23. 衝突当日 ~地球の終わり~(前編)
朝、村を包む空は、異様なほど澄み渡っていた。
雲ひとつない青空に、遠くの山並みまでくっきりと見える。まるで、最後の晴れ舞台を整えるかのような空気だった。
「今日は、本当に来るんだな……」
誰かが呟いたその言葉は、風に乗ってすぐに掻き消えた。
朝6時、篤志はいつもより早く起きた。
昨夜は家族三人で布団を並べて寝た。
お父さんとお母さんが両側にいて、真ん中に自分がいて。幼かった頃に戻ったみたいな安心感があった。
「おはよう、早いね」
陽子が炊事場で最後の朝食を仕上げていた。
今朝は温かい味噌汁に、昨日のうちに蒸しておいた里芋、そしておにぎり。
「穏やかに食事ができるのも、これが最後かもね」と笑う陽子に、篤志はうなずき返すしかなかった。
朝食を終えた後、村では手分けして、最終確認を行った。
医師の西野は薬や衛生用品をひと箱ずつ並べて点検し、大工の石田は防空壕の出入口を補強して、風圧対策の最終処置をしていた。
篤志たち子ども組は、朝から牛舎、鶏小屋、ヤギ小屋を順に回っていた。
普段より少し多めの餌を与え、水もたっぷりと用意する。動物たちは不安を感じているのか、いつもより大人しかった。
やがて、貯蔵施設へと彼らを移す時が来た。
「生き物たちも、いっしょにこの山を越えなきゃならない」
悠馬がぽつりとつぶやいたその横顔は、どこか大人びて見えた。
篤志は、特に気にかけてきたヤギたちの首を一頭ずつやさしくなでながら、「大丈夫だからな」「また外に出られるから」と声をかけていく。
この静かな励ましが、篤志自身への言葉にもなっていた。闇の中へ続く地下道に、家族の一員のような動物たちがゆっくりと歩みを進めていくその背中に、皆の視線が自然と集まった。
―――――
午前11時、村の広場に鐘の音が響いた。
「全員、防空壕へ移動を開始してください」
村長の拡声器の声が、静かな山間に吸い込まれていく。
それは、いつかドラマで見たような、訓練のような、けれど一度きりの現実だった。
村人たちは三々五々、荷物を抱え、静かに防空壕へと向かい始めた。
大人20人、子供8人。
年齢も職業も違う人々が、今では一つの「家族」だった。
防空壕の内部は、石田たちの手で見違えるように改修されていた。
床には断熱材を敷き、その上に畳が並べられている。
壁際には収納棚や簡易照明もあり、真ん中には土間のような空間が設けられ、炊き出しもできるようになっていた。
長く過ごすことを想定し、仮設のトイレや洗面スペースも用意されている。
「ずいぶん住みやすくなったねぇ」
高齢の女性が、ほっとしたように畳の上に腰を下ろす。
篤志は、悠馬と一緒に、子どもたちが寝泊まりするエリアの整理をしていた。
「ここがオレたちの拠点になるんだな」
「うん。少しの間だけどな」
午後12時半、全員の確認が完了した。
戸締まりをした家々が、どこか寂しげに見える。
けれど、皆に後ろ髪を引かせる時間はない。
もう、空が青いのも、あと数時間だけだ。
入口の扉がゆっくりと閉じられ、重い閂が打たれた。
「さあ、こっからは籠城戦だぞー!」
誰かの声が、ちょっとだけ場を和ませた。
重苦しい緊張感の中、それでも人々は笑顔を忘れなかった。
何があっても、生き延びよう。
そう、互いの目が語っていた。
そして、午後17時43分――
その瞬間が、確実に、近づいていた。
―――――
午後五時を回った頃、防空壕の中は静まり返っていた。
誰もが息を殺し、時計の針が43分を指すその瞬間を待っていた。
全員が耳を澄まし、ただただ「その時」を待っている。
17時40分。
地下の空気が張り詰め、誰かの飲み込む唾の音さえ大きく響く。
17時43分――
その瞬間、防空壕の奥深くにまで、地の底から這い上がってくるような重く不気味な地鳴りが響いた。
「――っ!」
誰かが息を呑む。天井の蛍光灯が一瞬、明滅する。
そして次の瞬間、
まるで地球そのものが悲鳴を上げるかのような、凄まじい衝撃が襲いかかった。
「ドォォォォォン!!」
地鳴りとともに、爆風が遠くの山を駆け抜け、空気そのものを震わせる。
床が跳ね上がるように揺れ、分厚いコンクリートの壁が低くうなりを上げる。
扉の蝶番が軋み、備蓄の缶詰が棚から転げ落ちた。
「お母さんっ!」
「大丈夫、大丈夫よ――」
篤志は母・陽子の腕にしがみつき、子どもたちは皆、泣きながら親にしがみついた。
次いで襲ったのは、竜巻のような風のうなり。
外では何かが次々と吹き飛ばされていく音がし、遠くで木がなぎ倒される轟音、どこかのトタン屋根がひしゃげて巻き上がる甲高い音、建物の骨組みが砕けるような音。
「……爆風か。津波はまだ先だ……」
石田が小声でつぶやきながら、ぴくりとも動かず耳を澄ませている。
地鳴り、地震、暴風。
それらが波のように断続的にやってくる。
止んだかと思えば、ふたたび強さを増して襲いかかる。
大地が軋み、空が裂け、世界そのものが砕けていくような感覚――。
それは、時間の感覚を麻痺させるほどに長く続いた。
「……怖いよぉ……」
小さな子どもが、しゃくりあげながら母の胸に顔をうずめる。
どの親も、震えるわが子を抱きしめたまま、じっと耐えていた。
狭い空間の中、うずくまるようにして眠る子どもたちが一人、また一人と増えていく。
あまりに長く続いた緊張に、幼い身体はついに耐えきれなくなったのだ。
やがて、大人たちの中にも、壁に寄りかかってうつらうつらと目を閉じる者が現れはじめた。
それでも、雅彦と石田、そして数人の男たちは、防空壕の隅に座り、外の音に耳を研ぎ澄ませ続けていた。
「……音の間隔が、少し開いてきた気がするな」
「まだ油断できねぇ。
あの山の向こうから津波が来るとしたら――」
彼らの目は冴えたまま、ただ一点、暗がりを見つめていた。
手元の懐中電灯を時折チェックしながら、口数もなく、じっと身を固めている。
一方で、親の膝枕で眠る子、毛布にくるまりながら妹を抱く兄、無意識に誰かの手を握りしめたまま眠る子――
眠る子どもたちの顔には、恐怖を乗り越えた安堵と、深い疲労が滲んでいた。
何時間が過ぎたのか。
夜は深く、そして異様なまでに静かだった。
だが、地表の上で何が起きているのかは誰にもわからない。
この防空壕が、世界との唯一の隔絶であることを、誰もが理解していた。
静けさは、終わりではない。
それは、新たな地球の“始まり”の静寂かもしれなかった――。
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