「ライブと貧乳とネコミミと」(1)
月曜日の朝――正通はいつものように自転車で登校した。
修理に出した愛車は以前よりも走りが軽くなり、学校には普段より一〇分早く到着した。
「吉岡、おはよう!」
「おはよう、江原」
先に教室に来ていた同級生の吉岡光雄に、声をかける。
「吉岡、前に貸した漫画だけどさ」
正通が話を切り出すと、吉岡は気まずい顔をしながら頭をかく。
吉岡はいつも「明日、持ってくる」と言うのだが、翌日に持ってきたためしはなかった。
「あー、ごめん……明日、持ってくるから……」
返ってきたのはいつも通りの答えだった。
「いいんだ、あげるよ」
「えっ……?」
正通はにっこりと微笑んだ。
吉岡はしばらく黙っていたが、やがて言いにくそうに口を開いた。
「ごめん、江原。ホントは失くしちゃったんだよ、あれ。新しいのを買って返すから……今日の帰り、一緒に本屋に行かないか。ずっと黙っててごめん……本当に悪かったよ」
「そっか。正直に言ってくれてありがとう。それだけで十分だよ、僕」
吉岡の謝罪を正通は笑って許した。
放課後を迎え、正通は愛車にまたがりいつもの通学路を走っていた。
現在のアルバイト先は今週の土曜日をもって退職することになった。
今日は時間も空いている為、今後のスケジュールを話し合う為にスヴォーロフ・プロの事務所までやって来たのだった。
正通は社屋の陰に自転車を止め、玄関のドアノブに手をかけた。
自然と顔が赤くなる。
二日前に訪れた時は中に入ると同時にユミに抱き締められた。あの柔らかな感触と甘い香りは、鮮烈に脳裏に焼き付いている。
――もしかして、また……!
期待に胸を膨らませながら正通はドアを開けた。木製のドアは中に何か仕込まれているのか、鉄の扉のように重かった。
「おはようございまーす! 今日からお世話になりま……あれ?」
事務所には誰もいなかった。無人の室内には時計の音だけが聞こえる。
「お留守ですか? ユミさーん?」
名前を呼んでも、返事はない。
正通が首をかしげるのと同時に、後ろで足音が聞こえた。
「あっ、ユミさ……ひっ!」
「ユミならいねえぞ。誰だ?」
正通の後ろに立っていたのは、映画の世界から飛び出して来たような典型的な悪役顔の男だった。
男は身長百九〇センチほどの巨漢だった。
夏だというのに上下黒のスーツを着て、胸のポケットにはエンジ色のハンカチを飾っていた。グレーのシャツを第二ボタンまで開けた胸元からは割れた大胸筋と胸毛が覗く。
格闘漫画のキャラクターが現実世界に飛び出して来たような、たくましい肉体だった。
「はわわ……」
「なるほど……『ハワワ』君かい。変わった名前だなァ……って、おい! そうじゃねえだろう! 俺は『誰だ』って聞いてんだよ。名前を聞いてんだよ」
これまでに聞いたことのない、ドスの利いた低い声。男の追及にようやく気を取り直し、正通は背筋を伸ばして気をつけの姿勢をとった。
「おはようございます! 今日からお世話になります、江原正通です!」
「江原……正通、だって?」
男は驚いた表情で正通を見下ろしていたが、やがて顔をほころばせた。
「はははは、ちゃんと挨拶できんじゃねえか。驚かせて悪かったな、正通よ。俺はここの所属で近江ってんだ。近江大輔。よろしくな、お前のことは聞いてるぜ」
「は、はい……こちらこそ」
近江は正通の背中をばんばんと叩きながら中に入るよう促した。
「ユミならお茶が切れたってんで、買い物に行ってるぜ。吉祥寺まで行って来るって言ってたから、すぐには帰って来ねえな。ユミが来るまでは今後の予定も立てようがねえし、しばらく中で涼んでようぜ」
「あ……そうなんですか」
怖い顔に柄の悪い服装、粗野な口調。そして初対面で名前を呼び捨てにされたにもかかわらず、不思議と正通は近江に悪い印象を持たなかった。
正通と近江は応接室のソファに向かい合って腰をかけていた。
「まあ、そう怖がるなよ。何せ悪役ばっかりやってるもんでこんな顔だがな」
「は、はい……ところで、近江さんはどんな作品に出演してらっしゃるんですか?」
場の雰囲気が気まずくなるのを恐れ、正通は思い切って話題を振った。
近江は意外そうな顔をしたが、やがてにやりと笑って手元の鞄から一冊の企画書を取り出した。
「ふふふ……普段は時代劇の斬られ役や警察ドラマの悪役が多いんだけどな。今放送中の『天保剣客秘録』、あれにも侠客の役で出演してるぜ。それで、この企画書はだな」
話に乗ってきた近江は楽しそうに企画書の表紙を正通に見せた。
