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12.「僕の夢で、希望で、」

 その話を持ってきたのは、彼女の両親だった。

 彼女の父親は小さいながら事業を手掛けており、ずっと順調だったそれが、あるとき一気に傾いた。あわや倒産、となったところで彼女の父親から、彼女との縁談を申し込まれた。


 おそらく、彼女の父親は知っていたのだろう。彼が、彼女を愛していることを。彼が彼女に想いを寄せたのはずっと幼い頃だ。柔らかな恋愛感情を、大人に察せられても何ら不思議ではない。

 彼女の父親は彼の恋心が未だに残っていることに期待して、せめて当時の思い出に情けを掛けてほしい、と彼に話を持っていったようだった。


 彼女の父親と彼が顔を合わせることは随分久しぶりだった。当時の彼はすでに医師として働いており、忙しさを理由に親戚同士での集まりには極力参加しないようにしていた。大人になった彼は、けして自身に優しくない世界を受け入れる必要がないのだと理解したのだ。


 目を掛けてくれる恩師も、気軽に接してくれる同期、慕ってくれる後輩もいた。ナースは信頼を寄せてくれ、患者も気を許してくれている。彼の世界はあの頃よりずっと広く、鮮やかで、輝かしいものになっていた。医者という職業柄、悲しいことも、無力感に打ちひしがれることも、心無い言葉を浴びせられる日もあった。けれどそれも、周囲の人々の支えによって、彼はその場で膝をつくことなく、進んでいくことができていた。


 それでも。


 それでも、彼が愛したのは、今も昔も『彼女』だけだったのだ。

 彼は、彼女の父親の申し入れを拒絶することはなかった。ただし、条件を付けた。資金の援助はどちらにしても引き受けるが、結婚は彼女が自ら望んでくれるなら、とそう伝えた。一方的な片思いをしてきた。だからと言って、彼女の意思を無視して、資金援助を盾に手に入れようとは思わなかった。


 彼女ともしばらく顔を合わせてはいない。彼女が今もあのときの『彼』を愛しているかは分からなかった。親戚の集まりを拒否するようになったのは、顔も知らない誰かに恋をする彼女を見たくなかった、という思いもあったのだ。そのときの彼女が誰を愛し、誰の隣で笑っているのか、当時の彼には知る由もなかった。


 彼女に想いを伝えて振り向かせようとは思わなかった。以前より世界が開けたとは言っても、彼の本質は内向的な少年のままだった。想いを胸に秘め、彼女という理想を磨き、ときおり嫉妬に苦しんで、それら全てを飲み込むような生き方しか選択できなかった。


 だから、彼女から結婚を承諾する旨を聞かされたときは、天にも上る心地だった。浮き立つ心を宥めるのに苦労した。さすがに、実は彼女に愛されていたのだろうか、と自惚れることはなかった。けれど、今の彼女に愛する誰かはいないのだろう。結婚してもいいと思える程度には嫌われてはいなかったのだろう。そう思えるだけで彼は幸福だったのだ。


 始めは気まずくとも、きっと時が解消してくれる。彼女のことを、誰よりも大切にしよう。ありとあらゆる困難から彼女を守ろう。いつかきっと、本当の夫婦になれる。少なくとも彼は、彼女のことを深く愛しているのだから。彼は、そう信じて疑っていなかった。否、自分の中の幸せな夢に夢中で、現実の彼女のことなどちっとも考えられていなかったのだ。


 彼の、何よりもの過ちだった。

 隣でウエディングドレスを着た彼女の微笑みに潜む憂いに、気付くこともできなかった。




  ****




 眠りにつく前の自身の姿を思い出し、ロシェルはベッドの上でぼうとしながら、酷い有り様だったなあ、と他人事のような感想を抱いた。

 イルマに引きずられるようにカーライル家の別邸に帰り着いたはいいが、彼女は興奮しきっており、イルマのことを『だれ』『しらない』とひどく責め立てた。イルマはイルマである。スペンサー家の次男で、寄宿学校の校医として勤め、医師として有名なロシェルの主治医である。そんな当たり前のことさえ、あのときは分からなくなっていた。


