第27話 素材屋と教鞭
アルデラン達がやって来てから、約束の当日までは驚くほどあっと言う間だった。
迎えた朝、天を仰げば視界を遮るもののない蒼穹がどこまでも高く、澄み渡っている。
王都を囲む堅牢な城壁の向こう側、たなびく雲は薄絹のように淡く、地上を照らす陽光はまだ微睡みを残したように優しい。
店奥のダイニングには焼きたてのパンの香りに混じって、静かな緊張を孕んだ空気が淀んでいた。
「先生、本当に……本当にオレは留守番なんだな?」
香ばしいパンを乱暴に咀嚼しながら、ソランが何度目かになる問いを投げかける。
その瞳には納得のいかない不満の色が隠しようもなく滲んでいた。
リュネルは木のスプーンで琥珀色のスープをひと口、静かに喉に流し込むと、波ひとつ立てない湖面のような穏やかさで頷いた。
「うん。今日は本当にお留守番だよ」
「……護衛が足りねぇだろ。オレなら炎も槍も十全に扱える。軍学校のガキども相手なら余裕で……」
「その『余裕』なんて言葉を軽々しく口にする人ほど、一番に危うい事態を招くものだよ」
さらりと釘を刺してから、リュネルはその鋭さを包み隠すように、少しだけ慈しみを込めて言葉を和らげる。
「それに、今回は“国の中枢”に関わる人たちが多く詰めかけている。僕自身、彼らの思惑を捌くだけで精一杯で、君のケアまで手が回らないんだ。……分かってくれるよね?」
ソランは口を不格好な「への字」に曲げ、諦めたように椅子の背もたれに体重を預けた。
「……わかったよ。でも、先生。もしなにか不穏なことがあったら、意地を張らずにすぐ帰ってこいよ」
「なにかあったら、その“なにか”の原因を根こそぎ片付けないと」
リュネルが冗談めかして笑うと、ソランも不承不承ながら、僅かに口角を上げた。
ベルギスは沈黙を貫いたまま食器を片付けていたが、ふと顔を上げてリュネルを見据えた。
「迎えは、来るのか?」
「うん。軍学校から迎えが来る手はずになっている。……西の通りの、あそこだね」
「そうか。……あそこは、あまり、心地よい思い出がある場所じゃなかったがな」
低く、地を這うような独白。
王立“軍学校”という、鉄と規律を象徴する響きに対し、ベルギスの眉間には深い皺が刻まれている。
リュネルはその皺の奥にある過去に敢えて触れようとはしない。
知らない振りをすることもまた、この“家族”の安寧を守るための、彼なりの選択だった。
「店は任せておけ。お前が気兼ねなく暴れられるように、ここはいつも通りに保っておく」
「暴れるって、うん。……よろしく頼むね、ベルギス」
最小限の言葉に最大級の信頼を託し、リュネルは細く目を細めた。
足元ではルーガルが既に身構えるように待機しており、オルフェウスは梁の上から影のような長い尻尾をゆらりと垂らしている。
相変わらず不可視の術を纏った黒豹の存在を感知できるのは、契約主であるリュネルだけだ。
朝食の余韻を振り払い、数えるほどしか袖を通していない礼服に身を包んだリュネルは、帳場に最終確認のメモを残した。
「じゃあ……行ってきます」
「いってらっしゃいませ、リュネルさん。どうか、ご無事で」
「いってらっしゃい、先生! 土産話、期待してるからな!」
「……足元を掬われるなよ」
三者三様の、温度の異なる送り言葉。
玄関のノブを握る指先に、無意識のうちに力がこもるのを感じた。
静かに扉を閉め、表の看板を指先で弾くようにして裏返す。
「営業中」の札が、生まれたての朝日を反射して眩いほどに白く輝いた。
リュネルは決意を新たに通りへと歩み出していく。
指定された待ち合わせ場所には、既に重厚な馬車が横付けされていた。
軍の紋章が入った制服に身を包んだ御者が、リュネルの姿を認めるや否や、訓練され尽された動作で恭しく敬礼し扉を押し開けた。
王立軍学校行きの馬車は、一般の武官が用いる標準仕様とは一線を画していた。
