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「あなたの何かになりたい」(1)

 夜の街を、自転車で駆け抜ける。

 正通はペダルを漕ぎながら、昼間の出来事を思い起こしていた。




「そうだ! 神岡さん……この間は、助けてくれてありがとう」

「ほぇ?」


 陽子が口をもぐもぐさせながら、目を丸くして正通の顔を見つめる。


「いや、その……まだお礼を言ってなかったからさ」


 正通が照れ臭そうに言うと、陽子は笑って首を横に振った。


「仲間を助けるのは当たり前でしょう。それに、長坂さんが言ったように私達には君を巻き込んだ責任があるんだから。お礼なんか言わなくていいよ」

「あ、うん……」


 陽子があまりにもまともなことを言うので、正通は二の句が継げなかった。


 ――この娘って、こんなまともな娘だったっけ――?


「そうだ。さっき事務所に寄って来たんだけど、社長やユミさんが心配してたよ。アンドレさんも。明日あたり事務所に顔を出した方がいいんじゃない?」


 陽子はしばし考え込む素振りを見せてから、正通の目を見て頷いた。


「……そうだね。あんまりみんなに心配かけちゃ、いけないよね」

 ――おかしい。神岡さんがこんなにまともはずはない……。


 正通は陽子の視線に気恥ずかしさを感じ、思わず視線を逸らした。


「そういえば……近江さんは正月公開の映画に出るんだってね」


 気まずさを紛らわす為に正通が選んだ話題は、自分達とはあまり関係がないものだった。

「ああ、あれ。武井さんが取ってきた仕事ね」

「え……そうなの?」


 陽子は微笑みながら頷く。


「正確にはオーディションだったんだけど、キャスティングの話を知った武井さんが監督とプロデューサーのところに押しかけたんだって。『悪役なら彼で決まりですよ』って。そのことがオーディションで有利に働いたみたい。近江さんの顔を一目見て『あの話は嘘じゃなかった』って。それを知った近江さんは苦笑いしてたけど」


 武井に関する話題を振ってしまったことで「しまった」と思ったが、予想に反して陽子は楽しそうに話している。


「そういえば社長が言ってたんだけど、武井さんは醤油と味噌も自分で作れるんだってね」

 思い切ってもう少し話題を掘り下げてみる。


「それ、武井さんがコンゴにいた時の話ね。納豆も作ってみたけど、誰も食べようとしなかったって言ってたっけ」

「ははっ、いきなりあれを出されたらびっくりするだろうね」


 ……会話が弾んでいる。

 まさか彼女とこのように自然に会話ができるとは思っていなかった。


「私に料理を教えてくれたのも武井さんなんだよ」

「へえ、そうなんだ。武井さんは何でもできるんだね」


 陽子がにっこり笑って頷く。


「料理もそうだし、勉強だって教えてくれた。身体の鍛え方や格闘技、武器の扱い方に戦術の基礎。全部、武井さんが教えてくれた。勿論、社長や他の人達に教わったこともたくさんあるけれど……一番多くのことを教えてくれたのは武井さんなんだ」


 陽子は武井との思い出を語って聞かせた。

 事務所のスタジオ兼道場で毎日ひっくり返るまで武術を叩き込まれたこと、ナイフなど必要最低限の物だけを持って長野の山中へキャンプに連れて行かれ、熊に遭遇したこと。

 そして信じがたいことに、武井が素手でそれと戦い、気絶させてしまったこと。

 二人でたまたま入った食堂の店主がギックリ腰になり、成り行きで武井が店主の代わりに腕を振るったこと、喫茶店に入れば武井は決まってクリームソーダを頼むこと……。


 正通はひそかに胸の高鳴りを覚えていた。

 陽子がこれほど自然な笑顔で話すのを見たことがなかった。その笑顔は、これまでに見たどの表情よりも魅力的だった。


「武井さんは私の先生なんだ。困った時にはいつも助けてくれた。伯父さん達にも世話になったけれど、私の後見人になってくれたのも、父の遺産整理をしてくれたのも武井さん。おかげで奨学金を申請しなくても学校に通えるし、あまり贅沢はできないけれどお金に不自由したこともない。いつか恩返ししなくちゃって……思ってたんだ」


 陽子は話している途中で声を詰まらせた。

 正通は突然のことに戸惑い、持っていたカップを慌ててソーサーの上に置いた。


「……だから……だからっ……!」


 とうとう陽子が涙をこぼし始めた。正通は再び「しまった」と思った。


 ――やばい。これって、僕が泣かせたのか?


