「あの人」
間髪入れずに2話目、というかもう一人の主人公である凜の1話目をアップします。
わたしは、昔からあの人が嫌いだったわけじゃない。
むしろ、好きだったと思う。
仕事が忙しくて、家にいないことが多かった。
帰りが遅い日も多かったし、土日に仕事へ行くことも珍しくなかった。
それでも、わたしがミニバスをやっていた頃は、時間が合えば試合を見に来てくれた。
体育館の二階席から、やたら大きな声で応援する。
「凛! いけー!」
友達に、
「凛のお父さん、声でかくない?」
と笑われたこともある。
「ほんと、うるさいんだよね」
そう言いながら。
本当は、少し嬉しかった。
休みの日には二人で出かけることもあった。
あの人は見た目のわりにお酒が飲めず、代わりに甘いものが好きだった。
パンケーキ。
パフェ。
タピオカ。
新しい店ができたと聞けば、
「よし凛、行くか?」
と誘ってきた。
小学校高学年にもなると、父親と二人で出かけるのは少し恥ずかしかった。
それでも、嫌ではなかった。
わたしにとってあの人は、
仕事ばかりしているけど、わたしには優しい、普通の父親だった。
あの時までは。
*
小学六年生の頃だった。
世の中がコロナで大騒ぎになっていた時期。
あの人も感染した。
症状自体はそれほど重くなかったけれど、家族にうつさないためにホテルで療養することになった。
わたしとお母さんは濃厚接触者。
しばらく外へ出られなくなった。
学校に行けない。
ミニバスの練習にも。
買い物にも。
最初は少し得した気分だった。
朝は少しゆっくりできる。
部活もない。
でも、何日も続けばさすがに飽きる。
お母さんも同じだったんだと思う。
普段は仕事と家事で動き回っている人が、一日中家にいる。
掃除をして。
テレビを見て。
スマホを触って。
それでも時間が余る。
その頃からだった。
お母さんの様子が、少し変わった。
何があったのか、当時のわたしは知らなかった。
あとになって聞いた話では、その外出できない期間に、お母さんは暇つぶしであの人のSNSを見ていたらしい。
投稿についた「いいね」から、知らない人のアカウントを何となく見て回った。
その中に、一つだけ気になる女の人のアカウントがあった。
顔はほとんど載せていない。
食事。
カフェ。
旅行。
ブランド物。
きれいなホテル。
そんな写真が多かったらしい。
かなり裕福な家の人だったそうだ。
実家が資産家だとか、お金持ちだとか。
わたしには、そのへんのことはよく分からない。
ただ、お母さんが気になったのはそこではなかった。
ある日の投稿。
料理の写真だった。
その日は、あの人が、
「仕事で遅くなる」
と言っていた日だった。
あの人のSNSにも、その日に食べた料理の写真が載っていた。
同じ店。
同じ料理。
撮っている角度だけが違った。
お母さんは、その女の人の投稿を遡った。
一か月。
三か月。
半年。
一年。
あの人の投稿や、家に帰ってきた時間と照らし合わせていった。
同じ日に。
同じ場所にいる。
そんな日が何度もあったらしい。
月に二回。
多いときには三回。
でも、お母さんは何も言わなかった。
あの人にも。
わたしにも。
*
その頃から、お母さんはあの人に対して少しずつよそよそしくなった。
会話が減った。
夕飯のときも必要なことしか話さない。
あの人が何か言っても、
「そう」
「分かった」
それだけ。
子供だったわたしにも、何となく分かった。
二人の間に、何かある。
でも。
何なのかは分からなかった。
ある日。
お母さんと二人で買い物に行った帰りだったと思う。
突然、聞かれた。
「凛」
「なに?」
「もし、お父さんと別々に住むことになったら嫌?」
意味が分からなかった。
「なんで?」
「別に。ちょっと聞いただけ」
「嫌に決まってるじゃん」
そう答えた。
そのときは、本当にそう思っていた。
三人で住んでいるのが当たり前だった。
あの人が仕事で遅く帰ってくるのも。
休みの日にソファで寝ているのも。
たまに二人で甘いものを食べに行くのも。
全部、当たり前だった。
なくなるなんて考えたこともなかった。
お母さんは、
「そっか」
とだけ言った。
それ以上は何も話さなかった。
*
あとで知った。
お母さんはその頃には興信所に調査を依頼していた。
すぐに問い詰めなかったのは、逃げられない証拠を揃えるためだったらしい。
何か月もかけて。
少しずつ。
