第三章・世紀の謎! 幻の巨大地下水道は御町内の真下に実在した!
市街地の穢れを一手に担う下水道が地下で網の目のように広がっている。
市街地の生活用水の要である河川や用水路を、街という一個の生命体に綺麗な血を運ぶ
大動脈とするのなら、まさしく下水道は体内を巡回して汚れた血を運ぶ大静脈だ。
臭い物には蓋をしろとの至言に忠実に従い、光と喧騒に包まれた賑やかな観光地の下は
決して見てはならない禁忌に満ちている。
暗闇と沈黙に支配された穢れた裏世界は、マンホールの蓋で封印されたまま誰の目にも
触れることなく口と目を閉じ続け、その一方で確実に存在し脈動をし続けている。
たとえ【夢の国】であろうと、其処に人々が集まり街が出来、それなりの文明レベルが
確立されれば、生活用水と廃水処理のメカニズム問題からは逃れられない。
発展の代価と言えばそれまでで、ゴミの分別や浄化施設の完備など現実世界に比べれば
自然環境に配慮した部分は多いが、それでも著しく【夢の国】の自然を汚していることに
変わりは無い。
【夢の国】には市街地が数箇所程存在するが、彼女が拠点としている街は【夢見る人】
が最も集う幻想世界の入り口ということで巨大な繁華街が存在するため、大量の生活排水
による河川や海岸の汚染が近年問題視されている。
「これもまた未開地の一種ちゅうところやな」
がっぽがっぽと長靴の足音を立てながら香月が言った。人工的に造られて地図もあると
はいえ、まず人間の立ち寄ることのない下水道は未開の洞窟探検と危険度は同じだ。
暗闇の中を徘徊するゴミを主食とする昆虫たち、それらを捕食する大鼠、さらに鼠を餌
とする吸血蝙蝠など、下水道に構築された生態系は自然の洞窟とさして変わらない。
人の手が頻繁に入らなければ、たとえ無機質な人工物だろうとおかまいなしに、彼らは
如何なる環境にも適応して棲家を作ってしまう。
そこが野生のしたたかさというとこか。
「酷い臭いだね」
鼻を摘みながら青年が泣きそうな声で言った。
「まったくや」
同じく香月も鼻が曲がりそうな異臭に辟易しながら、青年の愚痴に賛同する。
「ナビ役で外で待機しているロック君がうらやましいね」
「厳正なくじ引きで担当が決まったんや。臭いのは我慢せえ。数分もすりゃあ嗅覚が麻痺
して慣れてくる。便所でする自分のウンコは臭くないの理論や」
香月がポケットから肉桂味の禁煙ガムを取り出して青年に差し出した。
「噛むか? 少しは気が紛れるで。ガムを口にしてれば自然に愚痴も減るしな」
「いただくよ」
青年は快くガムを受け取って口に入れた。
「隊員一号、レーダー役は頼むわ。こういう極地ではあんたの感覚が頼りやからな」
「おいっスッ がんばるっス」
青年がビシッと敬礼する。
視覚不利を十分に補えるだけの鋭敏感覚と、人一倍強い野生の勘が青年の強みなのを、
この数日の研修で既に香月は熟知している。こういった暗闇の中での探索は、常人の知覚
能力では限界があり、そこで青年の鋭敏感覚がレーダーの役目として重宝する。
色々な意味でアブない幼女レーダーから、これまた随分と出世したものである。
「しかし行方不明の水道局員は何処にいるのかね」
手持ちの地図を懐中電灯で照らしながら香月は言う。この市街地の下水道は都市圏に比
べればそう広くはない。補給と休憩のために外に何度か出ても、半日もあれば全体を網羅
できる程度の距離だ。
言い方を変えれば、そんなに広くない下水道で下水探査のプロ達が遭難するということ
は、かなりヤバいことが内部で起こっているということだ。
