【起】1-1
落ち着け!
僕は他人と会話できる。
知らない他人と会話できる。
【起】
1-1
目が覚めた。
また変な夢を見たような気がする。
白い部屋に閉じ込められて出る事ができない夢。
最近、いつもなんだよな。
……変な話だ。
僕の頭の中は一体どうなっているんだろう?
精神的に疲れているのかもしれない。精神的に疲れているのかもしれない。大事な事かどうかわからないがとりあえず脳内で二回言っておく。
仕方が無いでしょう?
だって僕には、何が大切な事なのか、わからないんだ。
ただとりあえず自分の心の不具合に気付かず取り返しがつかなくなってしまうような事は、それだけはいやだなとなんとなく思っただから。
その、最悪の場合を危惧して。
……気持ちを落ち着かせ、強い意思を持つ必要がある。決して落としてしまわないように。
強い意思を持つ事は現代社会で生きる上で、大事な事だ。
現代社会で人間は連続する時間の中で確固とした意思を持つ矛盾なき存在である、と規定されていると何かの本で読んだ。そうしないと法律が機能しなくなってしまうからだという。
人の決めたルールの為に人が規定される。
難しい事はよくわからないが偉い人達がそうしているのだから、それで正しいのだろう。仕方が無いのだろう。
僕なんかは矛盾しているのが人間なんだろうと思ったりもするのだけど、僕みたいな無力な人間の考えなんてのは生きていく上でまったく、どうでもいい。だから考えない。
多分他人が聞いても、どうでもいいと思うだろうし。
どうでもいいけど。うん。どうでもいい。
とにかく。
肝心なのは誰かに既に用意されたルールの中での僕の生き方だ。
世間が認めているルールから逸脱すれば、正常な人間として扱われない。自分がそういう風に思われるのは、嫌だ。
だから僕は現代社会の想定する人間となるべく一貫性のある意識ある人間として生きる事を切実に希望していて、寸断された感情で外部刺激に単純に反応する存在にはなりたくなかった。
だってそれって、壊れた機械みたいじゃないか。
人間も、機械に過ぎないのかもしれないけれど。
中学二年生としてはそういう考えは格好良く感じるのも事実だけれど、実際自分がそういう存在になりたいかと問われると否となる。
まあ、どうでもいいや。それも。てか、全部。
息苦しくて、喉がカラカラだった。
部屋の中は埃が充満しているから、仕方が無い。母さんが、ちゃんと掃除をしてくれればいいのだけれど。
などと他力本願してみるテスト。
まあ、僕も中学(二年)生だし、部屋の中を母さんにいじらせるのもあれだ。
別にいかがわしい本がベッドの下に隠してあるとかいうわけではないけど今度、自分で掃除しよう。
それにしたって、どうして僕の部屋はこんなに散らかっているのだろう? まるで台風が来たかのように、何もかもが滅茶苦茶に散乱している。
全部僕がやったんだっけ?
あーあ、覚えてないや。
ベッドの上から手を伸ばして充電器の上にある携帯電話を確認すると、赤芯音菜からメールが着ていた。
「いつまで休んでいるの? 早く学校出てきなさい☆」
可愛らしい絵文字付きだ。
どうやら僕はいつの間にか随分学校を休んでいたらしい。
よくないことだ。
二階の僕の部屋から居間へと降りていくと、父さんがスーツをピシリと着こなしたまま、テーブルに突っ伏して眠っていた。
かなり疲れているのだろうか。
肌も黒ずんでいる。
大丈夫だろうか。
今日だって、仕事があるはずだ。
起こしたほうがいいのだろうか?
いや、まあ、仕事には間に合うように行くだろう。
僕は中学生特有の考えというのか、父さんが何となく生理的に好きではなかったので、関わらないでおくことにしてその場を離れた。
朝のシャンプーもとい朝シャンでもしようかと思ったのだけど浴室には母さんがいた。
実際に母さんの姿を見たわけじゃないけど、僕の家は父さんと母さん、僕の三人家族だから、母さんなのだろう。
シャワーの水が流れる音がする。
しょうがないな。
僕は洗面台で手短に準備を済ませると、家を出た。
住宅街はイラつくほどに眩しい朝の光に照らされていた。
「好きじゃないな」独り言。特に意味はない。
ここは北陸のとある地方都市。舞神市という。
なんでこんな名前がついているかというと、かつてこの地は神々の舞い降る土地と言われていたのが由来らしい。
本当かどうか、僕は知らない。
昔は人々にそんな夢を抱かせるような自然があったのかもしれないが、今ではただの、排気ガスで薄汚れた地方中小都市の一つに過ぎない。
退屈なので家から学校へと向かう間、車道からこちらの呼吸器に傷害を加えようと排気ガスを撒き散らしていく何台もの大型トラックを睨みつけながら、日本の環境問題について大仰に考えたりした。
この排気ガスってので酸性雨だとかの環境問題が起きているのか。
最近の世の中じゃエコだエコだとかいうけれど効果、あるのかな。
個人個人で地球環境に貢献とか、人の善意に頼ってていいのかな。組織的にやらなきゃ意味ないんじゃないのかな。
本当にどうでもいい事だが僕は性悪説の信者だ。祈りを捧げた事はないけれど、結構真面目に信じている。
放っておけば善い人が急に増加するわけでもないだろうに。
言語獲得の瞬間から最後まで、人間は環境に依存した生き物だ。
悪貨は良貨を駆逐する。
腐ったリンゴはまともなリンゴも腐らせる。
整然と整理されて生かされなければ人は良いことなどするはずもない。
自明の事なのに環境を変えずの個人主義、自己責任がこの世の中には多過ぎる。変えるべきだ。
どうでもいいこと色々、考えた。
結果としてその無意味で無力な性悪説論者としての思考は僕が学校に着くまでの登校時間をわずかばかり縮めたかに思えた。
信号待ちをだらだらとやり過ごして目的地に着く。
私立白入学園。創立してまだ十年ほどの、新しい中等学校。
そこが僕の通う学校だ。
教室に入るといつもの少女が声をかけてくる。ただし、後方から。
ショルダータックルのおまけつきだった。
「なーに朝から辛気臭い顔してんのよ」
顔も見ていないのにこの言いようである。
振り返ると、見知った女子がいた。
僕の、現時点この学園で恐らく唯一の人間関係。そして幼馴染。大切にしたいところだけど少々暴れん坊に過ぎる奴。
「そんなところにボーッと突っ立ってないで、早く中に入ったら?」
僕は教室の後方、出入り口の所で呆けたように立っていた。
いつの間に校舎に入ったのだろう?
……移動した記憶が無い。
「ひっさしぶりね。どれくらい、休んでたっけ?」
うーんと。
……いつからだろう?
「最初っからあんたなんていなかったんじゃないかってくらい、休んでたわよね」
それはひどい。
「一年の後半くらいからだっけ?」
出席日数が大変だっていうのは知ってるけど。
「そこまでずっと休んでるわけじゃないつもりだよ」
「でも、最近ずっとじゃない?」
来てもしようがないしなあ。
……得るものもないし。
「まあ、なんとか三年生になれるくらいには、来るつもりだよ」
人間が好きになれたら、いいなあ。
「そんな受け身な考えじゃダメよ。もっとこう明るくポジティブかつアグレッシブで、ぐわーっといかないと。ぐわーっとね」
両手をえいえいおーと上に突き上げて見せる音菜。
ポニーテールが動物の尻尾のように揺れる。
その表情を見るに、僕の久しぶりの登校は一応、歓迎されてはいるようだった。
「今からでも、あんたなら頑張れば進学グループに戻れるわよ」
はげまし?
にしても、進学グループ、ねえ。
音菜の裏表の無さそうな笑顔を見ながら、僕は思った。
僕はそれを望んでいるのか?
僕は学校を休みがちになる前、まあ、せいぜいこの学園に入学して半年くらいだけど、その間はそこそこ成績が良かったらしい。
初めのうちは、頑張っていたんだ。
皆の求める存在になろうって。
でも、あんまりにもつまらなくて、続ける価値も見いだせなくて、やめてしまった。
学校を休みだしたのは、そのせいだったろうか?
いや、確かに勉強はつまらなかったけれど、それは学校を休みだした理由じゃない気がする。
誰も僕のそばにいてくれないから?
でも、音菜はこうして話しかけてきてくれる。
何で今まで学校を休んでいたんだろう?
……わからない。
「なんでもいいや。僕は生きていければ、それでいいんだ」
実際、そうだった。
……だったら学校に来ても良さそうなもんだけど。
なんでだろうね?!
