暗雲
第5話にして未だにゾンビの影も形も見えないゾンビものってどうなんだろうなあ、と我ながら思います。
翌日、朝一番に康一と共に会長のもとに行って協力したいと申し出ると、会長はわずかに躊躇う様子を見せてから、是非お願いしたいと言って承諾してくれた。夏生は水島先生が率いるチームに加わってジキやキメラのウイルスを研究することになり、康一はキメラ部隊に加わって訓練の指導や検問の警備に協力することになった。
研究者として、異変の発生前と同じような日々を過ごすようになってから数日のうちに、色々なことに気付くようになった。一つは、キメラの扱いだ。露骨な差別に晒されているのかと思っていたが、むしろ腫れ物を触るような扱いをされることが多かった。夏生が触れたものや口を付けたものに触ることや、近付くことすら嫌がる。しかも、それをはっきりと口にすることは嫌がるのだ。「俺達は、お前達のことを気にしてないよ」と度々口にすることで、むしろ差別を強調している、そんな状況だった。
最も、それは仕方のない面もあった。この症状がどうやって伝染するのか、はっきりしたことは何も分かっていないのだから。血液を通して感染することは確かだったが、それにしても、どの程度の量の血液にどのような条件で触れるとどのくらいの確率で感染するのか、まるで分からないのだ。
この異変が発生した直後から判明していたことの一つに、ジキの血液からは数十種類の未知のウイルスが見つかるということがあった。研究者達はこのウイルスの一群を「クラスター」と呼んで、どのウイルスがどのような働きをしているか分析を試みたが、その成果が出る間もなく社会システムが崩壊してしまい、研究は強制的に中断を余儀なくされたのだった。
ジキやキメラから採取した唾液や精液など、血液以外の体液にも「クラスター」を構成するウイルスは含まれていた。だから、一般の生徒がジキのみならずキメラを怖がるのも、全く根拠がないこととは言えなかった。研究者である夏生には、このクラスターはHIVウイルスと同程度の感染力の弱いウイルスだということが直感的に理解できたが、はっきりとした証拠が揃うまでは安全第一で行くというのは悪い判断では無いように思えた。
このチームの最大の目的は、クラスターを構成する個々のウイルスを分析することで、どのウイルスが人間をジキ化させるか特定するとともに、ウイルスの特性を知ることで、日常生活においてキメラと接触しても感染するリスクが極めて低いことを証明することだった。それがキメラと一般の生徒との共存、ひいては学園の存続につながると先生は考えているようだった。
それは夏生にとっても意義ある研究に思えたし、実際、この災厄に終止符を打つか、少なくとも歯止めを掛ける契機となり得るものだった。そういうわけで研究に励んでいたが、そういった中で、もう一つ気付いたことがあった。それは、この学園の生徒の情報の乏しさだった。
驚いたことに、この学園の学生の大半は、この学園から一歩出た世界のほぼ全てがジキに埋め尽くされているという事実が、あまりはっきりと理解出来ていないようだった。特殊な感染症が一時的に流行している、そんな感覚なのだ。テレビもラジオもネットもずっと前に死んでいたが、それが逆に危機感を低下させているのかもしれない。そんなわけで、大半の学生は状況の変化についていけず、漫然と以前の行動を繰り返している者も多かった。
けれど夏生には、どうしても気になったことがあった。ここの生活を支える物資、燃料や食料の状況について、誰も何も知らないのだ。常識的に考えれば、何ヶ月分もストックがあるはずがない。最後の補給が来てから何日か、正確なことは分からなかったが、早晩在庫が底をつくのは必然のように思われた。
それにも関わらず、このことについて、誰も何も知らないし、知ろうともしないのだ。ただ、毎日当たり前のように電気を使って、食事をしている。誰に尋ねても、不自然なほど誰も情報を持っていなかった。あの「会長」が情報を統制しているのだろうか。けれど、それなら、彼はこの事態にどう対処するつもりなのだろうか。何か考えがあるのか、あるいは…。