 正通はなんとか陽子をなだめようとするが、うまく言葉が出て来ない。

 陽子は顔を手で覆い、声を殺して泣き続けた。


「ご、ごめん! 僕、そんなつもりじゃ……」

「なんで……なんで君が謝るの? 何も悪いことなんかしてないじゃない……!」


 陽子は涙に濡れた目をこすりながら声を発した。

 正通は涙を流す陽子の姿を目の当たりにして確信した。

 陽子は武井を一人の男性として愛しているのだと――。

 孤独な陽子を助けた恩人であり、生活の術と戦いの術を授けた師である武井は、陽子にとって家族や師以上の存在だったのだ。

 武井の失踪は陽子にとって、愛する人に捨てられたことを意味していた。

 正通は大切な人に捨てられることの苦痛を知っている。それだけに、安易な励ましの言葉をかけることはできなかった。


「……本当は、君に感謝しなきゃいけないのに」

「……え」


 正通に陽子の言葉の意味が理解できるはずもなかった。


「……どうして……」


 涙を拭った陽子がゆっくりと顔を上げる。その視線が正通の瞳を貫いた。


「君の言葉が、武井さんの迷いを打ち払った。武井さんは、きっと君に感謝してる。だから私も……君に感謝しなきゃいけない。君のおかげで、武井さんは――」


 毅然とした表情。しかし、その瞳からは再び涙が溢れていた。


「神岡さん……もう、いいよ! ……ごめんッ、僕は……!」

「……謝らないで。君は……何も悪いことなんかしてないんだから……!」


 室内に気まずい沈黙が訪れた。重い空気に耐えられず、正通は顔を伏せた。

 どれほどの間そうしていただろうか、沈黙を破ったのは陽子だった。


「……江原くん」

「な、何?」


 正通は顔を伏せたままで問いかけに応じた。


「お茶のお代わり、いる?」


 意外な言葉に思わず顔を上げた。陽子はじっとこらえるような、しかし寂しげな表情を浮かべていた。


「……うん。ありがとう」


 ひどく喉が渇いていた。


「待ってて。今、淹れ直すから」


 陽子はそう言うとポットを持って席を立ち、台所へ向かった。

 正通にはその背中を見つめることしかできなかった。


 結局その後は会話らしい会話もせず、ただ出された紅茶を飲み、ケーキの残りを食べただけだった。

 そして――正通は逃げるようにして陽子のアパートを後にしたのだった。




「江原くん……こんな時間にどうしたの? 忘れ物でもしたの?」


 陽子は驚きと困惑の表情を浮かべながら、正通を迎えた。

 陽子のアパートに着いた頃、時刻は午後九時を回っていた。


「神岡さん……お願いがあるんだ」


 その真剣な眼差しに眉をひそめる。そして――。


「僕を君の専属マネージャーにしてください!」


 突然、頭を下げた。


「えぇ? ちょ、ちょっと。頭、上げてよ。いきなりどうしたの? まさかそれを言いにわざわざ電車賃かけてきたわけ?」


 正通は顔を上げ、首を横に振った。


「電車賃がもったいないから自転車で来たよ」


 陽子は額を手で押さえてため息をついた。

 正通は陽子の顔を正面から見据え、拳を握り締めながら言葉を発した。


「神岡さん……みんなに愛されるアイドルになろう。僕と一緒に」


 その言葉に、陽子が眉をぴくりと動かした。


「『みんなに愛されるアイドル』……?」


 その瞬間、陽子の周囲の空間が歪んだような錯覚を覚えた。彼女の瞳の色が困惑から怒りへと変わっていくのがはっきり分かった。


「どうして……君がその言葉を口にするの」


 怒りに満ちた目を向けながら、陽子が静かに言った。

 正通はその威圧的な表情に気圧されながらも、勇気を振り絞って口を開いた。


「武井さんの願いを僕が代わりに叶える。だから、一緒に頑張ろう」


 言い終わると同時に、左の頬に鈍器のようなものがぶつかり、暗闇の中に火花が見えた。


「あ……あれ……?」


 目の前に光がちらつき、何も見えない。

 気がつけば、玄関が並ぶ廊下に横たわっていた。左の頬は凄まじい熱を発し、段々と痛みを感じ始める。

 ようやく視界が元に戻った頃、自らを見下ろす陽子と目が合った。


「……立ちなさいよ」


 陽子がそっと手を差しのべる。

 正通が呆然と右手を伸ばすと、陽子は思いきりそれを引っ張り、無理やり立ち上がらせた。

 あまりに凄まじい力に肩と肘、手首の関節が悲鳴を上げる。


「うあっ……」


 陽子は正通の片手を掴んだまま、右ストレートを繰り出した。

 拳は顔の正面にヒットし、再び目から火花が出る。

 掴まれたままの右手に大きな負荷がかかり、関節が激しく軋んだ。鼻からはボタボタと血が滴り落ちる。


「君が代わりに……? 武井さんの代わりに? 馬鹿なこと言わないでよ!」


 そう叫ぶと陽子は正通の手を離し、腹部に強烈なボディブローを見舞った。『逆鱗に触れる』……正通はこの言葉の具体例を、身をもって知った。


「がはッ!」


 腹部から全身に突き抜ける痛みと脱力感にたまらず膝を着く。気絶してしまいそうな痛みに耐えながら、それでも正通は立ち上がった。


「そうだよ、僕が武井さんの代わりに……!」


 残った力を振り絞り、なんとか声を発する。


「君は……武井さんの代わりになんかならない!」


 冷たく光る陽子の目と自らの目が合った瞬間、またしても陽子の鉄拳が顔面を襲った。

 身体は真後ろに吹き飛ばされ、コンクリートの床に激しく背中を打ちつける。衝撃が肺まで伝わり、呼吸が満足にできない。

 激しく咳き込みながら目を開けると、こちらに近づいて来る陽子の姿が目に入った。

 陽子は目の前まで来て歩を止める。間違いない、こちらが立ち上がったところを殴る気だ。


「くっ……うぅっ……」


 正通は立ち上がった。とにかく立たねばならないと考えていた。

 陽子は拳を振りかぶり、正通の顔面に放った――!


