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13.「いつも笑っていてほしいんだ」

 辺り一面の雪景色へ、飛び出していくことに並々ならぬ憧れを持っていた。普段の街の風景が、雪に覆い隠されることによって、すっかり様変わりするのだ。純白のふわふわとしたものが、キラキラと輝くさまは、見ているだけで心を満たすものだった。

 生まれつき身体の弱いロシェルは、雪の日に外へ出るなど言語道断だと言われた。体調のいい日に、こっそりベッドを抜け出せないように、いつも以上に側付きのメイドが張り付いていたほどである。


 そんな彼女に、雪の冷たさを教えてくれたのも、イルマだった。彼の手のひらに乗る程度の『雪だるま』を作ってもってきてくれたのだ。彼の手は冷えて真っ赤になっていて、けれど初めて触れる雪の冷たさにはしゃぐロシェルを眺め、柔らかく微笑んでいた。その顔を眺めるのが好きだった。幼い頃は、彼への好意すら曖昧なものだった。それでも、そうしたとき、大切にされているのだと理屈ではない部分で感じることができていた。自身を無条件で甘やかしてくれる大人に、彼女は素直に懐いたのだ。


 だからロシェルは、寒さから体調を崩しやすい冬の季節も好きだった。どれもこれも、イルマが親身になってそばにいてくれたからである。


「ロシェル? 顔が赤くない? 大丈夫?」


 思えば朝から熱っぽかった。ファーガスに尋ねられて、やはり風邪を引いてしまったのだろうか、と思う。今のところの自覚症状と言えば、熱っぽいことと頭痛くらいなので、できれば気付かないふりをしたい。体調不良を自覚すれば、余計に辛くなるとよくわかっているからだ。

 何より、体調不良となれば、その体調を診るのはイルマである。ロシェルが強がるのに十分の理由だった。


 前世の二人の本当の関係を知って以来、ロシェルはイルマを避けていた。避ける、と言っても自ら保健室に立ち寄らない程度のものである。入学当時、毎日診察に行くことを約束していたが、それすらも反故にしている。それでも、イルマは何も言わず、ロシェルの前に現れることもない。


 すでに放課後を迎えていたので、彼女の体調を案じ、寮まで送ってくれるというファーガスに甘えて女子寮へ向かう。少しの距離だが、その間に冷えないようにと彼は自身の上着をロシェルに貸してくれた。ありがとう素敵な騎士さん、とお礼を言えば、彼はからかわないでよ、と笑った。


 女子寮の前まで来て別れの言葉を告げようとすれば、ファーガスはいつものように手を上げて挨拶をせずに、ロシェルの両手を自身の両手でぎゅうと握る。少々熱っぽい今のロシェルよりもまだ、彼の手の方が暖かかった。じんわりと伝わる人肌の熱が、心地いい。


「ねえ、ロシェル。僕は君の友人だよ。君が悲しければ悲しいと思うし、君が笑えば僕まで楽しくなってしまう。なんだろうね、こう言えばちょっと誤解を招きそうだけど、ロシェルは僕の特別なんだよ」


 こつん、とロシェルの額に自身の額を当てたファーガスは、やっぱり熱があるね、と小さく笑ってそのまま言葉を続けた。


「いつも笑っていてほしいんだ。君が困り果てたときは、きっと僕が助けになるよ。それだけはどうか、忘れないで」


 ロシェルは感情を隠すことが得意ではない。加えてファーガスは聡い人間だった。ロシェルが思い悩んでいることなど、とっくに気付いていたのだろう。それでもそれを聞き出そうとしないのは、彼の優しさだ。そして、困ったときは頼ってくれるだろう、というロシェルへの信頼でもある。

 ロシェルにとっても、ファーガスは特別な友人だった。彼がほら、と教えてくれる世界は、いつも感じている世界よりも、ずっと綺麗に見えるのだ。


「ありがとう、ファーガス」


 けれど、ロシェルはその胸の内を語ろうとはしなかった。今、彼女の心に影を落としているのは、決定的に拒絶される前に知ってしまった失恋だ。その悲しみを吐き出そうにも、まだ自分の中で何を吐き出したいのかが分からない。

 そんなロシェルのもどかしささえ、全て分かっているとでも言うように微笑んで、ファーガスは彼女を励ますような笑顔で一つ頷いた。




  ****




 襟巻を外し、厚手のコートを脱ぐ。カーディガンを脱いで、制服のスカーフを外した。体調も思わしくないし、寝間着に着替えて早く寝よう、と制服を脱ごうとしたところで、ノックと共に部屋の扉が開く。