「生存してくれればいいんやけどな」
「なんでも一人は来週に結婚が決まってたらしいよ。もう一人は定年寸前で、この仕事が
終わったら田舎で店を開く予定だったらしいし」
一拍の間を置いて。
「絶望的やんけっ!」
すかさず香月のツッコミが飛んだ。
「あかん、分かりやすい。王大人死亡確認ばりに分かりやす過ぎて頭痛が痛いわ」
この業界で『結婚の予定』『故郷の話題』『家族または恋人の写真』は死亡フラグ確定
の御三家だ。分かっている人間ならば、こういう仕事の最中に間違っても「こんど結婚す
るんです」とか「故郷の飯が喰いたい」などと口にしてはいけない。
まして恋人といちゃつくなど言語道断だ。これをやって怪物に殺されないのは主人公と
ヒロインぐらいのものだ。
「結婚間近と定年間近ねぇ……」
二人揃って見事なまでにB級クリーチャー映画の犠牲者の条件を満たしている。
早くも先行き不安で香月はぐったりした。
がっぽんがっぽんじゃぶじゃぶ。
一時間も探索を続けると二人の口数も少なくなる。嗅覚はすっかり麻痺したが、なるべ
く口を開きたくないのが本音だ。歩くたびに靴が水を掻き分ける音だけが空間内で幾度も
反響し、やがて繰り返されるエコーは暗闇の奥へと吸い込まれて小さくなっていく。
「南ブロックには遭難者はいないようやね。このまま中央ブロックに行ってもいいけど、
少し仕切り直ししたほうがよさそうや。一度キャンプに戻ろか」
「さんせー」
香月の提案に賛同する青年。そろそろ新鮮な空気を吸いたい。
「こちら香月、下水道のA-8ブロックに到着した。異状は無し。明石焼き応答せい」
時計が定時連絡の時刻を指したので、香月が通信機で地上の明石焼きに連絡をする。
「こちら明石焼きやー。発信機の位置はA-8で間違いないでー」
のんびりまったりとした口調で、明石焼きの応答がやってきた。
「おい明石焼き、そっちに新しい情報とか来とらんか? 遭難者救出の下水道の探索って
言っても、この地図だけじゃ情報不足やねんで」
「実用に耐える情報かどうかは分からんけどー、水道局の関係者に聞き込みをしたから、
多少の情報は入手しとるよー」
「このさい手がかりになるなら何でもええわ」
「そうやねー、代表的なものでは下水道を棲家にして夜な夜なマンホールの上を横切る人
を中に引きずり込んで食べる盲目の怪人『マンホール男』とか、工業廃水に汚染されて突
然変異した全長2メートルの人喰いゴキブリとか、好事家が密猟者から購入したけど飼い
きれずに下水に流した幼体が野生化した巨大鰐とか、あとはトイレの花子さんとか……」
「都市伝説ばっかりやんけっ」
特に最後のは学校の階段だ。
「特に興味深いのは下水道を百キロで疾走しながら彷徨い続ける『百キロゾンビ』の伝説
やねー。これはかれこれ二十年も前、俊足で名高かった青年が夜中のジョギング中にマン
ホールに落ちて行方不明になり……」
「クトゥルフ神話と関係ないにも程がある……」
なにをいまさらな気もするが。
「とりあえず、昼に一度キャンプに戻ることにするわ」
「了解やー」
香月は通信機を切り、そろそろ新鮮な空気を吸うため、いったん地上へ出ようかと青年
に休憩の提案をしようとしたとき……
ちゃぷん。
どこかで水が大きく跳ねる音した。
「奥のほうで何か音が」
青年が最初に気が付き、次に香月がショットガンを前方へ構えながら警告した。
「生存者?」
香月が通路の奥を懐中電灯で照らした。
「おーい、そこに誰かおるんか?」
香月は青年を下がらせ、なるべく足音を抑えてゆっくりと音のした場所へ近づく。
