梶尾の決断
「上原蓮は私の弟子でした」
「全さんのお母様が?」
品川エリア上層にある風紋院上層司令部の一室で景は柴木と向かい合っている。
上層に存在するこの場所は、ジオフロント内にある風紋院本殿の予備指揮所である。現在は主に魔犬掃討特務部隊が置かれ、各属性部隊員が出入りしている。
柴木はその部隊長としてこの場所を管理統括していた。
本来上層司令部は副将の管轄だが、長である風紋将・草凪恭一が任務で不在の為、代わって副将が本院に詰めている。それで第三席である柴木が上層司令部の取り仕切りを行っているそうだ。
「優秀な女性でした。単に紋章官としてではなく、研究者として図抜けた才能を持っていた。彼女の功績は計り知れません。そして母としても素晴らしい人物だった。…だが」
懐かしむような表情から一転して目を伏せる。
「上原一家には反逆罪が課せられた」
「反逆罪? 何をしたと言うのです。そんなことをする方々ではなかったのでしょう?」
「もちろんその通りです。ただ、理由は上原全にありました。そして彼を守る為、蓮は…」
柴木の声は妙にしわがれて聞こえた。そのような理不尽なことが実際に起きているなど景は知りもしなかった。大人の都合で真実を握り潰す。そういうものなのだと今更ながらに景は思い知る。
「全さんの紋章に関わりがあるんですか?」
「そのようです。私にはそこまでする必要もないと思えたのですが、梶尾はそこに固執していた。あの紋章には世界を揺るがしかねない秘密があるはずだ、と」
「世界を?」
「当時誰も彼の言うことを真に受ける者は居ませんでした。だからこそ彼は強引に事を進めたのです」
「だったら誰かがそれを止めることも出来たのではないのですか。なぜそうしなかったのですか」
柴木は目を伏せた。
「仰るとおりです。だが出来なかった。梶尾は実に周到だったのです。法的に梶尾の行動には問題がなかった。紋章法第五十五条の凡その内容はこうです。
属性不確の紋章について、保有者は国の定めるところの執行機関に措いて申請及び検査を行わねばならない。また、保有者が未成年者である場合、保護者が代理人として保有者に検査を受けさせる義務がある…」
特別おかしなところは無いと景は感じた。つまりは詳細不明な紋章があれば親が検査を受けさせろという話である。
「それが何だというのですか?」
「これにはまだ続きの条項があるのです。第五十六条、前項に措いて保有者に国家に対する危険性が認められた場合、国は権利に関わらず保有者を保護、管理する責務を負う」
「そんな…」
「彼女らもそれは知っていた。だから検査も受けて無害であると証明もしました。実際に危険性は無く、事実何も起こらなかった。だが、無害というのは単に何も分からなかったというだけのことでもあったのです。数年後そこに目を付けた梶尾は危険性がゼロではないとし、強制的に上原全を確保し研究対象としようとしました」
たかがそれだけのことで彼の両親を殺したというのか。
なんだか分からぬものに怯えた結果、梶尾が全の家族を引き裂いたのだと思うと景の胸にやりきれない思いが満ちてゆく。
「当然そのような理不尽で子供を渡そうとしない彼女らは結果的に反逆者の汚名を被った。我々も彼らを救おうと手を尽くしたが梶尾の方が一歩早かった」
柴木は立ち上がり机から一枚のパネルを取り出して景に渡した。
「これは彼らとの思い出の一枚です」
浮き上がった写真には今よりも少し若く見える柴木と白衣を着た上原夫妻、そして戸惑ってレンズを見ている小さな子供の姿があった。幸せを絵に描いたような写真。
「本当に…彼が生きていて良かった。祐二殿も喜ばれることだろう。早く知らせてやりたいが」
え? 景は天井近くにある顔を見上げる。
「祐二とは?」
「そこに写っている方ですよ。彼の、上原全の父親。もう一人の上原博士、上原祐二。彼は生きているのです」
