次回確認
一晩十二万円の案内は、清掃の給与明細を開いた朝に届いた。
以前、次の仕事を探すために登録した求人サイトからだった。希望職種を介護のままにしていたから、経験者向けの新着として表示されたらしい。
個人宅での夜間見守り。午後七時から翌朝六時まで、担当は一人。休憩一時間と書いてある。その下には、休憩中も同じ部屋で見守りを継続する、と小さく付いていた。
食事、排泄、服薬の介助を含む。緊急時は家族へ連絡。交通費は報酬に含む。勤務の出来に応じ、家族から別途謝礼あり。
掲載者は人材会社の名前だった。働く家の名前も、交代する人の有無もない。
十二万円あれば、返済予定表の十個の欄を一度に埋め、母の次の施設費にも足せる。そこまで計算してから、私は休憩の一行へ戻った。
応募欄へ進めば、氏名と資格を送る画面になる。
私は戻った。
掲載番号を控え、勤務条件が一画面に入るところまで求人サイトの保存機能で残した。相談欄には、金額が高いから怪しいとは書かなかった。
単独で十一時間。見守りを続ける時間が休憩とされている。服薬介助を含むが、指示の確認先が記載されていない。家族から別の謝礼がある。
その四点と、まだ応募していないことを送った。
求人サイトから自動の受付番号が届いた。掲載者へ確認し、必要があれば掲載を止めるが、個別の結果は回答できない場合があると書かれている。
それだけでは、休憩の扱いを誰が確かめるのか分からなかった。
自治体の労働相談窓口にも電話し、求人の文面を上から読んだ。
「この条件だけで、問題があると決められますか」
「まだ決められません。契約の形と、実際に仕事を離れる休憩があるか、服薬介助の指示元を確認する必要があります」
「応募して確かめたほうがいいですか」
「働いて確かめる必要はありません。掲載番号を媒体へ渡しているなら、その受付番号も教えてください」
私は氏名と電話番号を残し、二つの番号を伝えた。相談員は、掲載が消えても相談記録は残ると答えた。
私は番号を書き、応募画面をもう一度開いた。
辞退理由の選択肢に、報酬、勤務地、時間が並んでいた。どれか一つではなかったので、「勤務条件を確認できない」を選んだ。確認画面には、一晩十二万円の数字がまだ残っていた。
辞退を送ると、画面は通常の求人一覧へ戻った。
*
給与日から三日後、清掃の仕事へ行く前に銀行へ寄った。
一か月の試用期間は、まだ半分を過ぎたところだった。十三日分の給与明細と、机で書いた返済予定表を並べた。
振込画面の金額欄へ「10000」と入れた。確認画面で桁を一つずつ追い、予定表の最初の日付が今日であることも見直した。後ろの人が鞄を持ち替えたが、画面を急いで進めなかった。
代理人から指定された預かり口へ、一万円を振り込んだ。
振込依頼人の欄には、私の名と返済書面の番号を入れた。鷺宮家の名も、千代さんの名も書かない。振込が終わると、機械から利用明細が一枚出た。
残高は、振り込む前より一万円少なかった。
返したからといって、初日に封筒を鞄へ入れた場面が訂正されるわけではない。十回の枠のうち、今日の欄にだけ日付と受付番号を書いた。残りは九回だった。
銀行を出て、右の靴底が減った清掃靴を、予算内の同じ規格へ買い替えた。店内を両足で歩き、濡れた床を踏む時の幅で足を開いてみた。古い靴は、店の袋へ入れて持ち帰った。
夕方、責任者は新しい靴の底と色を確かめ、勤務表へ使用開始日を入れた。褒めもせず、次の階の鍵を私へ渡した。
私は乾いた床から作業を始めた。
*
次の休み、母の施設へ行った。
談話室の窓際で、母は青い折り紙を四つに畳んでいた。角は合っていない。折るたびに違う大きさの四角が重なり、最後の一辺だけが長く残っている。
「それ、何になりますか」
「まだ」
前にも同じ返事を聞いた。
テーブルには、施設が取り寄せてくれた靴下の見本が二足置いてあった。滑り止めの粒が、私の買った物より小さい。母は灰色と紺色を裏返し、粒の上を指の腹でなぞった。
「どちらにしますか」
「紺」
「こっちは?」
「これは、薄い」
色のことか、生地のことかは分からない。職員がもう一度尋ねても、母は紺色を選んだ。購入票へ丸を付けるところだけ見てもらい、名前欄は届いてから書くことにした。
母は青い紙へ戻った。
私は隣の椅子へ座り、清掃の仕事を始めたことを話した。床を洗う機械が曲がる時だけ重いこと。制服のポケットが浅く、鍵を落とさないよう内側に留め具を付けたこと。
「魚は出るの」
「清掃の仕事で?」
「お昼」
「夜の仕事だから、職場では食べません」
