襲われ続けるんだろうね。たとえ重田が絶命しても、しばらくは彼も不完全に再生するでしょうね。混じりっけあるけど、相当量の藤巳くんの血が流れ込んだから」
鳩子先輩はそう言うと、足元のふらつく高篠藤巳の肩をしっかりと支えた。
「自分の目で見えないものも、信じる必要がありますね」
高篠藤巳が常夜先輩に語り掛けた。
「そうですね。見えないものの方に、真実がたくさんありそうです」
「藤巳くんの見えないものって?」
鳩子先輩が藤巳くんの顔を覗き込む。
「わかりません。でも、探したいと思う」
高篠藤巳はそう言うと、脱力し意識を失った。
現実には誰も手を下さず、汚さず、重田の見えない因縁の泥濘に自ら引きずり落とさせる。これこそが、真田さんや鳩子先輩・常夜先輩が緻密に組み立てた非合法な『暗殺』だったのだろう。
姉を無理に生き返らせるというのは、あの優しすぎる姉にとっては不幸なことなのだとも思う。このまま静かに眠れるように、真田さんは廻を除く、四人の被害者たちの遺骨をすべて掘り起こさせ、掃式が管理する別の墓地へと正式に改葬してくれた。
墓地は京都の郊外、北川白を越えた先に広がる平原にあった。まるでアメリカの映画に出てくる広大な墓地のように、どこまでも美しい芝生の緑が続いた。墓石と墓石の間隔がゆったりと広く取られた穏やかな場所だった。
「こういった形で、真理さんを埋葬してすみません」
真田さんは押し殺した声を微かに震えわせて私に詫びた。表沙汰にできるはずもない凄惨な事件と、その裏で行われた復讐だ。私も応報の片棒を担いでいる。私に彼を責める資格は何一つないし、むしろこの手厚い計らいに、心から感謝をしなければならなかった。
鳩子先輩と掃式との間に結ばれていた『高篠藤巳預かり契約』はこの事件の終わりとともに、終了した。高篠藤巳の身柄は再び掃式直轄へと戻りあの「身代わり殺され屋」は完全に廃業となった。。
高篠藤巳は医学部受験のために予備校に通い始めている。自分の身体の謎を解明し、自分の手で世の中の役に立ちたいと語っていた。
鳩子先輩と常夜先輩は、掃式から新たに業務委託を受ける形で、高篠藤巳の護衛担当に任命された。表立っての殺し屋稼業は、これですべておしまいだそうだ。
真田さんの胸ポケットがかすかに震えた。スマートフォンを取り出し、耳に当てると真田さんは頷いてばかりいた。
「わかりました、今から向かいます」
そう短く言って、通話を切った。
「では、また」と私に告げ、墓地のコンクリートスロープをゆっくりと下って行った。そのどこか孤独を背負った背中を、私は見えなくなるまでじっと目に焼き付ける。
姉が真田さんを好きになった理由がわかった気がした。目には見えないけれど。
真田さんとは反対に、延々と続く芝生を歩いて行く。墓地の傍らに梅が咲き誇っている。きれい、心から出た言葉だった。
ふわりと運ばれてきた淡い甘さが、なかなか訪れなかった春の始まりを告げていた。




