「放課後、お茶の時間。」(1)
武井の行方はようとして知れなかった。
武井の住むアパートには彼が戻った形跡はなく、岩本は警察に捜索を要請した。
武井が失踪して五日が経った。
この日は授業が午前で終了した為、正通が事務所へ到着した時刻は午後一時過ぎだった。
「おはようございまーす!」
挨拶と共に玄関のドアを開けると、見たことのない男が室内にいた。
「おはようございます。どうぞよろしく」
男はにっこり笑うと、丁寧に頭を下げた。背の高いアフリカ系の男だった。
面長で目鼻立ちのはっきりした好男子。日本語にもあまり不自然さは感じられない。
「はじめまして。僕は江原正通と申します。よろしくお願いします」
「私はアンドレ・ンコンボです。どうぞよろしく」
――アンドレさんか。確か、コンゴで社長と一緒に戦ってたっていう――。
フランス風の名前から白人だと思っていたが、アフリカ系だった。
アフリカ系の外国人と直接触れ合う機会は多くない為、自然と緊張してしまう。
すると、正通の心を見透かしたかのように、アンドレは歯を見せて笑った。
「大丈夫です、日本語はよく分かるから。緊張しなくていいですよ。私の苗字、ンコンボは言いにくいからアンドレと呼んでください。みんな、そう呼んでます」
「は、はい……アンドレさん」
正通はおずおずとアンドレの差し出した手を握った。
「江原ク~ン! お久しぶりぃ!」
「あっ、ユミさん……」
アンドレの後ろからユミが姿を見せる。次の瞬間、正通はユミの熱い抱擁を受けた。
「もぉ~。最近来てくれなかったからぁ、寂しかったのよぉ」
「もがッ……」
顔に押し当てられる柔らかな感触と鼻腔をくすぐる甘い香り。一気に体温が上昇し、何も考えられなくなる。
アンドレはそんなやり取りを笑顔で見守っていた。
「ねっ、早く上がって、上がってぇ」
ユミは正通を抱擁から解放すると、手を引いて中へ入るよう促した。
「は、はい。ユミさん、この間は大変だったんですね。大丈夫でしたか?」
「江原クンっ……!」
ユミは正通の目を見つめながら、突然震えだした。
正通はまずいことをしたと思った。先日の恐怖が蘇ったのかも知れない。
「心配してくれてたのねぇ! ユミ、とぉっても嬉しいっ! うふふふっ……!」
言うが早いか、ユミは再び正通を抱き締めた。正通は再び顔を赤くしながらほっとした。
応接室へ通されると、岩本がソファに座っていた。
「やあ、江原君。五日ぶりだね」
「おはようございます、社長。先日はどうもありがとうございました」
岩本は笑って首を横に振る。
「いいんだよ、江原君。今日は今後の仕事について話をしたいんだが、もう一度確認したい。我が社で勤務を続ける意思はあるかね?」
「はい。そのつもりで来ました」
岩本は大きく頷くと、大きな茶封筒から丈夫な皮の手帳を取り出した。
「病室で見つけた武井君の手帳だよ。これを君に渡して欲しいと書き置きがあった」
「僕に……ですか?」
アイスティーを持ってユミが入って来たが、アイスティーを置くと一礼して出て行った。
「僕がこれを見てもいいんでしょうか?」
「そうでなければ君に渡してほしい、などと言わないはずだ」
正通は深呼吸をしてから、手帳を開いた。
カレンダー付きのシステム手帳には陽子や事務所のスケジュールや仕事の段取りが事細かに記されていた。
「すごい……こんなに細かく書かれてる」
「ところで、武井君のことだが」
岩本の声が少しだけ低くなる。
「二日前……静岡で例の傭兵組織の残党が逮捕されたと連絡が入った」
「それは……武井さんが?」
岩本は黙って頷くと、言葉を続けた。
「警察がアジトに踏み込んだ時には、全員が椅子に縛りつけられ、猿轡を噛まされて拘束されていたそうだよ。あと数時間発見が遅れていれば、命に関わる状態だったらしい」
正通は一瞬で血の気が引くのを感じた。鏡を見れば、自分の顔は真っ青になっているだろう――。
「逮捕された者の多くは組織の末端だ。彼らまで殺す必要はないと考えたんだろうね」
「……何ていうか……凄いですね」
「そうだね。ちなみに現場には、組織とつながりのある暴力団や政財界の要人、資金源と被害を受けた個人や団体について詳細にまとめられたレポートが残されていたらしい。警察上層部はこのレポートの内容を巡って大わらわだ。まったく恐ろしい男だよ、武井君は」
正通はただ呆然としながら岩本の言葉に耳を傾けていた。
「他に武井君の足取りは掴めていない。もう日本を出国しているかも知れないね」
「そう……ですか」
気の抜けた返事に岩本が苦笑する。
「神岡さんには、そのことを伝えてあるんですか?」
「昨日伝えたよ。当面の芸能活動を休止したいとのことだ」
岩本は諦めたような表情で答えた。