あの人と、その女の人のことを調べた。
そして、わたしが中学一年になった時。
家族三人で話をすることになった。
日曜日だった。
リビングのテーブルに、お母さんが分厚い封筒を置いた。
あの人は最初、それを見ても何も言わなかった。
お母さんが写真を何枚か並べた。
知らない女の人と歩いているあの人。
二人で店から出てくるところ。
ホテルへ入っていくところ。
その瞬間。
わたしにも分かった。
何が起きているのか。
「これ、何?」
お母さんが聞いた。
あの人は答えなかった。
「何年?」
また沈黙。
「スマホ出して」
低い声だった。
怒鳴ってはいない。
でも。
わたしは、あんなお母さんを初めて見た。
あの人はスマホをテーブルに置いた。
「ロック解除して」
黙って解除した。
その時点で。
全部、本当なんだと思った。
*
そのあと、お母さんはあの人のスマホを預かった。
LINEのやり取りを遡った。
その女の人との関係は、五年近く続いていたらしい。
五年。
その数字を聞いたとき。
よく分からなくなった。
わたしがミニバスを始めた頃。
試合を見に来てくれていた頃。
一緒にケーキを食べに行っていた頃。
その間ずっと。
あの人には、別の顔があった。
写真も残っていたらしい。
わたしは見ていない。
見せられてもいない。
ただ、お母さんが、
「子供が見るものじゃない」
と言っていた。
ベッドの上で撮ったような写真もあったと、あとで聞いた。
それ以上は知りたくなかった。
気持ち悪かった。
知らない人みたいだった。
試合を見に来てくれた人。
パフェを食べに連れていってくれた人。
わたしが熱を出したとき、夜中にアイスを買いに行ってくれた人。
その人と。
お母さんに嘘をついて、何年も別の女の人と会っていた人。
同じ人だと思えなかった。
何より嫌だったのは。
仕事が忙しい。
帰りが遅くなる。
休日も仕事。
そう言っていたのに。
その女の人と会う時間は作っていたことだった。
「きっも」
あの人に言った。
悲しいのか悔しいのか、自分でもよくわからない。
でも涙が出てきた。
それ以上は、何も言いたくなかった。
*
お母さんは、弁護士に頼んであの人と相手の女の人から慰謝料を取った。
金額は知らない。
相手の女の人の家がお金持ちだからどうだったとか、そういう話も聞いた気がするけれど、興味はなかった。
離婚はしなかった。
少なくとも、今すぐには。
『凛が高校を卒業するまでは離婚しない』
それがお母さんの決めた期限だった。
そして、お母さんには目標ができた。
自分の店を持つこと。
小さくてもいい。
自分で稼いで、自分の力で生活できる店を持つ。
慰謝料と自分の貯金を元手にして。
わたしが高校を卒業する頃までにはオープンしたいらしい。
そのために、昼は事務の仕事。
夜は週に何日か、知り合いのスナックで働いている。
家事は、正直かなり適当になった。
朝ごはんがコンビニのパンの日も多い。
夕飯を自分で買うこともある。
洗濯物が溜まっている日もある。
でも、別にいい。
お母さんが頑張っているのは分かっている。
だから、自分でできることはやる。
洗濯くらいできる。
簡単な料理も作れる。
掃除だってする。
高校を卒業したら。
お母さんと二人で、あの人に頼らなくても生活できるようにする。
そう思っていた。
*
去年。
あの人の会社が潰れた。
十四年働いていた会社だったらしい。
詳しいことは知らない。
しばらく就職活動をして。
今は病院の警備員をしている。
夜勤が多い。
夕方に家を出て、朝に帰ってくる。
顔を合わせる時間が一気に減った。
たまに近所に住むおばあちゃんが来てくれる日もあるが、夜、独りで留守番をすることも増えた。
「せいせいする」
お母さんにはそう言った。
本心だった。
少なくとも、そのつもりだった。
でも。
夜になっても玄関が開かない。
リビングにいても、あの人が帰ってくる物音がしない。
三人が同じ部屋にいることも、ほとんどなくなった。
家が静かになった。
それでいいはずなのに。
たまに。
本当にたまに。
変な気持ちになる。
寂しい。
たぶん、それに近い。
だから、余計に腹が立った。
あんな人のことでそんな気持ちになる自分が。
*
バスケをやめてから、わたしには時間ができた。
というより。
時間だけが残った。
小学生からずっとバスケをしていた。
平日は練習。
土日は試合。
友達もほとんどバスケ関係。
