劉玄徳立つ
光和七年(184年)、洛陽で事件が起こった。
張角の腹心・馬元義が捕らえられ、車裂きの刑に処されたのである。
同時に中常侍の封諝、徐奉といった者も連座して捕らえられる。
中常侍とは宦官が勤めている、皇帝に進言をしたり、皇帝の命令を中継する役だ。
この中常侍が十人権勢を持っているから「十常侍」と呼ばれる。
その「十常侍」の中から、政権を転覆させようとした者が現れたのだ。
恐らく封諝と徐奉は、現在霊帝の信任篤い張譲と趙忠に代わって権力を握ろうとしたのだろう。
宦官勢力だって一枚岩ではない。
この中で熾烈な権力闘争があり、封諝と徐奉が太平道を利用しようとしたのか、馬元義が封諝と徐奉を利用しようとしたのかは分からないが、それで宮中での政権交代をするつもりだった。
だがそれは、張角の弟子の唐周が、別の宦官達に密告した事で露見する。
そして霊帝が事を重く見て、三公及び司隸校尉に捜査を命じる。
洛陽では千人ばかりの逮捕者が出たという。
劉亮は、兄の劉備宛てに送られた洛陽からの手紙で、この情報を得る。
盧植の弟子である劉備は、かなりいい加減な生徒ではあったものの、人間関係だけは上手くやっていた為、同じ盧植門下の者とは繋がりを残していた。
この重要情報も、そういった同窓生からもたらされた。
この手紙を受け取った辺りから、天下は騒然とし始める。
霊帝による捕縛命令に対し、張角と太平道が蜂起したのである。
頭に黄色い頭巾をつけて目印とした為、以降「黄巾の乱」と呼ばれる反乱がついに始まったのだ。
「よし、兵を集めて盧植先生の元に馳せ参じるぞ!」
劉備が唐突にそう言い出したのは、官軍の苦戦と盧植が張角討伐軍指揮官を命じられた事を知ったからである。
まあここは史実通りだな、と劉亮の中の人が呟く。
だが、劉亮として数年を生きてきて、それ故に疑問に感じる事があった。
劉備はとっくに「漢」を見限っている。
漢という国土とかではなく、国家というか政権というか、の方をだ。
だから、いわば霊帝や十常侍を助ける形になる義兵なんか見向きもしない可能性もあったのだ。
(出世に目が眩む人でもないしなあ……)
十五、六歳の時の劉備は、まだ一族からの期待に応えるべく、孝廉の推挙を受けて地方官吏になろうとしていた。
だからこそ盧植の塾に通っていたし、洛陽にまで付いて行ったのだ。
だが漢の在り様に失望し、以降は役所勤めを目指さず、フラフラとした生活を送っていた。
それでも豪商とコネを作ったり、市場の用心棒のような事をしたり、富裕層の移動の際は護衛を勤めたりと、何かと金稼ぎ及び人脈形成は続けていたのが面白い。
だから生活に困る事は無いし、政権としての漢を見限っているから、手柄を挙げて出世、なんて思考でもないだろう。
野に在ってそれなりの「侠客」としての生き方が合っていそうだし。
「なんで義兵なんですか?
出世欲、が理由じゃないですよね?」
劉亮は兄に疑問をぶつける。
答えはあっさりしたもので
「いや、出世欲だよ」
であった。
更に劉備は説明して曰く
「『蒼天已に死す』、か。
実に面白いが、間違っている。
まだ死んではいない、これから死んでいくのが正しい。
叔朗、世は乱れるぞ!
