「放課後、お茶の時間。」(2)
「父さん、そろそろチャンネル変えてもいい?」
正通は居間の野球中継を観ている父――正二に声をかけた。
「ちょっと待ってくれよ、この回が終わるまででいいからさ」
「父さん、さっきもそう言ってたじゃない。そろそろいいでしょ? 今日の特番にはペンタメローネが出るんだからさ」
どこの家庭でもよくあるチャンネル争い。微笑ましい光景だった。
「ペンタメローネか。お前も芸能マネージャーなんだから、そのうち疾風なつき本人に会えるかも知れないな」
「そうなれるといいんだけど……」
正通は苦笑しながら答えた。
「ちょっと、正通。もうすぐ用意ができるんだからテーブルの上、片付けて」
台所から声をかけるのは正通の母――恵子。
「はいはい。今、片付けるよー。父さん、その回が終わったら観せてよね」
正通はテーブルの上の雑誌を片づけ、乾いた台拭きを持って席を立った。
「ははは。悪いな、正通」
正二の声を背に受け、正通は台所へ向かった。
「いただきます」
三人の声がぴたりと揃う。
誰かが音頭をとることなく、自然なタイミングで声が揃うようになって、もう何年も経つ。
江原家は仲の良い家族である。
両親は共働きで忙しく正通も学業とアルバイトで忙しいが、夕食は可能な限り家族で共にするようにしている。それも、一度は壊れてしまった家族の絆を保つ為に大切なことだと家族全員が考えていた。
この晩の献立は――麦入りご飯にわかめと豆腐の味噌汁、ほうれん草のごま和えにメカジキの照り焼き、冬瓜と鶏そぼろのあんかけ、きゅうりと人参のぬか漬け。
栄養も彩りも申し分ない。
「ぷはぁ。それにしても大きいね、このカジキ」
正通が味噌汁を一口飲んで言った。
「でしょう? 百グラム百九十八円のところを半額で売ってたのよ」
恵子は小振りの飯茶碗を手に、嬉しそうに言った。
「うんうん。脂が乗ってて旨いな、これは」
正二が照り焼きを一口食べて、顔を綻ばせる。
正二の髪は半分以上が白くなっており、四十五歳という年齢よりも老けて見える。彼も若い頃は小さいながら金属部品製造会社を経営し、品質の良さから会社の経営状態は堅調だった。
しかし、安い海外製品が流通するようになって経営は徐々に悪化、五年前に廃業した。
会社の経営が悪化していた頃は、正通にとって思い出したくない出来事ばかりだった。
正二は毎晩大量に酒を飲むようになり、家族に手を上げた。
給料の支払いが滞ったことから、それまで家族のようだった社員は一人、また一人と去って行った。
給食費を滞納したことで正通は担任教師にクラスメイト全員の前で辱められた。
借金の返済を迫る取り立て屋は何度も自宅に押し掛け、怖い思いをしたことは数知れない。
耐えかねた恵子が二人を見捨てて家を出た時の絶望感は、それまでに味わったことのないものだった。
金がないというだけで、何故こんなにも惨めな思いをせねばならないのか――?
世の不条理に耐えるには、当時の正通はまだ幼すぎた。
正通にとって、家族にとって忘れられない出来事があったのは五年前、会社が廃業してすぐのことだった。
恵子が家を出て半年余り、借金から逃れる為に正二は十二歳の正通を連れて夜逃げをした。しかし五日後には居所が知れ、取り立て屋が家に押し掛けるようになった。
そんなことが続いたある日、正通に興味を示した闇金業者が正二にある提案を持ちかける。
極度の心労と酒毒に追い詰められた正二は、あろうことかその提案を飲んでしまった。
「もう取り立てで怖い思いをしなくて済むようになるんだからな」
小学六年生だった正通にも、これから何をされるのか、ある程度の想像はついた。
それでも、数時間の我慢だけで辛い思いをしなくて済むようになると考えると、父の非道な申し出を承諾せざるを得なかった。
高級マンションの一室で正通を待っていたのは、想像を遥かに超える恐怖と恥辱だった。
それは、生命の危機すら感じるほどだった。
いつ終わるとも知れぬ悪夢のような時間は突然、終わりを告げた。
部屋の外で火災が発生したのだ。
周囲は大変な騒ぎになり、正通は隙を見てその場を逃げ出した。
ロックがかかっていたはずの玄関のドアは、押すだけで簡単に開いた。
その場を逃げ切った正通の心は、自分を悪人に売り渡した父への怒りと憎悪で煮えたぎっていた。