「今週は秋葉原でライブがありますけど……」
正通が遠慮がちに言うと、岩本は小さく首を横に振った。
「そう……ですか」
正通は再び気の抜けた返事をした。
「さて……ここからが本題だが。これから正式に契約を行うとしよう。雇用契約書には保護者の同意が必要だから、持ち帰ってご両親に確認をもらってくれ」
岩本は雇用契約書を取り出すと、一つ一つの項目を丁寧に説明した。
説明は二十分ほどで終わり、正通は必要事項に手早く記入を済ませた。
「ところで江原君、今日の仕事についてだが」
「はい、何でしょうか?」
正通が居住まいを正すと、岩本は不意に真剣な表情になった。
「神岡君の様子を見に行ってもらいたい」
「僕が……ですか?」
正通が眉をひそめて問い質すと、岩本はゆっくりと頷いた。
――これも、マネージャーの仕事のうちか……。
小田急線・豪徳寺駅。
その名が示す通り、招き猫で有名な井伊家の菩提寺・豪徳寺の最寄駅である。
付近には平安時代の武将・源義家が創建した世田谷八幡宮があり、街の規模は大きくないが、古くからの歴史を持つ街である。
時刻は午後二時三十分を回っていた。
岩本に教えられた住所を頼りに愛車を走らせ、杉並区からひたすら南下して正通は豪徳寺駅前に到着した。
無論、気は進まなかったが、社長命令であれば仕方ない。
「えーっと……ここまで四十五分か。電車の方が十分くらい早かったな」
正通は土産に駅近くの洋菓子店で二人分のショートケーキとシュークリームを買った。それ位で機嫌が良くなるとは思えないが、手ぶらで行くよりはいいだろう。
駅前の喧騒を離れて、閑静な住宅街に足を踏み入れた。
古い木造アパートと庭付きの高級住宅が混在する街の中に、陽子の住むアパートは存在した。
「『メゾン・ド・シャルルヴィル』……って、ここか」
正通の目の前にあるのは、洒落た名前から受けるイメージとはほど遠い、築三十年は経っていると思われる木造モルタル二階建てのアパートだった。見た目の古さではスヴォーロフ・プロの社屋に負けていない。
――神岡さん、携帯の留守電は聞いたかな?
正通は階段で二階へと上がった。陽子が住んでいる二〇一号室の前に立つと、一呼吸置いてからチャイムのボタンを押した。
女の子の家に一人で行くのは小学校の時以来だった。そう考えただけで緊張してしまう。
しかし、チャイムを押しても室内からの返答はない。もう一度押しても返答はなかった。
――留守か……無駄足踏んじゃったな。買ったケーキ、どうしよう……。
正通が肩を落として振り返ると、すぐそこに陽子が立っていた。
七分丈のTシャツにタイトなジーンズというラフなスタイルで、手には買い物用のエコバッグを持っていた。
「あ、神岡さん……」
「江原くん。どうしたの?」
陽子は特に驚く様子もなく、ドアの前にやって来た。
「いや、あれから会ってなかったから……どうしてるかと思って」
「来るなら電話の一本も入れてくれればいいのに」
陽子はドアの鍵を開けながら言った。
「電話ならしたけど……留守電、聞かなかった?」
「聞いてないわ。スマホ、家に置いて行ったから」
正通はがくん、と頭を垂れた。それでは電話しても意味がない。
陽子はまったく悪びれる様子もなく鍵を開け、ドアを開けた。
「入って」
その場にしばしの沈黙が訪れる。
「え? 入ってもいいの……?」
「何、言ってんの。その為に来たんでしょう。ほら、蚊が入って来るから。早く」
正通は言われるままに玄関をくぐり、陽子の部屋へと足を踏み入れた。
六畳二間の部屋は角部屋にあたり、室内は風通しがよく心地良かった。
「こっちが居間ね。適当に座って。今、飲み物でも持っていくから」
「う、うん……」
女の子の部屋に二人きりというのは初めてだった。
陽子のような高飛車なタイプは好みではないが、どうしても緊張してしまう。
「退屈でしょう? テレビでも見てて」
「う、うん……」
アパートの外観は古いが、六畳の和室は清潔できちんと整理されていた。
所狭しと本が並ぶ大きな本棚には音楽雑誌やファッション誌、少年漫画などもあるものの、スペースの大部分を占めるのはハードカバーの歴史書や文学全集などだった。
目に付くところに並んでいたのは新旧の『聖書』に『神曲』、『ローマ帝国興亡史』。『平家物語』に『吾妻鏡』。『古事記』に『日本書紀』、『史記』に『戦国策』といった本だった。
他には吉川英治や司馬遼太郎、山岡壮八の全集などがある。
――これが女子高生の本棚かよ……。
おおよそ女子高生らしからぬラインナップに圧倒されていると、ティーポットとカップ&ソーサーを盆に載せて陽子が部屋に入って来た。
「本棚がどうかした?」
陽子は盆をテーブルに載せると扇風機のスイッチを入れた。
「いや……神岡さんって、難しい本を読むんだね」
