微笑み
「止まれっ! 止まらないと撃つぞ!」
後方からけたたましい叫び声と足音が聞こえる。強く握られた手から視線を移し呼吸を乱しながら必死に手を引き駆ける女の横顔を仰ぎ見る。
白衣を纏い、うしろ髪を束ねた女は一瞬だけ振り返る。再び正面へと向き直ると外部へと続く廊下を駆け進む。空間が開けると同時に強い風に髪が煽られ女は邪魔な自分の髪を幾度もかき上げ押さえながら東京の最外層部にあたる高層テラスに行き着いた。
「ここから飛ぶわ、捕まって」
そう言って自分に向かい両腕を広げた女に従ってその細い首にしがみつく、恥ずかしさはあったがそれを気にしている場合ではない。その首筋には黄緑色の紋章が輝いていた。テラスの外には遥か地平が見える。大地は遥か下方に霞み、普通であれば飛び降りた先には確実な死が待っている。だが、女に迷いはなかった。
「やめろ上原博士! おとなしくその子を渡しなさい」
距離を置いて取り囲んだ兵士達はそれぞれに抱える小銃の銃口を突きつけて女が動かぬように牽制する。
『ABS‐352』実弾とオーブによる属性弾を撃ち出せるように改良された軍の主力装備である。
女は己の生み出したものが自分に牙を向いていることに改めて業を感じている。
「お断りします。この子は渡しません。実験動物のようにされるのが分かっていて我が子を差し出す親が何処にいましょうか。一度は出来損ないと烙印を押し、今度はモルモット、そんなあなた方の都合でこの子の未来を汚される訳には参りません」
凛とした女の視線に兵士達は気圧される。女として、また母としての強さなのだろう。もしかしたら贖罪であったのかもしれない。
動揺する兵士たちの間から一人の若い女が現われる。女は一歩前に出た。
「上原博士、抵抗はおやめください、大人しくこちらへ。貴女の頭脳はこれからの日本に必要なのです。お気持ちは解りますが…」
「今のあなたには解りません」
ぴしゃりと言い放つ。
「貴女は私の気持ちが分かるといった。でも今のあなたには決して理解は出来ないでしょう。いつかその内に解るときが来るわ、それはまだ先のことね。あなたが人を愛し、その身に命を宿した時にはきっと。楽しみね」
微笑んだ上原の表情に若い女は表情を固め、その言葉に何も言い返せずに立ち尽くす。
「さぁ行きましょう。大丈夫、お母さんが一緒だから」
優しく微笑んでそっと抱きしめられたままふわりと跳躍すると母はテラスから身を投げた。
「逃がすな、撃て! 撃て!」
ヒステリックに叫ぶ兵士長の声を掻き消すように銃声が響き、テラスを乗り出した兵士の弾丸は落下する女を追う。
「まて、やめろっ…」
力ない女の声は誰にも届かなかった。
ぐんぐんと遠ざかるテラス、風を裂いて弾丸が通り過ぎる音が絶え間なく聞こえる。
流れる火炎弾や雷弾の閃光が母の向こう側で煌めくのが見えた。
短い呻き声が聞こえ衝撃と共に落下の速度が上がる。
母の顔を見上げると、困ったような笑顔で見つめ返してくるのが見えた。
「大丈夫、何があってもずっと一緒だからね。だからあなたはあなたらしく強くなるのよ。これからは大変だけど、でも平気よね? あなたは強いもの」
その言葉に無言で頷くと一際強い風が二人を包むように抱きとめる。
「偉いわね、大好きよ……全」




