007.小説家になろう累計15,000PV突破記念SS 独占権のゆくえ ―たとえ我が子でも譲れません―
午後の陽だまりが、柔らかく部屋を満たしていた。窓辺にはまだ雪が残っているのに、不思議と寒さは感じない。暖炉の火と、そして───腕の中にある、あまりにも無垢な温もりのせいだろう。
ミネットは、そっと、深い吐息を零した。腕の中では、小さな命が規則正しく寝息を立てている。ほんの少し動くだけで壊れてしまいそうなほど儚いのに、その存在感は確かで、部屋の空気を幸福の色に染め上げていた。
「……よく眠っているな」
隣から、低く穏やかな声が落ちる。ゼノだった。彼はいつものように背筋を伸ばして椅子に座っているが、その視線は山積みの書類でも窓外の景色でもなく、ただ一点───赤ん坊に向けられている。その眼差しは、あまりにも優しく、あまりにも───蕩けるように甘い。
「君に似て、本当に愛らしいな」
そっと伸びた指先が、小さな頬に触れる。壊れ物を扱うような慎重さで、それでも溢れんばかりの愛しさを伝えるように。
その光景を見た瞬間。ミネットの胸に、ちくり、と鋭い痛みが走った。
(……あら)
自分でも驚くほど、醜く、ささやかな感情。けれど、それは無視できないほど熱を持って胸を焼く。
(ゼノ様が……わたくし以外に、あんなお顔を見せるなんて……)
それは確かに、二人の愛の結晶だ。愛しくないはずがない。むしろ、命に代えても守りたい。それなのに───。
(……なぜでしょう。胸が、こんなにもチリチリと……重いのです)
ゼノの瞳は、完全に赤ん坊へ向けられている。自分ではない存在が、彼の世界の中心に居座っている。その事実が、思いのほか深く、冷たく刺さった。
「……ゼノ様」
呼びかける声が、自分でも驚くほど硬く震える。
「どうした、ミネット」
優しい声。だが、その視線はまだ赤ん坊に固定されたままだ。その瞬間………。ミネットの中の“何か”が、限界を迎えてぴん、と張り詰めた。
ゼノが赤ん坊を抱き上げようと、大きな手を差し伸べる。その動きに反射するように───ミネットは、無意識に行動していた。ぐい、と赤ん坊を自分の方へ強く引き寄せる。
「……あ」
自分でも気づいて、硬直する。だが、止まれない。
「ミネット?」
ゼノの声に、明確な困惑が混じった。視線が、ようやく彼女を捉える。その瞬間、ミネットは───獲物を狙う仔猫のように、夫を上目遣いで睨みつけた。震える肩を抱き、必死に威嚇する。
「あ、あの……その……」
喉が、熱い。
「あまり、この子ばかり見ないでくださいませ……っ!」
叫ぶように、言ってしまった。言った瞬間、頭の先まで真っ赤に染まる。
「……それは、どういう意味だ。嫉妬か?」
静かな、だが確信を突く問い。ゼノの瞳に、わずかな“計算外の愉悦”が宿る。
「……そうですわ! 悪うございましたか!?」
やけくそ気味に、ミネットはさらに赤ん坊をぎゅっと抱きしめる。
「わたくしが……一番、ゼノ様に愛されていたいのです。お母様失格かもしれませんけれど、ゼノ様の瞳には……いつだって、わたくしだけが映っていてほしいのです……!」
沈黙が落ちた。あまりにも身勝手な独占欲。冷静で理性的なゼノ様なら、きっと呆れてしまうに違いない。ミネットはぎゅっと目を閉じた。───だが、訪れたのは拒絶ではなかった。
「……困ったな」
低く、どこか湿り気を帯びた艶っぽい声。気づけば、赤ん坊はそっとゆりかごへ移され、ミネットの体はゼノの強靭な腕の中へと引き寄せられていた。
「ゼノ様……?」
「私は、この子が君に似ているから愛おしいと思っていた。だが……」
耳元で囁かれる声は、もはや理性の範疇を超えていた。
「君本人がそんなに醜悪で、愛らしい執着を見せるなら……私の理性は、完全に崩壊する」
額に、押し付けるような深い口づけ。
「安心しろ。私の愛の総量は、この子が生まれて分散されるどころか───」
大きな手が、彼女の細い腰を逃がさないように締め上げる。
「君という存在への執着として、無限大に増える一方だ」
心臓が、耳元で鳴っている。
「今夜は、母としての君は休ませよう。……私の妻としての君を、たっぷり甘やかして、その独占欲を物理的に満たす時間を確保しなければならないな」
逃げ場など、最初から存在しなかった。
その後。ミネットは、文字通り───骨の髄まで、溶かされるように可愛がられた。頬をなぞる指先、繰り返される、深くなる口づけ。低く、何度も「私のものだ」と刻印を打つように囁かれる名前。
「……ゼノ、さま……もう、お許しを……っ」
「許さない。君が、私だけを見ろと望んだのだから」
思考は甘い霧に溶け、ただ夫の体温だけが世界になる。嫉妬していたことも、母親としての罪悪感も、すべてがどうでもよくなるほどの圧倒的な寵愛。
やがて………。小さな泣き声が、静かに部屋に響いた。
「あ……」
現実に引き戻され、ミネットは焦って体を離そうとする。だが、ゼノは満足げに彼女を抱きしめたまま、すぐには離そうとしなかった。頬を紅潮させ、乱れた息を整えながら、ミネットは恨めしそうに夫を仰ぎ見る。
「……ぜ、ゼノ様の、せいですわ。こんな、はしたない……」
「心外だな。私は君の要望に応えただけだ」
平然とした、だがこれ以上ないほど満たされた表情。その隣で、赤ん坊は何も知らずに、二人の愛の深さを確かめるように泣いている。
ミネットは───。先ほどまでの醜い嫉妬すら、夫の腕の中で甘い余韻に変えられてしまったことを、幸福とともに悟ったのだった。




