第10話 聖獣の予感
朝の森は、まだ息づいているようだった。
白い朝靄が木々の間をゆっくり漂い、陽が昇り始めるにつれ、緑が淡く濡れた宝石のように輝きを増していく。
カフェのテラスには、コーヒーの香りと風が混ざり合い、静かな調和を醸し出していた。
クラリスは白いエプロンの裾をそっと引き寄せながら、手を柔らかく動かした。
ハーブティーを淹れるその動作は、まるで時が止まるかのようなゆったりとしたリズムを保っている。
一杯分の茶葉をティーポットに流し入れ、湯を注ぎ、数秒待ってから――静かにカップへ注ぐ。
カップが魔力で優しく浮き、光を受けて淡く揺れる湯が、音もなく器に落ちていった。
レオンは彼女の背後少し下がった位置でそれを見つめていた。
目に映るクラリスの真剣で、でも穏やかな表情に、言葉を選ぶように息を整える。
「クラリス……正直に言うと、俺は、君が“聖獣”なんじゃないかって思ったことがあるんだ」
その声は、まるで森の風のように静かだが、確かな重みを持っていた。
クラリスの腕が一瞬ぴくりと動くが、動揺の色を外に出さないまま、彼女は平常心を装ってティーポットを戻した。
「……どうしてそう思ったの?」
問い返す声は、均整の取れた響きを保っていた。
だが、その内側では、心臓が高鳴り、胸が小さくざわめいている。
レオンはゆっくりと視線を下に落としながら続けた。
「聖獣は――伝説では“黒い毛並みに金の瞳”とされている。君の外見はその伝承と違う。
でも、それでも“聖獣らしい”と思わせる何かが、君にはあった」
クラリスは息をひそめ、湯気が立つカップを見つめ、自分の心を整えようとした。
レオンはいくつかの木製椅子の背に軽く手を触れる。
「君が初めてここに来たときから――セドは当然だけど、それだけじゃない。
この森にいる猫たちが皆、君の匂いに惹かれるように群がってきた。
普通の人なら、そんな態度をとる猫は見たことがないはずだ」
朝の柔らかい光の中、テラスに目を下ろすと、数匹の猫が集まってぐるりと輪を描いていた。
クラリスはその光景を確認し、静かに頷いた。
胸の奥に言いたいけど言えない言葉が詰まる。
「それに……君が淹れるハーブティーを少し飲んだだけで、
俺の肩の痛みも、脚の疲れもすっと引いた。疲弊した体がじんわりと解けていくような――
そんな感覚は、ただの魔法では感じられなかった」
クラリスのほおが微かに緩む。
その瞬間、クラリスは胸の奥に、自分が聖獣であるという真実をじんわりと意識していた。
「そしてあの夜――俺が倒れたときに見た夢があるんだ。
黒い毛並みに金の瞳をした猫が、俺にそっと寄り添っていて――
気がついたら、次の瞬間には君が目の前にいたんだ」
レオンはまっすぐクラリスの目を見つめた。
その瞳には、確信でも、問いかけでもない――ただ静かな探求が燃えている。
クラリスの視線が自然と黒猫で神使いのセドへ移る。
黒猫の金色の瞳が、彼女を見つめ返していた。
セドはほとんど無表情だが、その目には確かな決意が込められているようだった。
レオンは視線を少し外し、遠くの森の中腹を見つめた。
「それにこのカフェは――ヴァルゼンの領内ギリギリにある。
隣国では、猫が神聖視されていて、百年に一度“聖獣”が現れると国に加護があるとされている。
つまり、ここに君がいるだけで――国に福音が届いている可能性があるんだ」
森の奥から小鳥の鳴き声が聴こえ、小さな風がカフェの屋根をなぞった。
クラリスは目を細め、ふと笑みをつくる。
言うべきかどうか分からず、ただ沈黙するしかなかった。
レオンはクラリスの隣に近づき、その手をゆっくり取り上げた。
彼の掌は温かく、揺らぐ感情をそっと包み込むようだった。
「クラリス。どんな君でも、俺は――」
クラリスはそっと笑みを返した。
言葉にはしなかったが、瞳で問いかける――“本当に?”と。
レオンは優しくうなずき、カップをそっと置いた。
「本当に。君が聖獣でも、人間でも……変わらずに、俺の大切な人だ」
クラリスの瞳が少し潤んだ。彼女は視線をうつむきながら、胸の中で深く息を吸い込む。
朝の陽射しは、木漏れ日のように二人を包んでいた。
セドの喉がごろごろと鳴り、他の猫たちも尻尾を優雅に揺らしている。
クラリスは小さく目を閉じ、心の中でだけ言った。
(――ありがとう。あなたがいるなら、私はもう少し……強くなれそう)
レオンはそっと腕を伸ばし、彼女を優しく抱き寄せた。
二人の間に流れる静かな温もりは――どんな伝承よりも、確かな絆の証だった。




