プロローグ(前編) 登録番号M-0417
四月の風が正門の桜を揺らしていた。
花はもう半分が散っていて石畳の上に薄桃色の層を作っている。
朝の光は白くまだ温度を持っていない。
坂の下から吹き上がる風には川の匂いが混じっていた。
その正門の前で結城湊は自分の靴を見下ろしていた。
量販店で買った合成皮革のローファー。
三日前に靴墨で磨いたけれど、すぐ横を通り過ぎていく本革の艶にはとてもかなわない。
「……うん。大丈夫、大丈夫」
「何が大丈夫なの?」
すぐうしろから呆れたような声がした。
「ネクタイ、曲がってる。こっち向いて」
振り向くと灰色のパンツスーツを着た女性が湊の襟もとに手を伸ばしていた。
黒のショートボブ。
胸もとには男性管理局の職員証。
片方の耳にはいつものようにボールペンがかかっている。
小鳥遊すず。
湊の担当の保護観察官だ。
「自分でできますよ小鳥遊さん」
「できてないから直してるの。はい、じっとして」
すずは慣れた手つきでネクタイを締め直すと、一歩下がって湊を頭のてっぺんからつま先まで眺めた。
「……ん。合格」
「ありがとうございます」
すずの指がネクタイの結び目からゆっくり離れた。
その距離がほんの一瞬だけ近すぎた気がして湊は視線を落とす。
(……一月のあの夜のことは忘れよう)
入学前指導。
保護観察官の職務として、女性との関わり方を教えるのだとすずは言った。
(お仕事であそこまでしてもらったんだから。……変な勘違いは失礼だ)
湊はそう自分に言い聞かせている。
「湊くん?」
「な、なんでもないです」
「それと送迎車。やっぱり申請しとけばよかったのに。バスで来る男子なんて湊くんくらいだよ」
「でもバスで来られる距離でしたし」
「はいはい。要するにいつもの湊くんってことね。メモしとく」
すずは耳のペンを抜いて手帳に何かを書きこんだ。
男子学生は学外では国の保護観察官に学内では大学の護衛係に見守られる。
母が入院してから湊の生活を学外で見守ってきたのがこのすずだった。
月に一度の面談と週に一度の見回り。
冷蔵庫の中身を確認されたり寝不足を見抜かれたり。
湊にとってはちょっと口うるさい親戚のお姉さんのような人だ。
「わたしが一緒に行けるのはここまで」
すずは正門の内側を指さした。
「ここから先は大学の管轄。今日の午後に抽選があって湊くんにも護衛係が四人つくから」
「四人もですか」
「一年間、湊くんのコテージで一緒に暮らすんだよ。資料、読んだでしょ」
「……読みました。まだ実感がないですけど」
少し離れた車寄せでは黒塗りの車が次々と止まっていた。
そのたびに並木道のほうから歓声があがる。
車から降りた誰かを女子学生たちが遠巻きに取り囲んでいる。
その周りでは四人の女子学生が腕を広げて人垣をつくっていた。
湊の位置からは囲まれている人の顔までは見えない。
ただ女子学生たちより頭ひとつ背が高いことだけは分かった。
「ほら、ああなるの」
すずがペンの先で人垣を示した。
「全学生四千四十人のうち男子は四十人。放っておいたら講義室にもたどり着けないよ。護衛係はああいうのから湊くんを守る係」
「……大変なんですね男子の人たちも」
「他人事みたいに言わない。湊くんもその男子なんだから」
すずは手帳を閉じた。
「それからお世話係のこと。……分かってるよね」
湊の背筋が少しだけ伸びた。
「……はい」
毎月一人、女子学生の中から自分で選ぶ。
身の回りのことも夜のことも支えてもらう相手を。
その相手がいつか男性管理局に「縁籍」として登録されれば襟もとには銀の縁章がつく。
縁は卒業しても一生ついて回る。
湊は耳が熱くなるのを感じた。
でも目はそらさなかった。
「僕もこの国の男なので。ちゃんと分かってます」
すずは少しだけ黙ってから湊の頭を手帳の角でこつんと叩いた。
「いたっ」
「分かってるならよし。……でも無理に急がなくていいからね。月末までに決めなくても管理局が自動で選ぶだけだから」
「それが一番困るんですけど……!」
すずは小さく吹き出した。
耳にかけたペンがかすかに揺れる。
「困るならちゃんと自分で選びなさい。相手のことをちゃんと見て」
「……はい」
すずは手帳の角で自分の肩を軽く叩いた。
「……それとね湊くん。分からないことがあったらわたしに聞いていいから」
「はい」
「一月に教えたことも忘れてたらもう一回やるし」
湊の肩が跳ねた。
「け、結構です! 覚えてますから!」
「覚えてなくていいのに」
すずはぼそりとそう言った。
湊にはその声がうまく聞き取れなかった。
「言っとくけどね」
すずは手帳を閉じながら声を落とした。
「湊くんの同期、四十人。……そのうち三十人以上はたぶん湊くんとは違う人たちだから」
「違うって」
「女の子を番号か道具みたいに扱う子たち。生まれたときから『お前は国の宝だ』って言われて育つと大体そうなるの」
すずは正門の内側を顎で示した。
「だからここの女の子は男子にいい印象なんて持ってないよ。……手を挙げるのは制度の得があるからってだけ」
「……全員がそうなんですか」
「ううん。十人くらいはまともな子もいる」
すずはちらりと湊を見た。
「ちゃんと責任だけ背負って、女の子には近づかないようにしてる子たち。……まあ、それはそれで女の子からしたら冷たいんだけどね」
そのとき並木道の先で誰かが「きゃっ」と小さな声をあげた。
女子学生が一人、つまずいて転んでいた。
抱えていた本が石畳の上に散らばる。
ちょうどそこへ男子学生が一人護衛係を連れて通りかかった。
男子は散らばった本を見た。
倒れている女子学生も見た。
そして何事もなかったようにその横を通り過ぎていった。
意地悪でも怒っているわけでもない。
ただ立ち止まる理由がないという顔だった。
護衛係の四人も誰ひとり足を止めなかった。
倒れた女子学生も顔を上げなかった。
助けてもらえるとは最初から思っていないようだった。
周りの学生たちも目を伏せて通り過ぎていく。
それがこの国の当たり前の風景だった。
――なのに。
湊は考えるより先に駆け出していた。
「あ、ちょっと、湊くん!」
門の内側に入ってしまった湊をすずは追いかけられない。
門柱の横でため息をつくしかなかった。
湊はしゃがみこんで散らばった本を拾い集める。
最後の一冊の土を手のひらで払ってから女子学生に差し出した。
「はい。汚れてないといいんですけど」
女子学生はぽかんと湊を見上げていた。
「……と、殿方が……わたくしのためにしゃがんで……」
「あの、足、ひねってないですか?」
次の瞬間、女子学生は本を抱きしめたままその場で気を失った。
「えっ!? だ、大丈夫ですか!?」
並木道がざわめき女子学生たちが次々と振り返る。
門の外ですずは額を押さえた。
「……だから学内は心配なんだってば」
それから手帳を開いて一行だけ書きこむ。
『08:52 学内に入った直後転倒した女子学生を介抱。周囲の注目、多数』
少しだけペンを止めてからその下にもう一行。
『引継ぎ事項:本人に自覚なし』