内装こそ簡素な板張りだが、座面のクッションは驚くほど厚く、車軸には高度な衝撃吸収の術式が組み込まれているのだろう。
(……うちの店で使っている自動馬車よりかなりマシな乗り心地だな)
皮肉な感傷を抱きつつも、リュネルは腰に伝わる微かな振動に対し指先から極微量の魔力を流し込んで干渉し、その揺れを相殺していく。
「主も、随分と器用に魔法を日常的に扱うようになったものだな」
対面の座席の下で、ルーガルが欠伸を噛み殺しながら呟いた。
座席に影を潜めているオルフェウスは、流れる車窓の景色を、獲物を追うような鋭い眼光で眺めている。
「便利なものは使う。それが素材屋の鉄則だよ。ここ数年は魔力回路の調子もいいしね」
「力を行使する者の精神状態が安定している、ということか。……ふん、相変わらずだな」
馬車は巨大な城壁の外周をなぞるように進み、やがて北西の一角で大きく舵を切った。
視界の先に城壁から独立した威圧的な高塀と、空を突き刺す槍のように屹立する幾多の旗竿が見えてくる。
ーールキフェリア王軍学校
未来を担う兵士と、軍の頭脳となる将校たちが、その魂に国家の規律を刻み込まれる場所だ。
(ここへ足を踏み入れるのは……一体、何年ぶりだろうか)
自分自身がここに“在籍”していた過去はない。
だが、王立大学に籍を置いていた若かりし頃、学術交流の名目で数度この門を潜った記憶がある。
そして、一時特務の軍師として硝煙渦巻く現場に身を投じてからは――演習の評価や戦略的助言のために、何度か招集されたこともあった。
門の無骨な形状も、訓練場から漂う特有の匂いも、皮膚感覚として覚えている。
(……あの頃の輝きと今の実情。どれほど乖離してしまったのか)
正門の上部には王国の盾と剣、そして高潔を象徴する星が象られた校章が掲げられている。
経年で剥がれ落ちそうな古い栄光の欠片と、それとは対照的に金属の光沢を保つ校章。
その対比が、今の軍学校の歪さを物語っているようだった。
馬車が校門の前で制止する。
事前に通達が行き届いているのか、門番の兵士は澱みのない動作で敬礼を捧げ、巨大な鉄門を開放した。
馬車が敷地内に入ると同時に、鼓膜を震わせる規則的な怒号が届く。
「いちっ、にっ! いちっ、にっ!」
寸分の乱れもなく整列した学生たちが、広大な広場を土煙を上げて駆け抜けていく。
(……見事に一糸乱れぬ動きだなぁ)
リュネルが抱いた第一印象は、それだった。
幾何学的な均一性。
しかし、表層の乱れがないことと、不測の事態が連続する“現場への適応力”は全く別の次元の話だ。
馬車が目的地で停まり、重い扉が外側から静かに開かれた。
馬車から地面へと降り立つと、周囲のプレッシャーが一段と増す。
街路に舞う埃とは違う、錆びた鉄と、乾いた汗と、兵器用の油。
そして訓練場特有の血の混じったような土埃の匂い。
ルーガルが低く喉を鳴らし、オルフェウスが一度だけ尾をしならせて威嚇の仕草を見せた。
「主よ。空気の密度が変わったぞ」
「わかってる。……まぁ心配はいらないよ」
声には出さず、意識の底で答える。
その確かな返答は、二体の使い魔に明瞭に伝わった。
そこへ、一見細身ながら研ぎ澄まされたナイフのような鋭い眼差しを持つ将校が、一歩前に出てリュネルを迎えた。
「よくぞお越しくださいました。今回の特別演習を担当いたします、ギルバート・エルナス大尉であります」
「……錬材師のリュネルと申します。本日はよろしくお願いします」
大尉の雰囲気に流され危うく過去の肩書きが零れそうになり、舌の先で強引に押し留める。
ギルバート大尉はリュネルの表情に宿った刹那の揺らぎを見逃さなかったのか、皮肉げに口元を歪めた。
「ご謙遜を。貴殿のその名は、我々の耳にも深く届いておりますよ。
“アルカナ堂の有能な店主様”、そして――“かつて、数多の戦域において、消えない足跡を遺された稀代の策士”として」
「……随分とカビの生えた噂をお持ちのようですね」
ギルバートの双眸は、軍人特有の“致命的な間合い”を測ることに長けた男のそれだった。