あははははは。
「あんたってほんと、投げやりな男ね」
「そうだね」
音菜が割かしどうでもいい事を言うので僕は退屈で、何かないかなと教室内を見回す事になった。すると、黒板が目に入る。
黒板には幾つもの文字が書き込まれていた。
それを図書委員で学級委員でもある紫堂佐鳥が、一生懸命消している。
背が低くて髪型は両おさげ、右側の前髪をピンで留めている。教科書にモデルとして出てきそうなくらい真面目一辺倒の女の子だ。
まあ、顔は百人前ではないけれど。
多分、磨けば音菜と同じくらいはかわいい気がする。
残念ながら胸では音菜には勝てそうにないが。というかそこは磨きようが無い……と、思う。磨かせてもらうなら志願させていただくが。まあ、それは今はどうでもいい。
僕は黒板に書かれている文字の群れを見る。
あれを、消すのか。
……大変だな。僕は同情した。
いつの間にか辺りを夕日が照らしていた。
その日は特に何もなかった。
……特に何もなかった?
そう、特に何もなかった。
特に何もなく、夕方になってしまった。
授業の事は、あんまり記憶にない。
生徒達はいたのだろうか?
僕にはわからない。
音菜と佐鳥以外、見た記憶が無い。
そしてただ一人残っていた生徒は赤芯音菜だった。
「どうしてここにいるのって顔ね」
全く、その通りだった。授業は終わったのに。
「いつも同じこと言うんだもん。もう、聞き飽きちゃった」
いつも?
「彼女は……?」
何故か、気にかかった。
「ああ、紫堂佐鳥なら、帰ったよ。消えたっていうか」
「消えた?」
言い方がおかしい。
音菜はいたずらっぽく笑い、
「あ、言い過ぎちゃった。まあでも、どうせあんたは『明日』になったらみんな忘れちゃうから、いっか」
明日?
明日なんて、本当に来るのだろうか?
……まあいい。
授業は終わった。
……さて、どこへ行こう?
考えるまでもない。帰るのだ。
授業が終わったのだから、まっすぐ家に、寄り道もせず一人で、帰るのだ。
と、音菜が僕の左腕に自分の両腕を絡めてきて、
「ねえ、一緒に帰ろうよ」
彼女の若く、それでいて既に豊満な双乳が押し当てられ、僕は思考を失う。上目遣いの表情が夕日に照らされまぶしくて目を背けた。
「帰る……僕は赤芯音菜と一緒に、帰る……」
まったく、なんだって僕はこんな風にいつもボソボソとしかしゃべれないんだろう?
もっと若々しく健康で、溌剌として機敏であってもよさそうなものだ。
でも僕は、どうにもそうはできないらしい。
残念だ。
あーあ。
「今日は良い天気だね」
僕達は排気ガスに塗れた歩道を二人で並んで歩いていく。
「いつも良い天気よ」
にべもない。また『いつも』か。
「ねえ、どうして『いつも』なのさ」
「あ、あそこにアイスクリーム屋さんがある! 行ってみようよ」
彼女は僕の質問には答えない。
答えないで一人で先に走って行ってしまう。、アイスクリームの屋台が出ている公園の中へ。
短めにされた制服のスカートがひらひらして、僕は幻惑される。
「私イチゴとバニラのミックスね」
この辺りではこうして夏の間だけ移動する小さな屋台でもって、アイスクリームを売るのが風物詩となっている。
クリームというよりもシャーベット状のものが主で、それがまたおいしい。暑い夏には欠かせないものだ。
音菜は先に行ってしまったくせに、屋台の前でうろちょろするばかりで、何故か先に注文をしてはいなかった。
「僕は、何にしようかな。普通のバニラでいいや」
「それじゃあんた、まとめて注文しといてね」
「え、僕のオゴリ?」
「当たり前でしょ」
当たり前なんだろうか?
いやいや。
いくら幼馴染といえども!
「だって私お金持ってないし」
自分の体をポンポン手で叩いてから軽くジャンプして見せる音菜。
飛んでみいやを自主的に実行してみせたという事なんだろうがだからといって当然のように僕におごらせようという根性はいかがなものかと思う。
というか胸が揺れていて視界が奪われる。
これは窃盗罪だ!
「男は、レディーの事を優しくいたわるもんなのよ」
レディーファーストとかいうやつなのだろうか。
レディーって柄かよ。
とか、紳士じゃない僕も男だからレディーをいたわらなきゃいけないのかそれって対義語の役割としてどうなんだろう?
などと余計な事はツッコむ事は僕には当然のようにできない。
まったく。
最近じゃ男女平等を履き違えて女尊男卑の傾向が現れている所さえあると思うけど、これもどうやらその社会的現象の一環らしい。
その女尊男卑の中でもとりわけ夢見る自分勝手な女の子様の頭の中で作られた、理不尽極まる要求だ。
財布の留め金を特殊接着剤で固定する準備をしておいた方がいいかもしれない。
だって、僕はまだ中学二年生だ。
お小遣い以外基本的な収入源は無い。
お金なんて、そんなにあるはずもないのに。
「大丈夫よ。あんたはいっぱい持ってるから」
財布を見てみると、確かに三万円くらい入っている。いくらなんでも、持ち過ぎじゃあないだろうか。日頃からこんな大金を持ち歩く中学生なんて、あんまり知らない。別にゲーム機を買いに行く予定でもないのに。
「どうして……」こんなにたくさんお金を持っているんだろう?
そう、聞こうとしたのだけど、
「お客さん、注文は?」
他人に向けたいきなりの発声練習に僕は大いに驚き、恐れおののく。
近所迷惑はやめてください! とでもいうべきだろうか。
いやいや。
今のは、僕に話しかけてきたんだ。
緊張。
声をかけてきたのは麦わら帽子に白のTシャツ、薄緑の短パン姿で、無精ひげを生やしたアイスクリーム売りのおじさんだった。
無愛想な声が耳に届き、まだ奥でザラついている。
……待ち疲れさせてしまったのだろうか。
「あ、ぼ、僕は……」
あー、どうして舌がモツれるんだ!
「なんだい、まだ決めてねえのか」
落ち着け!
僕は他人と会話できる。
知らない他人と会話できる。
音菜にアイスを買ってやるんだ。
「僕はバニラで、彼女には、イチゴとバニラのミックスを」
おじさんは怪訝な顔をして、
「彼女? お前さん、さっきからずっと一人で、ぶつぶつ言ってただけじゃねえか」
そんな馬鹿なと思い隣を見ると、さっきまでいたはずの音菜がいない。
これは一体どうした事だろう?
僕は狼狽した。
でも僕はすぐに、公園の奥の方、ベンチに座って呑気に足など組み――右足が上だった――、笑顔で手を振っている音菜を見つけ。
「ああ、いいんです。とにかく、二つ下さい」
僕はアイスを買うと音菜の方へと歩いていく。
「どうして先に行っちゃうんだよ」
「いいじゃん別に。ここ、ちょうどそこにある木のおかげで日陰になっててさ。涼しいよ?」
「はい、これ」
僕は仏頂面をしながらも、音菜にアイスを渡した。
「ご苦労、ご苦労! サンキュ~」
女の子ってのは、ずるいな。
この笑顔で大体は、許されてしまう。
「あ、おいしい!」
僕には、よくわからない。
何にも、味がしないんだ。
「私の方が二つ味があるから、私の勝ちね」
「そ、そんなんで勝ちとか負けとか、あるのかな」
「うっさいわね、なんでも多い方が偉いのよ」
それだったら僕はごはんを食べる時は五目御飯を食べよう。白米派には栄養面で負けないぞ。とか思ったり。
いやいやないでしょ、なんで白米と勝負しなきゃいけないんだよ、『強イラレテイルンダッ!』とか言えばいいのか?
……そもそも音菜が白米派かわからないしな。
まあでも、五目御飯を毎日食べている人間よりは白米を毎日食べている人間の方が多いだろう。音菜が後者である可能性は十分ある……!
などとと無意味に思考を加速させながらセルフツッコミ。
それだけ饒舌に心の中で話してはいても、何故か音菜にはただシンプルな疑問文で、
「そうなのかな」
それ以上の言葉が出て来なかった。
人と会話するのが苦手だったからかもしれない。
そっか僕に必要なものがわかったぞ。
僕には……。
会話の練習が必要だ!
ラジオ会話を始めてみた方がいいのだろうか。
『会話』の前に国の名前が入らないのはラジオでやっているのか知らないけど。
テキストが必要なら買う。
それくらいのやる気はある(つもりだ)。
「そうよ」
「そうか。そうなんだ」そういう事にしておこう。三段活用。意味不明。僕の人生みたいだ。
「あんたもこっちのアイス、食べてみる?」
突然の事で僕は驚いた。というか、ドギマギしない方がおかしい。
「ああ、でも私が口付けたとこからは食べないでね。間接キスになっちゃうから」
「でも、僕が食べたとこを君が食べたら……」結局同じなんじゃないかな!?