「あ、おかえり、ネル」


 夕暮れ色の髪を白いリボンで一つまとめたネルが、姿を現した。ネルはヘリックにもらったという白いリボンがすっかり定番になっている。今日も彼と放課後を過ごすと聞いていたのだが、意外と早く寮へ戻ってきたらしい。


「ただいま。玄関でロシェルのお客さんにお会いしたんだけど、通しても大丈夫かしら? 体調が悪そうだったけど……」

「お客さん?」


 心配そうに問い掛けるネルは、朝から熱っぽかったことに気付いてくれていたようだ。ロシェルは彼女の言葉に、『お客さん』とは誰だろう、と考える。ロシェルの家族は皆、カーライル領で生活をしている。時折王都の別邸の使用人がロシェルの頼み物を届けてくれることもあるが、今は何も頼んではいないはずである。

 来訪者にまるで見当が付かなかった。


「コゼット・スペンサーさんですって。もしかしてスペンサー先生の親類かしら」


 その名前を聞いたロシェルは息を呑み、すぐにスカーフを付け直して身なりを整えた。




  ****




 男子寮は女子禁制であり、女子寮は男子禁制となっている。そのため、ロシェルは男子寮の詳しい間取りなどを知る由もない。男子寮にそれがあるかは分からないが、少なくとも女子寮には談話室というものがあった。日本の民家で言う、居間のようなものである。


 ロシェルはコゼットと向き合っていた。そこはロシェルとネルの部屋であり、ネルは二人が話している間、その談話室で待っていてくれるらしい。


「まず、謝ります。この間は突然責め立てるような真似をして申し訳ございませんでした。あとから、イルマさんに伺いました。あなた、詳しいことはほとんど覚えていらっしゃらなかったようですね」


 コゼットの声には、もう後輩らしい人懐っこさはなくなっていた。ロシェルを責め立てたときのような鋭さもないが、無感動な冷淡さがあった。いやに冷静沈着で、ロシェルはそれを少しばかり不快に感じる。心の底で、彼女に責められなければ余計なことを知らずに済んだのに、という思いがあるからかもしれない。

 すぐに醜い思考だと、頭の中から追い払おうとする。


「…………あなたは、誰?」

「私は涼子という名でした。お二人の結婚式で一度顔を合わせたことがあります。明久の母方の従姉です。冬美さんは、明久の父方のはとこでしたね」


 そう言われ、思い出そうとしたが記憶がよみがえってくることはなかった。ロシェルの記憶は相変わらずぐちゃぐちゃのままで要領を得ない。思い出せない『彼』を愛しく思う気持ちと、明久への鬱屈した感情が湧いただけで、具体的なことは何も思い出せないままだ。どうせなら事実だけを思い出して、感情の方を忘れたままでいたかった。そうすれば、こうまで前世の感情に振り回されることもなかっただろうに。


「……涼子は冬美さんにいい感情を抱いていませんでした。難しい家に生まれた明久を憐れんでいた涼子にとって、冬美さんもまた、明久を苦しめる存在に思えたからです」


 それはロシェルにも分かるような気がした。彼女にも二つ年下の従弟がいる。その子が例えば、将来愛する妻に憎まれながら生活していたとしたらどう感じるだろう。憐れに想えば、その妻に憤りを感じ、離れるべきだと考えてしまう気がする。


「すみません。その印象が強く、先走ってしまいました。けれど、あのときの言葉に誇張はありません。私は、今の家族が何よりも大切です。それなのに、イルマさんはあなたのためなら、家族さえ容易く捨ててしまえるでしょう。私はそれを黙って見ているつもりはありません」

「先生は、そんなことしないわ」

「しますよ。冬美さんへの愛と、命を救えなかった罪悪感がありますもの」


 コゼットはまるで当たり前のことのように言い切った。知らない、ロシェルはそんなイルマを知らない。ロシェルの知っているイルマは大人で、理性的で、けれど時々まるで子どものように脆くて、優しくて、いつもロシェルのことを気にかけてくれている。

 家族を捨てるような人ではない。それとも、それほど冬美を愛しているとでもいうのだろうか。ロシェルには想像もできないほど、深く。


「知らない、そんなこと、私は知らない。先生は私のために、そんなことはしないわ」

「ですから、」

「だって私は、冬美じゃないっ!」


 彼女はあくまでロシェル・カーライルでしかない。冬美は過去の記憶であり、彼女自身ではありえない。だからロシェルは明久を憎む感情を思い出しても理性では彼を憎いとは思わないし、彼女が愛するのはあくまでイルマ・スペンサーというこの世界の人間だ。