真偽が定かでない噂話を耳にするようになったのは、そんな疑問がいよいよ深まっていた時だった。同じチームの研究者で、夏生と年が近くてよく休憩時間に雑談している男が、ふと思い出したように言ったのだ。
「そういえば、この前、食料とか燃料の在庫について気にしてましたよね。そのことで昨日、偶然耳に挟んだことがあるんですよ。」
唐突な言葉に慌てて身を乗り出した夏生を前に、男は芸能人のゴシップネタを口にするときのような気軽な口調で続けたものだった。
「昔からの知り合いのここの職員で、備品管理担当の奴がいるんですけど、そいつに言わせると食料は二、三ヶ月分あるけど、燃料はあと一月分も無いそうなんです。まあ、そいつも全ての在庫を把握してるかは分からないと言ってましたが。」
事態の深刻さをあまり理解していないのか、それとも理解したくないのか、男はあくまで軽い調子でそう言ってから、話題を別のことに転じた。夏生はそれに適当に応じながら、その情報を必死に吟味していた。異変が起こってからの月日を考えても、その話は全くおかしくないように思えた。
もし燃料が無くなったら?その時は、このコミュニティの崩壊は目前だろう。カレンダーはもうじき10月になる。迫り来る海北道の長く厳しい冬を乗り切るには、暖房やストーブは不可欠だ。それに、もっと心理的な理由もある。ジキという怪物が歩き回る中で、文明の明かりがない、真っ暗闇の夜を過ごさせられる。それがここの学生にどれだけ心理的な負担を与えるだろうか。燃料が無くなる時、電気が消える時は、このコミュニティの最後の命綱が切れる時なのだ。
そういうわけで、その日一日の研究を終えてから、ちょうど非番で部屋にいた康一と共に会長室を訪れたのは、少なくとも夏生にとっては自然な流れだった。会長はちょうど一人で部屋にいて、何か考えごとをしていたようだったが、二人の顔を見ると少し驚いたような顔をして言った。
「こんな時間に、突然どうしました。何かトラブルですか?」
微かな不安の混じったその問いに、伺いたいことがあるだけですと答えると、会長は安心したような表情を浮かべた。
「どうぞ、そちらに掛けて下さい。いま、お茶でもお出ししましょう。」
そう言って部屋の片隅のポットに向かった会長の背に、夏生は我慢できず言葉を投げかけた。
「会長、燃料の残りが随分と少なくなっているらしいですね。」
単刀直入なその一言に、会長は微かに肩を震わせてから、さっきより遥かに低い声で言う。
「どこでそんな話を?」
「会長、聞いているのは僕の方です。僕の質問に先に答えてくれませんか。」
会長と同じくらい低い声で、そう返す。室内は一気に険悪な雰囲気になって、康一が取り成すように言った。
「夏生、そんな言い方は良くないって。」
迫力はないが常識的なその言葉を聞いて、夏生は康一を一瞥してから、少し落ち着いた声で言う。
「失礼しました。この話は、人づてに小耳に挟んだだけです。」
ひとまず腰の低い対応をしたおかげで、会長も落ち着いた反応を見せた。三人分のお茶を載せたトレーを持って応接セットの椅子に腰掛け、二人にもお茶を勧めながら言った。
「どこからそんな話が出たか分かりませんが、ご心配には及びません。各種物品は厳重に管理されていますし、在庫も十分にあります。どうかご安心を。」
全く安心出来ない物言いに却って不安になりながらも、相手を刺激しないように出来るだけ声を抑えて言う。
「そのお言葉を疑うわけではありませんが、食料も燃料も、使っていれば減っていきますよね。僕はただ、そのことで何かご協力出来ることがないかと思って伺っただけです。例えば、外に出て行ってどこかの倉庫から取ってくるとか。」
それはかつての世界の規範からすれば明らかに問題のある提案だったが、そのこと自体には誰一人興味を示さなかった。会長はお茶を一口啜って、如才ない笑みを浮かべながら、夏生の提案に答えた。
「確かに、使っていれば少しずつ在庫は無くなります。」
そう言って僅かに口を噤んでから、思慮深そうな表情を浮かべて続けた。
「しかし、今はまだ慌てて外に出て行く時期ではないと考えています。もちろん、いずれはそういったことも必要になるでしょう。その際には、お二人にも是非ご協力頂ければと思います。」
穏やかな、だがはっきりとした拒絶の意思表示だった。夏生は強い失望を感じながらも、それを顔に出さないようにして言った。