 とにかく頭の中がぐちゃぐちゃで、部屋の窓からよく眺めていたはずの街並みすら、まるで馴染みのないもののように見え、視界に入る何もかもが恐ろしくて仕方がなかった。

 家だと言って連れてこられた住み慣れたカーライル邸さえ、彼女の中に違和感しか呼び起こさなかったのだ。


 暴れる彼女をイルマが私室まで連れていき、彼に怯えきっているロシェルを、この別邸で暮らすようになってからずっとそばで仕えてくれているメイドが宥め、それでようやく落ち着きを取り戻した。興奮して体力を使い切っていたのか、彼女はそのままベッドで眠りについたのだ。


 ロシェルが眠ってから、そう時間は経っていないだろう。まだ完全に日は落ちきっておらず、窓の外の景色は青い。暗闇がこれから訪れようとしていた。


「起きたのか」


 這うようにして上体を起こせば、そう声を掛けられてびくりと肩が震える。驚いたロシェルが辺りを見回せば、窓辺とは反対側のベッドの横でイルマが椅子に腰かけていた。ロシェルは反射的にシーツを手繰り寄せて、それに縋り付くように抱きしめた。


「先生……」


 返事の代わりに、イルマが目線を上げ、ロシェルと目を合わせた。それで、彼女は少し安心する。そうだ、彼はイルマだ。ロシェルの主治医の先生だ。少しだけ警戒を解いた彼女は、シーツを握りしめていた手を緩める。


 見慣れた顔だった。伏し目がちの藍色の瞳に亜麻色の髪が、今は暗い部屋の影響で濃い色に見える。あまり明るい人ではなくて、けれどけして冷たい人ではなく。ロシェルは彼が、そっと微笑む瞬間を見るのが何よりも好きだった。


「先生、ごめんなさい。痛かった?」


 主語の抜けた言葉だった。それでも、気が動転して彼を突き放そうとしたときのことだと分かったのだろう。イルマは困ったように笑って、いいや、と首を横に振った。


「君は力がないから。女性でも、もう少し筋力をつけた方がいい」

「これでも、学校に通い始めてからは力も付いたと思うんだけど」


 ロシェルもつられるように笑った。拗ねたように言いたかったのに、それは失敗してしまったと思う。顔はどうだろうか。上手く笑えているのだろうか。


「ねえ、先生」


 ロシェルは彼を呼んだ。震えずに呼べたと思う。彼はやはり微笑んだまま、どうした、と返事をしてくれた。


「先生は、誰?」


 努めて軽い調子で尋ねたかった。けれど、それはどうにも上手くいかなくて、我ながら感情のない声が出たな、とロシェルは思った。ぎこちなかった笑顔さえ浮かべるのも億劫になり、表情も無くなっているだろう。

 そんな彼女をなぞるように、イルマも笑みを消した。真剣な眼差しを、けれどロシェルに合わせることなく足元へ落とす。


「僕は明久だった」

「私は冬美? 明久さんと結婚した?」

「ああ。前世の君と、前世の僕は夫婦だった」


 それならば、何だろう。あのときの嫌悪感、憎しみは、一体何だったのだろう。胸の中にある、ロシェルではない誰かの感情が、強くイルマを否定していた。夫婦だったと言うのなら、どうして彼にそんな負の感情を向けたのだろう。まさかイルマが、嘘を吐いているのだろうか。


「ロシェル、僕は君に、とても不誠実なことをしてきた。嘘は吐いていないと言い訳して、真実をつまびらかにはしなかった」


 深刻な彼の表情に恐ろしくなって、ロシェルはもういいよ、と言ってしまいたくなった。聞きたくないと思った。けれど真実なんてどうでもいい、なんて言えそうもなかった。秘密があることを知ったまま、笑うことなどできない。


「僕らは間違いなく夫婦だった。そこに嘘はない。けれど、幸せな夫婦ではなかった。僕は冬美を愛していたけれど、彼女はけして僕を愛しはしなかった。冬美には、他に愛する人がいたんだ」