海抜約二千二百メートル、東京の屋根に当たる屋上は、ギアナ高地のテーブルマウンテンのように台状の広大な空間が開けている。主に空港施設が配置されているが、それ以外にも外交使節関連の建造物が多い。
その方が効率的で何かと便利でもあるからだ。同様に国内の要人の別邸も数多く存在する。その中に梶尾現十の私邸もあった。
半球状の建物、その最上階展望室で梶尾は浅野の報告を受けていた。
窓外を見つめたその目には黒い空に飛び立つ数機のジェット機が映っている。
「……申し訳ございません」
浅野は跪き顔を上げることもできずに梶尾の言葉を待っている。
景とオーブの奪還失敗から五時間しか経っていない。
傷には軽い処置を行ったものの包帯もしていない、仮にも紅蓮の隊長にあってはならぬ失態である。包帯を巻くなど恥辱でしかない。それは彼女なりのプライドだった。
「オーブはいい、初めからあの程度のものに用は無い。その為のブラックボックスだ。だが、小旋風に景を奪われたのは失態だな」
さして表情に変わりはないが、苛立ちは梶尾の瞳の奥に間違いなく生まれていた。
「だが腑に落ちぬ、お前程の者が。本来ならばいかな柴木とてそう簡単に景を奪うことはできなかった筈、どういうことだ」
「邪魔者が現われました。そのせいで足止めを食い、柴木の到着を許してしまいました」
顔は上げず、浅野はなるべく感情的にならぬように努める。
「ほう、邪魔者。お前を脅かすものが居たというのか」
「は、その件は直接お話しようと伝令には話しませんでした」
「それ程に重要なことか?」
梶尾は振り返り浅野を見る。浅野の初めてともいえる醜態の原因に梶尾は興味を覚えたようだった。
「一体何者だ、それは」
「上原、上原全です」
浅野から出た名は梶尾の興味を一瞬で衝撃と入れ替えた。
「な、何だと。まさか…上原、あの上原か? だがアレは上原蓮と共に……。それが今頃になって、一体どういうことだ」
その取り乱し様に浅野も驚きを隠せなかった。これまで梶尾が焦燥する姿を見たことなど一度も無かったのだ。
「母親の上原蓮は死亡していますが、息子は生き残っていたようです」
「なんということだ。それで、紋章は……奴の紋章は発動したのか?」
「紋章?」
一瞬浅野は訝しげな表情をしたがすぐに畏まって言った。
「紋章の発動は見られませんでした」
「そうか、発動していないのか……待て、発動していない? お前は紋章を使ってもいない者に邪魔されたというのか?」
「思いのほか体術に長けておりまして。もう一息で止めを刺せる筈だったのですが、柴木に邪魔をされ」
もう梶尾は既にその言葉を聞いてはいなかった。独言のように呟きながら部屋の中を歩き出した。
「馬鹿な、紋章も使わずに高位紋章官である浅野と対等に戦ったというのか? そんな馬鹿げたことがあってたまるか、紋章官は紋章のエネルギーで身体能力を強化し、あらゆる面で常人を超える力を発揮するのだぞ。紋章の力を使わずして対等でいられる訳が無い」
梶尾は俯いたかと思えば、中空に視線を移し落ち着かない。
「…だが、そう考えれば紋章の力はやはり影響を及ぼしていると考えるのが妥当。覚醒が近付いているということも…」
梶尾は暫く立ち止まり思索を巡らせた。そして何かしらの答えに辿り着いたらしい落ち着きを取戻した表情で浅野に問う。
梶尾は扇を広げた。
「上原全は未だ生きているのだな?」
「は、残念ながら。そして、オーブも恐らく貴奴の手に」
「オーブも奴が。まぁよい、かくなる上は出来るだけ早く計画を進めるのみだ。已むを得んが小旋風には消えてもらうとしよう」
その表情には最早迷いも無く、言葉の冷たさのみが辺りの空間にジワリと広がった。
梶尾の瞳の奥に揺らめく残光に、浅野でさえも背筋に薄ら寒いものを感じていた。