殺意を胸に夜の街を二時間以上歩いて、ようやくたどり着いた家。玄関は開け放たれ、複数の人間が土足で踏み込んだ足跡があった。
それを見た瞬間、父への殺意は吹き飛んだ。
廊下に倒れる父の顔と身体にはひどく殴られた痕があった。そして、傍らには病院から処方された睡眠薬の袋と「正通 ごめん」と殴り書きされたメモ用紙があった。
正通はこの状況をすぐに理解した。
父は自らの過ちに気づいて、息子を取り返す為に取り立て屋に連絡を取り――彼らの怒りを買い、暴行を受けたのだ。
そして、絶望から自殺を図ったのだと――。
幸いにも、発見が早かった為に正二は一命を取り留めた。
二日後、昏睡状態から目を覚ました正二の傍らには正通と恵子がいた。
岐阜県内の旅館で仲居として働いていた恵子は、警察からの連絡を受けて帰って来たのだった。
恵子は正二を責めなかった。
正通は恵子にも警察にも、あの晩の一件を話していなかった。
正二は涙を流して二人に詫び、一家は泣きながら家族三人での再出発を誓った。
その二日後、正通らはあの闇金業者と取り立て屋が交通事故で死亡したことをニュースで知った。
正通は生まれて初めて、心から人の死を喜んだ。
その後、両親は三年かけて借金の多くを返済し、正通は学費の安い公立高校へ推薦入学する為、真剣に勉強した。
そして正通の志望校合格の日、正二は二人に土下座して過去の暴挙を詫びた。
正二が倒れた晩の真相を知った恵子は泣きながら何度も正二に平手打ちを見舞ったが、それでも「別れよう」とは言わなかった。
借金の完済が間近となった現在でも、三人それぞれが自らの行いに負い目を感じている。
正二は借金で二人を苦しめ、息子を売ったこと、恵子は二人を見捨てて出奔したことに。そして正通は父を殺そうとしたことに。
三人全員が過去の行いを悔い、負い目を感じているからこそ、現在の家族の結束がある。
今日も正通達三人は談笑しながら団欒を楽しんでいる。
あの頃――五年前には再びこんな日が来るとは、考えもしなかった。
――家族……か。
正通は箸を止め、味噌汁の水面に映った自分の顔をじっと見つめた。
――神岡さんは一人で夕飯を食べてるんだろうか……
「それではお迎えします! ペンタメローネの皆さんです!」
MCのアナウンスと共に、華やかで可憐なステージ衣装を身に纏ったペンタメローネのメンバーが画面に姿を現す。正通は慌ててテレビに向き直った。
「こんばんは! よろしくお願いしまぁす!」
メンバーを代表し、疾風なつきが爽やかに挨拶する。
スタジオは盛大な拍手に包まれた。
――疾風さんは、いつ見ても綺麗だなぁ。
お椀を片手に、正通は思わずうっとりする。
つられて正二と恵子も画面に釘付けになる。
「それにしても……香苗君は、女にしておくのがもったいないわねえ」
恵子の視線の先には、ベース・真崎香苗が映っていた。
スタンドカラーのシャツに黒のベスト・スラックスという男装に身を包み、その笑顔からも精悍な印象を受ける。男顔負けのダンディな雰囲気から、ファンの間では『君』付けで呼ばれるのが定番になっていた。
「こういう格好が似合う人、男でもなかなかいないわよ」
正二が口をへの字に曲げて顔を背ける。
男装の麗人に嫉妬する男。奇妙な光景だった。
「夢を目指す全ての人に、この歌を送ります! 『真紅の荒野へ』!」
スタジオ中を埋め尽くす大歓声の中、ギターの音と共に前奏が始まる。
「凄い……」
四人の演奏が一体となり、質量を感じさせるほどの立体的なサウンドがステレオから伝わってくる。
やがてそれに加わる、なつきの華麗な動きと美しい歌声。ライブでありながら、その演奏と歌唱には一分の隙もない。
ふと、正通はスクラップヤードでの戦いを思い出した。
武井の携帯電話から送信されたメールと、それに添付されていたメロディ――『ドロメアス』。
今にして思えば、あれは武井による反撃の指示だったのかも知れない。
まったくの偶然だが、陽子が誤って曲を再生した瞬間から形勢が変わった。
偶然に違いないが、『偶然』という言葉で片付けるには惜しい出来事。
天が、空が意思を持っているかは別として、それはまさしく『天の助け』だった。
曲は間奏に入り、なつきが切れの良いステップを踏む。
――この動き……!
