5話 理想の結末を迎えたい(1)
窓辺に飾ってあった花がゆっくりと枯れていく。花びらには茶色が混じるようになり、茎も変色し始めていた。
アルテシアはそっと落ちた花弁を拾い、唇に押し当てた。少しずつ花が弱っていくのを見るたびに、もしかしてこの花をくれた張本人の命数も尽きていくのでは……と不安が掻き立てられる。本当はそんなことないだろうけど、彼の状況が分からない今、アルテシアはそれほどまでに不安だった。
花びらを唇から離すと、僅かに紅が移っていた。それが血を表しているように思え、アルテシアは優しく拭うと、傍に置いてあった純白のハンカチに挟んむ。そこには既にいくつかの花びらがあり、胸が切なくなった。
――もう、こんなに溜まってしまったわ。
――いったい、いつ帰ってくるのかしら?
アルテシアは窓辺から王都を見下ろす。一週間前に告げられたレーヴェン王国との戦争。オズワルドは自ら戦場へ向かったきり、戻って来ていない。アルテシアは未だ客人の扱いだから、戦況なんか伝えてもらえなくて……。
そっと、あの日、思いを伝えようとした日にもらった花に触れる。
公園でレオンがレーヴェン王国の侵攻を告げると、その場は一気に混乱に陥った。貴族たちは自らの領地のことを不安に思い、平民たちはせっかく少しは良くなった暮らしが崩れるのでは、と恐怖におののく。
そんな中、アルテシアは一人その情報を信じられずにいた。異母兄のフェルディナンドは聡明な人物だ。王妃に虐げられているアルテシアに対しても見下したりせず普通に接してくれたし、王太子という立場に甘んじることなく、成人になるとすぐ、政治に積極的に参入した。国王よりもよっぽど世情が読めていると各方面で評判高く、また、近年民の暮らしがどんどん貧しくなっていくのを憂いていたし、国のことを心の底から愛していた。
そんな彼が、いったい、どうして。戦争となると、隣国の民だけではなく自国の民も傷つく。それが分からないはずはないのに……。
そんな混乱するアルテシアをちらりと見ると、オズワルドはその場で「戦場へ向かう」と言った。そこで宣言したのには、民の不安を和らげるという目的があったのだろう。現にオズワルドの言葉に民は不安を完全に拭いきれはしないけれど、ほっと息をついた。
だけど、アルテシアは――。
(本当、ひどいものよ)
――行ってほしくなかった。戦場は危険だし、万が一を考えると胸が苦しくなる。
こう思うのは、愛する人が戦場へ行くという状況では普通なのかもしれない。だけどオズワルドは王で、彼の背には一国がそのまま乗っかっている。
「行かないで」なんて言ってはいけない。
はぁ、と大きなため息をついた。不安ばかりが大きくなって、今すぐにでも彼の元へ行きたくなる。だけど、行ったところでアルテシアは何もできない。ただの足でまといだ。
そう思って再度ため息をつこうとしたそのとき、部屋の扉が開かれる。そちらに視線を向けると、硬い面持ちをしたユイリアが入ってくるのが見えた。彼女は部屋の中に入って来ると、アルテシアの数歩手前で立ち止まり、尋ねる。
「――行かないのですか?」
「……だって、迷惑になるじゃない。そんなの嫌よ」
「……そうですか」とユイリアは呟くように言う。アルテシアはユイリアから視線を外すと、窓辺に置かれたハンカチをそっと撫でた。
沈黙が部屋を満たす。アルテシアはその間ずっとハンカチを撫でていた。安心するような、だけど切ないような、複雑な感情が湧き上がってきて、自分というものが分からなくなりそう。
そんなふうにアルテシアが思っていると、ユイリアが再度尋ねる。
「本当に、それでいいのですか? 何もしないこと、それが国のためになるのですか?」
ユイリアの言葉に、アルテシアは首を傾げる。少なくとも、アルテシアはそう思っていた。何かをしたら、きっと足でまといになって、迷惑をかけてしまう。だから今も感情を抑えてここにいて……。
――だけど、本当にそう?
湧き上がった疑念を、アルテシアは首を振って打ち消し、「ええ、そうよ」と言う。
すると、ユイリアは「違います」ときっぱり告げた。
「アルテシア様も本当は分かっておられるでしょう? あなた様はただ、逃げているだけです。昔からそう。アルテシア様は責任を持ち、誰かから責められることをひどく恐れておいででした。だから、今回も――」
「違うわ!」
ユイリアの言葉を遮り、アルテシアは悲鳴じみた声を上げる。――違う、そんなわけないわ。だって私は、民のことが本当に大切で……。
だけどユイリアは首を振る。
「いいえ、違いません。……確かに、アルテシア様は国のことを愛し、民のことを大事に思っておられるでしょう。けれど、やはり人は皆、どこかにいる見ず知らずの誰かよりも、身近な人の方が大切に思えてしまうのです」
そう言って、ユイリアは淡く笑みを浮かべ、諭すように言う。
「アルテシア様は、少ない人たちからめいっぱいの愛情を受けて育ちました。だからアルテシア様は、その少ない人から嫌われるのをひどく恐れていたのでしょう? ……だけど、ご安心ください。私はアルテシア様が民のために何かをなさろうとして、それが失敗しても、決してあなた様のことを嫌いになったりしません。……きっと、シュミル国王陛下も」
言いながら、ユイリアはアルテシアまでの数歩の距離を詰めると、彼女を優しく抱きしめる。その暖かな感触に、アルテシアの視界に映る扉が滲んだ。
声が震えないように気を遣って、アルテシアは声帯を震わせる。
「……本当に?」
「はい。アルテシア様も私や陛下が失敗をしたとしても、嫌いになどなったりしませんでしょう? ……愛とは、そういうものなのです」
ユイリアの言葉に、胸がいっぱいになる。このまま泣きわめきたくなる気持ちを抑えこみ、アルテシアは目尻に浮かんだ涙を拭うと、きっぱりと告げた。
「ありがとう、ユイリア。……今すぐ戦場へ向かう用意をして。あと侍従殿は城に残っていたわよね? 色々と訊いてきてほしいんだけど……」
「それは大丈夫です。既に書類を受け取っております。準備をしている間に目を通してください」
そう言って書類を渡される。視線を落とすと、そこには今の戦況、戦場までのルート、レーヴェン王国軍の兵の数などが記されていた。アルテシアは思わず顔を顰める。……レーヴェン王国の方が被害が大きい。何を考えているのかしら、王太子は。
「……分かったわ。じゃあ、よろしく」
「はい」
ユイリアが頷くのを確認すると、アルテシアは窓際で書類をじっくりと読み始めた。今このときにでも人々が傷ついているのだと思うと、もどかしくてたまらなかった。