三、
警察官達が引き上げ、再び僕は部屋で一人になった。
狂った女性の恐怖と得体の知れない存在の恐怖、その二つに板挟みにされ、ガタガタと身体が震えた。仕事をしなければならないが、とてもそんな気にはなれず、僕は、次の引越し先を決めよう、そんなことを思いながら布団に包まった。
やがて、精神的に疲弊している所為もあってか、深い眠りに落ちた。
それからしばらくして、深夜一時過ぎに電話の音で起こされた。
一瞬怯えたが、スマートフォンのディスプレイには警察の電話番号が表示されていたので、僕は通話ボタンを押した。
すると、担当のスーツの男性の声が聞こえてきた。
「遅い時間に失礼かとも思ったのですが、すぐに報告を聞かせてあげたほうが良いだろうと考えまして、お電話差し上げました」
そう前振りがあってから男性は報告を始めた。それは、件の女性が見つかったというものであった。ただし、自宅で遺体となった状態で。
警察は昼間から女性を追っていたが、その居場所をすぐに掴むことが出来ずにいた。そして、深夜零時を過ぎた頃にしてようやく、女性が自宅アパートに戻ったのを確認した。玄関の扉をノックしても返答がなかったため、不動産屋に借りていた鍵を使用して室内に突入したところ、遺体を発見したそうだ。
女性は、浴室で死んでいたとのことである。
僕はその話を聞いた瞬間、切断された指と「お母さんを届ける」という言葉を思い出し、電話口に向かって尋ねた。
「女性は、自ら身体を刻んで死亡したのですか?」
スーツの男性は即座にこう返答した。
「いいえ。まだ検死は済んでいないので断定的なことは言えませんが、おそらく他殺でしょう。状況が不自然でしたので」
「状況が不自然?」
「はい。女性は頸動脈を切断された状態だったのですが、不思議なことに、血がなかったのですよ。全身の血が、抜かれていました」
薄ら寒い思いがした。
誰が、何の目的で、血を、運び出したのか。そこまで考えてから、僕は首を大きく横に振った。余計なことを考えるのはやめよう、これで事件は解決したのだ。そう思い、男性に礼を述べて電話を終えた。
直後、風呂場から音が聞こえてきた。
チョロチョロ、チョロチョロと、液体の流れ出る音。
その音は馴染みのあるものであった。空の浴槽にお湯が溜まる際の音だ。しかし給湯器を操作した覚えはない。まさか。そんな。怯えつつも、僕は、確認せずにはいられなかった。
そうして風呂場をそっと覗いた。
浴槽には、給湯口から、真っ赤な液体が注がれていた。
その後の調べで、浴槽に注いでいたのは女性の血液であることが判明した。
何故そのようなことが起きたのか捜査中ではあるが、現実的なことを言えば、何者かが女性を殺害し、その血液を僕の家の風呂釜に注入したと考えるのが妥当であろう。警察もその線で捜査をしているようであった。
けれども、僕は違うことを考えている。
冒頭で述べた通り、僕は現在ホテルの一室で過ごしている。『脅威』から逃げてきたからだ。そう、女性の血を抜いたのは、その『脅威』だと思っている。
実は、血液の混入経緯を調べる過程において、予想外のものが発見された。天井裏の換気ダクトの内部から、白骨化した少女の遺体が出てきたのである。
まだ真相は解明されていないが、おそらくは七年前に女性が娘を殺害し、風呂場に遺体を隠したのであろう。その後、風通しなどの影響もあってか、遺体は腐敗せずに干乾び、七年間も発見されることはなかった。
死んだ少女の霊が、母親を呼んだのだ。
そして、血を抜いて殺した。
そう仮定した場合、母親に対する復讐を終えたのだから、少女の霊は成仏するのではないかと思う人もいるかも知れない。だが、そうであったなら僕はホテルまで逃げてくる必要などなかった。
では何故、逃げてきたのか。
血が浴槽に注いでいるのを見た時、僕は気配を感じた。確かに感じたのだ。そして、その気配の正体を確認する方法はないかと考え、思い付いてしまった。
少女の声をスマートフォンで録音することが出来た。
ならば、写真を撮ることも可能なのでは?
悪魔の誘いというのはこういうことを言うのだろう。僕はチョロチョロと血の流れる風呂場に向かって、シャッターを切った。
瞬間、スマートフォンの画面に少女の姿が映った。
その表情は、まるで僕に対して、「ハヤク、キテ」と言っているようであった。
僕は、もう、一人でお風呂に入れません。
文・画:gojo