「輝ける道へ」(1)
時計の針が午前六時三十分を指す頃、正通はいつものように目を覚まし、狭い自室を出た。
七月も残り僅かとなり、気温は午前から三〇度を超えていた。
正通の左手には包帯が巻かれたままだった。とはいえ傷は思いの外軽く、縫合手術だけで事なきを得た。骨や神経に全く損傷がないのは奇跡としか言えないと担当医は語った。
また、これがもっと大きな口径の銃弾であれば、手が使い物にならなくなっていたかも知れないと。
台所で母――恵子と挨拶を交わし、正通は居間に足を踏み入れた。正二は仕事着に着替えてテレビを見ていた。
「おはよう、正通」
「おはよう、父さん。何、見てるの?」
正通が尋ねると、正二は「うーん」と唸った。
テレビの画面に映っていたのは、多くのマイクを向けられるクオーレ代表・真鍋公次の姿だった。
正通は画面に表示されたテロップを、声に出して読み上げた。
「……速報、ペンタメローネ活動休止。クオーレ芸能事業撤退……」
「正通。この間、テレビ局でペンタメローネのメンバーに会ったって言ってたよな?」
「そうそう。みんな、いい人だったって。何があったのかしらね」
盆に乗せた茶碗と漬物をテーブルに置きながら、恵子が首を傾げた。
――身の処し方は、わきまえているつもりだ――
真鍋の言葉を反芻しながら、正通はテレビの前で半ば呆然としていた。
陽子となつきの決闘から三週間が過ぎ、八月も中旬に入っていた。学校は夏休みに入ったが、正通と陽子は忙しい毎日を送っていた。
遊園地のヒーローショーでの活躍は口コミとインターネットで広がってゆき、陽子は『無双戦士マークセプター』本編へのゲスト出演を果たした。
突然のオファーに陽子達は耳を疑ったが、動画投稿サイトでヒーローショーの動画を観た番組のアクション担当が陽子の番組起用を提案したとのことだった。
また、演技に身が入っていなかった主演俳優を怒鳴りつけた陽子に番組スタッフの多くが好感を持っていたことから、視聴率が思うように上がらないことに悩んでいた番組プロデューサーは思い切った決断をしたのだった。
撮影現場で、陽子と喧嘩をした主演俳優は自分から頭を下げ、かつて子供達に心ない振る舞いをしたことを詫びた。そして、陽子に叱られたことでヒーローとしての自覚を思い出した、とも語った。
彼は自分が傷つけてしまった子供達を探し出し、お詫びの手紙とプレゼントを送ったことを明かした。その子供達から届いた応援メッセージを見せた時の嬉しそうな表情は、まるで子供のようだった。
陽子は胸に熱いものを感じながら、与えられた役を演じ切った。ドラマパートの演技はぎこちなさの残るものだったが、アクションパートでは見事にその本領を発揮し、出演者とスタッフを唸らせた。
出演回の放送は秋になるが、放送時の反応次第では再出演もあり得るという。それを聞いた正通と陽子は撮影所で手を取り合って大喜びし、周囲の失笑を買った。
しかし、それでも陽子は駆け出しアイドルである。テレビの仕事は少なく、基本は商店街やショッピングセンターのイベントだった。
無論、陽子もその地位を甘受しているわけではないが、以前とは違い、確実に手ごたえを感じていた。
この日、正通と陽子は岩本から呼び出しを受けて事務所へとやって来た。何故か、岩本は理由を説明してくれなかった。
「神岡さん。こんにちは!」
事務所へ通じる道路で正通は陽子の後ろ姿を見つけ、声をかけた。
「あ、江原くん。こんにちは」
陽子はにこやかに挨拶を返し、正通が追いつけるようにその場で足を止めた。
「一緒に行こうよ」
「うん」
正通は陽子と並んで歩きながら、なつきとの戦いの後で陽子が自らと交わした約束を思い出していた。
それは、正通が十八歳の誕生日を迎え処刑人として相応しいか判断を受けるまでは『もう一つの業務』には携わらず、芸能活動に専念するというものだった。
二人とも卒業後の進路が決まっていないこともあり、学業が疎かになってはいけないという岩本の意向もあった。
正通は岩本を交えた面談では口に出さなかったが、可能であれば陽子と同じ大学へ進学したいと考えていた。
「そういえば、神岡さん。今度の原さんとの打ち合わせ、楽しみだね」
「うん」
陽子は笑って頷いた。これほど自然な笑顔が見られるようになるとは、このアルバイトを始めたばかりの頃には、考えてもいなかった。
「まさか、プロモーションビデオの撮影に協力してくれるとは思わなかったよね。原さんには……感謝しても、し足りないね」
「うん、本当にね。これからはもっと、周りを大事にしなくちゃ」
陽子が以前よりも大人びて感じられるようになった。
横を歩く陽子を何気なく見る。あの夜以来、陽子はカチューシャを着けずに髪を後ろで束ねるようになった。
そんな姿をほんの少しだけ物足りなく感じていたが、すぐにポニーテールも悪くないと思うようになった。
正通の視線に気づいた陽子は思わせぶりに微笑みながら、髪にすっと手櫛を通した。
「はは……」
正通は小さくため息をつきながら苦笑した。
こういう、ちょっとした心の動きも彼女にはお見通しなのだろう。きっと、これからも自分は彼女に頭が上がらないのだろう。そう思った。
――もしも、僕に……。
「ん? どうしたの?」
「……何でもないよ」
ぼんやりと陽子の顔を眺めていた正通は、慌てて顔を逸らした。
――もしも、僕にお姉さんがいたら……こんな感じなのかな?
