14.「可哀想な、人」
目が覚めて、室内が明るいことに驚いた。夕刻から眠りについて、明け方まで眠っていたのかと思ったのだ。おそらく、ネルが載せてくれたのだろう、額の上の濡れた手ぬぐいをそばにある引き出しの上に置いて、ロシェルはベッドから抜け出した。
明るいが、静まり返っていてまだ夜の気配がする。隣のベッドを見れば、ネルはぐっすりと寝入っているようだった。
まだ熱は下がりきっていないだろうが、寝る前よりは体調も随分良くなっている気がした。気だるさが解消され、頭痛も幾分落ち着いている。
灯など何もつけていないのに明るく、室内を歩くことに何も困らなかった。外に光源でもあるのかと窓辺を覗き込めば、妙に部屋が明るかった理由が知れる。
夜空で輝く大きな満月の光を、雪が反射して、それが深夜とは思えないほど周囲を明るくしていたのだ。夕刻とはまた違う、満月の光で満ちた外の世界は青く、静謐な空気で満ちている。
ああ綺麗だな、と素直に思った。そう思えて安心した。きっと彼女――――冬美ならばそんな風に考えることもなかったのだろう。
彼女はロシェルの前世だったのかもしれないが、やはりそれだけの別の人間なのだ。それを改めて理解した。
ロシェルが思い出した彼女の人生は、ひどくつまらないものだった。同時に憐れだとも思う。
ロシェルは家族によく我儘を言った。ちょっとしたことですぐに甘えて、それを許される環境で育った。我儘が過ぎれば当然叱られるが、それさえも仕方がないなあと受け入れられていた。
それを、ロシェルはよくよく理解している。だからこそ安心して家族に甘えることができるのだ。
そんなロシェルにとって当たり前のことが終ぞ叶わなかった冬美を、ロシェルは憐れだと思った。彼女は『いい子』でなければ、受け入れられなかった。実際彼女の家族がどう思っていたのかは分からない。少なくとも冬美はそう信じて振る舞い、生きていたのだ。
「可哀想な、人」
そう思えば少しだけ、彼女への憤りが解消されるようだった。ただの同情だ。それにはなんの価値もない。
冬美はさぞ自身のことを要領のいい人間だと思っていただろう。けれどロシェルからすれば可哀想で、愚かで、不器用な人だという印象を受けた。
冬美を愛した彼との別れだって、彼女は突き放されたように感じていたけれど、ロシェルにはどうしようもない別れを何とか飲み込んで、その言葉の通りせめて彼女の幸福を願っているようにしか思えない。
けれど冬美はそう取らなかった。彼女のそれまでの生き方、考え方がそうさせたのだろう。
可哀想な人だと思った。その印象を理由にすることは、それもまた醜いことなのかもしれない。
そうは思いながらも、ロシェルは冬美に同情することで、彼女に対する反発心や敵愾心が随分和らいだことを自覚する。
ロシェルは冬美に対し、明久を弄んだように感じていた。おそらくコゼットもそうだろう。けれど実際の彼女は、自分自身のことに精一杯な、不器用でどうしようもないくらいどうしようもない人間だった。責める気にも、憎らしく思う気にもなれない。
否、正直に言えば、やはり少しは憎らしいけれど、明久だけではなくイルマの心まで捕えていることは、羨ましくて仕方がないけれど。
冬美のように誰かを憎むのは嫌だなあ、とロシェルはただ単純にそう思ったのだ。
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明け方には熱もほとんど下がっていた。元々体力のないロシェルは風邪をこじらせやすいのだが、今回は随分と早い回復である。
もしかしたら、しばらくずっと思いつめていたので、風邪ではなく知恵熱だとかそういったものだったのかもしれない。気分はすっきりして、身体はとても軽くなっていた。
「顔色もよくなったわね」
ネルも安心したようにそう言ってくれたので、きっと大丈夫なのだろう。彼女には一日寮で休んで様子を見たら、と勧められたが、寮にいるよりも登校する方が気分も晴れるだろう、と言って登校することにした。今は体調以上に自身の気持ちを優先したかった。