――【来春公開予定映画 『真冬の向日葵』(部外秘)】――
「これって、来年に公開が決まってる映画ですよね。原作はベストセラー小説の」
「おう! この映画で役をもらえることになったのよ。どうだ、凄えだろ?」
誇らしげに言って、近江は満面の笑みを浮かべる。怖そうな見た目と違い、近江はどこか無邪気な印象を与える男だった。
「凄い! 何の役ですか?」
「主人公の住む街で横暴の限りを尽くす、ヤクザの若頭だよ」
――役作りの必要がない……
正通は笑顔のまま固まった。
「ふふ……ところで正通よォ。金曜日、現場に居合わせたって? ヒデから聞いたぜ」
「あ、はい……そうですが」
突然、近江の顔つきが真剣なものに変わる。
「あの現場に出くわしながら俺達の仲間になるとはなァ……お前はそんなに日常が嫌いか?」
「えっ……」
近江の口から聞かれたのは意外な言葉だった。
退屈な日常から離れる為に仕事を引き受けたわけではない。これまでより高い給料がもらえ、場合によっては大学進学の支援もするという破格の待遇に惹かれたからだ。
第一、自分の仕事はあくまで平時の担当であり、裏の業務には関わらないという約束である。
「お前は平時の担当だがな。それでもここで働く限りは毎日、人殺しと顔を合わせるんだぜ。無論、ここにいる俺も含めてな。それでも何とも思わないのか?」
「……そんな、僕は……」
正通が口ごもっていると、背後で勢いよく玄関の戸が開いた。
「江原君! いるんだろ!」
「は、はい! ここにいます」
聞こえたのは長坂の声だった。
応接室の衝立から身を乗り出すと、陽子と長坂の姿が見えた。
陽子は素っ気なく「おはよう」と言うと、素早く靴を脱いで奥のロッカールームへと駆けて行った。
「おはよう、神岡さん……」
陽子は高校の制服を着ていた。白い清潔なセーラー服は彼女によく似合っていた。
「これから仕事があるんだよ。一緒に来てくれ。勿論、給料は出るからさ」
「は、はい……わかりました!」
慌てて返事をする正通に、奥のロッカールームから声がかかる。
「制服だと目立つからスーツに着替えて! こっちに予備のがあるから。サイズは自分で確かめて。色は派手じゃないのを選んで。ほら、早く!」
陽子はステージ衣装を納めたスーツケースを手に、あっという間に戻って来た。
「さ、急いでくれ。イベントは七時からだからな。一時間半前には会場入りしてないと」
「は、はい……」
正通が応接室を振り返ると、近江が立ち上がってこちらを見ていた。
「近江さん……それではまた後で」
「ふふ、しっかりな。ヒデ、陽子ちゃん。ちゃんとフォローしてやってくれよ」
「心配いらないよ、大ちゃん。留守番、頼んだぜ」
笑みを浮かべる近江に長坂が手を振りながら返事をした。陽子も無言で親指を立てる。
「これでいいかな……」
ロッカーにある中から正通が選んだのは、就職活動中の大学生が着るようなチャコールグレーの三つボタンスーツだった。
ワイシャツとネクタイは学校指定のものを着用したままで、上着とスラックスを取り替える。
正通は近江に「行って来ます」と声をかけ、急いで玄関を出た。
六月も下旬の為、午後五時になっても外は明るかった。
時刻は午後六時になろうとしていた。
商店街は人で溢れていた。街灯には商店街にある各店舗の名前が書かれた提灯が下げられ、日も落ちかけて暗くなった通りをほんのり赤く照らしている。
「それじゃ、予定通りステージは七時半からね。八時からプレゼント大会と握手会です。ヒーローショーは七時からですんで、それまでに準備をよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
長坂と共に、陽子と正通も頭を下げる。
白髪で眼鏡をかけた商店街の組合会長は、昔ながらの商売人といった印象の老人だった。
「さてと、今のうちにスターク兄弟達と打ち合わせしておこう」
正通は車の中で渡されたチラシを取り出し、確認した。
「え~と、『七時からスターク二兄弟ショー』……『スタークデルタとスタークシグマがやって来る!』……二兄弟? 他の四人はどこ行ったの? スターク兄弟って六人じゃ――」
言い終わる前に陽子が正通の頭を叩いた。「すぱぁん!」と気持ちの良い音がした。
「余計なこと言わないの! 君は黙ってなさいよ!」
「うあああッ……! 頭がぁぁ……!」
革のベルトで打たれたような痛みに悶える正通の肩を、長坂がぽん、と叩き耳元で囁く。