自分でも、何故そんなことを考えたのか分からなかった。陽子はそんな正通の気持ちを知ってか知らずか、にっこり笑って彼の背中を叩いた。
――いや、『お姉さん』というよりは……『兄貴』、かな……?
そんなことを考えながら、何気なく陽子の横顔に目を移す。
「うひぃっ」
陽子の瞳に怒りの色が見えた。
「今、とっても失礼なことを考えなかった?」
「気のせい! 気のせいだよ!」
言うが早いか、正通はその場を走って逃げ出した。
「待てぇッ!」
焼けつく日差しの中、二人は汗だくになりながら事務所までの道を全力疾走した。
「おはようございまーす!」
正通と陽子が挨拶をすると、事務所の中からは大人数の声が返って来た。玄関の下駄箱には靴が沢山あった。
「お邪魔してるよ、江原君、神岡君」
なつきが両手を前に揃えてお辞儀し、二人を出迎えた。
「は、疾風さん? どうしてここに……!」
驚く正通と陽子に、なつきはにっこり笑って見せた。
「私だけじゃない。みんなもいる」
なつきがそう言うと、香苗をはじめ、他のメンバーが横から顔を出した。
「あの時はお世話になったね、二人とも」
香苗は爽やかに言った。
「陽子ちゃん。また会えてうれしいよっ」
アズリが歯を見せて笑った。
ブランカとベアトリスはその隣でエプロンを着け、恥ずかしそうに微笑んでいた。
「……あの時のお礼をしに来たよ」
そう言うと、なつきは正通と陽子の顔を交互に見て、陽子には見えないよう正通に微笑んだ。正通はそれだけでどきっとする。
「お礼って……」
陽子が呟くと、奥から岩本が現れた。
「やあ、二人とも。この度、ペンタメローネはスヴォーロフ・プロに移籍することになったんだよ。彼女達以外の所属タレントは他に移籍することになったが、疾風君や真鍋社長に、是非にと言われてね。こちらとしても喜ばしい話だ」
「い……移籍?」
正通と陽子は突然の話に驚きを隠せなかった。
なつき達は横一列に並び、動きを揃えて頭を下げた。
「これからお世話になります。どうぞよろしくお願いします!」
一瞬の戸惑いの後、正通と陽子も揃って頭を下げた。
「こ、こちらこそ! よろしくお願いします!」
岩本は手招きをした。
「さあ、上がりなさい。これから――」
岩本が口を開くのと同時に玄関のドアが開いた。
「おっ。もう来てたのか、二人とも」
「こんにちは。お邪魔していマス」
酒屋の袋を手に入って来たのは、長坂とヴァーグナーだった。
「長坂さん! 怪我はもういいんですか?」
陽子が声を弾ませる。
「おかげ様でね。中に入ろうぜ。俺達も用意を手伝うとしよう。大ちゃんや守屋さんが向こうで腕を振るってるよ」
言われてみれば、事務所の奥にある台所からはいい匂いがしている。ブランカとベアトリスがエプロンをつけているのはその為だろう。
「こいつ、和えてくんな」
「はいよっ」
和え物の材料が入ったボウルを守屋から手渡されると、鈴木は調味料を混ぜ、菜箸で和えものを手際よく混ぜ始めた。
野菜を手早く刻む守屋の隣で、近江は揚げ物を作っていた。他のコンロでは煮込み料理の鍋がコトコトと音を立てている。
「なんだか、お店みたい……」
陽子と共に事務所に入った正通が感心して呟く。
「おっ! 正通、陽子ちゃん! ちょうどよかった。陽子ちゃんは厨房を手伝ってくれ。正通は……そうだな、食器の用意でもしてくれ。おーい、ベア子。またちょっといいか?」
ブランカと香苗が思わず吹き出す。
「まったくもう! 勝手に変なあだ名、つけないでよ! だいたい、『Bear』はあんたの方でしょうが! そんなに大きくて、毛深いんだから!」
「がははは。うまいこと言うじゃねェか。そういや、俺の高校ン時のあだ名は『熊五郎』だったっけなァ」
ベアトリスが顔を赤くしながら近江の元に歩み寄る。正通と陽子は顔を見合わせて笑った。
「じゃ、江原くん。私は厨房を手伝うから、他の所を手伝って」
ユミからエプロンを受け取ると、陽子はうきうきとした足取りで台所に向かった。
――そういえば、料理は武井さんが教えてくれたって言ってたな。神岡さんの料理って、おいしいのかな?
あの粗暴な陽子がどんな料理を作るのか、いま一つ想像できなかった。
「江原君」
「あ、はい」
正通が振り向くと、なつきが笑顔を向けていた。
「あ……!」
しばらくの間、今の状況が理解できなかった。なつきが自分達の仲間になったのだという事実を、頭脳が未だ完全には理解していなかった。
「一緒に食器でも運ぼうか。私は料理が不得手なものでね」
なつきが恥ずかしそうに肩をすくめる。それは彼女が初めて見せた、可愛らしい態度だった。
「はい……疾風さん」
これからは、憧れの人と毎日顔を合わせられる。これまで知らなかった表情を見られる。
夢にも思わなかったことが……日常になるのだ。




