第8話 ベルギス②
谷筋に沿って東へ進むと、地面の揺れ方が明らかに変わった。
先ほどの丘狼のような軽快で速い振動ではない。腹の底を直接揺さぶるような、低く重い押し込み――まるで地面全体が巨大な力で圧迫されているような、重厚な地響きだ。
乾いた土の上に、巨大な丸い影が落ちては消え、また落ちる。
「ドォォォン、ドォォォン」と、大気を震わせる蹄の音が急速に近づいてくる。
「今度は……」
「丘猪だな。しかも、かなり立派な群れだ」
ベルギスが目を細め、静かに重心を落とした。
現れたのは、巨岩が意志を持って走り出したかのような『丘猪』の群れだった。赤黒い剛毛に覆われた筋肉の塊。中でも一際巨大な個体が先頭を切り、巨木のように太く歪な牙を剥き出しにしている。
おそらく群れのボスだろう。全身に数多の死線を越えてきた傷跡が刻まれ、潰れた右目がその獰猛さを際立たせていた。
二人の姿を捉えた刹那、ボス個体は咆哮とともに、凄まじい勢いで突進を開始した。
「正面から、最短距離で来たか」
ベルギスの声音は、嵐を前にした凪のように静かだ。
「先頭のアイツがボスだね。突進力が半端じゃないね……まともに受けちゃダメだよ」
リュネルは地面の傾斜と、猪が加速する物理的なベクトルを一瞬で算出した。
丘の上からの突進は、純粋な質量に位置エネルギーが加算された“最悪の条件”だ。
「リュネル。少しでいい、アイツの動きを鈍らせてくれ。後は俺が躾をする」
「任せて」
リュネルは背丈ほどの杖を取り出して、地面へと突き立てた。
「――《メタモルフォ/フルクサ(性質変化/流体化)》!」
先頭の丘猪が突っ込んでくる直線上、乾いた土が瞬時にして底なしの粘着質な泥へと変貌した。
猛スピードで突っ込んできた丘猪の蹄がそこへ沈み、泥が盛大に爆ぜる。
通常なら、それだけで足首を折るか、致命的に減速するはずだった。
「……っ、速い……!」
リュネルは、わずかに息を呑む。
ボス個体は、前脚が泥に捕らわれた瞬間、巨躯をしなやかに捻った。あえて泥の中で身を躍らせ、泥を掴まぬ後脚で強引に地を蹴り直したのだ。
突進の勢いは半分ほど削がれたものの、それでも、人間ひとりを肉塊に変えるには十分すぎる破壊力を残して突き進んでくる。
ベルギスは、その突進をあえて一歩遅らせて左へと回避した。
猪の潰れた右目の死角、刹那の空白へと消える。
獲物を見失った猪の左目がぎょろりと動き、尾が激しく振れた。焦燥に駆られ、太い首を巡らせたその瞬間――。
ベルギスの足刀が、重力と自身の体重を全て乗せて、猪の首の付け根へと叩き込まれた。
――ズドォン!!
