賢きものの記憶
なにもない昼下がり。
あまり締めつけすぎないドレスを着て、ソファに横になる。今までからすると考えられない生活だが、もう間もなく生まれるだろう子どものためにもなにもするなとレオから怒られてしまったのだ。
あの事件の後、バドス王国は解体された。リヒト皇太子殿下やレオをはじめとした帝国高官たちがその残務処理に当たっているが、残念なことに連れて行ってくれなかったのだ。しかし、ほぼ五日毎に状況を手紙寄越し、昨日はユージン王太子の両親――すなわち元国王夫妻が処刑されたことを知らせてくれた。
それに対してなんら感慨を持つことができなかったが、元国王の母親、亡きレティシア王太后様が生きていたらどうなっていただろうかと思ってしまった。もちろん過去は変えられないし、変わったとしても今のこの部分が変わっているとは思えないので、ある意味亡くなっていて良かったのだと思うが、それでも小さいときから仲良くさせていただいたから、そう思わずにはいられなかった。
そこまで考えてふと、幼いころは両親もまだまともで機能していたということを思いだした。
あのときにレオも言っていたが、代々優秀な政務官を出してきて、父親もまたそれに漏れなかったことから周りから“バドスの頭脳”と呼ばれていたはずなのに、あの人が、そしてその妻である母親が狂いだしたのはいつだろうか。
妹が成人したときからだろうか?
ユリアは成人の舞踏会ですでに私と婚約者だった王太子に一目ぼれし、奪った。
違うか。
私の成人の舞踏会の直前、レティシア王太后に命じられるままダンスの相手をさせられたときだろう。
そのときから嫌われている自覚はあった。
何回か夜会に出かけたときにダンスの相手をしたが、まったく愛想すらなかった。同じ年頃の貴族子女とお茶会にも出たことがあったのにもかかわらず、気の利いたこと一つでさえ言えない。
もちろんあからさまに悪くはないのだ。
王太子としての資質があるかといえば残念なことにそうではなかったが、それなりには努力しているから際立って悪いのかというとそうではない。
しかし、王太后様にそれを相談するとなにもするなと言われてしまった。不思議な命令だったが、私はそれに従わせてもらうことにした。そのことを含めてもちろん言いたいことは山ほどできたが、同時に言っても無駄だなという感覚さえすぐに生まれてしまったからだ。
それが加速したのは妹が成人の舞踏会で妹同様、王太子も彼女に一目ぼれしたらしく、それからというもののどこへ行くにも私と一緒に妹を連れまわすようになったときだ。
それを特別不快に思ったことはない。
自分との婚約はただの政略的なものなので、それと王太子の気持ちは別だということで納得していた。それに周りも同じ侯爵家の娘を相手にしているということでなにも言わなかったし、王太子も言わせなかった。
しばらくしてからか。
妹と喋るときは楽しそうになる王太子は、私と話すときはつまらなさそうにする。その様子に気づいた両親は妹に期待を寄せるようになっていったのがよくわかった。
気づいたときには妹にばかり誘いを出し、私は呼ばれなくなっていた。
まだ王太子の婚約者ということだけで矜持が保てた私は、レティシア王太后様に勧められ国内外の貴族たちと会ったり、大臣たちと今後の展望を話したり、王家に嫁ぐものとしての勉強を必死に行った。
そしてある夜会で、とうとうせめて夜会だけでも仲良くしている風にしてほしいとお願いをした。しかし、それが王太子にとっては不満だったようで、翌日以降、さらに相手にされなくなり、周りの青年貴族たちにあることないこと吹き込まれた。
当然ではあるが、国王夫妻の耳にも入ったようで最初から私たちの婚約に難色を示していた彼らは私が王宮にいると、明らかにしかめっ面をするようになった。
両親もまた、輪をかけて私の話を聞かなくなっていった。
とはいえ、どうすることもできない。レティシア王太后様のため、ただそれだけを思って耐えるしかなかった。
そんな中、行きつけの店でエメラルドの偽物をつかまされていると知り、それは国内で偽造しているのではないかという噂を聞いてしまった。
噂では王太子たちの関与が示唆されていたが、その確たる証拠がなかったので、私は動くため集めようとした。
しかし、そのときにはすでにレティシア王太后は亡くなり、王家の忍びは王妃が全権を握っていたので動かせなかったし、騎士団も王太子がトップであるので、王家の力は当てにできず、まだまともに機能していた侯爵家の忍びたち、精鋭だけを使って回らせたが、確たる証拠もなく無駄に終わってしまった。
そればかりか、忍びたちとともに私も捕らわれた。
あれは年に三回だけ、全貴族が集まる国王の誕生日の夜会の真っただ中だった。
その日も楽しそうに踊っていた王太子とユリアは、夜会の中盤、国王夫妻に向かって一礼したあとに堂々と私を婚約破棄すると言ったのだ。
『王太子である私の婚約者であることをいいことに次々と高額な買い物をし、税務官を誑かしこんで税金を横領、さらに気に入らない貴族令嬢たちを精神的に病むまで追いつめていったな』
『殿下だけでは飽き足らずに、王宮に何人もの男を連れこんでおりましたよねぇ?』
その瞬間、会場はシンと水を打ったように静かになって私の反応を注視した。
もしかして、だれかは私が口答えするのではないかと思ったようだが、残念なことに私は絶望とともにホッとしていたのを覚えている。
今までの努力はすべて水の泡になった。
けれども、これでお守りから解放されるのだと。
普段は私と懇意にしているが、さすがに王家におそれをなした貴族たちはだれも私を援護してくれず、両親からはその場で恥さらしだとののしられ、警備の者たちによってぼろ馬車に乗せられた。
どこに連れていかれるのかも知らされずにただ馬車に乗せられ、そして国境付近の山の中に捨てられた。
運よくというべきか、ならず者たちとも遭遇せずに街まで来れた私だったが、そこで倒れてしまった。
そこからはまあ幸運が続いたと言ってもいい。
だから。
私は王太子に捨てられてよかったのだろう。
レティシア王太后の言う通り、なにもしなくてよかったのだ。
そして、レティシア王太后があのタイミングで亡くなったことはよかったのだろう。
今ならそう言える。
なにも心配することはない。夫の帰りを待ちながら穏やかに過ごさせていただきましょう。