「救いの手」(1)
午後四時を過ぎても日差しは強く、気温は三十度に達していた。
新宿区早稲田の裏路地にひっそりと佇む佐藤医院へ、正通は一人でやって来た。
病室のドアをノックすると、内側から「どうぞ」と声が聞こえた。
「武井さん、こんにちは。お加減はどうですか?」
「こんにちは、江原君。今日は君一人かい?」
武井は読んでいた文庫本に栞を挟み、いつもの笑顔を見せた。
「はい。ちょっと今日は武井さんにお話があって。いいですか?」
制服姿の正通は少し緊張した面持ちで、武井の目を見た。武井はふふっ、と笑ってそばにある椅子に座るよう促した。
「もちろんだよ。バーガーショップのアルバイトは休みかい?」
「いいえ、今日は六時からです。学校が終わって少しだけ時間が空いたものですから。これ、お見舞いです。よかったらどうぞ」
そう言って、正通は青果店の包みを差し出した。
「桃だね。いい香りだ」
「前に、とても喜んでくれたから……」
武井は嬉しそうに包みを受け取った。
「どうもありがとう。気を遣ってもらってすまないね」
「いえ。これ位しかできなくて、すみません」
正通は照れくさそうに頭をかいた。
「早速だけれど、今日は何のお話かな?」
正通は深呼吸をすると、姿勢を正してまっすぐ武井の目を見た。
「仕事のことを教えてください。早く役に立てるようになりたいんです」
数秒の沈黙の後、武井は少年のような笑顔を浮かべて頷いた。
「……そう。分かったよ」
「……よろしくお願いします!」
「そう硬くならないで。それじゃ、何から教えようか?」
武井が枕元から手帳を取り出すと、正通も鞄からメモ帳とボールペンを取り出した。
「うーん。それじゃあ、基本的な注意事項から教えるからね」
武井の説明は親切で分かりやすかった。
正通は武井と話しながら、先日会ったばかりの彼に自分が惹かれつつある、ということを感じていた。
大人としての寛容さを持ちながら、少年のような純真さをも感じさせる。こんな大人には会ったことがなかった。
この青年が数え切れない修羅場を潜り抜けた処刑人だとは、この笑顔を前にしては、とても想像できなかった。
「本当に、ありがとうございました!」
正通は武井に深々と頭を下げた。
「江原君、顔を上げて。お礼を言うのは僕の方なんだから。君が来てくれて本当に嬉しかったよ。ありがとう」
およそ一時間をかけ、正通は必死に武井からのアドバイスを書き取った。
ずっとペンを握っていた指が痛かったが、武井の爽やかな声がそれを癒してくれるようだった。
「武井さん。僕、必ず皆さんの役に立ちます」
正通の胸には不思議な充実感があった。
「江原君。君は僕が思った通りの、信頼できる人間だ」
「え?」
武井は満足そうに微笑んでいた。
「君は陽子のことについて何も聞かなかったね。彼女のことが気にならないのかい?」
「神岡さんのこと……ですか?」
武井の口から出てきたのは意外な言葉だった。
「高校生の彼女が何故あんな仕事をしているのか、君は疑問に思わないの?」
「それは……」
疑問に思わないはずがない。だが、裏の業務には関わらないつもりでいる以上、興味本位でうかつなことを聞くわけにはいかなかった。
正通が言葉を濁したのを見て考えを察したのか、武井が徐に口を開いた。
「なるほど、正しい判断だよ。知りたいことが必ずしも、自らの知るべきこととは限らない。君は判断力も優れているようだ」
そう語る武井の笑顔に一瞬、影が差したような気がした。
「桃をいただこうか」
武井が傍らのラックから果物ナイフと紙の皿を取り出した。
「あ、僕が剥きます」
「いいんだ。リハビリだと思って僕に任せて」
武井はベッドテーブルの上にウェットティッシュを置き、桃の入った包みを開いた。包みが開かれるのと同時に、桃の甘い香りが室内に広がる。
「なんだか、すみません」
「気にしないで。もう少し話をしよう」
武井はウェットティッシュで手を拭うと、慣れた手つきで桃の皮を剥き始めた。
その指は見た目にも柔らかくしなやかで、およそ歴戦の処刑人というイメージとはかけ離れている。
「江原君。君の夢は何だい?」
「夢……ですか?」
武井の質問は些か唐突だった。
「よかったら、聞かせてくれない?」
そう言う間に武井は桃を一つ剥き、一口大に身を切り分けて紙皿に盛る。それが済むと再び手をウェットティッシュで拭い、手早く二つ目の桃を剥き始めた。
「夢は……特にありません」
正通はためらいがちに答えた。
「やっぱり、そうか」
武井は桃を剥く手を止めることなく、呟いた。
「どうして分かるんですか?」
「傭兵達に襲われたあの時、君は生きることを諦めようとしていたね。だからさ」
いつの間にか二つ目の桃を剥き終わり、武井はこれも一口大に切り分けた。
「でも……倒れた所に銃を突きつけられて、助かるとは思えません」
「うん。確かにそう考えるのは仕方ないね。でも君は助かって、こうしてここにいるね。それは何故だい? さ、どうぞ」
武井は皿に盛った桃に楊枝を二本刺し、正通に勧めた。
「それは勿論……武井さんが助けてくれたからです。本当に……ありがとうございました。桃、剥いてくれてありがとうございます」
「今の答えは残念ながら不正解だよ。正解は、『君が脇役じゃないから』。いただきます」
「え……脇役じゃないから、って」
武井は楊枝に刺した桃を一切れ口に運んだ。
「うん、甘くておいしいね」