好奇、警戒、そして隠しきれない敬意。
それらを均等に磨り潰して腹に収めたような、底の知れない瞳。
ギルバートはリュネルを促し、道すがら説明を始めた。
「本日はまず、大講堂にて座学を一コマ。その後、午後の時間を使って訓練地の事前ブリーフィングをお願いしたく。実際のフィールド入りは、明日でごさいます」
「承知しました。準備は整っています」
「なお、本日の講義対象は、最終学年の“α組”です。
……正直、一筋縄ではいかない連中ですが、いずれはこの国の剣となり盾となる指揮官候補生たちですよ」
最終学年が使用する大講堂は見事な石造りであり、声の反響なども計算し尽くした広大な空間だった。
高い天井には音響魔法の触媒と照明用の魔法石が組み込まれ、正面には黒板の代わりに巨大な魔導投影板が沈黙を保って据え置かれている。
奥の重い扉の陰から中の様子を伺うと、既に学生たちの半数ほどが着席していた。
全員が統一された紺青の軍服に身を包んでいるが、その面構えから読み取れる感情は千差万別だ。
張り詰めた緊張。
隠そうともしない退屈。
未知の刺激への期待。
そして――外部の人間に対する、剥き出しの反抗心。
「――おい、今日の特別講師って結局どこの誰なんだ?」
「風の噂じゃ、ただの“素材屋”らしいぜ」
「はぁ? 素材屋だと? 俺たち軍人候補生に、草むしりのコツでも教えるつもりかよ」
嘲笑を含んだざわめきの種が教室のあちこちで芽吹いている。
(……なるほど。軍学校側も僕の正体については“民間の外部講師”という体裁でしか伝えていないわけだ)
ギルバート大尉が毅然とした足取りで入室し、腹の底から学生たちを一喝した。
「静粛にッ!」
その一撃で、講堂内の空気が瞬時に氷結する。
さすがは最上位の最終学年、反射的な規律の遵守は骨の髄まで叩き込まれているらしい。
「これより明日からの特別演習に先立ち、特別講義を開始する。
講師を務めていただくのは、《アルカナ堂》を主宰する錬材師――リュネル様である。
素材の目利き、魔獣の生態、そして極限状態におけるフィールドワークに関して、我々軍部が公式に教えを請うた専門家である。心して聴くように」
尉の異例とも言える紹介に、今度は困惑を孕んだざわめきが広がった。
「アルカナ堂……あの、闇市場の素材まで浄化して卸してるっていう、例の?」
「軍の古参の下士官たちが、こっそり『あそこのジジィの鑑定だけは本物だ』って言ってた場所じゃないか」
「おい、錬材師ってマジかよ……ただの魔術師じゃないのかよ?」
「……思ったより、若く見えるな」
リュネルは迷いのない足取りで講壇の最前へと進み出た。
まずは紹介の労をねぎらうようにギルバートへ一礼し、魔導投影板の傍らに立つ。
「はじめまして。錬材師、そしてアルカナ堂店主のリュネルです。
今日は皆さんに――“明日、生き延びるための技術”を話しに来ました」
最初に放った言葉は、自慢の肩書きでも過去の武勇伝でもなく、極めて無機質で切実な目的そのものだった。
「生き延びる、ですか?」
最前列の席から訝しげな、しかし澄んだ疑問の声が上がる。
その声を正面から受け止め、リュネルは深く頷いた。
「ええ。皆さんはこの学び舎を巣立てば、否応なしに“戦い”という概念に深く関わることになります。
前線で直接刃を交える者、後方から軍需物資の血流を支える者、あるいは盤上で冷徹に作戦を編む者」
投影板に指先から流した魔力で簡素な図を映し出す。
同心円の中心に描かれた、小さなマーカー。
その外周を囲む幾重もの巨大な防壁。
「今日は、吟遊詩人が謳うような英雄譚を語りに来たのではありません。
“誰かの盾となり、華々しく戦場で散華する”――そんな耳に心地よい自己犠牲の話もしません」
ざらり、と学生たちの意識の向きが明らかに変化した。
「僕が教えるのは、“如何に生き残るかの知恵”です。自分が倒れない。そして、預けられた部下を一人たりとも無駄死にさせない。
