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雪のゴルゴタ ― 青森に眠る男 ―  作者: たむ


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第三十五話 展示するということ

保存会は、かよ節を祭りに入れることを急がず、まず説明を変えることを選んだ。

面白さより、丁寧さ。


次に向き合うのは、資料館だった。


展示は、歌や口頭説明と違い、そこに固定される。

何を見せ、何を見せないのか。

女名控、悠一の録音、かよ節、アラム、カヨ、リク。


資料館は、村の記憶をどう置き直すのか。


※本作は、青森県に伝わる「キリストの墓」伝承を題材にしたフィクションです。

※実在の宗教、信仰、団体、地域、人物を否定・揶揄する意図はありません。

※作中の歴史解釈、文書、事件、人物関係は物語上の創作です。

資料館の展示室は、朝の光の中で静かだった。


ガラスケース。

説明パネル。

古い写真。

祭りの衣装。

観光パンフレット。

墓の位置を示す地図。

ナニャドヤラの歌詞を紹介する掲示。


三上怜司は、展示室の入口に立っていた。


これまで何度も通った場所だ。


しかし、今日は違って見えた。


パネルには、キリスト伝承の由来が説明されている。

墓の伝説。

イスキリ。

不思議な歌。

村に受け継がれる神秘。


どれも、以前ならよくある地域資料館の展示に見えただろう。


だが今は、その足りなさが見える。


アラムの名がない。

カヨの名がない。

リクの名がない。

悠一の歌も、女名控も、宗一郎の手紙もない。


もちろん、すべてを展示に載せればいいわけではない。


それでも、このままではもう足りない。


資料館職員の佐野が、怜司の横に立った。


「正直、どこから変えればいいのか分かりません」


佐野は三十代の女性で、資料館の実務を長く担当している。連載が始まってから、問い合わせ対応や資料整理に追われていた。


「全部変える必要はないと思います」


怜司は言った。


佐野は少し笑った。


「それ、少しほっとします」


「ただ、入口は変える必要があるかもしれません」


「入口?」


怜司は展示室の最初のパネルを見た。


そこには、大きな文字でこう書かれている。


――神秘の村に残るキリスト伝説


佐野は、その文字を見て小さく息を吐いた。


「今見ると、強いですね」


「はい」


「でも、長くこれでやってきました」


「分かります」


「観光客には分かりやすいんです。入口として」


怜司は頷いた。


分かりやすさ。


それは、悪ではない。


だが、分かりやすさは時々、人を消す。


「新しい入口は、どうあるべきだと思いますか」


佐野が尋ねた。


怜司は少し考えた。


「伝説の真偽を決める場所ではなく、伝承がどう語られ、何を隠し、何を残してきたかを見る場所」


佐野はメモを取った。


「難しいですね」


「難しいです」


「観光客、読んでくれますかね」


「全部は読まないかもしれません」


怜司は正直に言った。


「でも、簡単な入口と、丁寧な奥行きの両方が必要だと思います」


佐野は頷いた。


「それなら、展示を二層にする感じでしょうか」


「二層?」


「最初に、これまで伝えられてきた伝承を紹介する。その後に、近年確認された資料や証言として、別の層を示す」


怜司は少し頷いた。


「いいと思います。ただ、“真実はこちら”という見せ方は避けた方がいい」


「なぜですか」


「それだと、昔の伝承をただ否定する展示になります。今必要なのは、否定ではなく、足りなかった部分を見せることだと思います」


佐野は静かに言った。


「伝承は嘘ではなく、足りなかった」


怜司は少し驚いた。


「記事を読んでくれたんですね」


「もちろんです。ほとんど資料館の宿題みたいな連載ですから」


佐野は苦笑した。


その時、坂本と相馬准教授が展示室に入ってきた。


今日は、資料館展示の見直しに向けた初回の打ち合わせだった。


参加者は、資料館の佐野、役場の坂本、保存会の村井、十和田澪、相馬、そして怜司。


十和田澄江は体調面から欠席。

葛原重蔵も今回は不参加。

久我透は、後日意見を出す予定になっていた。


会議は展示室内で行われた。


机上で話すより、実際の展示を見ながら考える方がよいという佐野の提案だった。


村井は入口パネルを見て、困ったように笑った。


「神秘の村、か」


坂本が言った。


「これをすぐ外すかどうかですね」


佐野は首を横に振った。


「すぐ外すと、“伝承をやめたのか”と受け取られる可能性があります。まずは補助パネルを追加する方が現実的かもしれません」


相馬が頷いた。


「既存展示を否定するのではなく、読み方を変える補助が必要ですね」


澪は、ナニャドヤラの歌詞パネルの前に立っていた。


「このパネルも、変えますか」


佐野が近づく。


現在のパネルには、ナニャドヤラの節が紹介され、「由来不明の不思議な歌」と説明されている。


澪は静かに言った。


「由来不明、だけではもう違う気がします」


「でも、由来が分かったとも言えない」


佐野が言う。


「はい」


澪は頷いた。


「だから、“由来は一つに決められない”と書いてほしいです」


村井が頷いた。


「保存会の説明と揃えられる」


相馬は補足した。


「ナニャドヤラ全体については、諸説あるとした上で、地域内で別の節や家内伝承が伝わってきたことを紹介するのがよいでしょう。ただし、かよ節の歌詞そのものは、まだ展示しない方がいい」


