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第54話 捨て身の東海道先生

 結局、俺は西棟二階の東海道先生の部屋で、ゴキブリと格闘することになってしまった。女性が寝泊まりする部屋に入るというのも緊迫感があるシチュエーションだったけど、脱いだ履き物は几帳面にしまっていたようで、見たらまずいようなものは落ちていない。しかし、よほど慌てて逃げ出したことは布団の乱れ具合や倒れたままの湯飲みなどから在り在りと想像ができる。


 そして、入って正面の壁に、堂々と奴はいた。


 奴は立派なチャバネゴキブリで、これは東海道先生じゃなくてもギョッとするだろうな、という程にわんぱくに育った一匹だった。とにかくデカイし、ちょっと気を抜いたらすぐさま見失う程素早い。


 俺は頼りないガムテープで捕獲に挑戦し、数回逃して、数回見失って、数回警戒態勢に入って、数回発見して、数回ギョッとすることを繰り返して、一旦諦めて廊下に出た。隅では東海道先生がこぢんまりと体育座りしている。


「あの、もう面倒臭いんで。女子の大部屋に入れて貰ったらいいんじゃないですか? 先生ちびっこいし、一人くらいなら入るでしょ」


「そっ、そんなこと、情けなくって頼める筈がないでしょう! お化けが怖い子供みたいじゃありませんか!!」


 俺にゴキブリ退治させるのは情けなくないのかよ。半端にお嬢様的尊厳を持っているからややっこしいなあ。


 俺はもう、心の底から面倒臭くなってしまった。部屋の時計は既に十一時を廻っていたような気がするし、慣れてくるとあのチャバネもそんなに悪い奴じゃないように思えて来たのだ。


 ゴキブリと一晩過ごすくらいがなんだ。幾らお嬢様と言ったってここは日本。日本人はゴキブリと仲良く手を繋いで生活しているようなもんだろ。ゴキブリが壁に張り付いている部屋で眠れないというのは、そりゃ好き嫌いってもんですよ。


「だったら、……もう廊下で寝ればいいんじゃないですか。結構涼しいし」


「こら! あなた、先生を床に寝かすつもり!? こんなところで眠れるわけありません。床はジメジメと冷たいし、硬いし……!」


「もうこっちは疲れてるんですよ。先生みたいにビーチで日光浴してたわけじゃないんですから。それに今何時だと思ってるんですか。これが修学旅行ならとっくに消灯時間過ぎてるんですよ。先生が生徒に夜更かしさせて、一体どういう積もりなんですか」


「うっ」


 疲れのせいか滅茶苦茶先生に逆らっているような気がするが、自分の口から正論しか出ていないのが不思議だ。それほど今の状況が理不尽だということだろう。


「……分かりましたわ。佐竹くんがそこまで言うのなら」


 東海道先生はふらりと立ち上がって、部屋に入る――と思いきや、


「わたくしにどうしろとおっしゃるの!?」

 

 と、両手を広げて退路を塞いできた。

 

「いや、ちょっ……は!?」


 何だ、その悲劇のヒロインみたいな――これじゃまるで、俺が意地悪をしているみたいだぞ。

 

「言っておきますけど、虫がいる部屋、廊下で眠るくらいなら土下座の一つくらいしますわよ。足を舐めろとおっしゃるのならそうしましょう。三回廻ってワンと言いましょう。何でもおっしゃいなさい。その代わり、何が何でも虫はやっつけて貰いますわよ」

 

「す、捨て身にも程があるでしょ……!」


 この自棄っぱちな覚悟が俺に足りなかったものなのか。


 自分の我を通すためなら、東海道先生は床に這いつくばって三回回ってワンと言って舌で舐めてついでに五体投地までキメる……その覚悟が、俺にはあるか。いや、無い。


「……」


 違うか。これはただのわがままだよな。


「え。何でもって、何でも良いんですか?」


「何でもおっしゃいなさい!」


「本当に、何でも良いんですか!?」


 にじり寄って聞き直すと、先生は息を詰まらせたように緊張した様だった。ギリギリ一歩も後ずらさないラインを守った、という感じだ。


「な、……んでもおっしゃいなさい」


 とはいえ、俺とて男子高校生の邪な部分を煮詰めた男――とまでは言わないが男子高校生である。そんな俺を前にして「何でもおっしゃいなさい」というのは、やはり並々ならない覚悟なんだろう。いや、まさか自分の担任教師に正面切ってセクハラする男子が存在するとも思えないけど。


 そのとき、俺に電撃的なひらめきが走った。


 ――そういえば東海道先生も甲塚の秘密を知る人間の一人じゃないか。


 棚ボタ的展開だが、今なら東海道先生も秘密の全てを教えてくれるのではないか。コンビニで氷室会長から聞いたときには、何だかディテールをはぐらかされたような気がしていて、真に重要なのはその部分なのではないか、という感触がある。


「あの……」


「……」


 東海道先生の緊張した面持ちに、血の色が昇ってきた。


「そのー……」


 と、ここに至って果たしてそれが正しいことなのか、という自問が浮かんでくる。氷室会長の不意打ちによって知ってしまった甲塚の秘密。幾ら不可抗力だったからと言って、本人の見えないところで調べを進めて良いものか。


 誰かの秘密を知るには、秘密以外の多くを知らなければいけないのではないか――


 以前スクランブル交差点で浮かんだ考えが、今一度顕れる。奇しくも、あの時追っていたのは変装していた甲塚で、今聞き出すのか迷っているのも甲塚の秘密だった。こうなると、甲塚という人間そのものが秘密というものを象徴をしている気がしてくる。


 ……何にせよ、俺に甲塚のことを深く知っている自負は無い。


 とはいえ、開きかけた口を閉じるわけにもいかず、

 

「今度、飯奢ってください」


 と、子供らしいお願いをしてしまった。


「あっ――あはははは!」


 ちょっと拍子抜けする程東海道先生が爆笑し始める。緊張感の後の弛緩、という気分的な落差もあってか笑いは中々引かず、先生が腹を抱える間、俺は苦笑して立っていることしかできない。


 急に何をそんなにツボったのかと思っていると、先生は潤んだ瞳を擦って、


「佐竹くん――あなたって子供ねえ! ふっ。あはははは!」とまた一頻りの笑い声を挙げる。


 ……言われて気付いたが、あの間で、あの流れで「飯を奢れ」ってのも滅茶苦茶ごちそうを食べたい子供みたいだ。とっさの言葉だったけど、今更恥ずかしくなってきた……。


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