75.それからの気持ち 【最終話】
最終話です。
暖簾をくぐって向かい合い、頭を下げた。
「ご馳走様です」
亀田部長は少し自嘲気味に首を振った。
「また自分の好みで店を選んでしまったが……、若い奴の好きそうな店が分からなくて、スマン」
「いえ、俺も日本酒好きなんで」
「そうか」
その整った表情は一見笑顔とは程遠い、厳しいものに見える。しかし今ではもう、分かってしまった。その視線に籠る光はそう冷たいばかりのものでもないってことに。
「これはヨツバに渡してくれ」
「あ、はい。有難うございます」
受け取った紙袋の中味を覗き込むと、以前貰った座布団と同じ藁のような素材で作られた潰れた円柱型の、太い管のようなものが見えた。
「トンネル版は座布団よりも楽しめるかもな。うータンやミミもよくその中で丸くなってるんだ」
「……ヨツバも気に入ると、思います。でも―――」
俺の頭の中には、うータンやミミのような女性陣とは違った意味で楽しむ様子が、アリアリと思い浮かんだ。
「一瞬で粉砕されるかもしれません」
と紙袋を覗き込んだまま、俺はボソリと呟いた。するとプッと噴き出す音がして、思わず顔を上げた。
「ハハハ!」
俺の目の前で、亀田部長がそれは楽しそうに笑ったのだ。
「『粉砕』ね、確かにな……!」
そんな屈託のない彼の笑顔を見たことが無かった俺は―――不覚にもドキリとしてしまった。こんなに魅力的に、人間らしく笑う人だったんだって。目から鱗が落ちたみたいな気分になって、胸がギュッと締め付けられた。
いや!違う、これは―――女に飽き飽きしたから男に走るとか、そう言う意味じゃないからな……!
そこんとこだけは、勘違いしないで欲しい。俺は元来、女好きなんだ!今回のことで、かなり懲りたような気もするけれど―――まだまだ俺だって、若いんだ。亀田部長だって初恋……は置いておいて、卯月さんと巡り合ったのは三十八になってからだって言うし。だとするとひょっとして……俺にもいつか、世界が変わって見えるくらいの良い出会いがあるかもしれない。そして意外と結婚に関しても、それほど拘らず夢を持てるようになるかもしれない。親が失敗したからって、必ずしも俺も同じ失敗をするとは限らないんだ。
そうこの三年間、みのりと一緒に暮らしてみて分かったことがある。
自分がいつか親父のように浮気を繰り返す男になるかもしれない―――そんな大人になることを、密かに恐れていた。そんな風になりたくない、なるくらいならいっそ最初から結婚なんかしなければ良いんだって、そう思い込んでいた。
確かに俺は、揺らつく事も目移りする事もある。そう言う本能が俺の中に存在することは否定できない。実際それは、浮気性だった親父の遺伝子の影響かもしれない。
だけど少なくとも、付き合っている相手や結婚した相手がいる状態で浮気に踏み出すことはなさそうだってことは分かった。逆に親父がどうしてそう言う行動に安易に踏み出すのを止められなかったのか、今では理解出来ないくらいなのだ。
つまりみのりと暮らすことで、俺は自分の保証書のようなものを手に入れられたような気がするのだ。少なくとも、俺には浮気は出来ない。というか、浮気をすることに罪悪感を持てる人間なんだ。ただ単にそれを小心者の言い訳だって言うヤツはいるかもしれない。だけど小心者で良かった、そう思えることに今はホッとしている。―――それが分かっただけでも、この三年間には意義があったのかもしれないって思う。
でもまだ課題はいろいろ残っている。そもそも若くて可愛い子に懐かれたくらいでデレデレするのも、付き合っている相手に失礼だったのだろう。今回起こったトラブルの大半はソレが元になっているような気がする。これは本当に俺の不注意が招いたことで、自業自得としか言いようがない。
だけど、それよりももっと必要だったのは―――ちゃんとお互い誤解が無いように、思っている事を話し合って向き合って行くことだったのだ。それが俺達には足りなかった。今、日本酒の酩酊感が要らない理性を削ぎ落した頭の中で、妙にスッキリと認識する事が出来る。
うっかりふらつく本能を抑え行動を律し、誤解しがちな処を話し合って解消していく―――そんなことを相手と向き合って一つ一つやっていくなんて……想像するだけで気が遠くなるほど、恐ろしく手間が掛かって、うんざりするくらい面倒な作業だと思う。
けれどもいつかそんな面倒くさい作業をこなしてまで、敢えて『ずっと一緒にいたい』と考える相手に出会える……かもしれない。亀田部長のように。
出会えたらいいな、と今は思えるようになった。
それだけでもう―――ヨツバは十分、俺の元に幸運を運んでくれたと言えるのではないか?
「いや、まだ足りん!」
俺は帰り道、留守番しているヨツバの為にスーパーでセロリを手に入れた。それを運動場の柵から差し出し、ガツガツ貪るヨツバを見つめている。そしてキッと視線に力を籠め、セロリの葉っぱに夢中になっている最中のヨツバに拝むような気持ちで語り掛けた。
「ヨツバ、頼んだぞ!俺の幸運は仕事の成功と可愛い女!どうせならみのりが悔しくて歯がみするくらい、とびっきりの幸運を運んでくれよ……!」
だからそれまで目いっぱい―――ヨツバが出来る限り健康に、快適に過ごせるように尽くそうじゃないか。そう、これは俺がうさぎに嵌ったから行っている献身では無い。俺はあの銀縁眼鏡上司のような変態ではないのだ。……それに亀田部長のうさぎと違って、ヨツバは雄だし……決して、決して俺はヨツバに、あの変態上司みたいに……ゴホン。亀田部長のように、ときめいている訳じゃない。
ただちょっと、うさぎと暮らす生活も、振り回された結果楽しんじゃったとしても―――悪くないんじゃないかって思うようになっただけで。
なんて往生際悪く自らに言い訳していた俺だったが。
その後意外と積極的にヨツバとの暮らしを楽しみ出し、それから亀田夫妻宅にお邪魔してうータンを撫でさせて貰ってホッコリしたり、うさんぽにチャレンジして思いも寄らずはしゃいでしまったり、果てにはうさぎオフ会に参加するようになる―――なんて未来があったりなかったり?
そのうち『俺って結構幸せかも?』なんて思うようになって、仕事も順調に進んで昇進しちゃったり、意外と恋愛にも前向きになったりする未来があるなんて―――その時は全く想像していなかったのだった。
【うさぎのきもち・完】
最後までお読みいただき、お付き合いいただいた方々、本当にありがとうございました。
とりあえず一旦完結!を目指したので、意味ありげに登場した伊都さんの設定、エピソードがまるまる抜けてしまいました。別視点か後日談で補足したい所なのですが、なかなかにエネルギーを使った作品なので追加投稿が出来るかどうか分かりません。このため、こちらで完結表示設定とさせていただきます。
兎にも角にも完結まで辿り着けたのは、読んでいただいた方々、感想・コメントを寄せていただいた方々のお陰です。感謝してもし切れません、誠にありがとうございました!
(補足注)
本作はうさぎを飼うことは、楽しい事ばかりではなく汚いところも大変なこともいろいろある、という事例を交えた虚構です。その状況を作り出す為に他人にペットを押し付けるキャラクターが登場させましたが、決して買ったペットを他人に押し付ける事を推奨するものではありません。皆さま、ご承知の上で読まれている方が大半だと思いますが、念のため申し添えます。