高校でも当然続けるつもりだった。
でも、中学三年の夏。
最後の大会を前に、左膝の靱帯を痛めた。
大会には出られなかった。
長いリハビリをすれば競技に戻ることもできた。
でも、その頃には受験も迫っていた。
そのままバスケから離れた。
部活を辞めると、それまで毎日のように一緒にいた友達とも少しずつ話すことが減った。
喧嘩したわけじゃない。
嫌いになったわけでもない。
ただ。
みんなにはバスケがあって。
わたしには、なくなった。
代わりに塾で一人の友達ができた。
彩乃。
同じ高校を受験して、この春、一緒に合格した。
クラスは別。
わたしとは全然タイプが違う。
運動は嫌い。
本が好き。
音楽が好き。
絵を描くのも好き。
休みの日は、できれば家から出たくないらしい。
本人いわく、
「陽の光はHPを削ってくる」
とのことだった。
意味が分からない。
あと、かなりのオタクだ。
受験が終わった頃。
暇だと言ったわたしに、彩乃がアニメを勧めてきた。
わたしはアニメに詳しくない。
『ヒロアカ』や『鬼滅の刃』「【押しの子】』みたいな、みんなが見ている作品なら見る。
女の子が中心のものなら『ゆるキャン△』を少し見たくらい。
いわゆる深夜アニメをわざわざ探して見るようなタイプではなかった。
「凛、これ絶対見て」
「何?」
「『ぼっち・ざ・ろっく!』」
「知らん」
「劇中でバンドが演奏する曲がたまらなく尊いのだよ。普通に音楽として聴けるから」
「アニメキャラが歌ってる曲ってことでしょ?」
「チッチッ、キャラソンと侮るなかれ!そう言うヤツほどハマるんだよな」
「何それ」
「まぁとりあえず見て。話も面白いけど、ウチは曲が好き」
家に帰ってAmazon Prime Videoを開いた。
検索すると、すぐに出てきた。
そこまで言うなら、一話くらい。
そんな軽い気持ちで再生した。
最初は。
ただのアニメだと思っていた。
でも。
陰キャの女の子がギターを持って。
仲間と音を合わせて。
ステージに立つ。
結果、一気見した。
そして、彩乃が言っていた通り。
曲が良かった。
アニメだからとか。
女の子が演奏しているからとか。
そんなのは関係なく。
普通に、何度も聴きたくなる曲だった。
特に最終回で演奏される『星座になれたら』
これはガチ。
そして見ているうちに。
少しだけ思った。
楽しそうだな。
と。
バスケとは全然違う。
走らない。
跳ばない。
膝も関係ない。
でも、一人じゃない。
仲間がいる。
練習して。
できなかったことが、できるようになって。
みんなで一つのものを作る。
そこだけは。
少し、バスケに似ている気がした。
今度行く高校には軽音楽部がある。
学校案内を見て知っていた。
何かやりたい。
高校では。
バスケじゃない何かを。
もう一度。
夢中になれる何かを。
*
入学して少し経ったある朝。
玄関からリビングへ続く廊下のクローゼットを開けた。
前から少し気になっていた。
確か。
奥に細長いケースみたいなものが入っていた。
掃除機をどかす。
季節外れのコートをどかす。
古いバッグを引っ張り出す。
その奥。
茶色いケースがあった。
ファスナーを開ける。
少しカビくさい。
中に入っていたのは。
真っ黒なギターだった。
埃だらけで。
細い金属の線は、赤茶色に錆びている。
たしか弦、っていうんだっけ。
どう見ても長い間、誰にも触られていない。
それでも。
少し格好いい。
親指で弦を弾いてみる。
ジャーン。
変な音。
次に一本だけ。
ベン。
変な音。
ぼざろで見たようなカッコいい音は出ない。
「……何してる?」
後ろから声がした。
振り返る。
夜勤明けで帰ってきたあの人が立っていた。
一瞬だけ。
見つかった。
と思った。
別に悪いことなんてしていないのに。
わたしは立ち上がった。
黒いギターを抱えたまま、あの人を見る。
本当は聞きたいことがあった。
これ、ギターなんだよね。
弾けるの?
昔やってたの?
カッコいい音はどうやって出すの?
でも。
二年半まともに話していない相手に。
無視しつづけた相手に。
そんなこと、素直に聞けるわけがなかった。
「……これ、アンタの?」
「そうだけど」
やっぱり。
「ふーん」
誤魔化すように、もう一度弦を鳴らした。
ジャーン。
「あっそ」
それしか言えなかった。
聞きたいことは、いっぱいあったのに。
2話目、読んで頂きありがとうございました。
次回は父視点の第3話です。




