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「Wake up,Boy!」(3)

「……ふん」


 陽子は後方確認ミラーに映った正通と目が合うと、鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

 昨日も乗った古いBMW。岩本が運転席に座り、助手席には陽子、後部座席には正通が座っている。

 正通は自転車の回収に失敗し、再び陽子と行動を共にしていた。

 正通はたとえようのない居心地の悪さを感じながら、置物のように座っていた。時々岩本に話を振られても、「はぁ」「ええと」くらいしか受け答えができなかった。


 出社してきた岩本は挨拶もそこそこに、正通と陽子に車に乗るよう促した。

 正通の同行に不満を漏らす陽子を「まあ、いいから」と宥め、正通も何が何だかわからない間に車に乗せられた。

 後ろではユミが大きな胸を揺らしながら「行ってらっしゃぁい」と手を振っていた。


 車が向かう先は昨晩、武井が収容された佐藤医院だった。

 自転車は会社近くのサイクルショップに預かりに来てもらうよう手配した。結局、修理代は負担してもらうことになった。


 ――何だか、嫌な予感がするな……。




「おはようございます、社長。陽子に江原君、おはよう。来てくれて嬉しいよ」


 ベッドで本を読んでいた武井が爽やかな笑顔を見せた。


「武井さん、具合はどう? はいこれ、お見舞いね」


 陽子がベッドのそばにアレンジメントフラワーを置いた。オレンジのカーネーションなど暖色の花でまとめられたアレンジメントは、武井の好みに合わせて注文したものだ。


「綺麗だね……ありがとう。僕の好みを覚えていてくれたんだね、陽子。おかげで部屋の中が明るくなるよ。ここは見ての通り殺風景だから、本当に嬉しいよ」


 武井は満面の笑みで陽子に礼を言う。


「どういたしまして」


 笑顔で返す陽子の横から、正通がそっと青果店の包みを差し出す。


「あの、大したものじゃないんですが……」

「『無理しなくていい』っていうのに、江原くんがどうしてもって」


 呆れ顔で正通を見る陽子を尻目に、武井は嬉しそうに包みを受け取った。


「ありがとう、江原君。気を遣ってもらってすまないね。この香りは……桃か」

「開けてもいないのに、よく分かりますね」


 武井は手で香りを扇ぎながら笑った。


「よーく分かるよ。桃の香りは気持ちが落ち着くね。後でみんなでいただこう」

「どうも。あ……しまった!」


 正通は包みを渡してから、自分が何かを忘れていたことに気づいた。


「どうしたの? 間抜けな顔して」

「ナイフがない……」


 正通が肩を落とすと、武井は得意げな表情でラックの引き出しを開けた。


「ナイフならあるよ。紙のお皿と楊枝、ウェットティッシュもね」

「武井さん、いつの間に……」


 驚く陽子に、武井は人差し指を立てていたずらっぽく笑った。


「いいんだよ、細かいことは」

「もう。しょうがないなぁ。今、椅子を持ってくるね」


 陽子はそう言ってサイドバッグをベッドの脇にあるラックにかけた。


「いいよ、神岡さん。僕が持ってくるから」


 正通はそのまま廊下へ飛び出した。病室からは陽子が自分を呼ぶ声が聞こえてくる。


 ――まさか、こんなことになるとは。


 近くにいた看護師に聞き、病室へ丸椅子を持って来ると、陽子が腕を組んで難しい顔をしていた。

 正通に気がついた武井と岩本が頭を下げる。


「すまないね。こちらが勝手に連れて来たのにお使いだてして」

「ありがとう、江原君。君は気が利くね」


 二人に礼を言われ、正通は照れ笑いを浮かべる。


「いえ、そんな……ところで神岡さん、どうしたの?」

「うん? 君には関係ないことで困ってるの。椅子、持ってきてくれてありがと。でも、そんなに気を遣わないでね。あんまり親切なのも気持ち悪いから」


 正通の笑顔は苦笑に変わった。


「こら、陽子。そんな言い方はないだろう」

「だって、武井さん。江原くんは部外者だよ? 本当だったら昨日の時点でバイバイだったんだから。そうだ、社長。どうして彼を連れて来たんですか? 自転車は修理に出したし、もういいじゃないですか」