現場の過酷さを知らない権力者が、頭の上から降らせてくる理不尽で無茶な命令に対し、いかにして部隊の全滅を回避し、生存の可能性を繋ぎ止めるか。……そういう、話をします」
後列の席で誰かが鋭く息を呑む音が響いた。
「おい、今の聞いたか。……『上の無茶な命令から守る』だと」
「……あんなこと教官の前で平気で言いやがった」
ギルバート大尉の双眸が、僅かに細められる。
しかし、その言葉を遮るような動きは見せない。
これは、アルデラン王子が彼をここに呼んだ時点で、既に織り込み済みの“毒”であり、“薬”なのだ。
「まず、この一点を記憶に刻んでください」
リュネルは、投影板の中央に二つの対照的な文字を、強い輝きと共に浮かび上がらせた。
――《英雄》、そして、《生還》。
「英雄は、美しき物語として歴史にその名を刻みます。けれど、実際に国家や軍という機構を動かし続けるのは、“生き残って戻ってきた人々”です。
可能な限り多くの命を、欠けることなく生還させる。
そのための判断の分岐点を増やすのが、我々が扱う“知識”であり、研鑽を積むべき“訓練”の本質です」
最前列で一人の学生が射抜くような視線でリュネルを凝視していた。
柔らかな光を反射する栗色の髪。
宝石のように鮮やかな深緑の瞳。
その背筋は定規で測ったように伸び、軍服の襟元には微塵の乱れもない。
(……この子は確か、首席候補の…ネレウス・ヴェルデヒュムだっけか)
事前に目を通した成績表――座学、実技ともにトップ。
風・水・光、三つの属性に高い魔力親和性。
接近戦では双剣を操り、既に実戦経験すら彷彿とさせる前線型の優等生。
ふと、視線が正面から衝突する。
ネレウスの瞳は、最初から「お前の底を見せてみろ」という、剥き出しの挑発に満ちていた。
(“素材屋”という名の民間人が、我々に一体何を教授できるというのか)
そんな傲慢な叫びが聞こえてきそうな、鋭い眼差しだった。
「さて。能書きはここまでにして、まずは今回の探索区で鬼門となる“マナ霧”の特性から解き明かしていきましょう」
ざわり、と講堂が波打つ。
軍事教育を受ける者なら、耳にタコができるほど聞かされてきた単語だ。
だが、リュネルの解説の端緒は彼らの常識の斜め上を突くものだった。
「最初に断っておきますが、マナ霧とは単なる“魔力の濃度が高い霧”……などという単純な現象ではありません」
「……えっ?」
至る所から意表を突かれたような困惑の声が漏れる。
「正確に定義するなら、『魔力飽和により、周囲の物質的組成が半ば別相へと転移しかけている臨界状態』を指します」
と言ったところで生徒達を見回すと、全員が同じ表情で固まっていた。
「……少々、専門的すぎましたね。比喩を用いて分かりやすく説明しましょう」
リュネルが手を滑らせると投影板にコップに注がれた水の図が映し出される。
その水面に白い粒子が幾つも描き足されていく。
「水は、一定量までは塩を溶かし込むことができます。しかし、その限界値を超えれば、塩は溶けきれずに底へと沈殿し始める。『もうこれ以上は抱えきれない』と、水が悲鳴を上げている状態です。
マナ霧も同様です。周囲の空気や水分が、その空間に存在する膨大な魔力を“許容量を超えて抱え込めなくなった”飽和状態だと考えてください」
図の中のコップの水が、徐々にどろりとした濃色に変色していく。
粒子はもはや沈殿せず、重力に逆らうように宙を漂い始めた。
「ここで深刻な問題となるのは、“抱えきれなくなった余剰魔力”が、常に『より安定して自分を受け入れてくれる対象』を探し、干渉しようとする性質です。つまり――」
リュネルは指を細かく動かし、魔力を示す光の矢印を人のシルエットの中心部へと向けた。
「その空間において“最も変化しやすく、適応力の高い触媒”……すなわち、君たちの肉体へと、強引に移譲しようとするのです」