彼女はロシェルなのだ。冬美ではない。


 けれど。けれど、イルマ・スペンサーは明久なのだ。冬美を愛する明久が、イルマなのだ。その二人はロシェルとは違い、同じ目線で同じものを見て、同じ人を愛している。口では、前世と今は別だと語る彼に、その自覚があるかは分からないけれど。


「あなた……」


 コゼットが目を見開いてロシェルを見つめたが、ロシェルは構わず顔を覆って唇を噛んだ。

 運命などと、よく言えたものだとロシェルは過去の自分自身を嘲笑いたい気持ちでいっぱいだった。こんなものが運命だとするならば、なんて馬鹿馬鹿しく、笑える話だろう。

 ああいやだ、もういやだ。イルマもコゼットも、まったくよく似た兄妹だと思う。顔は全然似ていないのに、中身がよく似ている。だからロシェルは、もう二人とも嫌だった。嫌という言葉以外に何も浮かばないほど、ただ感情的な理由で嫌だった。


 二人とも、ロシェルに冬美を重ねている。嫌になるくらい、よく似た兄妹だった。




  ****




 コゼットはその後まもなく、部屋から出て行った。ロシェルは彼女を見送りはしなかった。とてもそんな気分にはなれなかったし、コゼットもそれを望みはしないだろう。


『今の幸せを探せばいいと言いながら、あなたの前世とばかり向き合っていたのは……私の方ですね』


 最後にそれだけを言い添えた彼女に、ロシェルの憤りは伝わったのだろうか。どちらでも構わなかった。もう何だっていい。ただ、疲れた。頭に浮かぶのはそれだけだ。熱が上がっているのかもしれない。

 ベッドに入って、目を瞑ろうとして、ロシェルは目頭が熱くなるのを感じた。堪えようもなく瞑った瞼の隙間から涙が滲み、こめかみを伝ったそれが耳の穴に入ってひどく不快だ。

頭痛はすっかり悪化していて、情けないと思えば、余計に涙が溢れ出てきた。


 眠るのが怖いと思った。眠りたくなかった。夢として、過去の情景を思い出すときがあるからだ。その夢を見ているとき、ロシェルは冬美だった。イルマに愛されている冬美として、夢に登場する。


 それがとても嫌だった。ロシェルは、イルマに愛されているならばなんでもいい訳ではない。ロシェルは、ロシェルとして、イルマに愛されたいのだ。

 彼と心を同じくする男性に、自分以外の女が愛される夢など悪夢でしかなかったのだ。




  ****




 案の定、夢を見た。

 それはけして愛される女の夢ではなく、幸せになることを自ら棒に振った女の夢だった。




  ****




 彼女は『いい子』だった。

 素直で聞き分けがよく、いつもにこにこと笑っていて、気配りのできる子どもだった。それでいて何もかも完璧にこなせる訳ではなく、人に頼り、甘えることも上手かった。


 そう、上手かった。


 彼女はどうすれば愛され、可愛がられるかよくよく理解していた。大人は完璧すぎる子どもよりも少し抜けたところのある子どもの方が、素直に可愛がることができる。有能であることよりも愛嬌がよく、適度に甘え上手な子どもを愛した。

 彼女はそうして、大人の機微を感じ取ることが抜群に上手かった。よく両親とぶつかる兄を見ては、どうしてもっと上手くやれないのだろう、と不思議に思っていたほどだ。


『おまえは本当に可愛くていい子だね』


 ええそうでしょう、と思いながら、そんなことをおくびにも出さずに笑うのだ。本当?嬉しいな、なんて。その大人であるが故の子どもへの無理解を、心の底では笑っていたくせに。

 彼女はいつだって大人の望む子どもでいた。大人の望む行動をし、大人が望む発言をしてにこにこと笑って見せる。そうやって彼女は、いつだって『いい子』の地位を不動のものにしていたのだ。


 本家の男の子と親しくしたのもそれだけの理由だった。両親が本家との縁故を望み、親類に嘲笑を向けられるその男の子と親しくすることで、ますますいい子だと思ってもらえることを、彼女はよくよく理解していた。

