箱庭世界の最果てから
会長達と打ち合わせをした後、部屋に戻って短い睡眠を取った後に夏生が研究室に顔を出すと、水島先生がいつも通りのとらえどころのない笑みを浮かべたまま唐突に言った。
「結城君から聞いたよ。この前のお友達と二人で外に行くそうだね。」
先生の声音からも顔からも、その真意は読み取れなかったので、とりあえず謝っておくことにする。
「相談もせずに勝手に決めてしまってすみません。研究室をしばらく離れることになりますが、よろしくお願いします。」
「いやいや、君が謝ることではないよ。むしろ、我々の問題の解決のために君達を利用してるだから、こちらが謝るべきだろうね。」
軽く頭を下げながら言った夏生に、先生は落ち着いた、真摯な声でそう言う。それから、頭を上げた夏生の前に大きなプラスチックの箱を差し出した。
「何です、これは?」
「ささやかながら、君達の手助けをしたいと思ってね。ちょっとした便利グッズのプレゼントだよ。まあ、開けてみたまえ。」
その言葉に従って箱を開けると、中にはオレンジと同じくらいの大きさの、不揃いな球体が何十個も詰め込まれていた。顔を近づけてみると、何日も使いまわした下着や靴下のような、酸っぱく黴びた悪臭が鼻をついた。意味が分からず顔を上げると、先生がしたり顔で言った。
「ジキがにおいや音に反応するのは君も気付いているだろう。色々調べて分かったんだか、同じ音や匂いでも、特に人間のそれに近似したものの方が食いつきが良いようなんだ。そこで、人間の体臭に近い匂いを合成して、カプセルの中に詰め込んでみたというわけさ。」
そう言ってから先生は、カプセルの一つを取り上げて言った。
「いざとなったら、これを遠くに投げつけてみなさい。中のガラスが割れて、今の何十倍という強烈な匂いが漂う。奴ら、相当食いつくはずだよ。」
半信半疑の夏生を横目に、先生は自信満々に球体を箱に戻してから、自分の指に付いた悪臭に顔をしかめた。それから、近くのテーブルの上を指差す。
「それから、これもプレゼントしよう。」
夏生が視線を向けると、そこにあったのはスピーカー付きのICレコーダーだった。先生がそのボタンの一つを押すと、スピーカーから若い男女の悲鳴が聞こえて来る。夏生がぎょっとしていると、先生は笑いながら言った。
「なかなか迫力があるだろう?演劇部の学生達に協力してもらったんだよ。さっきも言ったが、ジキは人間の声に強く反応する。そして、ジキどもが聞いたことがある声は、悲鳴がほとんどだ。実際、実験用に隔離しているジキの反応は、悲鳴が一番良いんだよ。」
マッドサイエンティスト的な笑みを浮かべながらそんなことを言い放つ先生に、内心で肩をすくめながら、ふと恐ろしい事実に思い当たった。
「先生、奴らが人間の音や匂いに反応しているということは、記憶があってそれと照合して判断しているということですよね。ジキには一定の知能があるということなんでしょうか?」
ジキの正体に迫る重要な問いに、先生は予想外に気楽な様子で答えた。
「さあねえ、分からんよそれは。奴らが独自の判断力を持っているのか、生前の記憶や思考にある程度引きずられているのか、それも分からないんだからね。そもそも、どこからどこまでを知能と言うのかというのも問題だし、こうなってくると脳科学や心理学の領域にも入ってくる。知能というのは便利な言葉だけど、だからこそこういう状況では不適切だと思うね。いずれにしても…」
そう言って一息ついてから、身を乗り出し、両手にICレコーダーと悪臭カプセルを持ちながら続けた。
「大事なことは、奴らの習性を利用して、出来るだけ効率的かつ安全に排除する方法を考えることだよ。ここは日本だからね、スポーツ用品店に行けば靴の棚の隣に銃コーナーがあるアメリカとは違う。奴らと戦う方法より、いかに戦わないかを考えるのが重要だと思うよ。」
それは最もな理屈に思えたので、黙って頷くと、先生は更に話を続けた。
「仮に銃が有ったとしても、戦うのが得策かは分からないがね。何万という軍隊を率いているならまだしも、少数では奴らを引きつけるだけだよ。特に市街地ではどうにもならん。」
「それはそうですが、今回の偵察ではともかく、いずれは戦って排除する必要が出てくるのでは?発電所のジキはもちろん、ここと発電所を結ぶ道の安全確保も必要でしょう。いずれ農業を始めるなら周辺一帯の安全確保も必要だし、もっと先を見据えれば港や工業施設も…」
勢い込んで言い募る夏生に対して、先生は苦笑しながら身振りで話を遮って言う。
「我々は明日も知れぬ身なんだ、あまり遠い未来を心配してもどうにもならんよ。ジキどもと戦う効率的な方法については、今後の研究が順調に進むことを祈るほかないさ。ともかく君達は最初の課題を何が何でもやり抜くことさ、それが上手くいかなければ何もかもお手上げなんだからね。」
その言葉に改めて、自分達が置かれている状況を思い知らされる。そうなのだ、遠い未来のことを考えることで、何となく目の前の課題の困難さ、状況の深刻さが遠ざかるような気がするけれど、それは誤魔化しに過ぎない。まずは何とかして安全な道を確保して発電所を奪還し、安定的なエネルギー供給を確保しなければ、ものの数ヶ月でこの脆弱なコミュニティは崩壊してしまうだろう。