だから俺は、蒼天が生きている内に名を売り、地位を得る。
でなければ、俺は乱世に躍り出る事が出来ない」
「清々しいまでの野心全開ですね」
「悪いか?」
「いいえ、悪くないです。
ただ兄者はそういうのを見せない人だと思っていましたので」
「弟の前で見栄を張っても仕方ないだろう」
「まあ、そうですね」
「なあ叔朗」
「はい」
「俺は大器だ何だと言われて来たが、それがどういう意味なのか分からない。
他人が言っている俺への評価に、俺自身が納得していない。
だが、俺自身の事は分かる。
俺は平和な時代ではまともに生きられない。
俺のような無頼が、一番活躍出来るのは乱世だ」
(そうだろうな)
劉亮の中の人は、歴史を知っているだけにそう思う。
平時の劉備の家系は、良くて県令が「上がり」なのだ。
とても皇帝とかになれる身の上ではない。
だが乱世であれば……。
「乱世になると思いますか? 兄者」
「なる。
……と俺は思う。
まあ俺は学が無いから間違っているかもしれないが」
「理由を伺ってもよろしいですか?」
劉亮はもっと劉備の腹の内を見たかった。
「勘だよ」
劉備の嗅覚なのだろう。
だがもっと知りたい劉亮は繰り返し問う。
「『蒼天已に死す』、あれが答えだと思う。
あんな占い師のいかがわしい予言みたいな言葉、本来なら相手にもされない。
しかし、今は多くの者が口にしている。
黄巾の徒以外も、密かに思っているかもしれない。
それ程までに今の世は行き詰まっている」
閉塞感が漂う世なれば、終末予言のようなものが流行する。
劉亮の前世でもそうだった。
だが劉亮の前世、少なくとも彼が死ぬまでは、そんな予言は当たらなかった。
劉亮は言葉を選びながら、単なる願望に近い予言は、もてはやされるが結局当たらないと兄に反論する。
「ああ、俺もその言葉は当たっていないと思う。
何故なら、死んでいくのはこれからだからな」
劉備は一息入れる。
「黄巾どもの乱が成功すれば、世は大きく変わる。
失敗しても、今と同じなら第二、第三の太平道が現れる。
漢は変わらざるを得ない。
だが、自ら変えられるかな?」
「と言いますと?」
「なあ叔朗、俺たちは洛陽を見て来たよな。
あそこに、世を変えられる者が居たか?
俺には口先だけの奴しか見えなかったぞ。
目端が利く奴は、景升殿(劉表)みたいに野に潜んでしまった」
「まあ、そうですね」
劉備程に知識人に失望していない劉亮だったが、それでも太学に居たような人たちに出来るのは現状維持、もしくは過去への回帰だけだろう。
中の人の記憶から、洛陽北門に世を変えられる怪物が居たのを知っているが、それは劉備は知らぬ事。
大体将来はともかく、当時北部尉の曹操では何程の力も持っていなかった。
「古き良き漢への回帰では解決しませんか?」
「古き良き漢って、一体何なんだ?
叔朗、お前説明出来るか?」
「まあ、他人が言っている程度には……」
古き良き漢、この場合は後漢の方なのだが、気骨の士が汚職に手を染めずに政治を行い、豪族たちが地方の重鎮として構え、その豪族たちから人材が推挙される社会。
「そうだな、それくらいは俺も分かる。
で、だ。
俺より頭が良い叔朗なら、そこに戻るかどうか、分かってるだろ。
俺は戻らんと思うぞ。
というより、そんな理想的な時代って実際に在ったのか?」
(まあ、確かに……)
後漢を支える二つの柱、簒奪を許さない気骨の士と、地方に睨みを効かせつつ人材供給源となる豪族、この二つが変わっていた。
儒学が出世の為の学問に変わって久しい。
まだまだ気骨の士も居るが、彼等はどうなった?
宦官との権力争いに負け、党錮の禁という形で追放されてしまった。
宦官に対し、豪族と気骨の士が手を組んで対抗すれば、まだ何とかなったかもしれないが、皇帝側近である宦官に対してそれをすると、乱に発展してしまうのだ。
大体、気骨の士は豪族を監視する役目も持っている。
豪族は即ち外戚となり、これはこれで漢を揺るがす「第二の王莽」になりかねないのだ。
そして地方の豪族たちは、富を中央に集めまくる霊帝たちに対抗すべく、自らも周辺の土地を取得し、富と人とを自分の下に集めて地方政権の趣を強めていた。
二つの柱の内、一方は無力である事を示し、もう一方は中央から距離を置き始めた。
これで「古き良き漢」なんか復活出来るのか?