「…………?」


 痛みはなかった。

 その代わりに、風が顔に当たったような感覚があった。

 反射的につぶった目を、おそるおそる開ける。拳は顔面の数センチ先で止まっていた。

 視線の先で、陽子の瞳が揺れている。

 やがて陽子はゆっくりと拳を下ろし、ぺたりとその場に座り込んだ。

 緊張の糸が切れ、倒れ込む正通の肩を陽子の手が支えた。


「江原くん……ごめん……私……!」


 陽子の声は震えていた。


「神岡さん……これ」


 正通が懐から取り出した物を見て、陽子は息を飲む。武井の手帳だった。


「どうして……君がこれを持ってるの?」


 陽子は震える手で正通から手帳を受け取った。


「社長から……受け取った。これを、僕に渡して欲しいって……書き置きが、あったって」


 正通は息も絶え絶えに語り、ゆっくりと身体を起こした。


「どうして……どうして君なの」


 陽子は肩を震わせながら手帳を胸に抱いた。その目からは涙が溢れていた。


「ごめん……僕にはわからない。でも、添えられていた手紙には……神岡さんと過ごした時間が人生で一番幸せだった、って書いてあったよ」

「うぅっ……あうっ、うっ……!」


 陽子は声を上げて泣き始めた。正通は片手を伸ばし、そっとその肩に触れた。

 陽子は正通の手を振り払おうとはしなかった。


「神岡さん、改めてお願いします。僕を君の専属マネージャーにしてください」

「嫌だよ……馬鹿。君のことを仲間だとは言ったけれど、パートナーだと言ったわけじゃないんだから。ボルシチで顔を洗って出直して来なさいよ……!」


 目をこすりながら陽子が憎まれ口を叩く。


 ――ああ、これだ。いつもの神岡さんに戻ってきた。

「神岡さんは唄えるし、踊れるんだ。いつまでもこのままじゃ駄目だ」

「偉そうな口を利かないで!」


 正通の顔面を再び何かがヒットする。が、先ほどのような激しい衝撃はない。

 これは――拳ではない。平手打ちだ。


「……君に。君に私の……何が分かるっていうの」


 陽子は潤んだ瞳でこちらを睨みつけながら、大きく肩で息をしていた。

 正通は大きく息を吸い込み、陽子の問いに答えた。


「分からないよ、何も。でも……神岡さんが綺麗だということは分かる」

「……っ! な、何言い出すの、急に……!」

「神岡さん。初めて会った時……あの建設現場で会った時。僕は神岡さんの戦う姿を見て、本当に綺麗だと思った。誰かを見てあそこまで強く思うのは初めてかも知れない。もっと上を目指そう。僕はもっと多くの人に、神岡さんの魅力を知ってもらいたいんだ」


 まるで、愛の告白のような言葉だった。

 陽子は再び正通と向き合った。

 正通が陽子の目をまっすぐに見つめると、陽子は目を逸らすことなく、その視線を受け止めた。

 これまでに見せたことのない、真剣な表情で――。


「生意気だよ、君は……」

「そうかも知れない。でも、僕はもう覚悟を決めたんだ。一緒に行こう」


 正通はあちこちが痛む身体に鞭を入れ、ゆっくりと立ち上がった。


「行くって、どこへ?」


 陽子は床に座り込んだまま、正通を見上げた。


「今から事務所に行って、社長に頼み込むんだ。神岡さんは自転車の後ろに乗って」

「駄目だよ」


 陽子は顔を背け、はっきりとした口調で言った。


「え……」

「二人乗りは駄目。道交法違反だよ。それに事務所まで何キロ離れてると思ってるの。電車で行きましょう」


 そう言うと、陽子はすっくと立ち上がった。


「君が私の専属マネージャーになれるかは私だけじゃ決められない。それに、君は専属マネージャーとはどういうことか、分かっていないわ」

「……武井さんのように、『もう一つの業務』のサポートもするってことだね」


 陽子は正通に背を向けた。


「そう。君にその覚悟はあるの? これまでの日常を捨てる覚悟はあるの?」

「あるよ。そのつもりで来たんだ」


 陽子は無言で頷くと、自室のドアを開けた。


「傷の手当、しなきゃ」

「……あ、ありがとう……」

「お礼なんか言わないで。君を殴った私が悪いんだから」


 陽子は背中を向けたまま、バツが悪そうに呟いた。

 傷の手当てを済ませた後、二人は電車に乗って事務所へ向かった。

 アパートを出た時点で、時刻は午後九時半になろうとしていた。

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