寮で朝食を摂り、ネルと学校へ向かうと玄関でファーガスとヘリックが待っていた。女子校舎と男子校舎は平行に並ぶ別棟になっているのだが、生徒用玄関は男女共同で使用している共同校舎にある。
「おはよう。どうかしたの?」
朝の挨拶を交わして、どうして待っていたのかと問う。昼食や放課後を共に過ごすことはあるが、こうして朝に顔を合わせることは珍しい。ヘリックがネルに用事でもあるのかと思った。
「昨日のロシェル、風邪を引いてるみたいだったから、気になって。でもよかった、体調よくなったみたいだね」
ファーガスが笑う。どうやら、彼女のことを心配して待ってくれていたらしい。彼らのお気遣いが嬉しくて、ロシェルはくすぐったいような気持ちになった。お礼を言おうとしたが、それよりも早くヘリックが口を開く。
「あ、でも、いくらよくなったと言ってもあまり無理するなよ? またちょっとでも違和感があれば、すぐにネルに言うようにな」
「あら。無理をしないように、なんてヘリックは言っちゃいけないわ。お医者様が怖いからと元気なふりをして倒れたのは誰だったかしら」
「……………ネル、俺のためを思うならいい加減そのことは忘れてくれないか?」
続けられた苦々しさを隠さないヘリックの言葉に、ネルがくすくすと笑う。二人は幼馴染らしいので、時折こうしてお互いの幼い頃の話を聞かせてくれることがあった。ヘリックの困り果てたような恥ずかしげな赤い顔に、ロシェルとファーガスが噴き出したのは同時である。
「ほら、ネル。笑われただろう」
赤い顔で拗ねたように口にするヘリックに、ネルはごめんなさいね、と軽く笑う。仲の良い恋人同士ではあるが、やはりネルの方が数枚上手なのかもしれない。
嬉しいなあ、とロシェルは思った。自身のことを気にかけ、時にはからかい合ったりなんかして、共に笑える友人がいる。苦しいときには案じて、いつも支えてくれる。
だから、何も怖くはないと思った。例え傷付いて泣いてしまっても、ありがたいことにロシェルのそばにはいつも優しく受け止めてくれる人がいるのだから。
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教室に鞄だけ置いたロシェルは、その足で保健室に向かった。朝礼まではまだ少し時間がある。思い立ったことは、すぐにやり遂げたかった。時間が経てば、腰が引けてしまうからだ。
しかし、そうは思っても相手がいなければどうにもならない。今、ロシェルが考えていることが叶うかどうかの確率は半々だった。
気持ちは逸ってばかりだったけれど、落ち着きなく廊下を歩けば淑女として相応しくない、と教師から咎められる場合がある。ロシェルは努めて落ち着き払い、廊下を歩いた。
玄関側とは反対の共同校舎にある保健室の扉の前で、二度、三度と深呼吸を繰り返す。意を決して保健室の扉に手を掛けたところで、向こう側から勝手に扉が開いた。
驚いて上げそうになってしまった声を何とか飲み込むと、扉の向こう側には当然と言って差し支えないだろう。イルマが立っていた。
少し長めの亜麻色の髪から覗く表情は、お世辞にも愛想が良いとは言えなかった。藍色の目がじっとロシェルを見下ろし、それからようやく困ったような微笑みに変わる。
「診察にはくるように、といつも言っているだろう」
「ごめんなさい、先生」
本気で咎めるような調子ではなかった。どちらかと言うと、ロシェルを見て安堵したようだ。それが、体調に問題がなさそうだからか、それともロシェルが彼の前に姿を現したこと自体か、ロシェルには分からなかった。
いつも保健室を訪れた際に座る木製の椅子に腰かけ、イルマの診察を受ける。診察時は椅子を移動させ、机を挟まずに正面に座るので、距離を近くに感じて少し緊張する。体温を測り、下瞼を引き下げる。脈を測ってのどの調子を確認し、体調を聞かれた。
「昨日、少し熱があったみたいだけど、朝起きたらよくなってたわ」
「ロシェル、少しでも不調があるならすぐに言いなさい。昨日は終日保健室にいたのに」
イルマは昔からロシェルの体調に敏感だった。それを主治医で、ロシェルのことを思いやってくれているからだ、と思っていた。しかし、もしかすると冬美を病で亡くしたことが、彼の反応を過剰にしているのかもしれない。