「全く、想像も出来ませんよ。」肩を竦めながら夏生は言う。「あの複雑で高度な社会をどうやったら取り戻せるのか、もし可能ならどれだけの時間が必要なのか。」
その言葉を聞いた先生は、しばらく考えこんだ後、思いついたように言った。
「同感だね。だけど君達は、その最初の一歩を踏み出すわけさ。だから、後世の歴史家とやらに無駄な挑戦だったとこき下ろされないよう、ちゃんと生きて帰ってきなさい。」
出発の手筈は、あの夜の打ち合わせの後、翌日の夕方までには済んでしまった。準備と言っても、それほど出来ることは多くない。市街地では車では動きにくいしジキを引き寄せてしまうからと、小型の電動バイクを2台用意してもらって、少なくとも途中まではそれで行くことにする。あとは、数日分の水と食料。夏生が先生から貰った匂い玉とICレコーダー、ここの工学部の連中が作ったという強化バットとナイフ。そういうものを、バイクの荷台に詰め込み、あとは地図を頭に叩き込むくらいだった。
「木崎さん、準備は終わりましたか?」
一通り準備が終わった頃、来栖がそう言って声を掛けてきた。軽く頷きながら「まあ、大体な」と言って肯定すると、来栖は気遣わしげな笑顔で言った。
「無理しないで下さいね。そう言っても、なかなか難しいとは思いますけど。」
「はは、まあそうだな。」
笑いながらそう返すと、彼女は申し訳なさそうな表情を浮かべて言った。
「今回のこと、本当にありがとうございます。本当は私達がやらなきゃいけないことなのに、押し付けてしまって。でも…」
そう言って少し躊躇ってから、俯きがちに彼女は続けた。
「でも、本当はどこかホッとしてるんです。私達、キメラ部隊だって偉そうにしてても、外のことは全然分かってないから。それじゃいけないってことも、分かってはいるんですけど、ずっと惰性でここまで来てしまって。」
まだ何か言いたそうな彼女を手で制して、康一は努めて明るい声で言う。
「そんなに気にするなよ。俺達の方が外での経験が豊富で、この仕事に向いてるのは事実なんだから、当たり前のことさ。それに、これは多分、大人の役割ってやつなんじゃないのかな。まあ、俺達オッサン二人に任せてみろよ。四捨五入してアラサーの底力を見せてやるぜ?」
冗談めかしてそう言うと、来栖は少しぎこちないものの、笑顔を浮かべて「私達と、そんなに変わらないじゃないですか」と言う。その言葉に、笑い声混じりでなお言った。
「いやいや、この数歳の差がデカイんだよ。一晩で疲れが取れなくなるし、徹夜はキツイってか途中で寝ちまうし、昔ほど食えなくなって脂っこいものも段々と…」
自分の経験談混じりにそんなことを笑いながらそう言うと、まだ若い彼女が困ったような、少し引いたような顔で康一を見ている。やり過ぎたな、と思ってから、少し真面目な口調に戻って続ける。
「まあ、そういう加齢臭のしそうなネタはともかくとしてもな。こういうことになって初めて、自分が大人なんだなって思い知らされたし、自覚したよ。」
その言葉に、いまいち分かりかねるという顔をしている来栖に、言葉を重ねて言う。
「学生から見ると、俺達みたいな何年か社会人やってる奴はそれなりに大人に見えるかもしれないけど、こっち側から見るとそうでも無いんだよ。職場とかじゃ、一番下か、下から二番目か、そんくらいだし。自分の親と大差ない年齢の上司と机並べたりしてるとさ、あんまし自分が大人だからとか、そういう風には思えないわけよ。」
そう言ってまた一度言葉を切ってから、少し気恥ずかしさ混じりに肩をすくめて言う。
「そんな俺みたいな人間でも、自分より明らかに若いあんた達を見てると、年相応の責任って奴をちょっとは思い出すんだよ。せっかく自覚出来たんだから、年寄りの冷や水と思って生暖かく見守ってくれよ。」
最後をちょっと冗談めかして言ったのは、まだまだ覚悟が足りない証拠なのかもしれない。それでも目の前の彼女は、少しだけすっきりした顔で言った。
「思いませんよ、そんなこと。私だって、子供と言い張れる年齢じゃないですから。だから、無事に帰ってきて、また色々と教えて下さい。」
そう言って、軽く一礼して立ち去る彼女に、笑いながら頷く。視界の端に夏生が寮に戻って来るのが見えた。
翌日の朝、康一と夏生が電動バイクに跨って検問に赴くと、何人かの見知った顔が見送りに来ていた。
「おはよう、二人とも。この小さな、箱庭のような人間世界の最果てにようこそ。」
悪趣味な笑顔を浮かべながら悪趣味なセリフをぬけぬけと口にしたのは、夏生の先生だった。どう見ても良い言葉じゃないのに、あまり悪気があるようには思えないのはなぜだろうか。視線を移すと、会長が手を差し伸べてきた。「ご無事を祈ります。」短い言葉だったが、意外と力強い握手をぐっと握り返す。
「二人とも、頑張って下さい。無理しないで。」心配そうな来栖の肩を笑顔でぽんぽんと軽く叩く。他の仲間とも握手したり声を交わしてから、再びバイクに跨った。
「じゃあ、行って来る。」これほど不似合いでぴったりな言葉も無いな、と苦笑しながら、康一はアクセルを踏み込んだ。
ご意見・ご感想お待ちしています。