22. 衝突前日 ~夜を越えて~
朝にかかっていた深い霧はすっかり晴れ、空はどこまでも青く、あまりにも穏やかすぎて、明日、この世界が姿を変えるとはとても思えなかった。
「……ああ、静かだな」
雅彦が見上げた空は、まるでいつも通りの9月の青だった。
しかし、村では最後の準備が着々と進んでいた。
地表に近い空気が乱れれば、爆風、放射性物質、未知の有害粒子――何が起きても不思議ではない。
だから、篤志たちが暮らすこの山間の村でも、防空壕にこもるための“二泊三日”の避難計画が発動されていた。
「はい、これで水は全部運び終わりね」
陽子が息を整えながら、最後のポリタンクを倉庫から引っ張り出してきた。
「よし、持つよ」
悠馬と篤志が声をかけて、それを両脇から抱え上げる。二人は、村の奥に新しく作られた地下貯蔵庫へと運んでいった。
ここは、村の有志が総出で作り上げた、避難施設とは別の貯蔵施設だ。
山肌に開いた旧防空壕を補強し、出入口をコンクリートで固め、内部には棚や通気管、排水路まで設けられている。
津波は標高的に免れるだろうが、問題は衝突後に吹き荒れるであろう爆風だった。
あらゆるものを巻き上げるであろうその暴風を前にして、地上にあるものは何一つ保証できない。
だからこそ、この地下空間にすべてを託すのだ。
女性たちがこの1ヶ月で作り溜めてきた保存食や飲料水も、慎重に運び入れられていた。
塩蔵した野菜、乾燥肉、焼き米、蜜で煮た豆――手間暇かけた食料が、いくつものコンテナに収められている。
さらに、その貯蔵施設の奥には、家畜用のスペースも区切られて設けられた。牛やヤギやニワトリのために、わずかでも新鮮な空気が循環するよう換気口を工夫し、3日間しのげるだけの水と餌を備蓄した。
「動物は人間以上にストレスに弱いからな」と話していたのは、医師の西野だ。
彼の助言で、感染症やアレルギーのリスクを抑えるためにも、人と家畜の空間はしっかりと分ける必要があった。
「なんとか……、生き延びてくれ」
そう願いながら、篤志は最後の水のタンクをヤギ小屋の奥に押し込んだ。地上の光も風も届かない地下の空間。
けれど、そこに詰め込まれたのは“希望”だった。
そして、村のルールとして、各家庭が段ボール箱ひとつ分だけ、大切な“何か”を持ち込めることになっていた。
中にはアルバムを詰めた家族、仏壇の位牌を新聞紙に包んで入れた老夫婦もいた。
ある家では、亡き父が愛用していた万年筆を入れ、また別の家では、折り紙で作った子どもの作品が大切にしまわれていた。
それは、命とは関係のない、けれど心の支えになる“記憶”だった。
篤志も、古い図鑑と、最後の登校日に預かった寄せ書きだけ入れた。
みんなの想いが書かれたノートの表紙には、しっかりした筆圧で“夢”という文字があった。
それらが、また日の光を浴びる日が来ると信じて――。
―――――
少なくとも、二泊三日を過ごす古い防空壕の通気口には、新たにフィルターが取り付けられ、換気扇には手回し発電が備えられた。
大工の石田が壁や天井を補強し、排水用の溝まで掘ったのだ。
「人間が3日こもっても、ちゃんと息できるか?」
頑固な木下のじいさんが鼻を鳴らすと、石田がすぐに応じる。
「何度も試したさ。換気は問題なし。空気は入れ替わってる。念のためCO₂モニターも付けたよ」
「ふん、抜かりはねぇってわけか。頼もしいな」
村の女性たちは、梅干しや味噌、干し芋、米粉パンや乾燥野菜を詰めた保存食を、黙々と仕分けしている。
手作業で缶詰にした鹿肉のコンフィや、ヤギ乳で作ったチーズまで並んでいる。
「おにぎりは腐るから持ち込めないよー。こっちは焼き米ね!」
声の大きな山田さんが、せっせと紙に注意書きを貼っていく。