今日の施設の夕食は鰆だった。献立表を見せると、母は調理法を先に探した。
「焼くの?」
「塩焼きです」
「皮、取らないで」
私は献立表の端へ、皮付きが好き、と書きかけた。母は今までも職員へ何度か伝えている。今日は担当職員がそばにいなかったので、食事の前に本人からもう一度言ってもらえばよい。
ペンを置いた時、母の右足がフットサポートから上がった。
青い紙を折りながら、踵を少し浮かせる。足を戻しても、間を置いてまた持ち上げた。
「右の靴、当たりますか」
母は紙を見ている。
「お母さん。右足、痛い?」
「靴がいる」
「脱ぎたいですか」
今度は私を見た。
「見せるだけ」
「靴を脱がせて、見てもいい?」
「右だけ」
私は母の前へ回り、右の膝から下を支えた。靴の留めを外す前に、もう一度声をかける。母が足を上げたので、踵をこすらないよう靴を抜いた。
「靴下も外していいですか」
「引っぱらないで」
履き口を広げ、足首から少しずつ下ろした。踵の後ろに、十円玉より広い赤みがあった。皮膚は開いていない。縁は丸くなく、内側へ少し長い。
「ここ、触りますか」
「触らないで」
「分かりました」
私は手を離した。
「赤いところがあります。職員さんと看護師さんに、今見てもらっていい?」
母は右足を私の膝へ載せたまま、靴を指さした。
「それは、履かない」
「今は履かないで見てもらいます」
呼出ボタンを押すと、いつも面会の案内をする佐藤さんが来た。
私は最初から説明した。面会中に右足を二度以上フットサポートから浮かせたこと。本人へ尋ね、靴と靴下を外す許可をもらったこと。赤みに気づいたあと、触れずに呼んだこと。
佐藤さんは母の正面へしゃがんだ。
「和枝さん、看護師にも見てもらっていいですか」
「男の人?」
「今日は吉岡さんです。女の人」
「じゃあ、いい」
佐藤さんは母の答えを待ってから、看護師を呼んだ。私は靴下を丸めず、椅子の脇へ置いた。
吉岡さんは母へ名乗り、踵を見ることと、周りへ触れることを一つずつ確かめた。母は私には触るなと言ったが、吉岡さんには「そっと」と答えた。
施設の朝の更衣記録には、皮膚の赤みはなかったという。いつから出たかは、その場では分からない。吉岡さんは大きさと皮膚の状態、母の言葉を施設端末へ入れた。
「靴が当たっている感じですか」
「ここが、いや」
母は指ではなく、右足全体を少し持ち上げた。
「今は靴を外して、踵がフットサポートや椅子の部品へ当たらない位置にします。足を下ろしたままでつらくないですか」
「紙、落ちる」
青い折り紙が膝からずれていた。私が拾ってテーブルへ置くと、母は自分で左手を伸ばした。
吉岡さんはフットサポートの位置を確かめ、ふくらはぎの下へ施設のクッションを入れた。靴は履かせず、滑り止めのない柔らかい靴下をゆるく戻す。夕食前にもう一度見て、夜勤の職員へも引き継ぐと言った。
「その時の様子は、いつ聞けますか」
「面会の終わりにも一度見ます。夜の確認は、明日の午後ならお電話でお答えできます」
「私から電話します。何時ごろがいいですか」
「二時以降なら、夜勤からの申し送りも確認できます」
佐藤さんが、家族連絡ノートへ次回の連絡日を書こうとした。
「そこは、私が書いてもいいですか」
ノートは施設のケア記録ではなく、衣類や面会予定を家族とやり取りするための物だった。佐藤さんは、看護師が確認した内容と処置は施設端末へ自分たちで残す、と説明した。
「ご家族の欄は、見つけたこと、誰へ伝えたか、次に確認する日の三点で足ります」
私はうなずき、ペンを取った。
その前に、母へ聞いた。
「右足のこと、ここへ書いていい?」
「右」
「右の踵が赤かったこと。佐藤さんと吉岡さんへ見てもらったこと。明日、私が電話することを書きます」
「靴は」
「履かないで、夕食前にもう一度見てもらいます」
母は、青い紙の長く残った辺を折った。
面会の終わりに、吉岡さんがもう一度来た。母へ断って靴下を下ろし、同じ場所を見た。赤みは外側から薄くなっていたが、中央には残っている。吉岡さんは見た時刻と変化を施設端末へ足し、靴を履かせないまま夕食の席へ移ることにした。
明日の午後二時以降。私から電話。赤みが残るか、皮膚が開いていないか、夜のあいだ右足を浮かせていないかを確認する。
私は家族連絡ノートに、診断の名前を書かなかった。
右踵に赤い部分を見つけ、和枝本人に確認してから、佐藤職員へ伝えた。吉岡看護師が面会中に二回確認。明日午後二時以降、家族から電話する。
最後の行が狭くなり、電話、と書く字が右へ寄った。
母が、私のペン先を見ていた。
「ゆっくり書きなさい」