「君っていうの、やめてくれない? 音菜って呼んでよ。どうせ心の中じゃもうとっくに、下の名前で呼んじゃってるんでしょ?」
瞳の奥を覗きこんでくる瞳。キラリ。光。
「あ、う、うう。お、音菜……」
僕は、僕は駄目だ。
僕は音菜に呑まれている。
音菜はまだ透明な少女の雰囲気を残しているくせに、僕を狂わせるオーラも纏っている。
その音菜は『何故か』上機嫌に、
「それでよーし。ま、いいから、こっから食べてみ?」
「で、でもそれじゃ結局音菜は僕と間接キスを……」
「いいのよ別に、私は」
一転して今度は急に、寂しげな表情。
「どうして?」
理由を、知りたかった。
「別に。もうすぐ、壊れてしまうからじゃない?」
僕は夢の事を思い出した。音菜がバラバラに崩れていく、夢。
「壊れる?」
「そう」
音菜はベンチから立ち上がると僕の方に背を向けて数歩進み伸びをするようにして両の腕を天に向かって突き上げ、
「壊れちゃうのよ」
風が吹き、影から出た少女のポニーテールだとか服だとかをはためかせ。
「まあいつも壊れてるんだけど。今回の壊れるのは普段と違うから」
「僕には音菜が何を言っているのか、わからない」
こちらを向いて音菜は人差し指を立てチッ、チッ、チッ、チッ。
「別に考えて理解しなくたっていいの。感じてくれればいいの。人と人との関わりなんてそんなもんでしょ? 考えるな、感じろ、よ」
「ロックンローラーだね」
ウィンクまで飛んできた。
音菜の性格でこんな普通だとなんていうか、変な感じ。
だってどっちかってと拳とかナギナタとか飛ばしてきそうな性格だし。
ま、僕が変な事言った時前提だけど。
あ、なら今の言葉をそのまま口にすれば条件満たすな。
どうでもいいけど。
そう、どうでもいいついでに僕はロックはあんまり好きじゃない。
……静謐な様式美が好きなんだ。
「だって、本当にそうなんだもの。あんまり考え事ばかりしていると、逆に頭がおかしくなってしまうわ」
だから僕は音菜がロックンロールの思想の正当性を主張しているのをろくに理解しようともせずに一大政党制党首『主観』として、彼女の意見を黙殺した。
そんな風に心を閉じていたのでそのまま続いて音菜が言った、
「まあ、私は人でさえ……」
この言葉の意味に関しても想い患う事など無かった。
そしてそこまで言って音菜はため息を吐くと、
「いいから、早く食べてみなさいよ」
僕は這いつくばって音菜のアイスを食べた。今度はちゃんと冷たくて、おいしかった。
「おいしい?」
「おいしい」
「よかった」
実際、よかった。
「ねえ、知ってる? 漱石の言葉」
僕がアイスを音菜に返すと、すぐに舐め始めながらも音菜は口を開く。よく話せるものだ。まったく、せわしない。
質問も、どうにも頭の回転の遅い僕には、要領を得ない。
夏目漱石の事なのかと聞くと、そうだと言う。何故今漱石なのか、意味がわからない。
僕は音菜みたいなのはもっと最近の流行小説を好むものだと思っていたので雑談にせよそんな作家の名前が出てきたのは意外だった。ページの下の方が空白になっている小説を好みそうな女だな、などと勝手に断じていたのに。
「知ってるも何も、続きを言ってくれなきゃ、わかるはずもないよ」
「読んだ事ある?」
「そりゃまあ授業でやったから、少しは」
僕は割と本が好きだったので、その時よりも前に僕は母の本棚から引っ張り出して色々と漱石の本を読んで見た事もあった。面白かった。
だけどどうしてだろう。学校で暗記すべき「正しい事」として彼の文章を押し付けられると、随分つまらなく感じてしまったのを覚えている。
……学校というのは、面白いものをつまらないものに変換していく場所なのかもしれない。
「ちょっと、人の話聞いてる?」
音菜の言葉で僕は我に帰る。
「え、あ、うん、聞いてるよ」
「嘘よ。なら、今私が話してた事、当ててみてよ」
「ええ、と、ごめん。今、何を話してたの?」
音菜は頬を膨らませて、
「別に、何も話してなんかいないわよ」
「何も話してない?」
「あんたが話聞いてなさそうだったから、カマかけてみたのよ」
音菜は何も話していなかった。音菜は何も話していなかった。
僕は試されたのだ。
僕は話を聞いていなかった。
駄目だ。
「ご、ごめん」
「まあ、いいけど。今度から気をつけなさいよね。人の話をちゃんと聞くっていうのは、大事なことよ」
「大事なこと……」
そう、人の話をちゃんと聞いて、人と付き合っていくのは、大事な事だ。でも、選ぶ権利はある。
音菜は、音菜はどうして、僕なんかの近くにいるのだろう?
彼女は美人だがわがままで、僕は従順だ。
僕は、はけ口として、利用されているのだろうか?
音菜に?
その想像はあんまり、面白くない。
でもそれ以外に考えられる理由なんて……。
「ほら、また考え事してる」
気が付くと音菜が横目で睨んでいる。
音菜が僕にかまっている理由はわからない。
でも、それでもいいか。僕に音菜がかまってくれるなら、それはありがたいことだ。
「あ、ご、ごめん」
そして人間が嫌いなはずの僕も音菜を拒絶しない。
何故だろう。どうして僕は音菜と一緒にいるのだろう。僕は音菜をどうしたいのだろう、音菜にどうして欲しいというのだろう?
……僕は音菜に受容して欲しいのだろうか。
ありのままの自分を?
そんな幼稚な考えは、中学二年生である僕には、そんな幼い考えは、似合わない……。
「ちゃんと聞いてよね」
「ちゃんと聞くよ」
僕は少々機械的に答えてしまう。頭の中を空っぽにして、目の前の会話に集中しないと。
「『我輩は猫である』って、知ってる?」
「冒頭も『我輩は猫である』で始まるやつでしょ? 漱石のデビュー作だ」
「読んだ事あるの?」
「いいや、ないよ。この世の中、表層だけ知っていればいい事が多すぎるんだ」
「随分理屈っぽい事いうのね」
「ただの自己嫌悪だよ」
「あんたの自己嫌悪に付き合っている暇はないわ」
ばっさりと切られてしまった僕は、確かな喜びを感じる。
……僕は、僕はマゾヒストなのだろうか?
「それで?」
「そこでね。こんな話が出てくるの。『そのうち人間は、思想のみで人間を生み出そうとするかもしれない』ってね。まあ、私もうろ覚えだから、細かい言い回し間違ってるかもしれないけど、その猫が大体そんな事いうのよ。ねえ、そんな事、本当にありえると思う?」
僕は漱石に格別の思い入れがあるわけでもなかったので、うろ覚えかどうかという事にはあまり関心がない。
肝心なのは、音菜の話の内容だ。
というか、随分知的な猫だな。
東京大学出身なんじゃないか?
などと疑いたくなる。
誰にでも入れるわけじゃない東京大学だけど猫なら何猫でも入れるんだろうか。そうなのかにゃー。どうでもいいけど。
で、話の本筋に関してなんですが。
「そんな事、ありえるわけないと思うけど」
自分の考えを素直に伝える。
「人間の脳で考えた事がいちいち実際に現出していたら、際限がなくなってしまうよ」
「浅はかねえ」
美しい少女に切り捨てられて僕は、確かな喜びを感じた。
「どうしてさ」
平静を装うのが、大変だった。ははは。
「だって、ね? もし本当にそれが不可能だとしたら、今までどれだけの人達が呪いや祈りに時間を費やしてきたと思っているの? それが全部無駄だったなんて、私には思えないな」
性悪説信奉者のわたくしとしては、人間は理性によって判断し行動しなければ愚かな事しかしないといえるのではないでしょうかと問い合わせしたくなってくる。
お問い合わせ先である音菜の電話番号は!?
と思って携帯電話を確認するとアドレス一覧は全て空欄だった。
おかしいな。
おかしいな。音菜の連絡先が無い?
おかしいな。おかしいな。おかしいな。
……まあいいや。今は会話中だ。なんにせよ、
「その漱石さんの話は、呪いとか祈りとか、そういう話ではなかったように思うんだけど……」
僕はおぼろになった自身の記憶を頼りに苦言を呈した。
確か漱石さんはその時これからの日本の話をしていたはずだから、違うと思ったんだ。
なのに音菜は、
「同じようなもんよ」
にべもない。
「それで、思想だか妄想だかから人が生まれてくるとして、それがどうしたっていうのさ」
僕も得意の投げやり状態になって言った。
「黒神様って、知ってる?」
「いや……」なんだそれ?