鈍い衝撃音が谷に響き渡る。
骨までは砕いていない。だが、頸椎を支える中枢神経を正確に遮断した「神速の一撃」。
山のような巨体が、その場でガクリと膝を折り、惰性のまま谷底へと土煙を上げて滑り落ちていった。
しかし、ボスが倒れても後続の勢いは死なない。
正面から2頭目、左側から3頭目、さらには右の斜面から、地滑りを起こしながらもう1頭。
包囲を完成させるように、ほぼ同時に肉薄してくる。
「――《トルポリス(奇しの律)》」
リュネルは素早く印を結び、宙に脈動する小さな光のオーブを浮かべた。
オーブからは、肉眼では捉えきれない高周波のリズムが周囲へと放射される。
丘猪たちがその魔導波を視神経と三半規管で受け取った瞬間――。
世界から、均整の取れたリズムが消失した。
前脚と後脚の振り出しがわずかにズレ、呼吸と心拍のタイミングが噛み合わなくなる。
それは熟練した武人にとっては一瞬の違和感に過ぎないが、反射で動く獣にとっては「地面が歪んで見える」ほどの致命的な呪いだろう。
ベルギスは、その“崩れたリズム”を逃さず、隙間を縫うように打つ。
2頭目の突進を、柳のように身体を捻って外へいなし、剣の樋で側頭部を打つ。
骨の軋む感触。鼻と口から鮮血を吹き出しながら、丘猪が横倒しに崩れる。
3頭目は、リズムの狂いから勢い余って腹側を晒してしまった。
そこへ、ベルギスの鋭い膝蹴りが深くめり込む。肋骨の隙間を縫って衝撃が内臓まで滑り込み、絶叫に近い悲鳴を上げて3頭目が沈む。
4頭目は、強引に方向を変えようと踏ん張り直したが――リュネルの魔法が作り出す“偽りの拍”に惑わされた脚は、必要な地点へは届かない。
ベルギスの拳ががら空きの横面に炸裂した。
谷底へと、重い肉の塊がごろごろと転がり落ちていく。
猪たちの猛攻は、潮が引くように切れていった。
最後尾にいたまだ若い個体は、冷徹なまでに無駄のないベルギスの視線を浴びて震え、耳をペタリと寝かせた。
ボスの無惨な姿と、一瞬で無力化された仲間たちを見て、群れの統率は完全に崩壊した。
丘の向こうへと、散り散りに逃げ去っていく猪たちの背中を、リュネルは静かに見送った。
張り詰めていた大気が緩み、乾いた草と、遠くで咲く名もなき花の薄い香りが戻ってくる。
ベルギスは静かに息を整え、額の汗を手で拭った。
呼吸はわずかに乱れているが、その瞳は依然として鋭く冴え渡っている。
リュネルは腰袋から清潔な手布を取り出し、魔法でぬるま湯ほどに温めてから彼に差し出した。
「……ごめん。僕の見立てが甘かったよ。これほど好戦的な魔獣が密集しているとは。……君に、本気で剣を握らせてしまった」
ベルギスは首を横に振り、手布を受け取った。
そして、ふっと笑った。それは、いつもの無愛想な彼からは想像もつかないほど、穏やかで確かな笑みだった。
「リュネル――これは“戦争”じゃない」
噛み締めるような、低い声だった。
「俺は、好きでお前のために剣を取ったんだ。誰かを……居場所を守るためなら、何度だって戦うさ。俺にとっては、畑の石をどけるのも、厄介な根っこを切るのも、そう変わりはしない。やるべきことを、やるだけだ」
リュネルの胸に、じんわりと熱いものが落ちた。
言葉は少しだけ遅れて、けれど真っ直ぐに口をついた。
「……ありがとう。やっぱり僕は、君に守られてばかりだね」
「守られてるのは、俺の方だ」
ベルギスは、どこまでも深い藍色の空を一度だけ見上げた。
「お前に、この“居場所”を守ってもらってる」
ふいに視線が重なり――二人は気恥ずかしさを隠すように、同時に目を逸らした。
丘を吹き抜ける風が、気まずさと、少しのくすぐったさを攫っていった。
目的の鉱脈は、丘の稜線に沿って東へ薄く、しかし確実に伸びていた。
リュネルは魔導撮影機を取り出すと、露出した地層の状態を複数の角度から丹念に記録していく。
成長線、亀裂の入り方、岩との境目――それは、後で資料として整理するための“大地のカルテ”だ。