講堂内に寒気のような静寂が走った。
「人間の身体は、外部環境の変化に対して強靭に見えて、その内側の伝導経路は極めて繊細です。
例えるなら、反応性の極めて高い“不純物を含んだ触媒”のようなもの。
それゆえ、霧の中で長時間にわたる行動を強行すれば、“自己の体内魔力”と“外部の暴走魔力”が、君たちの意志を無視して凄絶な干渉を始めます」
「干渉が起きると……具体的に、我々の身体はどうなるのですか?」
中段の席から身を乗り出すような切実な質問が飛ぶ。
リュネルは一切の猶予を与えず即答した。
「魔法術式の予期せぬ暴発。魔力制御の壊滅的な乱れ。五感の致命的な狂い。……そして最悪の場合、魔力行使の核である“魔核”そのものの不可逆的な損壊を招きます」
どよ、と地鳴りのようなざわめきが講堂を揺らした。
「君たちの使用している最新の教本は事前に“隅々まで”目を通させてもらいました。そこには『マナ霧地帯では長時間の行軍を忌避すべし』と、結論だけが素っ気なく記されていました。ですが、“なぜ”忌避すべきなのかという本質的な理由が欠落していれば、現場に立つ君たちは『少しくらいなら無理をしても平気だろう』という、致命的な判断ミスを犯すことになる」
ネレウスの端正な眉が、僅かにピクリと動いた。
「ですから、その根拠を魂に刻んでください。マナ霧は決して、“魔法が使えなくなる不毛の霧”ではない。
『魔法を行使することは可能だが、その制御の糸を僅かでも読み間違えれば、己の魔力回路ごと肉体を崩壊させる死の霧』なのです」
リュネルは、投影板の余白に三つの重要項目を力強く刻んだ。
《滞在時間》《空間密度》《個体適性》
「滞在が長引けば長引くほど、リスクは加速度的に増大します。霧が濃ければ濃いほど、死神の影は近付く。
そして――皮肉なことに、内包する魔力量が豊富な者ほど、その危険性は跳ね上がるのです」
教室の至る所で、自信に満ち溢れていた優等生たちの表情が土色に強張った。
「“強大な魔導師ほど、マナ霧の干渉に耐えうる”という思い込みは、死地に直結する傲慢な幻想に過ぎません。
現実はむしろ正反対。魔力のキャパシティが大きい者ほど、早急な撤退の決断を下さねばならない」
その瞬間、沈黙を破ってネレウスが右手を高く掲げた。
一点の淀みもない、勢いのある挙動。
「……質問を、許可願えますか」
「どうぞ」
「講師の論理に従えば――魔力の乏しい劣等生を前線に配置し、魔力の高い精鋭は後方に温存すべき、という結論になります。しかし、それでは部隊としての“戦闘効率”は著しく低下し、任務の完遂が危ぶまれます。それは軍人としてあるべき姿なのでしょうか?」
さすがは首席。
その問いは鋭利な刃のようで、かつ組織論としての冷徹な理性に裏打ちされている。
「非常に的確で、素晴らしい視点です」
リュネルは、口元に僅かな称賛の笑みを浮かべた。
「結論から申し上げるなら、それは“状況次第”です。魔力の低い者は霧の影響を受けにくい反面、魔力による障壁維持や火力支援の能力に欠ける。対して魔力の高い者は、絶大な力を持つがゆえに、万が一暴発した際の部隊への二次被害もまた、致命的な規模になります」
ネレウスは真っ直ぐにリュネルの目を見る。
「ゆえに、指揮官たる君たちが担うべき真の役割は、“誰を、どのタイミングで、どれだけの時間、その臨界点に留置させるか”という、天秤の判断に他なりません。
魔力の高い者は、“勝負どころの短時間のみ前線で決定打を放つ”。
魔力の低い者は、“交代で戦線維持と周囲の警戒役として機能させる”。
……このような、適性に根ざした冷徹な役割の最適化ができて初めて、部隊は真の意味で『マナ霧』という環境を克服できるのです」
ネレウスはリュネルの言葉を一つ残らず咀嚼するように、じっと目を細めた。
彼は“打ち勝つこと”に関しては天才的だ。
だからこそ、敢えて“一歩退くこと”の戦術的価値を今初めて突きつけられたのだ。