「分かりました。何かご協力出来ることがあれば、いつでも言って下さい。」
そう言って一礼して、足早に部屋を立ち去る。建物を出たところで、キメラのリーダーだとかいう来栖という女子が凄い剣幕で歩いて来たのとすれ違った。夏生はほとんど話したことが無かったが、康一は何度も顔を合わせているのか、親しげに話しかけていた。二、三、言葉を交わし、彼女が少し落ち着いた様子を見せてから別れる。部屋に戻ってから、夏生はポツリと言った。
「コウちゃん、荷物をまとめといてくれるかな。」
来栖佳那は、激しい憤りと共に会長室への道のりを歩いていた。憤りの原因は、昼間見たとある光景だった。
今日の昼間、彼女はとある男から熱心な説得を受けていた。男はほとんどの学生と同じように学園の外に多くの知己がおり、キメラ部隊が中心となって外のジキを制圧し避難民を救助して回るべきだという、ほとんど妄想のような構想を披瀝していたのだ。適当にあしらってもしつこく迫ってくるので、佳那はついこう言ったのだ。
「そんなに言うなら、会長に直訴してみれば?」
彼女がそう言うと、男は勝ち誇ったような顔で言ったのだった。
「とんでもありません。ご存知ないのですか、会長は外部から無線で入ってきている救援要請を、全て握りつぶしているのですよ!」
それは、佳那にはとても信じられなかった。彼からは、外部からのあらゆる無線が途絶えている…テレビやラジオはもとより、アマチュア無線の類まで…と説明されてきたのだから。けれど、男の熱心な言葉に一抹の疑念が過ぎり、彼女はその言葉の真偽を確認することにした。毎日、この時間に会長は通信室に行く、と教えられた時間に近くで張り込んだのだ。果たして彼はやって来て、専門の技能をもっているらしい学生と無線の向こうから聞こえて来る音に耳を澄ませていた。
ドア越しに聞こえてきたのは、方々の避難所からの、声を枯らした涙や助けを請う言葉。それに何も応えず、それどころか、無線機を切ってから彼はこう言ったのだ。
「先週より随分少なくなってきたな、どこもそろそろ終わりか。」
その言葉を聞いた時、佳那は自分がよくドアを開けてあの冷血漢を絞め殺さなかったものだと思った。その場では何とか自分を抑えたものの、じっくり事情を聞き、返答次第では本当に締め上げてやろうと、彼女は会長室への道のりを急いでいたのだった。
会長室のある中央棟の出入り口近くで、見知った顔と出会った。最近加わった木崎さんと土屋さんだ。土屋さんの方は水島先生と一緒に研究しているからあまり顔を会わせることもないが、木崎さんとは毎日のように話している。少し年上の面倒見の良いお兄さんで、ずっと空手をやっていたらしくて、彼女や仲間達は稽古をつけてもらっていた。なぜこんなところで、と思っていると向こうから声を掛けてきた。
「よう来栖、こんな時間にそんな顔してどうしたよ。」
「こんばんは木崎さん。ちょっと、会長に話があって…。」
そんなに怖い顔をしていたかな、と思いながらそう返すと、彼は冗談めかして言った。
「まるで殴り込みに行くような顔してるな。まあ、あのスカした野郎を一発ぶん殴ってやりたい気持ちは分からなくもないけどな。」
その言葉は怖いほど当たっていたので、偶然なのかそれとも見抜かれているのか、佳那は少し怖くなった。何も返せないでいると、彼は打って変わって真面目な口調で言った。
「来栖、俺達は人間だ。誰が何と言おうともな。だから、人間らしく、ちゃんと話し合えよ。どんなことがあっても、ちゃんと言葉にして伝えて、相手の言葉をちゃんと聞くんだ。そして、相手にも、自分なりの考えや立場があるって分かってやれ。」
それは、ごく常識的な、普通の言葉だった。けれど、この時の彼女の心を不思議と落ち着かせ、そしてしっかりと心に残ったのだった。ありがとうございます、と言って軽く頭を下げると、陽気な口調に戻って彼が言った。
「まあ、散々こき使われてるんだから、嫌なことを言われたら一発ぐらいぶん殴ってやれ。俺達の分もな!」
人の良い笑みを浮かべてそう言った彼の、最後の言葉の意味は分からなかったが、すっかり落ち着いた気分で階段を上って、彼女は会長室のドアの前に立ったのだった。