15.『初めてのうさぎのお世話』2
地下鉄のホームで列車を待つ間、胸ポケットから取り出したリーフレットに再び目を落としていた。
『トイレを覚えさせるには。
1.ケージの隅にトイレを置く。
2.トイレにおしっこの付いたティッシュなどを入れておく。
3.排泄しそうな素振りをしたらトイレに乗せる。
4.トイレで排泄出来たら褒める。
注)トイレ以外の場所でしてしまっても叱らず、
すぐに掃除をして匂いを取るようにしましょう。
トイレ掃除のポイント
1.毎日掃除をする。
2.匂いを取り過ぎない。
3.舐めても大丈夫な消臭剤を使う。
注)ウンチ・おしっこの形や量で毎日健康チェックを!』
リーフレットの大半に目を通した所で列車が到着したので、胸ポケットに紙片を折り畳みしまい込んだ。
「そっちの問題もあったな」
トイレ掃除か。頭から抜け落ちていた。
そうだよな、トイレ掃除も必要だよな。特に異臭はしていなかったから、意識していなかった。でも確かに取り換えなきゃ駄目だよな。
しかしなぁ……トイレ掃除となると、やっぱケージに手を入れなきゃ無理だよな。あの尖った歯で噛まれるのは相当、痛い。ったく、草食動物のくせに肉を齧るなんてけしからん。腹、壊すぞ?
俺は駅を降りたところでコンビニに入り、軍手を購入する事にした。噛まれる前提でケージに手を入れるなら、これしかないだろうと考えたのだ。
自宅のドアを開けた所で、微かな匂いの変化に気が付いた。
うーん、確かにトイレの始末は必要だな。仕事の環境に身を置いてから帰って来たからグッと気になってしまうと言うのもあるが、ずっと掃除を怠っていたと言うのも大きいだろう。うん、本当に適度な所で帰って来て良かった。今日俺ははこれから、じっくりヨツバと対決しなきゃならないんだからな。
靴を脱いで鞄を所定の場所に置く。スマホを居間の定位置に置こうとして―――画面を確認したが、やはりみのりからの連絡は無い。溜息を吐いてスマホを充電器に差し込み、部屋着に着替えた。
「よっし、やるか」
軍手を付けて、ヨツバのケージの前に跪いた。
「うっ……くっさ」
離れているとそんなでも無いのに、近付くとツンとする匂いが鼻を突いた。うさぎって全く匂いが気にならない動物だと今まで思っていたのだが―――
「そっか、みのりが毎日世話をしていたからな」
そう言えば、と周りを見回す。床の端にうっすらと埃が溜まっているのが目についた。俺はそれほど物を放置したりするタイプじゃないから、みのりが不在だからと言って部屋が極端に荒れる事は無い。だけどこう言う所でふと、みのりの存在感を実感する。
何も言わずに出て行ったみのりに対する苛立ちは、勿論まだ消えていない。けれども心の中に締める、その苛立ちの割合は徐々に減少しつつある。……そしてそれとは色合いの違った感情が胸中に広がり始めている。
だけど今は、その色合いを突き詰めて考える気分にはなれなかった。
「取りあえず、ヨツバを何とかしなきゃな。おーい、ヨツバ!今餌入れてやるからな。……だから噛んだりするんじゃねーぞ」
ケージの片隅で丸くなっていたヨツバが、俺の声掛けに応えるようにスクッと前足を立てこちらを見上げた。できればその場所から動いてくれるなよ……と願いながらケージの留め具を外す。入口を開けて軍手で防御した手を差し込み、餌入れに手を掛けた。
「ヨツバ、俺は敵じゃねーぞ。お前にウマい飯をあげようとしているだけだからな?」
ヨツバを驚かせないように、ゆっくりと餌入れを引き出す。
「よっし……!」
陶器製の餌入れを怪我する事無く取り出した俺は、達成感に思わずガッツポーズを作った。
「よーし、少し待っていろよ。古い餌を入れ替えてやるからな」
ヨシヨシ、やれば出来るじゃねーか。
自然と笑顔でヨツバに言葉を掛けてしまう。ペットに話しかける男……なんて、女々しそうでこれまで客観的に良いイメージが無かったが、やっぱこうなっちゃうよな。誰も見ていないんだから、まあいいけど。でもこの場面、誰かに観られていたとしたら羞恥で軽く一回死ねるかも。どうみても普段の俺のタイプじゃねーもんな。
古い餌をコンビニのビニール袋にあけ、密封容器から餌入れにペレットを入れようとして手が止まった。カフェで読んだリーフレットの文章を思い出したのだ。
「そう言えば牧草が主食って書いてあったな」
牧草のストックがあるなら、そっちも補充しなきゃな。
カラーボックスの棚を漁ると、餌入れと同じような密封容器を発見する事が出来た。中にはケージに入っていたのと同じような草が詰まっている。
良かった、もしストックが無かったら買いに行かなきゃならなかったものな。郊外のペットショップに行くなら車も必要だし週末まで待たなきゃならないし……あのうさぎ専門店なら平日でも寄れそうだが、何となく気まずい。必要な物を揃えるなら、できれば違う店に行きたいと思った。また銀縁眼鏡と鉢合わせたらと想像するだけで、いやぁな気持ちになった。
「よしまず、餌だ。どのくらい牧草を食べるか分からないから……取りあえず規定量を入れておくか」
ザラザラと餌を入れた容器を手に持って、ヨツバのいるケージを振り返る。
「もう少し大人しくしていてくれよ、ヨツ……」
言い掛けて、ケージの入口へ伸ばそうとした手がピタリと止まる。
「あれ?ヨツバ?」
ヨツバがいない。そして―――ケージの扉が僅かに開いていた。まさか……。
振り向くとソファの足元にあるラグの上に、ベージュのぬいぐるみが。
ヨツバは首を曲げて、のんびりと自分の背中を舐めて毛繕いをしていた。