「魔法の威力とは、磨き上げた剣の切れ味と同じです。
どんなに優れた剣であっても、無闇に研ぎ続け、限界を超えて酷使すれば、容易に刃こぼれし、ただの鈍らへと成り下がる。
君たちに必要な教養は、“どこでその剣を抜き、どこで未練なく鞘に収めるか”という引き際を、正しく察知する事ができる為の知識と決断する勇気です」
講堂の隅で腕を組んでいたギルバート大尉が、僅かに深く息を吐き出す気配が伝わった。
彼自身が長年の現場経験で掴み取りながらも、言葉にできずにいた“本質”を、目の前の錬材師が鮮やかに言語化してみせたことへの、密かな感銘だろう。
講義の主題は、マナ霧の性質からより実戦的な毒植物の鑑別へと移行した。
リュネルの講義スタイルは、一方的に情報を流し込むような枯れた授業ではない。
短く刺激的な事実を提示し、学生たちに思考のラリーを強いる能動的なものだった。
「ここに映し出した植物は、一見すると“野営の食糧に適した安全な種”と見紛いますが、その正体は“一滴で致死を招く猛毒の種”です。
判断材料は、葉の裏側に生えた微細な絨毛の密度と、茎を折った際に漂う、僅かに鉄錆の混じったような特有の芳香。
……もし、何も知らずにこれを焚き火の薪に混ぜれば、立ち上る煙だけで一個小隊が明日を拝むことなく永遠の眠りにつくことになります」
投影板に映し出された二種類の酷似した草の拡大図。
葉の側面に「芳香」という小さな注釈と、魔力波形の比較グラフが精密に描き込まれていく。
「より医学的な側面から言及するなら、これには“中枢神経系を一時的に麻痺させるアルカロイド”が極めて高濃度に含まれています。
適量であれば激痛を和らげる麻酔薬となりますが、閾値を超えれば、肉体は“自発的に呼吸を継続すること”すら放棄します」
「……呼吸を……放棄する、ですか?」
「その通りです。我々の身体は、生命維持に必要な機能を無意識のうちに代行してくれる精緻な自動機械ですが、その機械の制御配線を一時的に焼き切ってしまうような薬物が、この自然界には無数に存在します」
教室全体に背筋を凍らせるような戦慄が走った。しかし、生徒たちはリュネルの話の断片すら聞き逃すまいと、獲物を狙う獣のような集中力で身を乗り出している。
「逆に、この刺激性の樹脂を豊富に含む樹液は、極少量を用いれば、極限状態での“精神覚醒剤”として機能します。
ただし、処方量を僅かでも誤れば、今度は心臓というポンプが過剰駆動を起こし、自壊することになるでしょう」
リュネルは“神経伝達物質”や“自律神経系の制御”に相当する高度な知識を錬材師の視点から、学生たちに伝わりやすい言葉へと噛み砕いて提供していく。
これは、素材屋の地下室で日々繰り返されている、薬理学の真髄だ。
「要するに、毒と薬の境界線は“用量と用途”という天秤のバランスに集約されます。
そして、過酷な戦場において真に恐るべきは“毒にも薬にもならない無知”という名の病です」
「毒にも薬にもならない……無知、ですか?」
「ええ。つまり、“知らなくても即座に首は飛ばないが、知っていれば部隊の生還率を劇的に引き上げられる、埋もれた知識”のことです。
この2日間の授業はその生存確率を、コンマ数パーセントでも底上げするための時間だと認識してください」
ネレウスをはじめ、数人の学生の双眸には、明らかに最初とは質の異なる理知の輝きが宿っていた。
軍学校の型に嵌まった座学に言いようのない渇きを覚えていた層に、リュネルの言葉が深く染み込んでいく。
「……今までの教科書には、こんな生々しい話は一文字も載っていなかった」
「『マナ霧には近づくな』という精神論より、今の説明の方がよっぽど腹に落ちるぞ」
「……錬材師って、これほどまでに世界の構造を熟知しているのか?」
囁き声のような感嘆。
それを背後で受け止めながら、リュネルは僅かな手応えを感じて小さなチェックを書き入れた。
(この子たちの“問いを立てる力”は、決して枯れてはいない)