採取するのは、ごく一部。
状態の良い結晶を最小限だけ割り取り、残りは“これからの成長”を促すための保全印を刻んでおく。
「石は逃げないからね。正しく向き合えば、この土地の数万年の物語を教えてくれるんだ」
「随分と詩的な物言いをするじゃないか」
ベルギスが茶化すように言うと、リュネルは微笑んでから、すぐに専門家としてのスイッチを入れた。
「……鉱石とは、地殻変動と環境条件が圧縮された記録媒体なんだ。生成過程における温度、圧力、化学組成の差異が、結晶構造や層理として厳密に保存されている。混入元素の比率や歪みの方向。それらは偶然ではなく、生成環境の数値化なんだ。まさしくこの土地の過去の物理状態を逆算できるんだ。つまりこれは――」
「……はいはい。わかった、わかったよ。情緒は大事だよな」
ベルギスは肩をすくめる。
リュネルはいたずらっぽく笑うと、採取したばかりの藍晶を太陽の光にかざした。藍色が透き通り、内部のクラックが虹色を屈折させて輝く。
「ほら。情緒的に言うと……すごく綺麗でしょ?」
「……それは、否定しないな」
ベルギスは少し呆れ顔をしながらも、楽しそうに瞳を輝かせるリュネルを横目で見守っていた。
(……今のお前は、すごく楽しそうだ)
その後もしばらく、リュネルの“鉱脈観察タイム”は続いた。
観察に夢中になるあまり、足元の石に躓いてよろけたり、小さな穴に足を突っ込んで情けなく尻餅をついたり、あわや魔獣の古い巣穴に突っ込みかけたりしたのは、言うまでもない。
「いったた……」
「気をつけろと言っただろう」
「いや、今学びが……」
「穴に落ちる学びは、ほどほどにしておけ」
ベルギスは、リュネルの失敗をすべて止めるわけではなかった。
本当に危険な時だけ短く声をかけ、それ以外の小さな失敗は「良い教訓だ」とばかりに黙って見守っている。
いつも表情の変化に乏しい彼にしては珍しく、口元が微かに緩んでいる時間が、今日はいつもより長かった。
そのことにリュネルが気づいたかどうかは――後に、全く別の形の“仕返し”として返ってくるのだが、それはまた先の話である。
日が傾き、空が茜色に染まり始める前に、二人は探索区を後にした。
ポータルを通じて街へ戻り、石畳の確かな感触が足裏に戻ってくると、リュネルの肩からふっと力が抜けた。
ベルギスは相変わらず周囲を警戒しつつも、その歩調を優しくリュネルに合わせていた。
日暮れ時のアルカナ堂。
扉の鈴が鳴るや否や、真っ先に飛びついてきたのはルーガルだった。
鼻先で二人の膝を順番に押し、外傷や不浄な魔力がないかを確認。異常なしと判断すると、安心したように大きなあくびを一つ。
「お帰りなさい。――すぐに手洗いとうがい、そして着替えを済ませてくださいね」
リラの“いつもの言葉”が、これほどまでに安らぎを与えるものだとは。
ベルギスが「はいはい」と裏手の洗面所へ消えていき、リュネルは収穫物をカウンターに置いた。
藍晶の欠片を見せると、リラの瞳がキラキラと丸くなる。
「……綺麗。店頭に出すのが勿体ないくらいですね」
「今回は標本棚に飾っておくよ。すぐには売り物にはしない。こういう“魅せる石”は、お客さんの目を育てる素材になるんだ」
「なるほど……。目が肥えれば、本当に良いものを見分けられるようになりますものね」
リラは納得したように頷き、柔らかく笑った。
「リュネルさんも、ベルギスさんも、本当にお疲れ様でした。お二人が無事に、五体満足で帰ってきてくださるのが、私にとっては何よりの収穫です」
そう言い残し、リラは夕食の準備のために奥へと向かった。
手洗い、うがい、消毒を済ませた二人がダイニングへ向かうと、ちょうどリラが湯気の立つ鍋を運んできたところだった。
今夜のメニューは――。
「白粥です。塩と生姜、それから少しの発酵素材を効かせてあります」
ふわりと立ち上る、滋味深い香り。