という顔をしてみるテスト。
「あんた知らないの? 私なんて、おばあちゃんに何度も何度も、耳にタコができるくらいは聞かされたもんだけど」
「いや、ごめん、本当は知っているんだ」
「なんで嘘吐くのよ」
「ごめん、なんとなく、思い出したくなかった気がしたんだ」
「変なの」
「僕は変だよ。自分で、わかってる」
「自分で自分を追い詰めてしまう性格、しているものね」
「そうなのかもしれない。話の腰を折ってごめん。続けて」
「あんたも、知ってるんでしょう?」
「うん、まあ、大体は。友達を探している神様の話だよね」
「そうそう」
「日本は昔神様がたくさん住んでいたらしいからね」
「そうそう」
あくまで、作り物の逸話に過ぎないと思うのだけど。
日本の神様は、西洋の一神教的神様とは違う。結構、たくさんいるんだ。北欧神話とかにもつながるものがあるのかもしれない。イザナギだとかイザナミだとか、歴史の教科書に書いてあった。
日本神話では神様は天上界にいたって話になっているけど、実際日本のどこかにその場所はあったんじゃないかって説もある。
「その中で、この舞神市は特に地元および周囲の土地の人々から、本当に神が舞い降りる土地だと信じられていた」
「そうそう」
「だけどそれも江戸時代後期までで、文明開化と共に未開だったこの土地も一気に開けて、迷信は消え去ってしまった」
社会の先生の受け売りだ。なんでこんなに覚えてるのかは知らないけど。……逃げる為なのかな。
「そうかな? 私は全然、迷信なんかじゃないと思うけど」
「音菜は、今でも黒神様が友達を探しているっていうわけ?」
「うーん、どうかな。多少の尾ヒレや、装飾はあると思うよ。でも、黒神様は、ちゃんと実在してると思う」
舞神市は、周囲を山に囲まれている、盆地だ。積雪量も結構あるから、道路が通るまでは、なかなか不便だったらしい。
そうして、このへんぴな土地には昔、神々が住み、遊んでいた。
彼らの肌の色は皆白かった。
が、黒神様だけは、頭の先から足の先まで、真っ黒だった。
彼は――男性なのかどうかもよくわからないけど――その特異な肌の色から、友達に入れてもらえなかった。だから黒神様は、人間の友達を探している。そんな話。
そしてこの街には精神を病んでしまう人が多くいて、突然そうなってしまった人は、「黒神様に憑かれた」と言われる。
憑かれた人は、僕達の見えない世界が、見えるようになるらしい。ただし、その代わり現実の世界が見えなくなってしまう。
一種の集団催眠のようなものだろうか?
あるいは、感応精神病?
それとも……。
「音菜は、今でもその迷信を信じてるんだ」
「迷信じゃないよ!」
何故か強い口調で言われた。納得がいかない。それは僕もだ。
「本当にあるかもって思う人が取り憑かれてしまう。後付けで結果がついてきてるだけだよ。思い込み、プラシーボ効果っていうか」
プラシーボ効果。
この薬はよく効く薬ですというと小麦粉でも効くが、これはただの小麦粉ですと言って与えると、妙薬でも効かなくなってしまう。
人間の思い込みの力というのは、結構強いのだという有名な話だ。
黒神様は悪いプラシーボ効果が集団で働いて、この街に呪詛として残っている。そういう事ではないか。
「せっかく、本当の事教えてあげてるのに」
音菜は唇を尖らせながら、
「全然、信じてくれないんだね」
僕にはわからない。音菜が本当の事を言っているのかわからない。
帰りたくなってきた。
僕は他人との関わりに疲れてしまった。
音菜のいう妄想から人が生まれるという話と、黒神様の話にも、なんにも関連性は見出せなかった。
理解、できなかった。
正直もう、どうでもよくなってしまった。
いかに美人であっても疲れてしまっていては一緒にいるのは苦痛だ。
僕は、一人がいい。
孤独が好きなんだ。
かくなる上は帰るしかない。
そうだ。帰るしかない。
最初から、そうするべきだったんだ。
よい子は寄り道しないで、帰るのだ。
音菜がアイスを食べ終わった。
今こそ僕は、帰る。
まっすぐ、帰る。
僕はアスファルトに咲くコンクリ並に固く決意した。日本語がおかしくなっても気にしなくなるくらい、狂気に身をゆだねる一歩手前まで固く決意した。
だけど、
「ねえ、ちょっと寄り道していこうよ」
その一言で僕の決意はコンクリートから水泡へと変化し、無へと帰してしまう。狂気に身をゆだねるくらい固く決意していたらかえってまったくピクリともしないのであっという間に心が壊死してしまったのだった。
わからない。
僕は音菜ともっと一緒にいたくなったり、一刻も早く一人になりたくなったりする。
人と人との関わりって、そんなものなのだろうか?
それとも、僕が意思薄弱なだけなのか。
「ねえ、寄り道、しないの?」
「あ、う、うん、する……」
なるほど、たった今、一つ自分が意思薄弱である理由を発見した。
従順なんだ。
他人に嫌われたく、ないんだ。
ま、その理由がわかったからって、どうしたというわけでもないんだけど。
僕達は元来た公園の入り口から、出て行こうとする。
公園を出るとき、アイスクリームを売っているおじさんと目が合った。
怪訝な顔をしてこちらを見ている。
どうしたっていうんだろう?
公園のベンチの方を見ると、ベンチの前にアイスクリームが一つ、地面に叩きつけられて溶けていた。
そういえば僕は、自分の分のアイスは食べたっけ?
少し不思議に思った。
どうでもいいけど。
「ここ、どこ?」
音菜が僕を連れて行った場所には、大きな白い建物があった。
「看板くらい、見なさいよ」
「あ、ご、ごめん……」
外に出ている大きな看板。そんなものにさえ気付かないだなんて僕は、まったくどうかしている。
「病院?」
看板には「市立舞神中央総合病院」と書かれている。
「そ」
音菜で赤芯は当たり前のようにサクサクと前に進んでいく。僕は門の所でしばらく呆けて彼女の事を眺めていた。
「何やってんのよ、置いてくわよ?」
「ご、ごめん」
夕暮れの中時は再び動き出し、僕は小走りで音菜との距離を縮めていく。
「どうして、こんな所に来たのさ」
好きじゃなかった。
病院内は、白かったのだ。
衛生上の観点から、病院は白を基調にしている所が多いのだろう。
だけど僕は白はあんまり好きじゃない。
汚れが、目立ってしまう。
……見たくない。
「すぐにわかるわよ」
音菜は当たり前のようにして病院内を歩き回る。随分と、勝手がわかっているなと思った。
いつも病院に通っているのだろうか?
彼女は実は不治の病で、それを今から僕に告白しようとでもいうのだろうか?
そんなわけないか。
弾む足取りで音菜は病院を動き回る。僕は彼女に離されないように必死についていく。
「早くしなさいよ」
「ご、ごめん」
音菜は病院二階の奥にある、とある部屋まで行った。
受付を、素通りして。
まるで遠慮というものが感じられなかった。
「おお、今日も来たのかい?」
「こ、この人は……」
扉の向こうにいた幼い容姿の女の人は、僕の記憶になかった。
なかったと思う。
だけど僕は不思議な息苦しさを覚える。……わからない。
垂れ目がちの瞳、気怠げな表情。
手入れの面倒を嫌ってだろうか、髪型は下にいくほど跳ねた、簡素なショートヘアー。
白衣の中に黒のスカートを履いており、黒のガーターもつけている。
部屋の中は特に他のどの部屋と繋がっているというわけでもなく、僕達が入ってきた出入り口が唯一だった。
部屋の中にはお医者さんがいつも使うような壁面に接した机があった。他には、何もない。
万物の霊長たる人間も、その女医さん一人。他には、誰もいない。
「ああ、この人はね、私の研究に付き合ってもらってる、精神科のお医者さん。お医者さんは趣味でやってて、民俗学の研究が、主なんだって」
「精神科……」
わからない。僕にはわからない。
研究。音菜が研究? その手伝いをこの女の人が?
お医者さんの研究を若者が手伝うってんならまだわかるが、女子高生の研究を精神科の女医が手助けするというのは、寡聞にして聞いた事がなかった。
そもそも、お医者さんになるのは、結構大変なはずだ。
それなのにお医者さんの方が趣味で民俗学の研究が主とは、これいかに。どういう事なのだろうか?
「わかるよ? まあ、誰だって最初は、そう思うよねえ?」
……音菜に心を読まれた?
いや、まさかな。
というかお医者さんの方はこれ、本物のお医者さんなのか?