 あくまで部外者扱いされていることには多少の寂しさを感じたが、確かに陽子の言うことはもっともだ。


「部外者……か。場合によっては部外者ではなくなるがね」

「えっ……? 社長、どういうことですか?」


 陽子が岩本に喰ってかかる。


「あの、それってどういうことですか?」

「それは……」


 岩本が陽子と正通の質問に答えようとした瞬間、武井がすっと手を上げた。


「江原君にしばらく僕の代わりをやってもらいたいんだよ」


 一息に言うと、武井はにっこりと微笑んだ。


「……えっ?」


 病室内に正通と陽子の戸惑いの声が同時に響き渡った。

 二人は自然と顔を向かい合わせ、互いに無表情のまま動きを止めた。


「社長、武井さん。私は嫌です。断固拒否します!」


 ややあって、陽子はきっぱりと言い放つと椅子を立ち、三人に背中を向けた。


「予想通りの反応だなあ。で、江原君の方はどうかな?」


 急に水を向けられ、正通はたじろいだ。何となく嫌な予感はしていたものの、まさか武井の代わりに働けと言われるとは思わなかった。


「急にそんなことを言われても、僕は……それに今、バーガーショップでバイトしてるんでちょっと……」

「そ、無理無理。君には勤まんない仕事だよ。珍しく気が合うわね、変態くん」


 正通は陽子の背中を見つめながら、ため息をついた。

 この口の悪い、乱暴な少女の世話をすると考えただけで胃が痛くなりそうだった。


「変態くん、心配はいらないよ。拒否したからってウチは報復手段に出たりはしないから。安心して拒否しなさい。ねっ、社長」

「神岡君、誤解を招く言い方はやめなさい。江原君、スヴォーロフ・プロは一般人に危害を加えることは一切しないよ。この間も言ったが、我々はマフィアではないんだ」


 振り返って勝ち誇った笑みを浮かべる陽子に岩本が釘を刺す。

 正通はしばしの沈黙の後、遠慮がちに口を開いた。


「皆さんは悪い人じゃない……いえ、いい人だと思います。ですが、昨日の夜のことを思い出すと……僕には、とても……」


 それ以上は言えなかった。

 病室が重い沈黙に満たされる中、武井はぽん、と手を叩いて三人の視線を自分に向けさせた。


「江原君、僕は危険な仕事をしてくれと言ってるんじゃないんだ」

「え……?」


 困惑する正通に武井は人差し指を立てて、ふふっと笑った。


「陽子にはしばらく……僕が復帰できるまで処刑人としての仕事は休んでもらう。その間、江原君には陽子と一緒に行動してもらって、裏の業務に携わることなくスケジュール管理やスタッフとの打ち合わせといった仕事を覚えてもらいたいんだよ。陽子のマネージャー兼事務所スタッフというところかな」


 武井に目配せされ、岩本が小さく咳払いをする。


「時給千五百円、昇給もありだ。君さえよければ高校卒業後の進路の一つ、就職先と考えてくれていい。無論、その時は正社員としてね。交通費も全額支給しよう」

「せん……ごひゃく……えん……!」


 正通にとっては信じられない数字だった。現在の時給は九五〇円である。

 また、卒業後に就職を考えている正通は、『進路』という言葉に敏感に反応した。


「あの……それ、本当に……?」

「うわっ、お金に目が眩んでる! 変態の上に守銭奴とは、君って奴は救いようがないわね」


 陽子が呆れかえって首を横に振ると、正通は振り返って陽子をきっと睨んだ。

 これまでに見せたことのない彼の表情に、陽子は一瞬たじろいだ。


「何とでも言ってくれ……貧乏人の気持ちは貧乏人にしか分からないよ」


 正通の口調はこれまでとは違う、すれた印象を与えるものだった。


「開き直ったな……さながらダイヤモンドに目が眩んだ貫一だね、君は」


 数秒の沈黙の後、陽子がやり返す。


「神岡君。ダイヤモンドに目が眩むのは貫一じゃなくて、お宮の方だよ」

「うぅ……ごめんなさい、まだ全部読んでないんです」


 横で岩本にそっとたしなめられ、陽子は恥ずかしそうに顔を逸らした。


「……でも、どうして? スヴォーロフ・プロはそんなに人手不足なんですか?」


 正通は辛うじて冷静さを取り戻し、岩本に質問をぶつけた。


「人手はいつでも不足しているよ。我々の会社には知っての通り、もう一つの顔がある。近年はそちらの方がメインになっているが、芸能プロダクションとしての本来の仕事にもっと力を入れたいと思っていてね。その為には戦闘要員以外に平時のスタッフも必要なんだ」