“教えられた正解”に安住せず、その裏側に潜む“理由”に飢えている人間は、必ず強くなる。
この教室には、まだ救うべき伸び代が残されているようだ。
講義の終わりの鐘が近づく頃。
リュネルは投影板の前を離れ、教壇の最前に立って学生たちを見渡した。
「そろそろ予定の時間ですね。最後に――明日の特別演習において、君たちが直面する本質的な話を共有して、今日の講義は終わりましょう」
教室内が物理的な重圧を感じるほどにぴんと張り詰める。
学生たちも、“いよいよ本番の幕が上がるのか”という、戦士の顔へと変貌していく。
「明日は王都近郊の探索区での本格的なサバイバル演習です。既に教官から幾つかの事前通達は受けているでしょうが……」
リュネルは、懐から取り出した一枚の古びた羊皮紙を掲げた。
天井の魔法が光を放つと、羊皮紙が数十倍の大きさの立体映像として浮かび上がる。
そこには、彼が独自に構成した優先順位の指標が刻まれている。
《優先順位の再定義》
1:自己、および預けられた部下の生命維持
2:戦略的任務の完遂
3:貴重な装備・物資の保全
4:敵対勢力への損害付与
「まず、君たちの本心を確認しましょう。
――この中で、『戦場という極限状況において、最も優先すべき至上命題』は何だと教わってきましたか?」
幾つかの手が、迷いなく挙がる。
指名された学生たちは、それぞれが信じる“正解”を吐露した。
「任務の絶対的な達成です!」
「前線の維持と、後方への盾としての役割を果たすこと」
「……不純な敵の、根絶です」
「いかなる犠牲を払ってでも、国家の利益を担保すること」
軍の教育機関としてはどれも模範的な“正解”だ。
だが、リュネルは無情にも静かに首を横に振った。
「どれも組織としては重要でしょう。ですが、今日、この場所で私が君たちに手渡す答えは、それらとは明確に一線を画します」
投影板に最上段の一行だけを目に焼き付くような強調色で映し出す。
「最も優先すべきは、“自分自身と、君たちという将来の指導者に預けられた、部下の命”……これ以外にありません」
しん、と静まり返る講堂。
学生たちの視線の矢が教壇のリュネルへと一点に集中する。
「任務完遂のために命を賭す高潔さを、私は否定はしません。
けれど、その“命の使い方”を誤った認識のまま放置すれば、国家という巨大な機構は、あっという間に君たちという尊い資源を使い捨ての消耗品として磨り潰すでしょう。
それは――血塗られた戦史が、これまでに何度も残酷なまでに証明してきた不変の帰結です」
公式の教科書には決して掲載されることのない、戦略的な闇。
リュネルはその最深部で多くの命が霧散する様を、嫌というほど見てきた。
そして。
「ですから、明日の実地演習において、私は君たちにこう命じます。『任務を忘却せよ』と言っているのではありません。ただ――」
言葉の重みを一つ一つ置くように、静かに、しかし断固として告げる。
「『任務を果たす大前提として、まず、どんなに見苦しくても生き延びろ』と」
どこかの席で誰かが深く溜め込んでいた空気を吐き出した。
それは、重圧からの解放による安堵か、あるいはこれまでの信念を揺さぶられた戸惑いか。
「そのために必要な、生きた知識と冷徹な判断の材料を、今日と明日で可能な限り君たちの懐にねじ込みます。
君たちが10年、20年の歳月を重ねた先で、“あの時の風変わりな錬材師の言葉が、自分を救った”と思い返してくれる日が来たならば――
私のこの仕事は、国家への最大の貢献として成功したと言えるでしょう」
ネレウスが、ゆっくりと、今度は先ほどよりもずっと敬意の籠もった所作で手を挙げた。
その表情には、未熟な傲慢さはもう影を潜めている。
「……明日の演習について、一点だけ確認させてください」
「どうぞ」
「……その、あなたが仰る“撤退の境界”は、最終的に誰が決定を下すべきだとお考えですか?