そこへ、寝室からふらふらと幽霊のようにソランが現れた。顔色は、朝よりは幾分マシになっている。
彼は粥の香りを嗅いだ瞬間、感極まったように涙目になった。
「それ……俺の……?」
「そうです。ソランさんのための、特別食ですよ」
リラがきっぱりと言う。ソランは震える手で椀を受け取った。
「ああ……やさしい、味がするやつ……」
「“無難”な味です」
リラが即座に訂正し、リュネルとベルギスが思わず吹き出した。
ソランは「無難でもいい、沁みる……」と呟きながら、慎重に、一口ずつ粥を味わっていた。
皆で囲む食卓。
他愛もない話をしながら、今日あった出来事を少しずつ共有していく。
戦いの話は、リラや病み上がりのソランを心配させない程度に伏せつつ。
代わりに、リュネルが派手に尻餅をついた場面が、ベルギスによって少々盛られて語られた。
「先生! そんな巨大な穴に落ちかけたんかよ!」
「いや、違うよ。厳密には“大穴”ではなく“局所的な地盤沈下による窪み”だよ。定義の問題だ」
「どっちにしたって危ねぇだろ!」
「というかソラン。ずいぶん元気そうだね?」
笑い声が弾け、ルーガルが心地よさそうに尻尾を振る。
今日も世界は忙しく、そしてこの上なく平穏だった。
夕食後、リュネルは一人帳場に座り、今日の記録を日誌へと綴った。
【調査日誌:カヴァ丘陵・東の緑地】
状況:マナ密度の上昇を確認。ダンジョン化の警戒度は現状「低」。
遭遇:丘狼群、丘猪群。ボス個体の知能向上を確認。要警戒。
採取:藍晶(特級)。残存鉱脈に保全印設置済み。
備考:ベルギスによる近接制圧。対群れにおいて極めて有効。
追記:ベルギスの膝当てに劣化。
要:高耐久素材での補強。
ペンを置き、インクを乾かすために帳面を広げたままにする。
ふと顔を上げると、ベルギスが入口の戸締りを確認しているところだった。夕暮れの涼やかな風が店内を通り抜け、鈴をチリンと優しく鳴らす。
「ベルギス」
「どうした?」
「今日は――本当にありがとう。……それから」
少し言い淀んでから、リュネルは続けた。
ベルギスは急かすことなく、静かに待っている。
「僕は……君の戦い方が好きだ。無駄がなくて、綺麗で、そして絶対に誰も置いていかない。君はそう思ってないのかもしれないけれど、その剣は僕の誇りだよ」
ベルギスは、少しだけ目を見開いた。
表情を大きく崩すことはなかったが、代わりに頬をポリポリと指で掻く。それは、彼の隠しきれない“照れ”の癖だった。
「……お前は、時々ずるい言い方をするな」
「ずるい?」
リュネルが首をかしげる。
「あぁ」
ベルギスは腕を組み、カウンターに背を預けた。視線の先には、闇が降り始めた街の風景がある。
「お前は周りをよく見ているし、よく気がつく。……なのに、自分のことになると後回し。それですぐに無茶をする」
ベルギスは横目でリュネルをチラリと見る。
「そんなつもりはなかったんだけどなぁ」
リュネルはバツの悪そうな顔で、自分の頬をかいた。
「そんな放っておけないお前を支えるために……みんな、ここに居るんだろうな」
ベルギスの言葉は淡々としているが、そこには羨望とも諦めとも違う、柔らかなものが混じっていた。
「でも、これだけは言わせて。みんなは、僕にとってかけがえのない『家族』なんだ。だから、無茶だけはしないでね」
「……お互い様だ」
静かな沈黙。
それは重苦しいものではなく、綿飴のような、やさしい重みを持っていた。
帳場の陰でルーガルが大きなあくびをし、「わう」と短く同意するように鳴く。
台所からはリラが食器を片付ける清潔な音が響き、寝室からはソランの「最高のお粥だった……」という寝言が聞こえてきた。
絆は、夜空に輝く星のように静かに、しかし確かにその光を強めていく。
明日の営みを支える、目には見えないけれど強固な糸として。
素材屋アルカナ堂の秘録は、今日も、何気ない日常の一頁を愛おしそうにめくった。