「事務所にはユミさんがいますけど……あの人だけじゃ駄目なんですか?」


 陽子が頭をひねる。


「ユミさん、仕事はできるんだけど……見て分かる通りちょっとズレてるし、気まぐれなところがあるから。それに、ユミさんの仕事は他にもあるの」


 岩本も陽子と同様に「うーん」と頭をひねったが、気を取り直して話を続けた。


「山城君は……まあ、いい。話は戻るが、我が社で働く場合は多方面で最大限のバックアップをするつもりだ。もし君が進学を希望するなら、大学へ行きながら働く方法も考えよう。事務などの資格や運転免許を取れるよう勉強するのもいいね。少なくとも、他のアルバイト先より好条件であることは保証するよ」

「大学……本当に……?」


 大学進学――それは、正通が忘れかけていた選択肢だった。

 岩本の提示した条件は破格といえるものだった。

 ここまで聞いてしまった以上、断る気にはなれなかったが、どうしても正通には分からないことがあった。


「……でも、どうして僕にそこまで? その理由を聞かせてもらえないことには……どうしても理解できません。たまたま居合わせただけの僕に、どうして」


 武井が小さく頷いた。


「僕と社長が君を気に入ったから、というのでは駄目かな? 長坂君も君を気に入ったようだよ。仕事の後で目撃者と食事に行くなんて、初めてなんだから」

「気に入られてるんですか……僕?」


 正通の横で、陽子が頭に手をやって深いため息をついた。

 岩本は陽子を一目見てから、再び話に加わった。


「勿論、理由は他にもある。担当が平時の仕事のみとはいえ、我々の『もう一つの業務』について何も知らない人間を雇うわけにはいかない。その点、君は大丈夫だ。うちのメンバーと一緒に食事をしたりと、順応性もあるようだしね」


 諦めの表情を浮かべる陽子に、武井が片目をつぶって両手を合わせた。


「そして何より大きな理由は……君が信頼するに足る人間だからだ。君は命の危険に晒されながら、武井君と神岡君の身を案じて二人に危機を教えてくれた。それは、君にしかできないことだ」

「でも、あの時はもう何が何やら……それに、僕が来たことで……」


 正通の言葉を岩本が手で遮り、言葉を続ける。


「その時、君が取った行動に意味があったかは重要ではない。重要なのは、君が自分の危険を顧みず二人を助けようとした……そのことなんだよ」


 岩本はそこで一度言葉を切り、真剣な顔つきになった。


「我々が最も恐れ、憎むもの……それは裏切りだ。我々は己の為に仲間を見捨てる人間とは決して関わりを持たない」


 鋭い目をした岩本の表情に正通は思わず息を呑んだ。

 この言葉は多くの修羅場を潜り抜け、何度も裏切りに遭ったからこその言葉なのだろうか――。


 ――裏切り、か……


 正通の脳裏に、忌まわしい過去の出来事が蘇った。

 気づかれないように拳を握り締めると、陽子がこちらを見ていることに気づいた。

 「何?」と聞こうとして、思いとどまる。陽子の眼差しに、慈悲のようなものが感じられたからだ。


 ――何だよ? どうしてそんな目で僕を見るんだ?


 心の中を覗かれたような不快感を覚え、正通は陽子から目をそらした。


「で、どうだろう? 江原君」


 二人の無言のやり取りを横で見ていた岩本が、微笑みながら声を発する。正通は数秒の間を置いて、岩本の正面に向き直った。

 彼らは処刑人……凶悪犯の処刑を生業とする人達。

 何人もの人間を殺してきた人達。だが、彼らが悪人だとは思えない。

 それに――人を殺した人間が全て悪人だというならば、死刑を執行する刑務官や戦果を上げた軍人は全て悪人だということになってしまう。

 正通は自分で自分を納得させると、目を閉じて大きく息を吸った。


「申し訳ありませんが……すぐには返事ができません。今のバイト先でのスケジュールがありますので、少なくともそれを埋めてからでないと。店の人達を裏切るわけにはいきませんので……このことは店長と相談の上で決めさせてください」

「……いい答えだ。色よい返事を待っているよ。どうだい? 神岡君」


 陽子は面白くなさそうに「はーい」と返事をし、そっぽを向いた。

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