随行する教官ですか。小隊の責任者ですか。それとも……」
リュネルは、僅かに慈しむような笑みを浮かべた。
その穏やかな表情の中に、ギルバート大尉はかつての戦場を支配した“黒天の軍師”が持っていたのと同種の、底知れぬ凄みを覚えた。
「明日は――“君たち自身”に、その命の重みを量り、ボーダーラインを引いてもらいます」
「……ッ!」
「もちろん、致命的な事故を防ぐための安全ラインはこちらで管理しますが、その手前の段階、つまり“どこで剣を収めるべきか”という判断は、小隊ごとの状況に委ねます。保有魔力の残量、肉体的な疲弊度、物資の枯渇、そして仲間の負傷状況。
……それらを客観的に分析し、最善の『生還への道』を選択するのは、他ならぬ君たち指揮官候補生の双肩にかかっています」
ネレウスの深緑の瞳に、使命感とは別の、自分自身を統治しようとする強い意志の火が灯る。
「その判断が、“生存のために正しかったかどうか”を、明日の演習が終わった後、泥まみれの顔で一緒に振り返ることにしましょう」
講堂を包んでいた空気からは、最初の「たかが素材屋の世迷い言」という軽薄な響きはもう完全に消え去っていた。
講義の終了を告げる重厚な鐘が鳴り、規律正しく起立して礼をする学生たち。
ギルバート大尉が解散を宣すると、静まり返っていた教室は瞬く間に、熱を帯びた議論の海へと変貌した。
「……凄まじいな、あの人。言葉の重みが、そんじょそこらの教官とは桁が違う」
「教本の『マナ霧に注意』って文字が、今は死刑宣告のリストに見えてくるよ。正直、明日が怖くなってきた」
「でも、不思議と腑に落ちたよ。『死して英霊の末席に加われ』なんて空虚な激励より、よっぽど心強い」
「“無知な上の命令から、部隊を守れ”か……。よくぞあんなこと、大尉の真横で言い切ったよな」
「教頭があの場にいたら、泡を吹いて卒倒してたんじゃないか?」
そんな喧噪が渦巻く中、ネレウスは自席に腰掛けたまま、投影板に残された文字列や図解を食い入るように見つめ続けていた。
「ネレウス、お前がそこまで放心してるなんて珍しいじゃねぇか」
隣席の友人が茶化すように肘で突く。
ネレウスはそこでようやく我に返り、複雑な情感の混じった苦笑を浮かべた。
「……いや。少し、自分の中に足りなかったピースを見つけた気がしてな」
「素材屋の話、そんなに響いたか? いつもの『学校の教育は温すぎる』っていうお前の持病か?」
「……ああ、温すぎたよ」
ネレウスの短く断定的な言葉に、友人は動きを止めた。
「え?」
「……これまでの、俺たちの認識のすべてが、だ」
ネレウスは決然と立ち上がり、リュネルが去っていった教壇の方向を、静かに、しかし熱い眼差しで射抜いた。
そこには既にリュネルの姿はなかったが、投影版に描かれた“生き延びるための図”だけが、冷徹な真理を湛えて浮かび上がっている。
「俺……ああいう実戦に直結する生々しい話、もっと早い段階で聞きたかったよ」
「……まあな。お前、ただ勝つことだけじゃなくて、“どうやって全員を連れ帰るか”について、いつもうるさくこだわってたもんな」
「……悪かったな、いつもうるさくて」
軽口を叩き合いながらも、ネレウスの脳裏には明日足を踏み入れるであろうジャングル探索区のマップが、これまでになく鮮明に展開されていた。
停滞するマナ霧。
狡猾な毒植物。
テリトリーを守る魔獣。
そして――何よりも重い、“撤退という決断”。
(どこで境界を画す? どうやって、一人も欠けさせずに部隊を凱旋させる?)
ネレウスの瞳には敵を穿つための闘争心だけでなく、仲間の命を繋ぎ止めるための、冷徹で気高い守護の灯がともり始めていた。




