03. 最後の登校日
5月18日、午前6時30分。
晴れ渡る東京の空は、ここ数日と変わらず、穏やかだった。
しかし、街の音はどこか違っていた。
朝の通勤ラッシュはほぼなくなり、子どもたちの声が聞こえない。
さらに、上空に浮かぶ銀色の飛行物体が、非日常感を強めていた。
タワーマンションのリビングで、篤志は朝ごはんを食べながら、ソファに置かれたランドセルを見つめていた。
昨夜、篤志が通う学校からメール連絡がきた。
児童の安全のため、今日の登校を最後に、公立校は休校になるとのことだった。
「なんか……卒業式みたいだな」
「ほんとにねぇ」
キッチンで陽子がコーヒーをすすりながら答えた。
「ちゃんとした式の予定はないけど、担任の先生とは会えるでしょ。ちゃんとお礼言ってきなさいよ」
「うん……」
「拓実くんも来るって?」
「たぶん。昨日LINEきたけど、両親が移住希望出したって」
「そう……拓実くんと、会えるのも最後かもしれないね」
「……うん」
篤志は、ランドセルのサイドポケットにメモを入れた。
長野の住所と「生きて、また会おうな」と書かれた、小さな手書きの紙。
⸻
8時15分。小学校の正門前。
他の国に比べればマシだが、ベッドタウンのこの街でも、強盗や引ったくりが頻発しているらしい。
そんな治安の悪くなった東京を早々に離れ高地に移住したのか、登校してくる児童たちの数は、普段の半分ほどだった。
その顔ぶれも、どこか妙に“静か”で、“よそよそしい”。
「おい、篤志!」
声をかけてきたのは拓実だった。
ランドセルを背負い、髪が少し伸びていて、大食いのくせにガリガリの、いつもの拓実が笑っていた。
「来たな!」
「来たよ……最後の登校日だもんな」
二人は軽くハイタッチした。
けれど、どこかぎこちない。
互いに言いたいことがありすぎて、言えなかった。
「なんか、変な感じだな」
「うん。みんな……ピリついてるっていうか」
教室に入ると、さらにその緊迫感が増していた。
―――――
「……あんたさ、どうせ行くんでしょ。エリオス」
「うん、たぶん家族で。移住希望出したし」
「はぁ?いいよね、“選ばれし者”ってやつ?」
皮肉交じりの声が飛び交っていた。
移住が“勝ち組”で、残るのが“取り残された側”――そんな構図が、すでにクラスにも浸透し始めていた。
「なんだよ。俺だってまだ選ばれたわけじゃないよ。ただ希望出しただけで……」
「希望出せるだけいいじゃん。うちの親、40歳以上だから無理だし。俺も残るしかないんだよね」
「……」
拓実は言葉を飲み込んだ。
篤志も、何も言えなかった。
―――――
その時、担任の先生――丸山先生が入ってきた。
若い女性教師で、いつも明るい笑顔が印象的だったが、今日は少し違っていた。
「みんな、席についてください」
全員が座る。教室に、静寂が訪れた。
「今日は“特別登校日”です。授業はありません。
でも……私は、どうしてもみんなに会いたくて、ここに来ました」
先生の声が少し震えた。
「このクラスで過ごした時間は、私にとって宝物でした。
みんなは……本当に素晴らしい子たちで、誇りに思っています」
誰かが、すすり泣いた。
「これから、みんな別々の道に進むことになるかもしれません。
地球に残る人、エリオスに行く人……どちらが正しいとか、正解とか、そんなの誰にも分かりません
でもね、一つだけ確かなことがあります。
――“今を生きているあなたたち”が、未来を作っていくってことです」
半分ほどは空席だったが、教室に集まった生徒たちは、涙を浮かべながらも、先生を見つめる目には、少しの光が見えた気がした。
「最後に、一つだけお願いがあります」
先生は、後ろのロッカーからクラスの寄せ書き帳を取り出した。
「もしよかったら、このノートにメッセージを書いてください。
名前を書かなくてもいいです。
エリオスに行く子にも、残る子にも……未来の自分へのメッセージでも構いません」
拓実が、静かに手を挙げた。
「先生、このノート……俺、持っていっていいですか?エリオスに」
先生は、驚いたように微笑んだ。
「……もちろん。ありがとう、拓実くん」
―――――
帰り道、篤志と拓実は並んで歩いた。
「お前、英語得意?」
「……うーん、まあまあ」
「エリオスの学校、英語なんだってさ。
先生もAIロボットなんだって」
「へぇ、かっこいいじゃん。
次、会う時には英語ペラペラじゃん。
でも、さみしくなるな」
篤志は言った。
「俺さ、向こうに行くことになっても、お前の動画とか、見るからな。
長野から自給自足生活レポートとか、してくれよ」
「……やってみる。あと、これ長野の住所。」
「おう、親友!絶対、連絡とろうな。地球とエリオスで。
そんで、いつか会えるよな……だから、生き残れよ!」
篤志は、小さく頷いた。
それが、二人の“卒業式”だった。
拓実とゲームの話しかしなかった自分が、「親友」と呼ばれて涙ぐんでいる。
「隕石の衝突」
現実感のなかった篤志だったが、少しだけ怖くなくなった。
東京湾岸の空には、低い雲が垂れ込めていた。
そしてその夜、篤志の元に、静かにエリオス移住の2回目の意思確認メッセージが届いた。
《エリオス計画 移住希望の有無を回答してください。》
《あなたの未来は、あなたの選択から始まります。》
親の知らないところで、少年は一つ深く息を吐いた。
指が、画面の「YES」と「NO」の間で、かすかに震えていた。