家族
「ねぇ、東京は綺麗だねぇ全ニィ」
夜の闇の中に煌々とオレンジや白、赤や黄、紫の明かりを生み出し、自らをも照らし出した巨大な建造物が圧倒的な存在感で屹立している。
その様子を廃ビルの屋上に腰掛けて眺めながら、護は隣に立つ全に声を掛けた。全は皮手袋をはめ直し、ふんと鼻を鳴らす。
「そうかぁ? 俺には虚勢を張っているだけにしか見えねぇけどなぁ、あんなもんが綺麗か? そんなに夜が怖いかねぇ」
全がポケットから煙草を取り出して一本銜えた。ビル風に邪魔されぬように手を翳して火を点ける。黒いジャンパーが風にたなびくのも無視して煙を吐き出すと、煙があっという間に彼方へと散って行った。
「何でそういうこと言うかなぁ、いいじゃん綺麗なんだからさぁ。キラキラしてて宝箱みたいじゃん」
「宝箱ねぇ…。とんでもなく悪趣味な箱だな、吐き気がするぜ」
「もう、いいよ。全ニィなんて知らない」
護は頬を膨らませて両足を抱えこみ団子虫のように丸くなる。それでも頭だけはちょっと浮かせて、東京と呼ばれる巨大な箱を眺めていた。箱から打ち出されるライトの明かりが夜に浮かぶ雲の表面を縦横に走っている。
「困ったやつだなぁ、そんなことでヘソ曲げるなよ。大体考えてもみろ、あの東京の中には何百万人っていう奴らがうじゃうじゃしてるんだぞ。しかも、そのほとんどが”紋章付き”とその家族だ。そんなのが蟻の巣みたいにちまちましたところで、ちまちま生きてるんだぜ、お前そんな閉鎖的なとこで暮らしたいわけ?」
護はぷいと顔を背けて一言「聞こえない」と言った。
「こういう話は、お子様にはまだ早えぇのかねぇ」
「お子様って言うな! もう12だ。あと2年で元服ってやつなんだから大人だ!」
「元服ってお前、何百年前の話だ? 一体そんな言葉どこで覚えた」
護はすっくと立ち上がって胸を張った。
「舞ネェが教えてくれた。だから僕はもうちょっとで大人だって」
「舞のやつ、またくだらねぇことを」
全は額に手を当て煙と一緒に溜息を吐いた。
「いいか護」
煙草から灰が落ちる。
足を踏み外せば無事では済まないビルの縁をすたすた歩いて振り向くと、全は真っ直ぐに夜空を指した。
「大人ってのはトシじゃねぇ」
「じゃあ何?」
「それはな、あれが怖いんだって分かる奴、そしてそれでもそいつを抱きしめられる、そういう人間のことを言うんだ。解るか?」
指された夜を見上げる、星の見えない青黒い空が見える。
全が言うことはいつも少し難しい。全は夜が怖いのだろうか?
護が首を傾げると全は大きく笑った。
「お前にゃちょっと難しいな、まぁいつか解る日が来るさ」
そう言って煙草を投げ捨て、全もまた空を見上げた。ビルから落ちていく赤い火をなんとなく眺める。赤い光が見えなくなってもまだ全は空を見上げていた。
「全ニィはいつもそうやってごまかす」
「誤魔化してなんかいねぇけどな」
不意に電子音が鳴り響いた。全がポケットから一枚のカードを取り出して表面を親指で触れ、それを銜えた。携帯カード端末。相手はきっと舞ネェだと護は薄笑いを浮かべる。
「あんだよ」
(なんだよじゃないわよ。今何処に居るのよ、護も一緒なんでしょ? あなた達を待ってるんだから早く帰って来なさいよ、ご飯が冷めちゃうじゃない)
「はいはい、今帰りますよ。食いたけりゃ先に食ってりゃいいのによぅ、別に俺らは…」
(い・い・か・ら、早く)
舞ネェの声は離れていてもよく聞こえた。
「はい、ごめんなさい。すぐに戻ります。護君、鞄を取ってくれたまえ、ほら、帰るよ」
護は毎度のやり取りに呆れながら鞄を肩に掛けて出口に向かって歩き出した。
電話を切ると全はカードに向かって中指を立てた。
「全ニィ、かっこわる」
廃ビルから出た二人は家路へとついた。
小汚い街だ。東京エリアから40キロほど北北西に離れた寂れた地区で全たちは暮らしている。
嘗ては歴史ある町と呼ばれたこともあったが、今はもうその面影も無い。道の脇には崩れた建物や鉄骨が立ち並び、道路には亀裂が走っていて整備などされたような気配もない。辺りを見れば鉄骨の影や廃ビルを利用して何とか生活を守っている者達さえ見受けられる。
チルドレンが現れ、世界には上流層と下流層に大きな隔たりが生まれた。
チルドレン、通称『紋章付き』は位が高く、そうで無い者は低い。
旧世代の貴族と平民、侍と無宿人のように、そんな単純明快な階級付けがされている。それ程までに紋章は大きな意味を持っていた。
この街もまたそうした理不尽を押し付けられた場所の一つである。
その中で諦める者、抗おうとする者、ただ今を生きようとする者、それぞれに抱く思いは違っていた。
寂れた街の中をポケットに手を突っ込み、錆の浮いた水溜りを踏み抜いて進む全に護がピタリとついて歩く。暫くゆくと道の傍らにある木箱の上に脱力して座っている男がいた。護はその男をなんとなしに見ていた。