正通の脳裏に、陽子が戦いの際に見せた華麗な舞いが蘇る。
人気・実力共にトップクラスの疾風なつきと、三流アイドル・神岡陽子。二人の姿がオーバーラップした。
建設現場での戦いが脳内で再生される。
銃弾をかわしながら悠然と歩く武井。
空から舞い降りるように姿を現した陽子。
二人の放った銃弾の前に次々と倒れる兵士達。
そして正通は、自分があるものを忘れていたことに気づいた。
「ごちそうさまでした……母さん、残りは後で食べるからラップしてもらえるかな?」
「しょうがないわねぇ。後でちゃんと食べるのよ?」
正通はぺこりと頭を下げると、席を立った。
「何だ、まだ曲が途中なんだぞ?」
正二が目を丸くして正通に問いかけた。
「うん、今はちょっといいんだ。録画してるから後で見るよ。それじゃ」
いそいそと自室へ向かう正通の背中を見送ると、正二と恵子は珍しいこともあるものだ、と顔を見合わせた。
自室へ戻った正通は鞄を開け、武井から託された手帳を取り出した。
詳細に書き込まれた仕事の段取り、スケジュール。休憩時間や移動方法、食事の管理などの記述からは、陽子に対する細やかな心遣いが感じられた。
「武井さん……神岡さん」
武井との思い出を楽しそうに語って聞かせた陽子。
武井を想い、涙を流した陽子。
昼間の出来事と相まって、陽子と武井の絆の深さが手帳から伝わってくる。
武井本人に頼まれたとはいえ、あまり深く考えもせずにマネージャーを引き受けた自分を恥ずかしく感じた。
「……あれ?」
手帳をめくっているうちに、革のカバーに切れ目が入っていることに気がついた。よく見ると、切れ目からは折り畳まれた紙がのぞいている。
カバーを外してみると、綺麗に折り畳まれた便箋が姿を見せた。
「これは……」
手帳を机に置き、便箋を広げる。
丁寧で読みやすい字が目に入ってくる。武井が正通に宛てて書いた手紙だった。
拝啓
江原君、今回のことで君をはじめ会社のみんなに迷惑をかけてしまい、申し訳ありません。
特に陽子は僕がいなくなったことで落ち込んでいることと思います。
しかし、どうしてもそうせざるを得なかったことをどうかご理解ください。そして君にはこれからも陽子のマネージャーを続けてほしいと思います。
これは他ならぬ君だからこそのお願いです。僕が持っていないものを持ち、その若さで人の痛みを知っている君は陽子にとって必要不可欠な存在となるはずです。
勝手な願いをお許しください。僕は、陽子がみんなに愛されるアイドルになることを願っています。そして、その為に陽子を支えることができるのは君だけだと思うのです。
君と初めて会った時、君には人を導く力があると僕は感じました。
だからこそ、僕は君に陽子を託したいと思いました。
これまでの人生を振り返れば、僕が陽子と共に過ごした時間は、僕の人生で一番幸せな時間でした。プロダクションの皆が僕を必要としてくれたことも、心から嬉しく思っています。
しかし、どうしても僕は異国の地への思いを捨て去ることができません。
僕は自分自身の力を最大限に役立てられる場所へ行きます。君がこの手紙を読んでいる時点で僕は日本にはいないでしょう。
陽子やみんなには、どうか僕のことは心配いらないとお伝えください。
それでは、陽子のことをくれぐれもよろしくお願いします。
世界のどこかで君と陽子の成功を心から願っています。
いつか再び会える日を信じて――
武井駿介
敬具
「そんな……一方的じゃないか……!」
正通には理解できなかった。自らを慕う人を捨ててまで戦いに赴く武井の心が。
――武井さんは、神岡さんの気持ちに気づいているはずだ。気づいていないはずがない。武井さんほどの豊かな感性を持つ人が、気づいていないはずがない――。
そう考えて正通は、はたと気づいた。
――いや……だからこそ、なのかも知れない――。
武井は陽子の気持ちを知っているからこそ、姿を消したのではないか。
彼女の気持ちに応えられない理由があったのではないか。
――僕には人殺し以外の取り柄がありません――
脳裏をよぎったのは、武井が岩本に語ったという言葉だった。
武井は血生臭い過去を持つ自分を、陽子には相応しくない人間だと考えていたのか。しかし、そうだとすれば――。
――武井さんは、どうして神岡さんをあの道に引き込んだんだ?
陽子の話を聞く限りでは、彼女を処刑人として育て上げたのが武井であることは間違いない。
――そもそも、どうして神岡さんは処刑人なんて仕事を……?
これまで、口にするのをずっと避けてきた疑問。
しかし、果たして今の自分にそれを聞く権利があるだろうか?
自分は仲間として、彼女にそこまでの信頼を受けているだろうか?
――仲間を助けるのは当たり前でしょう――
正通は、数時間前に聞いた陽子の言葉を思い出した。
――仲間。今日、確かに神岡さんは僕を仲間だと言ってくれた……。
脳裏に蘇る、陽子の無愛想な顔。食事中の幸せそうな笑顔。
そして、空を舞い戦う姿。戦う陽子の姿を初めて見た時、正通は彼女を美しいと感じた。
――そうだ……神岡さんは美しい。だから、今のままではいけないんだ。
ここ最近の活動記録を見るべく、手帳を開いた。
ページの所々に赤茶色の染みがあることに気づいた。
それが、武井が自分をかばって撃たれた時の血だと分かった。
「武井さん……」
正通は手帳を閉じ、ゆっくりと立ち上がった。