「みんな、持ち場の確認ね!」
西野医師の奥さんが、衛生用品や薬品の最終チェックをしていた。
「特に下痢止めと解熱剤。あとは喉用のトローチ!水が限られてるから衛生には気をつけて!」
篤志は、悠馬と他の子どもたちと一緒に、ろうそくや非常用ランタンの準備をしていた。
「この火はね、三日間大事に使うんだ。光は命だからな」
悠馬の真剣な言葉に、下級生たちも静かにうなずいていた。
―――――
18時、首相からの最後の言葉が配信される。
国民の皆さんへ。
私たちは今、かつてない困難のただ中にいます。
地球に接近する巨大隕石は、もはや避けることができません。
明日、夕刻にかけての衝突は、確実に私たちの生活に大きな影響を及ぼすことでしょう。
しかし、皆さん。
まず最初に、どうか誇りを持ってください。
全国各地で進められてきた避難作業は、今夜をもって、すべて完了しました。
山間部や高台、地下施設など、安全とされる地域へ、皆さん一人ひとりが冷静な判断と協力のもと、移動を終えています。
大きな混乱や暴動もなく、秩序ある避難が成し遂げられた。
これは、誰の命令でも、システムの成果でもなく、日本に暮らす皆さん自身の力です。
私は、深い敬意と感謝の気持ちを込めて、ここに心からの「ありがとう」を申し上げます。
そして、どうか聞いてください。
この先、数時間のうちに、通信は一時的に断たれるでしょう。
しかし政府は、富士山五合目に設置された中枢拠点を中心に、できる限り早期の情報収集と通信回線の確保に努めます。
その後、上空からの偵察や通信衛星を通じて、各地の被害状況を把握し、必要な地域に、物資、医薬品、人員を届けます。
生き抜いたすべての人々に、国として責任をもって支援を届けます。
だから、どうか――
生き抜いてください。
今日という日を、明日という日へつなげてください。
それが、未来に生きる私たちの子や孫、そして地球そのものへの最大の貢献です。
この国には、あなたが必要です。
どんなに暗い夜であっても、夜明けは必ず来ます。
どうか、どうか、生きて、また会いましょう。
日本のために。地球のために。
日本国総理大臣 小池宗一郎
―――――
夜になった。
家に戻った家族たちは、薄暗いランプの下で自宅で食べる最後の夕食を囲んでいた。
「お母さん、これ何のスープ?」
「鶏と野菜の干し物。明日からは洞窟生活だもん、好きなもの食べておこうと思って」
食卓の上には、いつもより品数が多く、手間暇かけた料理が並んでいた。
篤志は、静かに箸を動かしていた。
こんなふうに食卓を囲むのも、しばらくはできないかもしれない。
いや、明日が来るかさえ――誰にも分からない。
「お父さん、隕石って、どれくらいの衝撃なの?」
「そうだな……理論上は、広島型原爆の数百万倍と言われてる。
でも、それが海に落ちた時、どれくらいの範囲が影響を受けるかは正確には分からない。
計算できても、実際に起きたことはないからね」
「でも、僕たちは生き残れる?」
「――生き残るさ。準備は万端にしてきた。あとは、気持ちだ」
そう言って、雅彦は、篤志の肩を優しく叩いた。
外には満天の星が広がっていた。
窓の外から見える夜空には、数え切れない星々が、静かに瞬いていた。
「明日は、空……見えるのかな」
陽子のつぶやきに、誰も答えなかった。
夜半を過ぎても、村の灯りはぽつりぽつりと灯っていた。
皆、それぞれの思いを胸に、最後の夜を過ごしていた。
言葉を交わさなくても、心には同じ思いが灯っていた。
“生きて、また、笑おう。”
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