 ロシェルが何か口を挟むよりも早く、イルマは言葉を続けた。


「君が思い出した幸せな気持ちとは、その彼との記憶だろう。僕といた冬美は、ちっとも幸せではなかった。親と僕が纏めた縁談で、冬美は家のために僕の妻になった。始めは感情をひた隠しにして僕に合わせてくれていたけど、時と共に後悔が募ったんだろうな。彼女は僕を憎む感情を隠そうとはしなくなった。それでも僕は、僕の我儘で彼女を手放しはしなかった。愛しているから、そんな最悪の言い訳で、僕はただ自分自身のために彼女を囲い続けた」


 彼の言葉を聞いて、ロシェルはすとんと納得した。自身の中に渦巻く誰かの感情に、印がつけられたのだ。自然とその情景すら浮かんだ。幸せそうにはにかむ明久、それを冬美はひどく冷めた目で見ていた。小馬鹿にして、憎しみを滾らせ、心の底で罵倒していた。ロシェルが運命だと信じてやまなかった前世の夫婦は、蓋を開けてみれば地獄の窯のような様相だった。


「挙句、それほどの苦行を強いておきながら、僕は……彼女の命すら救えなかった。病に罹った彼女は、結婚から五年も経たずに亡くなった」


 思い浮かぶのは、病室で過ごす冬美の視界だった。病室から冬枯れた空を眺めていた冬美は、明久のことなど少しも考えてはいなかった。どんよりした曇り空の雲の向こうに、うっすらと透ける太陽を見つけ、嬉しそうな顔で笑う『誰か』のことを想っていた。時折明久のことを思い出してしまいそうになれば、慌ててその思考を打ち消した。明久を憎み続けなければ、冬美の中の『誰か』への愛情が、嘘になってしまうからだ。

 だから、冬美は頑なに明久を憎み続けた。その心を一欠片だって割いてやるものかと、心に堤防を建てたのだ。


「…………どうして、応えてくれない人を愛していられたの?」


 気付けばロシェルはそう問いかけていた。愛しても嫌悪感だけを示し続けられて、どうして愛し続けることができるのだろう。それならば、愛していない人に愛されて、それを拒絶する冬美の感情の方が余程理解できた。


「彼女が僕の夢で、希望で、意味だったんだ」


 そのとき初めて、イルマが顔を上げた。そして、嫌になるほど理解した。言葉よりも記憶よりも何よりも、その表情が語っていた。彼は、今も愛しているのだ。イルマ・スペンサーは、生まれ変わった今でさえ、過去の記憶でしかないはずの彼女を、冬美を、彼は愛しているのだ。


 ロシェルは自身からぞっと血の気が引いていくのを感じた。日中であったならば、イルマにも顔色の変化を察せられただろう。彼女は気付いてしまった。

 イルマはずっとロシェルに優しかった。彼女が自覚できる程度には、ロシェルのことを特別大切にしてくれていた。理性で勧めることはあっても、彼女に近づく男性を見掛ければ、咄嗟に引き離そうとすることさえあった。

 それをロシェルは、ずっと愛されているからだと思っていた。大事にされているからだと。


 確かに理由は愛だった。けれどそれは、ロシェルに向けたものではない。彼の目は、ずっと冬美を映していた。前世と今は違うのだと、そうロシェルに諭したその口で、実際は冬美の生まれ変わりだからこそ、ロシェルを気にかけていただけなのだ。彼が愛していたのは冬美だけだった。ロシェルではなく。


 前世と今は別だと口ではいいながら、彼こそがロシェルと冬美を同一視していたのだ。


「ロシェル?」


 沈黙が長すぎたのだろう。イルマは思案気に彼女に話しかけた。ロシェルはそれに感情をぐらぐらと揺らしながら、早口で言葉を放つ。


「ごめんなさい。少し、疲れたの。もう休むから、先生もお帰りになって」


 イルマの返事を待つ前に、ロシェルはベッドの中にもぐりこんで、目元が隠れるまでシーツをかぶった。

 どうかしたのか、とは聞かれたくなかった。動揺に気付かれて、その理由を説明したくなかった。


 言える訳がない。私は彼女の代わりでしかなかったのね、なんて。そんな自ら失恋を認めるようなこと。見っともない自惚れの話など、絶対にロシェルから口にするものかと思った。





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