006.アルファポリス累計13,000pt突破記念SS 辺境伯様の独占欲は、13,000の祝福ですら許さない
深夜。辺境伯邸の執務室には、蜜を溶かしたような静かな灯りがともっていた。窓の外では、祝祭の余韻がまだ微かに揺れている。遠くに見える街の灯りは、まるで星々が地上に降りたかのようにきらめいていた。
「ゼノ様、見てくださいませ!」
弾む声。机の向かいで手紙の束を抱えたミネットが、ぱっと顔を輝かせる。
「こんなにも……たくさんのお祝いが届いておりますの。皆様、わたくしにまで温かいお言葉をくださって……本当に、幸せですわ」
その笑顔は、曇りなく、無垢で、そして───。ゼノの手が止まった。書類をめくる音が、ぴたりと消える。
「ああ……喜ばしいことだ」
声は氷のように平静。だが万年筆を持つ指先には、骨が軋むほどの力がこもっていた。
(……何人だ)
思考は冷徹に、しかし狂気を含んだ精度で回り始める。
(今日、ミネットが領民に向けた笑顔の回数。祝祭の最中、少なくとも百三十二回。いや、広場での挨拶を含めれば三桁は軽く超える)
対して。
(私だけに向けられた、秘めやかな笑顔の回数は……)
記憶という名の記録を辿る。
朝、襟元を直された時。昼、視察の合間の茶会。先ほど、扉を開けた瞬間───。計算結果が、脳内に冷酷な解を叩き出す。
「不足している」
万年筆が、ミシ、と鈍い音を立てて悲鳴を上げた。
「ゼノ様?」
ミネットが不思議そうに首を傾げる。だがその瞳に映っているのは、最愛の夫ではなく、紙束。見知らぬ誰かの言葉。祝福という名のノイズ。
「特にこちらの方……『我らが北国の宝』だなんて、こんなにも素敵に───」
無邪気に顔を寄せてくる。距離は近い。吐息が触れ、彼女の纏う花の香りがゼノの脳を麻痺させる。
それでも。その視線は、まだゼノを捉えていない。───理性が、音を立てて決壊した。
「……ミネット」
低い、地這うような声。
次の瞬間、彼女の細い手首が引かれた。軽やかな悲鳴がひとつ、静寂を裂いて夜に落ちる。
「きゃ……っ」
気づけば、ミネットはゼノの膝の上にいた。背後には冷たい机。目の前には、暗い熱を孕んだ夫の瞳。逃げ場はない。
「ゼ、ゼノ様……?」
「少し、黙っていろ」
耳元に落とされる声は、静かで、しかし抗えない絶対的な圧を孕んでいる。
「13,000もの声に君を晒した私は……どうやら、自分が思っていた以上に寛大な男ではなかったらしい」
ぞくり、とミネットの背筋が震える。震える指先を、大きな手が絡め取る。一本ずつ、丁寧に───肌の熱を奪うように、あるいは刻印を刻むように。
そのまま。逃げ場のない指先に、深く、貪るような口づけが落とされた。
「……ゼノ、さ……っ」
声がほどける。熱が、指先から血流を伝わって全身へと広がっていく。
「君を『宝』と呼んでいいのは、私だけだ。……例え全領民が認めようとも、私の独占権を分かち合うつもりはない」
囁き。低く、甘く、逃げ道を完璧に封じる支配の声音。もう一度、唇が触れる。今度はさらに長く、深く、彼女の呼気をすべて奪い去るかのように。
「……あの、手紙は……皆様の……」
「後だ。すべて、後」
不器用な辺境伯の仮面は、もうどこにもない。あるのは、ただ一人の女性を渇望する男の顔だけだ。
「今夜は、その紙片の羅列よりも───」
指先が、熱を持った頬をなぞる。拒絶を許さぬ速さで、ゆっくりと。
「私という男の方を、読み解いてもらおうか」
呼吸が重なる。重なりすぎて、境目がわからなくなる。
「……一晩かけても終わらないほどの熱量を、君に教えなければならない。……覚悟はいいか?」
その言葉の意味を、本能が理解した瞬間。ミネットの思考は真っ白に染まり、夜の深淵へと沈んでいった。
翌朝。執務室の床には、無残にも手紙が散らばっていた。丁寧にまとめられていたはずの「13,000の祝福」は、今や嵐の後の雪のように広がっている。
「……あらまあ」
エリーゼは、溜息とともにそれを拾い上げた。そして、ふと視線を上げる。そこには───。
「おはよう、エリーゼ。今日は非常に気分が良い」
全身から満足げなオーラを放ち、異様なまでに肌艶の良い辺境伯と。
「……お、おはよう……ございます……」
一歩歩くごとに、ひどくぎこちなく腰をさすり、リンゴのように顔を赤くしたミネットの姿。すべてを察するには、余りある光景だった。
「……なるほど。13,000回ほど愛し抜かれたわけですね」
エリーゼは静かに微笑む。どうやら、辺境の冬はまだまだ熱いらしい。