佐野がメモを取る。


「では、かよ節の存在だけ触れる?」


澪は少し考えた。


「はい。でも、十和田家に伝わる節として。展示の目玉にしないでください」


「目玉にしない」


佐野はその言葉を書いた。


怜司は、そこに重要な線があると思った。


展示は、どうしても目玉を作りたがる。


新発見。

初公開。

秘められた歌。

母の名。

消された女性。


そういう言葉は、来館者を引きつける。


だが、かよ節を目玉にした瞬間、また榊原の論理に近づく。


村井が言った。


「展示で一番怖いのは、見た人が“これが答えか”と思うことですね」


相馬が頷いた。


「そうです。展示は固定されます。だから、“現在も確認と議論が続いている”ことを明示する必要があります」


坂本が言った。


「更新される展示にするのはどうでしょう」


「更新される展示?」


佐野が聞き返す。


坂本は続けた。


「確定した答えを置くのではなく、調査の進捗や議論の過程を示す。例えば、“現在確認されていること”“まだ分からないこと”“今後検討すること”を分ける」


怜司は思わず頷いた。


それは、連載の構造にも近い。


確認済み。

未確認。

保留。

公開しない理由。


展示にも、それが必要だった。


佐野の目が少し明るくなった。


「それなら、常設展示とは別に、小さな更新コーナーを作れます」


「どこに?」


坂本が尋ねる。


佐野は展示室の出口近くを指した。


「ここです。今は古いパンフレットを置いているだけなので」


そこには、小さな掲示スペースがあった。


目立ちすぎない。

だが、最後に必ず通る場所。


澪が言った。


「入口ではなく、出口なんですね」


佐野は頷いた。


「入口でいきなり新資料を出すと、全部がそれに引っ張られます。まず、これまでの伝承を見てもらう。その後で、今分かってきたことを示す」


相馬が言った。


「良い構成だと思います。最初から結論を押しつけず、最後に問いを渡す形になります」


問いを渡す展示。


怜司は、その言葉を胸に留めた。


「女名控はどうしますか」


坂本が言った。


部屋の空気が少し変わった。


女名控。


本帳の外へ置かれた記録。


その現物は、保管庫に移されている。


展示するには、保存上の問題がある。

内容の解読も途中。

表紙写真だけでも、強い。


佐野は慎重に言った。


「現物展示は無理です。少なくとも今は」


相馬も頷いた。


「保存上も、文書の性質上も避けるべきです」


村井が聞いた。


「写真は?」


澪の表情が少し硬くなる。


怜司はそれを見た。


佐野も気づいたようだった。


「表紙写真も、まだ出さない方がいいかもしれません」


坂本が頷いた。


「展示に出すと、“女名控”という言葉が独り歩きしますね」


相馬は言った。


「まずは、“本帳の外に置かれた関連文書”という表現でよいと思います。連載と同じです」


澪は小さく息を吐いた。


「その方がいいです」


佐野はメモした。


――女名控の表題写真は出さない。

――関連文書の存在のみ紹介。

――詳細は専門家確認中。


次に、悠一の録音テープの話になった。


佐野は尋ねた。


「録音テープは展示できますか」


怜司は首を横に振った。


「現物は、今も大学と相談しながら管理しています。展示は難しいと思います」


相馬が補足する。


「音源公開も、現段階では避けるべきです。ただ、“十和田悠一さんとみられる歌唱音源が確認され、保存処理が進められている”という説明は可能です」


澪が言った。


「悠一の声を、聞ける展示にはしないでください」


佐野はすぐに頷いた。


「しません」


「いつか公開するかどうかは、十和田家だけでなく、関係者で考えたいです」


「分かりました」


「でも、悠一が歌を残していたことは、書いてほしいです」


怜司は澪を見た。


その声は、前より強くなっていた。


悠一の名は、事故の被害者としてだけではなく、歌を残した人として展示にも戻る。


それは大きい。


打ち合わせは二時間続いた。


結論は、いくつかに整理された。


入口パネルはすぐには撤去せず、補助説明を加える。

ナニャドヤラの説明は「由来不明」だけでなく、「複数の記憶が重なる歌」とする。

かよ節は、存在のみ触れ、歌詞は出さない。

女名控は現物・写真を展示せず、関連文書として紹介する。

悠一の録音は音声公開しないが、歌唱音源が確認されたことは記す。

出口付近に「現在確認されていること/分からないこと/これから考えること」の更新コーナーを作る。

展示の文面は、役場、資料館、保存会、十和田家、専門家で確認する。


怜司は、その整理を見ながら、少しだけ希望を感じた。


完璧ではない。


むしろ、不完全さを展示する方法だった。


だが、それでいい。


確定した答えではなく、問いを渡す。


それが今の資料館には合っている。


打ち合わせ後、澪は展示室の中央に立っていた。


古い祭り衣装の前。