どう見ても小学校低学年にしか見えない。でも、ごっこ遊びにしては、この場所も幼女の格好も仰々しすぎる。
「私が趣味でオカルトの研究してるのは、知ってるよね?」
「いや、知らないけど」
音菜はそれを聞いて崩れ落ちそうになった。
なんだか、漫才みたいだ。
そういうのは、好きじゃない。
僕は大げさなジェスチャーとか身振り手振り、変な事ばかり言って笑いを取ろうとするのは、好きじゃないんだ。
平凡。それが一番良い。
穏やかなのが、好きなんだ。
穏やかな幸せ。それこそを僕は希求します。
「あれ、それは毎回説明するのが面倒だから、デフォルトで君の頭の中に入っていたと思うんだけどなあ。ま、いいか。最近君の頭の中のシステムも、不安定だものね」
音菜が何を言っているのか僕にはわからない。わからない。
いや、音菜はオカルトを研究していて、それでたまたま同じ趣味であったこの精神科の女医(幼女)さんに、手伝いをしてもらっていると言ったのだ。
それ以外は何も言っていない。言っていない。
「そう、私はオカルトを研究していて、それでたまたま同じ趣味だったこの精神科の女医さんに、手伝いをしてもらっているのよ」
やっぱりそうだ。
でも、不思議だ。
音菜は、どうして精神科の女医さんと、知り合いなんだろう?
ひょっとして、音菜は精神病なのだろうか?
いや、まさか……。
「あ、勘違いしないでね? 私と彼女、親戚なのよ。それで、ね?」
「従姉妹なの? おばさんなの?」
「どっちだったかな。忘れちゃった。どっちでもいいじゃない」
「いや、年齢的にちょっと気になって」むしろ音菜の方がおばさんとかだったりするかもしれない!?
「君、私がいくつに見える?」
それまで黙っていた女医さんが唐突に僕に質問する。嗤っていた。
「あ、え、えと……」
僕は昔から口の回転と頭の回転が一致していない。
対人恐怖症の気があるのかな。思った通りに話せる人が、羨ましい。
僕は、僕は、駄目なんだ……。
「理想と現実のギャップがあると、大変だね」
幼女はどうしてか、音菜と同じように僕の心を読んでいるかのようにして、言った。
下から覗き込むようにしている瞳は不敵に笑い、垂れ目がちの目をさらに下げている。タヌキ顔、というのだったけ。
なんにしても、成熟していない幼女の妖しい魅力をいかんなく振りまいている人だった。
そっかあ、タヌキ顔かあ。
タヌキ顔……。タヌキ顔……。
「先生は、タヌキ顔ですね!」
一瞬、場が静まった。
考えていたら、つい口に出てしまったんだ。
それだけなんだ。
大した事じゃない。
よくある事だ!
むしろ思ったとおりに話せたんだから、喜ぶべき事なはずだ。
僕は対人恐怖症なんだから。
だけど先生(幼女)は笑いながら青筋を浮かべ、今度は随分物騒なことを口にする。
「……あんた、殺すわ」
先生は笑顔のまま椅子から立ち上がった。
そうして、ドアこそ閉めたものの、入り口付近でいまだに立ち尽くしていた僕達の方へと、やってくる。
彼女が左手を振り上げた。
左手に、何か持っている。先端が銀色だった。
「レディーに対する口の利き方ってのに、気をつけな!」
僕は額に衝撃を受けた。
「いっつ」ぁすもぉーるわーるどとは言わない。僕には十分広い。
意味不明な事を考えさせられるくらいには脳に衝撃を受けた。
先生が持っていたのは、黒のボールペンだった。
先端部分が金属製になっていて、さっきはそれが手からはみ出して見えていたのだ。
まあいまはボールペンの事はどうでもいい。
大事なのは、僕が大事な脳に衝撃を受けたという事実だ。
聞いた事がある。
人間の脳は日々死んでいて、二度と再生しないという事を。
最近では実は再生するという話だけど、本当かどうなのか、わからない。期待はしないほうがいいように思う。脳細胞は再生しない。
そして脳が衝撃に弱いっていうのは、間違いない。パンチドランカーって言葉もあるくらいだし。ボクサーは、ダメになりやすいらしい。
ああ、そして、ああ、こんな事で僕の貴重な脳細胞の死滅が一助されてしまった。脳味噌の全滅が早まってしまった。
どうしよう、どうしよう。
「ぷ……ぶふっ! だ、大仏様みたいになってるよ!」
僕が真剣に自身の脳細胞の非業の死について悩み苦しんでいたのに、音菜は僕の事を指差し、吹き出した!
「アハハハハ!」
どうやら僕の額にボールペンのインクが付いて、黒丸となっているらしい。
それが、大仏のように見えると音菜は言っているのだ。
先生が僕の額をペン先で小突くからだ。
僕は悪くない。
笑われる筋合いなんて、無いんだ。
僕は悪くない。僕は悪くない。
だから、僕を笑わないで。
十四分と三十二秒の時が経過した。
部屋には何にも無いと思っていたのに、正面に大きな円形のアナログ時計が掛けてあったのだ。
僕はそれをずっと凝視していた。
十五分。それでまでは意地を張るつもりだった。傷付けられた僕のプライドの価値、十五分。
その間に僕は先生、名前を七色絵美といったが、彼女と音菜がなんだかわからない話をするのを聞いたり、
「変だよお、洗ってきなよお」
「いい、別に僕は悪くないから」
とか、時々僕の額についた大仏様の跡をトイレで消してくるように音菜が促したりするのを、ただ受け流したりしていた。
「じゃあ、十五分経ったから、行ってくる」
「ああ、十五分経ったからね」
音菜は軽く納得した。
……プライスレスだなんていうつもりもないけれど、僕は僕のプライドの価値が十五分である事を、音菜に伝えたのだろうか?
扉を閉めてトイレに行こうと百八十度体を回転させたところで、背後から声が漏れ聞こえてくる。
「自分の事にしか興味がないんだから、ねえ……?」
僕には絵美医師の言っている意味がよくわからなかった。
親戚という事だし、音菜はもしかしたら、説教されていたのだろうか?
どういう理由で?
ああ、ちゃんと聞いておけばよかった。
興味がなかったんだ。
トイレに着いた。
表面上は学校のトイレに比べると随分綺麗に見えた。白を基調に、床だけは淡いクリーム色になっていた。
「ああ、なるほど」
大仏。鏡を見たら本当に大仏だった。
僕の顔は大仏に見えるのか。
額の中央にホクロのような小さな黒点があるだけで、大仏になってしまうのか。
僕はダルマの方が好きなのに。
僕は手洗い場の水を利用し必死に黒点の除去に努める。
それから、両の手を奈良の大仏のようなポーズにして、しばらく鏡を見つめていた。
凝視。
人間だった。
制服を着た普通の、凡庸なる中学二年生だった。
特にニキビもない。
大丈夫。
僕は大仏なんかじゃない。
二人の待つ控え室へと戻ると、音菜は僕の方を見て、
「遅いよ。全く、何してたのよ?」
「ご、ごめん」
何をしていたんだろう?
自分でも意味がわからない。
「そろそろ暗くなるよ。よい子は暗くならないうちに、帰りなよ」
「ごめんごめん。もう、帰るからさ」
と音菜。
部屋を出るとき絵美さんは言った。
「ちょっとあんた、そこの男の方」
「なんですか?」
振り返りながら、返事をする。
「そろそろだよ?」
「何がですか?」
「いや……別に」
なんだってんだろう?
「失礼します」
音菜が言った。
会話が強制的に終了させられた。
音菜が連れてきたというのにも関わらず、音菜はこれ以上絵美さんと話をしていたくないようだった。
「あんまり、先の事考えて心配させたくないんだよね」
真っ白な廊下で音菜が僕に言ったその言葉の意味は、わからない。
そして。
「うわあ、本当に暗くなってきた」
昼と夜の合間で静止していたかに見えた時は実際にはゆっくりと、しかし確実に動いていた。
その証拠に実際、病院を出ると宵闇の色が混ざりだしてきていたのだ。
音菜は両手を広げてくるくる回り、何かが降ってくるのを待っているようにしていたけど、別に何かあるわけでもなく。
まあ、なんとなく気持ち、わかるけど。
星が美しく瞬いていてもそれは僕達の為ではない。
人気の無い住宅街に入った僕達は、それぞれの家に向かっていく。
「ねえ、本当に暗くなってきたよ?」
返事が欲しいのかもう一度同じ事を言う音菜。ただし今度は感嘆文ではなく疑問文だ。
それに対して僕は、
「そうだね」
特別な感慨も無く。
音菜の跳ねたような声とは対照的だった。
「本当、あんたって、感情の起伏が無いわよね」
「そうかな」
だって何も面白い事なんて、ないし。
「そうよ」
「よくないことだね」
「よくないことよ。変えるべきよ」
「人はそんなに簡単に変われないよ。これは僕の性分なんだ」
そこでしばらく僕達は沈黙した。
「……あんたって、さ!」
「……何?」
いきなり音菜が沈黙を打ち破り、張った声を出したので、僕は本能的に身構える。音菜はゆっくりと言葉を選ぶようにして、
「……もっと他人に興味、持った方がいいと思うよ。そうじゃないと、抜け出せなくなるから」
「抜け出せなくなる? 何のこと?」
返答、無し。
……なんなんだ?