陽子は正通の困惑をまるで意に介さず、茶箪笥から紅茶の缶と角砂糖の入った瓶を取り出し、ティーポットに電気ポットからお湯を注いだ。
「そう? どれも、教科書で習うような本だと思うけど」
「そうだけど……自分で買う人はあんまりいないと思うよ?」
陽子が首を横に振った。
「買ったんじゃないわ。そこの本は、高校の教師だった父が残してくれたの」
「お父さん……」
「そう。九年前に死んじゃったけどね。聞いたんでしょう? 私の両親のこと」
陽子はティーポットのお湯をカップに移すと、缶からスプーンで茶葉を取り出しながら、いつもと変わらぬ様子で言った。
「え、うん……社長と長坂さんから」
そう言ってから、正通は茶箪笥の隣に小さめの仏壇があることに気づいた。
仏壇には二つの位牌と、写真立てに入った一枚の写真が置かれていた。
正通はその写真に目を奪われた。
「その写真……神岡さんの、お母さんとお父さん……?」
ワンピースを着た美しい女性と、眼鏡をかけたスーツ姿の優しそうな男性の写真だった。
写真の女性は目鼻立ちや肌の白さなど、陽子と実によく似ていた。
「うん、そう」
短く答えると陽子は再び台所へ行き、ヤカンを手に戻って来た。
そして、素早くヤカンからティーポットにお湯を注いだ。
高い位置から注がれたお湯が勢いよく茶葉を舞い上げ、ティーポットからは芳しい香りが立ち昇った。
「神岡さん、お母さんにそっくりなんだね」
「うん、よく言われる」
陽子はにこりともせずに答え、お湯の残りを電気ポットに注いで再び台所へ行った。
その間に正通はもう一度、遺影に目を移した。
木製のフレームの中で陽子の母が優しく微笑んでいる――。
魅力的な女性だった。ありきたりの表現だが、素直にそう感じた。
このような感情を持って誰かの遺影を見たことはない。
顔立ちの美しさは言うに及ばず、清流の煌めきを思わせる長く美しい黒髪と自然な笑顔が正通の心を捕えた。それに加え……
――胸の大きさまでは似なかったんだなぁ……。
ワンピースの上からでも目立つ、豊かな胸の膨らみ。不謹慎だとは思うが、ついそこに目がいってしまう。
顔立ちもすらりとした体つきも陽子とよく似ているのに、そこだけが違う。世の不思議と不条理を垣間見たような気がした。
そうしているうちに、陽子が台所から戻って来た。
「あ、そうだ。ケーキ買って来たんだった」
その場を取り繕うように、陽子に洋菓子店の箱を見せる。
陽子はきょとんとして正通の顔を見つめた。
「あ……ありがと」
正通が土産を持ってきたことが意外だったのか、陽子は目を丸くしてケーキの入った箱を受け取り、茶箪笥からケーキ用の皿とフォークを取り出した。
「ショートケーキとシュークリームにしたけど、いいかな?」
「うん。甘いものも好きだから」
少し戸惑いながらも陽子が笑顔を見せると、正通の気持ちもようやくほぐれる。
陽子は茶葉がティーポットの底に沈んだのを見計らってティーカップと小さなエスプレッソカップに二杯ずつ紅茶を注いだ。
「そっちの小さいのは……」
「これは両親の分」
陽子は二つのカップを仏壇に置くと、鈴を鳴らして手を合わせた。
「神岡さん、僕も拝んでいいかな?」
陽子は意外そうな顔をしたが、嫌がる素振りも見せずに席を譲った。正通が鈴を鳴らして両手を合わせている間に、陽子は正通の席にカップを置いた。
「ありがとう、江原くん」
自分の席に戻った正通に陽子は礼を言った。これまでに見せたことのない素直な態度だった。
「そんな、お礼なんて……」
「それじゃ、開けるね」
陽子は箱を開け、ショートケーキを皿に取り分けた。
「おいしそう。シュークリームは冷蔵庫に入れておくから、後で食べましょう」
正通は台所へ向かう陽子の後ろ姿を見送りながら、本日、陽子に一度も悪口を言われていないことに気づいた。
今日の陽子は普段とは違い、素直だった。
――いつもこうならいいんだけどなぁ……
「それじゃ、いただきます」
陽子が言うのに続いて、正通も手を合わせて紅茶を一口飲んだ。
陽子の淹れた紅茶はおいしかった。
口当たりも香りも良い。茶葉だけではなく、入れ方も良いからだと分かる。
普段の彼女はがさつで乱暴な印象が強いだけに、正通には意外だった。
「おいしい……」
「ありがと。私の伯父が贈ってくれたお茶なの、これ」
そう言って陽子も紅茶を一口飲む。
「おじさん?」
「そう。普段から色々お世話になってるんだ」
陽子はケーキをフォークで切り分け、一口食べた。
「うん、おいしい」
「そう。買ってきてよかった」
食事中の陽子は可愛らしく魅力的だった。
武井が失踪したことで落ち込んでいるものとばかり思っていた正通は、陽子の落ち着いた様子にいささか拍子抜けしていた。