「ここに、かよ節は置かないんですね」


「置きたいですか」


怜司が尋ねると、澪は首を横に振った。


「今は、置かない方がいいと思います」


「はい」


「でも、存在しないことにはしない」


「はい」


澪は展示室を見回した。


「前は、この展示が少し怖かったです。アラムもカヨもリクもいないから」


「今は?」


「まだ怖いです」


澪は正直に言った。


「でも、変わろうとしている場所なら、少しだけ見られます」


怜司は頷いた。


夜、怜司は第十二回の原稿を書き始めた。


仮題。


――展示するということ


冒頭は、資料館入口の「神秘の村に残るキリスト伝説」というパネルから入った。


そこに重なる足りなさ。


しかし、展示を壊すのではなく、読み方を変える必要。


記事の中心は、佐野の提案だった。


二層の展示。

入口ではなく出口に置く更新コーナー。

答えではなく問いを渡す展示。


本文に、澪の言葉も入れる。


――展示されると、固定される。


相馬のコメントも。


――展示は答えのように見える。だからこそ、確認済みのこと、未確定のこと、まだ議論中のことを分けて示す必要がある。


坂本の言葉も。


――伝承をやめるのではなく、説明の足りなさを補う。


記事の最後に、怜司はこう書いた。


――資料館が目指すのは、新たな“真実”を一つの答えとして置くことではない。これまで語られてきた伝承と、今見えてきた名や声を、同じ部屋の中でどう並べるかである。展示は固定する。だからこそ、固定しすぎない展示が必要になる。


書き終えて、怜司は少し笑った。


固定しすぎない展示。


矛盾した言葉だ。


だが、今の資料館に必要なのは、その矛盾を抱えることだった。


翌朝、第十二回が公開された。


――雪の下の名 第十二回

――展示するということ 資料館が探す「問いを渡す」形


反応は、展示や博物館関係者からも多かった。


「未確定を未確定として展示するのは大事」

「“答えではなく問いを渡す展示”は良い」

「現物を出さない判断に賛成」

「展示は固定する、という視点は重い」

「観光展示の更新は難しいが必要」


一方で、やはり不満もあった。


「結局、見せないものばかり」

「女名控を展示しないなら意味がない」

「音源を聞けない資料館に価値はあるのか」


怜司は、その意見も記録した。


資料館は、見せる場所だ。


見せない判断は、必ず批判を受ける。


だが、見せればいいというものでもない。


昼過ぎ、佐野から連絡が来た。


「記事、読みました」


「問題ありませんでしたか」


「大丈夫です。むしろ、展示見直しの説明に使えそうです」


「よかったです」


「ただ、問い合わせが増えています。更新コーナーはいつできるのか、と」


怜司は少し申し訳なくなった。


「すみません」


佐野は笑った。


「大丈夫です。背中を押されたと思います」


「準備は進められそうですか」


「はい。小さく始めます」


小さく始める。


それも、この村に合っている。


夕方、怜司は展示室をもう一度歩いた。


入口のパネル。

祭り衣装。

歌詞掲示。

古いパンフレット。

出口近くの小さなスペース。


ここに、問いが置かれる。


アラム。

カヨ。

リク。

悠一。

女名控。

かよ節。


すべてを見せるわけではない。


だが、いなかったことにはしない。


資料館は、少しずつ変わり始めている。


その時、資料館の入口で、若い親子連れが立ち止まっているのが見えた。


小学生くらいの女の子が、母親に尋ねていた。


「ここ、キリストのお墓の話のところ?」


母親は少し迷ってから答えた。


「うん。でも、それだけじゃないみたい」


怜司は、その言葉を聞いて足を止めた。


それだけじゃないみたい。


今は、それでいいのかもしれない。


一度に全部を変えなくていい。


最初の一言が変わる。


そこから始まる。


夜、怜司は次のメモを書いた。


資料館が変わり始めた。

祭りの説明も変わり始めた。

歌の場も広がり始めた。


次に向き合うべきもの。


墓。


キリストの墓として知られてきた場所。

伊佐衛門の名。

アラムの名。

リクの帰る場所。

カヨの手。


展示や説明が変わるなら、墓の前で何を語るのかも変わる。


怜司はノートに書いた。


――墓の前で、何を言うか


それが次の問いだった。

お読みいただきありがとうございます。

第35話では、資料館展示の見直しが始まりました。


展示は答えのように見える。

だからこそ、「確認済み」「未確定」「議論中」を分けて示し、答えではなく問いを渡す形が必要になります。


女名控や音源は、現時点では見せない。

しかし、存在しないことにはしない。


次回は、墓の前で何を語るのか。

キリストの墓として知られてきた場所を、これからどう案内するのかへ進みます。

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