「なんで僕の知らない僕の事を君は知っているのさ。君、ひょっとしてストーカーなんじゃないの?」
「よく聞いて。あなたが私の事をストーカーだと思うんなら、それでもいいわ。だって私はあんたから離れられないんだから」
僕の脳内では既に、
「どういうことだよ!」
と勇ましく詰問していたのだけど、現実の音声は、
「な……どういう……」
というしょぼくれた断片的言の葉のみだった。
音菜は僕の言葉を無視して続ける。
「でも、ね? だからこそあんたには、ちゃんとして欲しいのよ。一蓮托生ってやつ? だから、しっかりしてよね。わかった?」
「……わかった」
わかるはずがない。
だけど僕は音菜の勢いに呑まれて、ついそう答えてしまう。
それは結果的に正解のようだった。
音菜は笑んで、
「そ、なら良かった。じゃ、帰ろ?」
既に僕は音菜から逃げられないようだった。僕は諦めて頷いた。
「そういや、音菜の家って、僕の家の近くだったっけ? もう、随分僕の家の近くまで来てしまっているけど」
「ううん、違うよ」
音菜の家ってどこにあったっけ、と聞く前に当の音菜が、
「でも、いいんだ。今日私、あんたの家に泊まるから」
「え、そ、そんな、急すぎるよ」
「大丈夫よ」
「大丈夫じゃないよ。親だっているんだし」
全く、音菜は何を考えているんだろう?
わからない。
いくら自由奔放天真爛漫元気溌剌我田引水お前のものは俺のもの的ジャイアニズムの流れを汲む女の子とはいえ。
どうにも、理解不能だ。
「大丈夫よ。あんたの両親、どうせ起きないから」
「そうなの?」
「そうよ」
どうせ起きない?
音菜の言っていることはよくわからない。
確かに朝、父さんは変な所で眠っていたけど……。
眠り。睡眠……。
まさか母さんもシャワーを浴びながら、眠ってしまっていたのだろうか?
僕の白い夢、は関係ないか。
よくわからない。
自分の両親がわからない。
どうせ寝るならベッドで寝ればよかったのに。布団でもいいけど。
僕は自分の家に帰ってきた。
一軒家だ。結構、外見は新しい。最近建てたんだ。
父さんは随分たくさんお金を使ったと言っていた。マイホームは男の夢、らしいからしょうがない。
「おなかすいたね」
玄関から上がる前から、既に音菜はそんな事を言っている。
「さっきおでんを買ってきたじゃん」
僕は大根のおでんが大好きなのだけど、彼女はスジ肉が食べたいと言うので、とりあえずその二つを近くのコンビニで買った。
本当、僕は草食系で、彼女は肉食系だなと思う(意味深)。
音菜はそれ以外にもがんもどきとかゆで卵とか、色々食べたがったから、結構たくさん買うはめになった。
まあ、お金持ってたから、いいんだけど。
財布を開いたら五万円入っていた。
……おかしいな。アイスを買った時より増えている。案外、適当なものなのかもしれない。
僕の人生みたいだ。
「おでんくらいじゃ足りないわよ。もっとガツーンと食べたいわ。ガツーンとね。夜なのよ? 英語で夕食って、ディナーっていうでしょう? もともと、『豪華な料理』って意味なのよ」
家に入っても音菜はまだ夕食の重要性について語っている。
「お客様にはディナーでおもてなしするのが、礼儀でしょうが」
呆れた。やれやれ。
「音菜って食いしん坊だよね」
「あんたが小食過ぎるだけよ。いつもそんなに食べないの?」
「食べないんじゃないかな。あんまり食事って、好きじゃないんだよね。さっぱりしたのをちょっと摂れれば、それでいいよ」
例えば……なんだろう、アイスクリームとか?
「どうして?」
「食事の匂いは、死の臭いだから」
音菜はきょとんとした顔をする。僕達は居間に入った。
「だってそうじゃないか。人間は、生きてるものを殺して食べてるんだ。他の生き物の死体を食べてうまいうまいだなんて、なかなか言えないよ」
真面目に考えたらそうなるだろう?
……まあ、大根は別腹なんだけど。そこが僕の理性と本能の境界線だ。
「あんたは、なんでも真面目に考えすぎなのよ」
「そうなのかな」
「そうよ」
「生きていくのに必要じゃなかったら、食事なんて一生したくないくらいなんだ」大根は食べたいけど。
「そこまでぇ? ちょっとあんた、気持ち悪いわよ」
「多分、そう、僕は気持ち悪いんだ」
居間では父さんがテーブルに突っ伏して眠っていた。
仕事の疲れが、たまっていたのだろうか。
それにしたって平日、朝から晩まで寝ているというのでは、どうにもよくない気がする。
平日。そう、今日は平日だ。
……父さんは今日、仕事に行ったのだろうか?
「起きなよ父さん、もう夜だよ」
声をかけたのだけれど、反応が無い。
「父さん。どうしちゃったのさ、父さん!」
眠ってしまっている父さんを両の手で揺する。
父さんはだらしなくぐねぐねと動くばかりだ。
必死に起こそうとする僕を見て音菜は、
「放っておいてあげなさいよ。今まで色々、やるべき事を頑張ってきたんだから。休ませて、あげなさいよ」
やるべき事。疲れ。……なんだろう、その響きは変に僕の心を捉えた。
「そうだね。休ませてあげよう」
僕達は寝ている父さんと同じテーブルに座り、向い合せにおでんを食べながらテレビを見ている。お笑い番組だった。
漫才が、面白い。
ちょうど新しいお笑いコンビが出てきたところだ。二人の若い男性が何か話している。どうも売り出し中の新人らしい。
「はーいはいはいはいはい、僕達いつもニコニコ『ピエロ松本』、次は『ラジオのお悩み相談コーナー』でネタやりますやります!」
「はあぁぁぁ、やりまーす」
「おいお前何ため息吐いてんだよォ! お客さんに失礼だろが!」
「いた、いた、いたたたた! 飛び蹴り入れないでくださいよ! ていうか二回『やります』言ってたじゃないですか! 一人で二人分言ってるんだからいいじゃないですか!」
「よくねーよ俺のやる気が常人の二倍あるから二回言っただけだよお前の分は断じて言ってねーよ!」
「はあ~、そうですかぁ……」
「さっきからなんだよ! なんでため息吐いてんのか教えろよ!」
「いや、だってコンビ名、微妙じゃないですか」
「いいじゃねえかよ松本ピエロなんていい名前だろ!」
「いやピエロ松本でしょ?! しかも僕の名前みたいに言わないで下さいよ!」
「いや、だってコンビ名に俺の名前入ってないし……」
「いやいやピエロは両方でしょ!? ていうかなんで僕の名前だけコンビ名に入れてるの!? あれ僕のホントの名字ですよね!? だったらそっちの名前入れるくらいしてもいいんじゃないの?!」
「いやだって俺、逢魔時黄昏巫女巫女DQNって名前だし」
「長! 無駄に長!」
「親が決める時に三分だけ考えたって言ってた。これはリアル話」
「ちょ、免許証出すなよ! マジで本名かよ!」
「そりゃそんな名前にされたらさ、グレるしかないじゃん?」
「グレてねーだろ、ただの売れない芸人やってるだけだろ!」
「こんなんやってる時点で既に人生灰色ですよ……」
「灰色? それグレーね? 『グレて』ってのとは違うからね?!」
「てかちょ、尺足りねーよ! 早くネタやるぞネタ! 『ラジオお悩み相談コーナー』!」
「お、おう。最近彼女にフラれてからデリバリーなお嬢さん方といつも戯れている相方がいつも絡んでくるんですがどうしたらいいですか?」
「それただの俺の暴露話だろが!」
「いた、いた、いたたたた! 上腕三頭筋を引っ張らないで! 地味に痛いから! てか全然ラジオやれてないだろ! もうええわ!」
「「ありがとうございましたー」」
かけ合いがうまいってのは、いいなと思う。
大して意味など無いのに、面白く感じてしまう。
僕みたいに人と会話をする事が苦手な人間にとっては、それはあまりにもかけ離れた職人芸だ。
だから嫌いなんだけど。
一生かかってもあんな風に面白おかしくやるだなんてのはできそうにない。
すごいなあ。
それに比べて、僕は……。
駄目だ。
駄目だ、駄目だ、駄目だ。
僕は自己嫌悪に陥ってしまって、お笑い番組を見ているというのに陰鬱な気持ちになってしまった。
僕は人と幸せを共有するのが苦手なのか。
あんまり楽しいと現実感が無くなって逆に、不安になるんだ。
……みんな、そうなんじゃないのか?