 たったそれだけの理由だった。それ以上に一体何が必要だろう。彼女はいつだって周囲の望む振る舞いだけを意識して生きているのだから。


 それは年を重ねても同じことだった。

 彼女は周囲の望む清潔感のある容姿を維持し、学校ではクラス委員を務めて積極的に人の嫌がる雑用をこなし、常に周囲に気を配って生活していた。

 おかげで、彼女を悪く言う人など一人もいなかった。彼女を悪く言う人の方が、意地が悪いのだと、そういう空気を作り上げていた。


 彼女の人生は順風満帆だった。今後もそうやって生きていくのだろう、と思っていた。

 けれどその予想は、あまりにも容易く打ち砕かれることとなる。


『ほら、可愛いでしょう?』


 第一印象は変な人だった。他人の目なんてまるで気にしないで、好きに振る舞う人だった。なんて身勝手な人だろうと思った。彼女にとって、生きるということはもっと、繊細で、重要で、失敗の許されないことで、もっと必死、な。


『仕方ないよ。僕は僕以外にはなれないから』


 好きなものを好きと言う人だった。嫌いなものをあまり好きじゃないかな、と言う人だった。綺麗なものを綺麗と言って、醜いものをそれでも嫌いじゃないよ、と笑う人だった。彼女なら踏みつけたことにも気付かないような草花を、座り込んで眺めては可愛いね、と笑う人だった。素直で正直で、けれど不躾なことを口にしない、思いやり深い人だった。

 彼と知り合い、笑顔を向けられ、日に日に共に過ごす時間が増え、彼女は初めて、


 生まれて初めて、自分のことをとても、とてもとても、恥ずかしいと思った。


 彼女はそれまで、自身のことを賢い人間だと思っていた。自分は『上手く』生きているのだと。

 そうではなかった。ただ彼女は、自分がなかった。自分が何を好きで、何を嫌いかも理解していなかっただけなのだ。だから誰にだって合わせることができたし、模範のような『いい子』として振る舞うことができていたのだ。

 ただ、自分にも他人にも嘘を吐いていただけだった。


 彼女はそんな自分を恥じ、自身の本質を見抜かれているのではないかと怯え、それから、強く惹かれた。


 自分とは正反対の気質を持った、だからこそ心から優しく柔らかな彼を好きになった。彼は彼女を拒絶しなかった。不器用な人だね、と笑って彼女を受け入れた。

 家族にさえ、『いい子』以外の自分で接したことがなかった彼女は、生まれて初めて、ただ心のままに人を愛した。

 けれど、人生で最も幸せな時間は、そう長くは続かなかった。


 両親に頭を下げられた。事業が上手くいっていないことは知っていた。働いては家にお金を入れていたが、その程度のことでは何の助けにもならなかった。

 幼い頃、遊んでいた本家の男の子と結婚してほしい、という懇願だった。


 彼女が嫁げば、本家から資金援助を受けられるらしい。子どもの頃、好意を寄せられていることには気付いていた。それは、きっと両親も同じだろう。まだ自分のことが好きだったのか、と彼女はぼんやりと思った。

 一番に浮かんだのは当然彼のことだった。これからも当たり前に彼のそばにいるのだと思っていた。いずれは結婚して、家庭を築いていく未来を、信じて疑ってはいなかった。

 きっと、まずは彼に相談すべきだったのだろう。けれど、彼女はそうしなかった。


『分かったから、もう頭なんて下げないでよ』


 だって、彼女は両親の望む『いい子』なのだから。

 選択肢など、最初からあってないようなものだった。


 彼女は後日、泣きながら彼に別れを告げた。本当は別れたくないのだと、あなただけを愛しているのだと訴えた。

 彼は彼女を責めなかった。泣き続ける彼女を慰め、一言こう言った。


『そっか、それは大変だね』


 彼女は息が止まるかと思った。だってそんな、まるで他人事のような。

 彼女は自分一人で彼ではない男へ嫁ぐことを決めておきながら、それをあっさりと受け入れられてしまうことに、言葉を失うほどの衝撃を受けた。


 本当は引き止めて欲しかったのだろうか。そう考えると分からない。ただ、惜しんで欲しかった。もっと自分を強く求めて、けれどそれが叶わないことに涙してほしかった。

 それなのに、彼はあっさりと彼女から手を離した。まるで、そんな、どうでもいいみたいに。


『もうそばにはいられないけど、どうか。どうかお願いだから、幸せに』


 そのあとの言葉も、白々しくしか響かない。彼女が愛した日々さえ、まるで嘘のようだった。勝手な幻想を見ていただけなのだろうか。まるで、救われたような心地にさえなった、あの日々が。

 以来、彼女は何もかもが虚しくなった。生きるとことも、自身のその生き方も。好きでもない男と結婚し、病にかかって余命幾許と宣告されても。


 あの輝かしい日々さえ無意味だったというのなら、きっとこの世界に意味などないのだ。


 いい子であるために愛を失った彼女は、愛を失うことでいい子であることを辞めた。







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