「よく見とけ、あんな大人にゃならねぇようにな。紋章付きは好きじゃねぇが、ああやって何もしようとしねぇ奴も好きじゃねぇ。あぁしていたって何も変わりゃしねぇってのによ」
反吐が出る、と全は転がっていたドリンクチューブを蹴り飛ばした。
鼠が今にも横切りそうな細い路地を何度か曲がり、ややもして空間が広がると護は一目散に駆け出した。
向かった先には小さな教会が、否、教会であった建物がつましく建っている。窓からは柔らかい灯りが洩れ、ほんのりと漂う甘い香りが漂う。舞の準備した夕食の香りなのだろう。
いくつかの小さな建物の並ぶ通りに面した小さな教会。そこが住処だ。
「全ニィ、早く」
「おぅ」
護が入口にある観音開きの扉を開けて隙間から中へと滑り込む。全もそれに続いて中に入った。
一瞬の静寂の後、一斉にお帰りと声が上がると護が得意げに「ただいま」と返した。
狭いながらも嘗ては立派な教会であったことを思わせる装飾が柱や天井などのあちこちに残っている。だがその空間には信者の為の椅子などない。そして祈りを捧げるべき像もない。あるのは部屋の中央にあるテーブル。そしてそれを囲むように座っている子供達。
此処は教会ではない。
教会ではないから祈るべき対象も祈るべき場所も無く、パンとシチューの並ぶテーブルが在るだけだ。テーブルには球状のオーブが置かれ、その中を炎が走り室内を明るく照らしている。
オーブの向こうの人影が立ち上がる。二人には彼女の機嫌が悪いのが雰囲気で分かった。
束ねられ長く緩やかに波打った美しい金髪、緑色の瞳、雪のように白い肌、そして裾を切って膝丈にした修道着。一見シスターのように見えるが、腕を組む姿に纏う気配から敬謙な信仰心は感じられない。
「一体どこで道草をしていたのかしら?」
怒気を孕んだ涼風のような女の声に護が答える。
「あのね、東京、見てきたんだ」
いいなー、僕も見たいー、あたしもー、次々と子供達の声が上がる。
「おう、今度な」
全がニッと破顔する。
腰の辺りで束ねた金髪を揺らした舞は全を睨みつけた。
「今度な、じゃないわよ。またあそこに行ってたのね? あそこは”崩壊指定地区”でしょ。それに全は東京嫌いなんでしょうに、なんで連れて行くかなぁ」
「あのなぁ舞。俺だって見たかねぇけどよ、あそこで吸う仕事終わりの一服が美味いんだから仕方ねぇだろ。東京なんざ見えなけりゃもっといい場所だけどな」
「馬っ鹿みたい、未成年の癖に」
呆れたらしい舞はくるりと向きを変えて席に座った。
「そうだ舞、すっかり忘れてたが今日の特別ボーナスだ」
そう言って一枚のカードを舞に向かって飛ばした。舞はカードを受け取るとくるりと裏返した。
カードには細々とした文字が並び、一際大きく黄色い文字で6と書かれていた。
「え、6万円も? 助かるけど。そんなに多いの?」
その問いは額についてではない。
舞があまり心配そうにするので全は正直な感想を言うことにした。
「徐々に増えている気はする。しかもしぶとくなってやがるのも確かだな。このままだと今の規模での活動じゃ、ちょっと拙いかもなぁ」
「少し大きいのもいたもんね」
これまでよりも大きいサイズのものもいた。それだけ手強くもなる。
「二人とも気をつけてよね、怪我したら元も子もないのよ。それに怪我で済んでれば良いけれど」
舞が心配そうに掌を組む。
「平気平気、やばくなったら逃げるからよ。それよりも早く食べようぜ、さっきから雪月花が涎垂らしてっから」
テーブルの食事をじっと見つめて固まっている三人を見て全は笑った。
雪月花とは雪矢、月矢、花矢の3人を纏めて呼ぶ時の呼称である。
三人に親はいない。本当の兄弟でもない、そして姓も持たない。そもそも姓を持つことが出来るのは親から受け継ぐことが出来た者だけだ。雪月花は親から姓を受け継ぐことが出来なかった。
捨てられた子供達。
此処にいる者は皆、親の顔も知らず、名前さえも無く打ち捨てられた子供達である。
嘗てその子供達を受け入れたのがこの教会の神父だ。
今の世の中、子供だけで生きることは不可能である。だからこそ死んでいくだけの子供達を神父は見過ごせなかった。
神父は名をジェイコブといい、子供達からはジェイと呼ばれ愛されていた。
大柄で髭面の姿は神父というよりも古代北欧に居たというバイキングの方がよほどお似合いだったが、性格は温厚で笑顔の絶えない人物だったので近隣の評判も良かった。
彼は日本人でこそなかったが古の日本を愛してやまない気質を持っていた。だから子供達の名前は彼が好きな言葉を付けた。
目の眩んでしまった日本人よりも遥かに日本を愛し、そして子供達を同じように、否、それ以上に愛した人物だった。
そんな彼も二年前に亡くなった。
それからは全と舞が子供達の面倒を見ている。
舞、全、護、そして雪月花。
6人だけの家族だった。