しかし横目で音菜を見てみると、このテレビ番組を純粋に楽しんでいるらしく、大口を開けて笑っている。
ダメだ。
僕にはこういうのは、向いていない。
「シャワーを浴びてくるね」
僕がそう言っても、音菜は返事もしないで馬鹿笑いをしている。
まったく、お笑い番組の何がそんなに面白いってんだ。僕の自分語りなんかより、よっぽど面白いじゃないか。
破綻した論理を振り回しながら脱衣所までやってきた。
浴室から水の流れる音がする。シャワーだ。
僕の家は父さんと母さん、僕の三人だけの家族構成だから、居間に父さんがいた以上、母さん以外に考えられない。
そういえば母さんは、朝もシャワーを浴びていたっけ。まさか朝からずっとだなんて事は、ないよな。そりゃないか。
「ちょっと母さん。そろそろ僕もお風呂に入りたいんだけど!」
返事が無い。ただの屍とは思わなかったけれど僕は弱ってしまって、仕方なく居間へ戻ろうとする。
そこで振り返ると、背後に音菜が立っていた。
「うわ!」
「驚かさないでよ」
「それはこっちのセリフだよ。どうしてこんなところにいるのさ。さっきまで僕のことになんて全然無関心でテレビを見ていたくせに」
「別にあんたが気になってこっちに来た訳じゃないわよ?」
そして音菜はその場で制服をするすると脱いでいく。
「な、なにしてるんだよ!」
「私も、シャワー浴びたくなっただけ」
ぺろりと覗く、赤い舌。
赤い髪が鎖骨の上にかかっている。
印象が透明で、清らかだった。
「何? もしかして、意識、しちゃってる?」
悪戯っぽく笑う音菜。
ああ。
多分、少し。
ブラジャーの紐を両肩から落とし、両腕で胸の肉を集めて、谷間を作ってみせる。扇情的な光景だった。
音菜のポニーテールが揺れる。
「そ、そんな事、ないよ……!」
僕は凝視しないようにするのが精一杯だった。
チラ見は、してしまっていたと思う。自分の意思で目線をコントロールできないのが、歯がゆかった。
音菜は僕のそんな気持ちを知ってか知らずか、いやまあ、多分知っていたのだろう、得意げに、
「まあたまた。顔真っ赤にしちゃって」
音菜はずいと一歩僕の方へ歩み寄り、さらに体を倒してその部分を強調させてきた。
僕の中で何かが切れ、僕は彼女の脇をすり抜けるようにして、気付いたら撤退していた。
まるで相手と反対の方向を見ながら、
「ま、またね! それから、早くあがってよね! 僕だって、待ってるんだから!」
浴室を使用する権利を剥奪された僕は居間に戻る。
内心、音菜が下着姿になるまで呆けていて良かったと思った。
どうせなら。
全部脱ぐまで、あの場にいれば良かっただろうか?
わからない。
そこまでは流石に、見せてくれなかっただろうか?
答えの出ない問いを真剣に考察した。
居間ではやはり父さんがテーブルに突っ伏して眠っていた。
でもよく見ると、なんだか変だ。
父さんの首筋の肌の所に、変な斑点が浮かんでいる。
こんなもの、見た事が無い。
「ちょっと父さん、いい加減に起きなよ」
再び声をかけてみるがやはり反応は無い。僕は後ろにまわり、父さんの頭を両手で持ってみた。
結構重いな。
それが第一印象だった。
この中に、人間の考えのほとんど全てが入っているんだ。
人間は、有機物でできたロボットだ。
ここからの命令で、ほとんど全部、決まっているんだ。
「しょうがないなあ」
僕は父さんの頭をぐいと後ろに引っ張った。
起こしてあげようとしたんだ。
そしたら短めの父さんの頭髪がべろりと皮ごと剥けて赤黒い皮下組織が丸見えになる。
血はあんまり出なかったけど、大変だ。
どうしよう。どうしよう。
父さんは中小企業の社員で、受注先の人の無理を何回も聞かせられていて、いつもイラだっていたんだ。
だからストレスが頭にきて、最近髪の毛が薄くなったような気がするって、悩んでいたっけ。
ここまで進行していたんだ。
どうしたらいいんだ。
これじゃあ、もう一生ハゲチャビンだ。
カツラなら、なんとかなるだろうか?
いや、流石にここまで根元から無くなってしまっては、無理だろう。
第一、カツラをかぶろうにもこんなに赤肌が丸見えじゃあ、痛くてしようがないはずだ。
取れてしまった皮膚をひとまず頭に戻してみたけど、元通りくっつくはずもない。
どうしたらいいんだ。
接着剤でも使えばいいのか。
いやダメだ。プラモデルじゃないんだ。
糸で縫うのか?
いやいやダメだダメだ。そんな医学的知識、持ち合わせているはずもない。裁縫じゃあないんだ。
あ、あああああ。皮膚がそのままずるりと床に滑り落ちた。
僕は持っていた父さんの頭をひとまず置く事にし、左に向けて置くと、頬にも幾つも黒い斑点ができていた。
なんなんだこれは?
僕は居間にあるパソコンでインターネットを使って調べ見た。するとひょっとしたらこれかな? というのが見つかる。
それは斑点ではなく、腐敗網というものらしい。
血液中の赤血球が腐敗によって壊れた時にできるものだそうだ。へえ、赤血球って壊れるんだ。
父さんの所へ戻って観察。
なるほど、よく見ると、ちゃんと網の目のようになっている。
へえ、すごいな。
それで僕はああ父さんは死んでしまっていたんだ、とわかった。父さんはきちんと目を閉じて死んでいた。
お笑い番組が区切りよく終わったところで、テレビの電源を落とす。パソコンの電源も落とした。
さて、音菜にこの事を相談しなきゃ。僕の父親が、死んでしまったんだ。どうしよう、どうしよう。困った話だ。
浴室。
汚れを落とす所。穢れを清める所。肉体を体温近くまで温められた水によって浸す所。油を流す所。際限なく増大していく無秩序を整える場所。僕の目の前にある場所。音菜のいる場所。母さんのいる場所。
母さんのいる場所?
あれ、おかしいな。
音菜は母さんがいるのに、どうして浴室に入れるんだ?
……音菜が入れるわけ、ないじゃないか。
そうだ、母さんがいるから音菜は浴室にはいない。音菜は浴室にはいない。
浴室内へむかって声をかける。
「音菜?」
「何よ」
即答だった。困った。
「か、母さんが、いなかった?」
「ここにいるわよ。眠ってるけど」
「僕の母さんと一緒に、お風呂に入っているの?」
「そうよ。なんなら、あんたも一緒に入ったら?」
それは流石に年頃の男女として、まずいと思う。
「いや僕はえ、遠慮して……」
「いいから、来なさいよ」
そこで浴室の半透明な扉が、乱暴に開かれた。
彼女は僕の母親と一緒にお風呂に入っていた。
半透明のガラスが埋め込まれている扉越しに見えた動きから判断するに、浴槽から身を乗り出し、扉を開けたらしい。
音菜は浴槽の奥に身体を戻す。母さんはこちら側にいた。
どちらも髪の毛は長くて、浴槽は増えるワカメ状態だ。
不思議な事に浴槽には水が溜められていなかった。栓が抜けているようだ。
溜まらないのにシャワーを浴槽へ向けて、ジャージャー流し込んでいる。シャワーは浴槽に入っている二人の間へ降り注いでいる。
音菜はその水で、濡れていた。しとどに濡れた彼女はたおやかでしどけなく、しなやかな肢体がいっそう映えて見える。
「父さんが、死んじゃったんだ」どうしたいいんだろう?