「うん、ごめんなさい。これからは気を付けます」
殊勝な態度で頷くロシェルを、イルマはじっと黙って見つめた。満月の日の、明るい夜空みたいな瞳だった。ロシェルはその落ち着いた色が、大人である彼らしい色だといたく気に入っていた。
彼とは対照的に明るい黄緑色の瞳でじっと見つめ返し、向かいに座る彼の左手を両手で取って包み込んだ。男性である彼の手は大きくて、ロシェルの手とは比べ物にならない。けれど、これでも、昔よりは追いついたのだ。もっとずっと差があったときから、彼だけを見てここまで追いかけた。
イルマの手に力がこもる。ロシェルの手の中から、自身の手を引き抜こうとしたのだろう。彼女は手に力を込めてそれを阻止する。今、きちんと伝えておきたかった。
「先生。私、先生が好きよ。……イルマさんが好き、好きよ。大好き」
イルマの手元を見つめ、ロシェルはゆっくりそう口にした。いつものような勢いはなかった。彼の目を見ることもできない。その分、紡ぐ言葉にはこれまで以上に丁寧に心を込めた。
思えば名前を呼んだのはこれが初めてで、ロシェルは余計に頬に熱が集まるのを感じる。緊張と高揚で心が震え、二度は呼べなかった。
「ずっとあなただけを見てきたの。好きなの、そばにいたいと思うのは、いつだって先生だけなの」
「…………近くにいた男がたまたま僕だっただけで」
そうかもしれない。少なくとも大人にはそう見えるのだろう。そのくらいロシェルにだって分かっている。子どもが身近な大人に憧れることは、極自然なことだ。
けれどそうした自然さ以上に、まるで恐れるようだ、とロシェルは思った。イルマは過敏なほどに彼女の恋心を否定する。『冬美』から好かれる訳がないと思っているだろう、彼にとって、ロシェルの恋心は幽霊のように実体がないのかもしれない。
「きっかけがそうだったとして、ねえ先生。どうしてそれが、今好きだと思う私の気持ちを否定する理由になるの?」
始まりがどうであれ、今好きだと思うこの気持ちになんの嘘があるだろう。子どもの憧れで済ませるには、とうに気持ちが育ちすぎていた。
ロシェルは努めて落ち着き払って言葉を選んだ。感情のままに訴えてもそれこそ子どもの癇癪で、イルマにあしらう理由を与えてしまう。今回ばかりは、これまでのように誤魔化されてあげるつもりはない。
「夢は、いつか覚めるだろう。君にはもっと、いい人がいる」
「どうしてそう思うの?」
「それは……」
問い詰めれば、イルマは言い淀んでそれ以上言葉を繋げなかった。ある程度、ロシェルには彼が何を言いたいのか、想像がついている。それを口にしなかったのは、理由とするにはあまりに根拠がない、と彼自身分かっているからだろう。何せ、彼は視野が広いはずの『大人』なのだから。
「先生、私は冬美さんじゃないわ。だから、今後先生のことを嫌いになったりしないし、他の人に惹かれたりだってしない」
彼の手を包み込んでいた両手に力を込める。
「ねえ、私を見て。冬美さんじゃない私を見て。明久さんじゃなくて、イルマ・スペンサーを好きな、ロシェル・カーライルを見て」
もうあの人のことは見ないで、考えないで、忘れてしまって。私にあの人を重ねないで。あなたのことを好きでもないあんな女より、あなたを好きな私を見て。
心の中でそう叫びながら、なるべく柔らかい言葉を選んだ。ロシェルの中の冬美への敵愾心のようなものは随分和らいでおり、そうするのが大人だと思ったからだ。もうロシェルは好きだ、好きだと癇癪を向ける子どもではいられない。いるつもりもない。彼女の好きになった人は、ロシェルよりもずっと年上なのだから。
少しでも彼に近付きたいから、早く大人になる。始めは強がりでも、形だけでもいい。そうしてここからまた、始めるのだ。よく懐く子どもではなく、対等な人間として見てもらうために。
「好きよ。ずっとずっと好きよ。子どもだからって、気持ちが軽いだなんて決めつけないで」
けして握り返してはくれない彼の左手が、少しだけ震えたような気がしたのは、ロシェルのささやかな願望だったのかもしれない。