「兄者の考えは理解しました。
盧植先生の元に馳せ参じ、名を挙げましょうぞ」
「そう言ってくれると思ったぞ、叔朗!
じゃあ早速仲間内に声を掛けて……」
「まずは一族の者に相談でしょ!」
「えーーっと、それやって、どれくらいの兵が集まるんだ?」
「うちは痩せても枯れても劉氏です。
地方豪族の端くれです。
叔父たちだって協力してくれますよ。
百人以上は確保出来ます」
「よし、じゃあそっちはお前に任せた。
俺は俺で伝手を頼ってみるからさ」
「いや、兄者が居ないと始まりません」
「任せた!」
「任されても困ります」
「どうにかしてくれ」
劉備が大器であるとされる理由の一つ、それは仕事の丸投げ気質であった。
自分が出来ない事はしない、割り切っている。
投げっぱなしだとただのブラック上司だが、劉備はキチンとケツ持ちはする。
任せた者の失敗に寛大で、自分が代わって責任を取る。
だから
「劉兄ィはいい加減で、人にすぐ仕事を振って来る。
でも、俺はあの人なら許せるし、あの人の為に働きたいって思うんだ」
と言う者は数多い。
その中に、今の所「士大夫」と呼ばれる人たちは居ないのだが。
兎に角、劉亮は劉備に丸投げされた一族への協力要請を行う。
「玄徳兄の為だ、俺に異存は無い」
劉展は胸を張ったが、こいつも大した勢力を持っていないから、兵力的には「俺一人参陣」にしかならない。
「玄徳がそう言うなら協力は惜しまない。
幾らでも金を使ってくれ」
劉元起は気前が良かったが、年配の彼は戦力としては役に立たない。
そうなると豪族としてそれなりの力を持つこの家の次期当主が頼りなのだが
「劉家の部曲から兵士として出せるのはおよそ三百人。
それを指揮するのは俺だ!
ろくに兵を集められん玄徳は、俺の指揮下で戦え」
こう鼻息が荒いのが、元起の子の劉徳然である。
(まあ、こうなるだろうなあ。
だけど、劉徳然ではダメだよ。
俺的には劉備が大将でないと)
そう思っていたら、タイミング良く劉備がやって来る。
仔細を説明したら劉備は笑って
「それで良いぞ。
徳然が大将をしろ。
俺の掛け声で集まったのは、たったの二百人に過ぎなかったからな」
一族の者は驚いた。
何やら遊び歩いているようにしか見えなかった劉備。
それが、徒手空拳で二百もの義兵を集めて来たのだから。
「でも、徳然の兵の方が多いんだろ。
遠慮なく大将をしろよ」
そう笑う劉備。
どう応えたら良いか困る劉徳然に、劉備は更に爆弾を投げつけた。
「ああ、そうそう。
張世平殿と蘇双殿から馬を提供して貰いました。
今の所、五十騎程度ですが、追加もあるそうです。
叔父上からも礼を言って頂ければ有難いです」
こうして劉家の義兵はただの義勇軍とは違う、多数の騎兵を持つ軍になったのである。
劉備の派手好きが為した事かもしれないが、それにしても一族の者たちは舌を巻いていた。
こうして劉家の部隊を率いる劉徳然も、劉備に対して上から目線で色々言えなくなってしまった。
おまけ:
劉元起・徳然親子の所しか名前出してませんが、涿県の劉氏は他にもいっぱい居ます。
劉展の父親(後で出て来ます)とかも居ますし。
劉備の母方、簡雍の方の親族も居ます。
簡雍は後漢建国者・光武帝の功臣・前将軍耿純の子孫なので、家柄は悪くない。
こういった親族・縁戚が囲い込んだ貧民から兵を出して貰えば、三百人くらいにはなるんじゃないかな。
……もっと豊かな豪族だと数千は私兵を出せたのだから。