すると音菜はなんでもない事のように、
「大丈夫よ。あんたの母親ももう、死んじゃってるから」
そうか。『だから』僕は父さんが死んじゃった事を、気にする必要がないんだ。そっか。そっか。
実際、音菜の言うとおりだった。母さんは死んでいた。
「一緒に、入ろうよ」
断り切れずに僕は音菜と一緒にお風呂に入る事にした。
浴槽の栓をして、お湯を溜める。
その間に身体を洗った。
「洗ってあげようか。前の方とか」
と音菜が聞くので、
「もう少し大人になったらね」
と答える。
「私はもうオトナだよ?」
「残念だけど、僕が大人じゃないんだ」
そして音菜と一緒の湯船に入る。
母さんが邪魔だったので、浴槽から出てもらった。重かった。あまり強くつかむと崩れそうで、大変だった。
「なんか、膨らんでる」
「土左衛門みたいなもんよね」
水死体の事を土左衛門という。水分を吸収して膨れ上がった体が、その名前の色白のお相撲さんに似ていたからだという。母さんはお相撲さんになってしまった。
困った話だ。
水死体は中からの腐敗ガスで、浮かび上がりやすいという。膨れているのは、水分だけじゃなく、ガスのせいもあるのだろうか。
でも、父さんはそんな風に膨らんでいなかった。
わからない。僕は死体がわからない。
自分の両親の事なのに、わからないんだ。
「母さんは、どうして死んでしまったんだろう」
「それを言ったら、父さんもじゃない?」
音菜はまるで自分の父親が死んだかのような口ぶりだった。
「ああ、そういえばそうだね」
僕は音菜を見た。
音菜は全裸だったけど、不思議といやらしい感じがしなかった。
……あんまりにも、気にしない様子だったからかもしれない。
僕も音菜にならってあんまり、気にしないようにした。
「これから、どうしたらいいんだろう」
僕は何もかもがわからなくて、そう言った。音菜はこともなげに、
「別に、普通に頑張って生きればいいのよ」
「普通に頑張る?」
「そう、みんながやっているように、ね」
難しい。それが一番難しいんだよ。
「何でもかんでも手広く頑張るだなんてのは。苦手なんだ」
「そんなんだから駄目なのよ。まずは他人に興味を持って、そこから色々、頑張っていけばいいのよ」
「他人?」
「そう、例えば、○○○○ちゃんに興味を持つとか」
「○○○○? どうして彼女?」
「別に誰でもいいけど。あんたの事かまってくれる人なんて、あの子くらいしかいないと思うから」
僕は一心拍の間を置いてから言った。
「君じゃ……音菜じゃ駄目かな?」
でも音菜は即答してしまう。
「アハハ、私は駄目よ」
「どうして」
「私はもうすぐ消えてしまうもの」
「そうなの?」
「そうよ」
いつの間にか蛇口から注がれたお湯がいっぱいになっていて、浴槽から溢れ出した。
彼女は浴槽から一緒に、流れて排水溝へいってしまいそうになる。
僕は慌てて彼女の体を掴み、引き止める。
腰の辺りだった。
やわらかい。
女性の方が脂肪が多いからやわらかいだけなのだと頭ではわかっているのだけれども、やはり本能的には男とは違う特別な存在に触れたのだという認識で、興奮を禁じえないものだった。
あーあ。
せっかくこれまで、穏やかな気持ちだったのに。
反応は急激だった。
前屈みになろうにも隠すものがないので、僕はただお湯の屈折率で僕のモノが屈折してくれるよう祈るしかない。
緊張から思考が加速してわけのわからない洒落が思い浮かんだだがそれは今は関係ない!
僕は自分の羞恥を気付かれないようにと、話しかける。
「今日ももう終わりだね」
「そうね」
彼女が特に僕の反応について指摘しなかったので僕は安堵した。気付かれなかったみたいだ。よかった。
でもこれ、早く平静に戻らないと波風が立ってしまいそうだ。
風呂だから海と違ってそういうのは自然には発生しない。
だけど人工的に立たせる事はできそうだ。
下卑たかけ言葉。
思想が根本的に貧困だ。
別にどうでもいいけど。
内心で大根のおでんの事を一生懸命考える事で冷静と情熱の狭間から情熱だけを削除する事に成功した。
僕達はお風呂からあがった。
浴槽に転がっていた母さんの死体は、そのままにしておいた。
邪魔だなと思った。
死んでしまったら、それはもう僕に時に優しく、時に厳しくしてくれた母さんじゃない。
死体は、ただの肉だ。
……あれ?
それにしても一体、どれくらいの間、父さんと母さんの死体は放置されていたのだろう?
「処分しなきゃ」今は夏場なんだ。このままじゃ腐ってしまってハエとか大量発生して大変な事になる。だからそう提案した。
「大丈夫よ。『明日』になったらあなたはまた全部忘れているから」
僕は死体が溶けて排水溝から流れていく事を祈って、出しっぱなしのシャワーを浴びせておく。
僕と音菜は寝支度を整えて寝室へ向かった。
音菜の寝巻きには母さんが使っているネグリジェの、洗濯したての物を貸してあげた。
「もう、寝なきゃ」
部屋は相変わらず荒れていた。どうしてこんな風になっているのだろう? わからない。
「もう寝るの?」
部屋の惨状について当たり前のように言及しなかった音菜は残念そうに言いそれから、
「それじゃ、嫌だな。せっかくだから気持ちのいい事、しようよ」
「え?」
「一緒にお風呂に入っている時、興奮、してたじゃない」
悪戯っぽく笑う音菜。やっぱりバレていたのか。
「あ、あれは音菜が流れて言ってしまいそうになるから……それで君に触れてしまって……不可抗力で……」
「はいはい、そういう事にしといてあげるわよ」
音菜は再び、寝転がっている僕を見下ろすようにして、するすると服を脱いでいく。
僕達は機械的運動を続けていく。
僕達は機械的運動を続けていく。
音菜がベッドの上であおむけで横になって僕がそこに入れる、一番正常な体位だった。
「気持ちいい?」
おそるおそる、聞いた。
初めてだったんだ。
出血を見ると、音菜もそうだったのだろうか。
「さあ、どうだかね」
自分から誘っておいたくせに、音菜はつまらなさそうにしていた。
なんだかその反応を見ていたら、虚しくなってしまった。
こんな事、楽しいわけがなかったんだ。
「ねえ、知ってる? あの公園で、どうして私の頼んだアイスが、地面に落ちていたのか」
僕は音菜の言葉を聞きたくなくて、機械的運動に自己を埋没させるよう努めた。
「私なんて、初めからいなかったのよ。全てはあなたの心が生み出した妄想。あなたは私のアイスを地面に叩きつけたあと、犬みたいに這いつくばってそれを舐めていたわ。ねえ、覚えてる?」
笑い声。
僕は音菜を嫌悪し始めた。
なんだ。なんだ。なんなんだ。
僕はただ信頼できる誰かとほんのちょっとの優しさと幸せな関係を続けていきたくて、ただそれだけを望んでいるのに、どうして僕の嫌な事ばかり言うんだ。
「それをあなたの心が望んでいるからよ」
僕はそんな事を望んでいない。
「心の奥底、深層心理で望んでいるのよ。あなただって、わかっているんでしょう? このままじゃいけないって。妄想に逃げ込んでちゃ、いけないって」
僕は音菜を殺す事にした。
嫌な事ばかり言う音菜なんていなくなってしまえばいいんだ。
僕は挿入したまま、音菜の右腕をぐいと引っ張った。
音菜の右腕は簡単に取れた。
「そういえば」
音菜は右腕がもぎ取られたというのに、平然としている。
こんな事では、駄目だ。
もっともっと、徹底的に壊さなければ。
「昔あなたが大事にしていた人形、あったわよねえ?」
「それがどうしたの?」
「怪獣を倒していく、格好いいヒーロー。子供の時は自分もそういう風になれるって、思っていなかった?」
「思っていたよ。信じてた。でも、いいんだ。僕はもうそれを超える力を手に入れたから」
全能感が僕を支配していた。
僕は音菜の左腕ももぎ取ると次に右と左の足を潰し動けなくする。
「逃げてちゃ駄目よ。あなたはまだその力を、手に入れていないわ」
「手に入れたさ」
僕は音菜の首をもいだ。
さらにそれぞれのパーツを、できるだけ細かく分解していく。
僕はいつものように終末の時、全てを思い出す。
繰り返す時の中、僕は音菜を殺し続ける。
今までだって、そうしてきたんだ。なにも特別な事じゃない。
後には肉塊だけが残った。僕はそれと戯れながら眠りに着いた。
ふにゅふにゅもにゅもにゅ。
頭が痛い。
他人と関わること。
難しい。
そういえば、人が生きたいと思う脳の部位と、自分が「特別である」と感じる脳の部位は同じだと、どこかで見聞したことがあります。
てことはなんだかんだいってこの世の中で生きている健康な人間は誰もが「自分こそが特別」と思って生きているに違いないわけで、
ああ、だからこれほどまでに自己主張したがる面倒な人間が多いのだなと思う反面、自分も生きているからにはそうなんだろうなと思い、時々具合が悪くなる。
なーんてね。
ただの言葉遊び。