「江原君。五兄弟を全員呼べるようなら……な、分かるだろ? それと、陽子ちゃん。現場での暴力は一切禁止って武井さんにも言われたじゃないか!」
「はいっ、ごめんなさい!」
陽子は長坂に向き直り、気をつけの姿勢を取った。
「謝ればいいってもんじゃないよ! まったく、返事だけは立派なんだから……」
正通が悶え苦しむ横で、長坂が額に手をやってうなだれた。
「あのー、すいません。スヴォーロフ・プロの方々で?」
長坂の後ろからタンクトップ姿の中年の男が声をかけた。
「はっ、はい! お疲れ様です!スヴォーロフ・プロから参りました長坂です!」
長坂は慌てて向き直り挨拶する。
次の瞬間、陽子は頭を抱える正通の両手を下から掴み、思いきり後ろへ引いた。肩の関節が無理やり回され、丸めていた背中が自然と反り返った。
激痛に悲鳴を上げそうになったが、喉元に突きつけられた陽子の手に気がつき、すんでのところでこらえる。
「お疲れ様です! スヴォーロフ・プロから参りました神岡陽子です! 本日はよろしくお願いします!」
片手で正通の両手を押さえつけたまま、陽子が挨拶をする。
正通がその張り切った様子に驚いていると、掴み取られた両手に強い力がかけられた。
「うぁ……!」
「君も挨拶しなさいよ」
小声ながら、強い口調だった。その迫力に圧倒され、正通も慌てて頭を下げた。
「お疲れ様です! 江原正通と申します! 今日はよろしくお願いします……!」
タンクトップの男が笑って頭を下げる。
「どうも。トドロキ・エンターテイメントの原と申します。今日はどうぞよろしくお願いします。早速ですが、今のうちに打ち合わせをしましょう。うちのスタッフを呼んできますんで、控室で待っててください」
原はそう言って駅前の特設ステージへと走っていった。
長坂が再び陽子に向き直る。
「陽子ちゃん……言ってるそばから暴力を振るっちゃ駄目だろ!」
「ごめんなさい。江原くんにちゃんと挨拶してもらおうと思って」
長坂が再び額に手をやる。
「君が暴力を振るったから江原君が挨拶もできずに苦しんでたんだろう? 言い訳しないでちゃんと江原君に謝る! 分かった?」
「うっ……すみません、長坂さん。江原くん、ごめんなさい」
長坂に指摘を受けて陽子は反論をやめ、正通に頭を下げて謝った。
陽子がまともに謝る姿を初めて見た正通は、新鮮な驚きを覚えた。
「いや……もういいよ、神岡さん。でも、今日は何だか張り切ってない?」
正通は「商店街のイベントなのに」という言葉を飲み込んで、心に思ったことを素直に質問した。
今日の陽子は、以前テレビで見た姿とは違って見えた。
「別に張り切ってるわけじゃないわ。ただ、今日は子供がたくさん来るでしょう。子供にかっこ悪いところを見せるわけにはいかないからね」
「意外だな。神岡さん、子供が好きなんだ」
陽子は大げさに首を横に振った。
「勘違いしないでよ、子供は嫌い。うるさいし、すぐ泣くし、言うこと聞かないし。私は子供に馬鹿にされたくないだけ」
「あ……そうなんだ」
正通には陽子の考えがよく理解できなかった。
ヒーローショーのスタッフとの打ち合わせが終わり、長坂は機材の調整を手伝っていた。
正通は機材運びなどを手伝いながら、プログラム進行の手順などをメモ帳に書き取る。
「長坂さんは役者なのに、機材の調整もできるんですね」
スピーカーの調整を終えた長坂に正通が話しかけた。
「ああ、この業界では色々知っておいた方が便利だからさ。ラジオドラマをやっていた時に音響の仕事を覚えたんだ。これからは江原君にも少しずつ覚えてもらうよ」
「はい。よろしくお願いします、長坂さん」
長坂は満足そうに笑うと、正通に対して親指を立てた。
「よし、江原君。最終リハーサルをするから陽子ちゃんを呼んで来てくれ」
「はいっ、行ってきます!」
正通はステージのすぐ近くにあるマンションへ向かった。
空き室が控室として提供され、スタッフや出演者はそこで準備や着替えを行っていた。
――まさか今日から仕事だとは思わなかったな。でも……
突然、現場に連れて来られたことに対する戸惑いは消えていない。
だが、この状況を楽しんでいるのも確かだった。近江の言う通り、自分は日常に退屈していたのかも知れない。
「……よしっ!」
深呼吸をして控室の前に立つと、正通は勢いよくドアを開けた。
「神岡さん、リハー……」
正通はその場に立ち尽くした。
ドアの向こうにいたのは、下着姿の陽子だった――。