武井が食べたのを見て、正通も桃を一切れ取り、口に運んだ。
軽く歯を当てただけで、果肉から甘酸っぱい果汁が口の中いっぱいにほとばしる。
「あの、僕にはよく分からないんですが……」
「言葉通りの意味だよ。君は君の人生における主役なんだ。だから途中退場は許されない」
「主役って……」
武井の言葉は確かに正論だが、些か気恥ずかしいものだった。
「何を照れているんだい? 本当のことじゃないか」
「だって……そんなことを言われるとは思いませんでしたから」
正通は恥じらいを隠すように桃を一切れ、口に運んだ。
「大事なことというのは、口に出せば恥ずかしいものだよ。君も好きな女の子に愛の告白をしたことがあるだろう?」
「……僕には、ありません」
「それじゃ、告白されたことは?」
正通は苦笑しながら首を横に振った。
「はっきり、そう言われたことはありません」
武井は意外そうに眉をひそめた。
「周りの女の子は勿体ないことをしているね。君の魅力に気づいていないのかな?」
「そんな、魅力だなんて……」
そう言いかけて正通は、武井が真剣な表情をしていることに気づいた。
「テレビでも観ようか、江原君」
武井はふいにテレビのリモコンを手に取り、電源を入れた。
「あ、はい……」
テレビに映し出されたのは、アフリカの難民キャンプの様子を捉えたニュース映像だった。
粗末なテントの中で人々が直接地面に腰を下ろしている。
痩せこけた老婆に疲れ切った母親。充血した目の子供達。蠅が飛び交う中、気力を無くした男の子にボランティアの女性が粥を食べさせていた。
モニター内の悲惨な光景に、正通はしばし言葉を失った。
「……難民キャンプか。君は知っているかい? アフリカや中東の少年兵のことを」
武井はテレビの画面に目を向けたまま、独り言を呟くように問いかけた。
「少年兵……ですか?」
「うん。主に反政府組織が男女の区別なく子供をさらって、激しい暴力と麻薬で抵抗できなくして、奴隷兵士に仕立て上げるんだ。中には十歳に満たない幼児も少なくない」
テレビの映像が他の報道に切り替わっても、武井の目は画面に向けられたままだ。
「女の子や、そんな小さな子供まで……? どうして――」
その理由を聞こうとした正通の脳裏に、おぞましい光景が浮かび上がった。
「…………ッ!」
「さらわれた子供達の多くは弾避け代わりに使われて、殺されたり地雷で足を無くしたり、と過酷な運命を辿ることになる。たとえ解放されても、被害者であると同時に加害者でもある彼らが社会復帰するのは困難を極める」
あくまで穏やかな武井の声を耳に、正通は必死で全身を襲う震えに耐えていた。
「……江原君」
声と同時に、武井の手が正通の肩に優しく触れた。
「……はッ……!」
「大丈夫かい?」
慈しみに満ちた、その瞳。
見つめられるだけで、自然と身体の震えが収まってゆく。
「だ……大丈夫……です」
「そう。それならいいんだけれど」
肩から手を離し、武井が優しく微笑んだ。
正通には不思議だった。武井と話しているだけで、不思議と心が安らいだ。
「すまなかったね。気分が悪くなるような話を聞かせて」
「いいえ、謝ることなんて……!」
慌ててかぶりを振った後で、正通は気まずそうに感想を漏らした。
「……ひどい話……ですね」
「うん」
武井は短く答え、再びテレビの画面に向き直った。
「……そんな境遇の子供達には、さっき君に言ったような言葉は何の役にも立たないだろうね」
先ほどとはうって変わって、悲観したかのような言葉だった。自分の発言を、ただの綺麗ごとだと切って捨てている。
「……本当に……そうでしょうか」
正通は画面に目を向けたままの武井に、勇気を出して話しかけた。このまま話を終わらせたくはなかった。
「僕が言っても説得力がないと思いますが……食料や清潔な水だとか、そういう物も勿論必要です。でも、希望のない子供達に一番必要なのは……自分を救ってくれる大人と、その人達の優しい言葉だと思うんです。だって、その子達には今……そういう言葉をかけてくれる人が近くにいないでしょうから」
武井の口元が綻ぶ。その微笑みは優しく、そして悲しい。
「……そうだね。君の言う通りだよ。子供達には守ってくれる大人と、優しい言葉が必要なんだ。希望を失くした子供には、彼らを守り、再び希望をくれる大人が必要なんだ」
武井は天井を見上げ、何かを思い出しているようだった。
正通は言葉が見つからず、ただ黙って武井の横顔を見つめていた。長いまつ毛はまるで女性のようで、正通は図らずもその横顔に見とれていた。
「……江原君」
武井が再びこちらを見た。正通は慌てて顔を逸らす。
「……な、何でしょうか?」
「君はこれから、君以外の人間にとっても必要不可欠な存在になる。絶対に途中退場などしないと約束してくれないか?」
武井は膝の上に手を揃え、丁重に頭を下げた。
「わっ、やめてください! わかりました、約束しますから! だから顔を上げて!」
しかし、武井はすぐには顔を上げようとはしない。
「本当だね?」
「はい、もう簡単に諦めたりしません! ですから顔を上げてください!」
ほどなくして武井は顔を上げた。
「あっ……」
輝くような笑顔――。その美しさに正通は心を奪われた。
その後、正通と武井は好きな音楽の話に花を咲かせた。
正通がペンタメローネの魅力を力説すると、武井は興味深そうに聞き入っていた。
話はなかなか終わらず、アルバイトには三分ほど遅刻してしまった。