常に警戒は怠らず、そこに油断も隙もない。迂闊に寄って頭からバックリは御免だ。
「あー、人間じゃなさそうやね」
不穏な空気を読んで、香月がショットガンのポンプを引いた。
「巨大白鰐や大蛇ぐらいならええねんけど、工場廃水で突然変異したスライムやゴキブリ
とかは御免やで。まさか下水道で殺人トマトだの地獄のシオマネキは無いと思うけどな」
分かる人には分かる通好みな例え方だが、マニアックにも程がある。
ちゃぽんっ。
また音がした。
ちゃぽん。ちゃぽん。ちゃぽん。
それも連発。次第に量が増えていく。
「あー、ちょっと待たんかい」
やがて断続的な音は地響きに変わった。
何か大量のモノがこちらに迫ってくる。
まだ放水の時間ではない。水道局に頼んで今日の放水は探索中の間は中止にしてある。
下水の鉄砲水とは違う。だとすればコレは。
「あかんッ 壁際に着いて伏せやッ」
やばい。やばいやばいやばい。これはヤバイ。
香月が咄嗟に指示を出して壁際に飛んだ。
一同が壁沿いに移動して伏せたと同時だった。
「~~~~~~~~~~~~~~~~っ」
青年が声にならない悲鳴を上げる。
迫ってきたのはドブ鼠の大群だった。
十匹やそこらではない。おそらくこの下水道に住み着いている鼠の大半が一箇所に集ま
り、集団でありながら一匹の生命体を演じるように群体と化し、わき目もふらず一直線に
走ってくる。その数は数千匹単位だ。
小動物の濁流が二人を襲った。女性陣は漏れかける悲鳴を必死に抑える。決して動いて
はいけない。下手に動けば恐慌状態の鼠が移動物を敵もしくは餌かと錯覚し、食い殺され
る危険性がある。数千匹の鼠にたかられれば、人間一人など一瞬にして骨と化すだろう。
これはレミングスの大移動か、はたまたハーメルンの笛吹きによるものか、進行方向に
は海へ続く死への出口しかないというのに、鼠たちは一心不乱に逃げていた。
そう、何かから逃げているとしか思えない壮絶な大群移動であった。
二十秒としないうちに鼠の大群は二人を無視して通り過ぎ、そのまま死神の待つ暗闇の
中へと地響きをたてながら消えていった。
ほとぼりが冷めてから二人は立ち上がる。
どうにか全員無事らしい。
「なんなんだったんや今のは……?」
じゃぽん……
「何かから逃げてたみたいだねー」
じゃぽんっ……
「…………」
ジャポンッ……
「あのさぁ、隊長」
ちゃぽっ……
「なんやねん、隊員一号?」
ちゃぷっ……
「経験則から言わせてもらうと……ああいう群体逃亡は、往々にして巨大な捕食者が餌と
なる小動物を追い立てるときに発生する現象なんだけど……つまるところ……」
しぃんっ……
「ああ、周囲に嫌な気配がムンムンしおるなぁ」
タラリと冷や汗が垂れる。こういうときは往々にしてロクでもないモノがくるものだ。
香月がショットガンを前方へ構えた。
その音に反応したのか、水の一面がぷかりと盛り上がった。
水路中央部に蠢く影。それがゆっくりとこちらに近づいてくる。
中央の水路は大人の胸までの深さがある。水面の盛り上がりを見る限り、暗がりでの目
測でもかなりの大きさだと分かる。
鰐か?
大蛇か?
それとも殺人トマトか?
死霊の盆踊りだけは勘弁してもらいたいと思う。
「……来るで」
突然、水面の盛り上がりが消えた。
シィ……ン……
訪れるのは沈黙と静寂。
「………………ッ」
下水道内に空白の時間が続く。それでも警戒を解いてはいけない。この静けさは肉食動
物が獲物の隙を伺う時の独特のものだ。
物音は微塵もしないのに張り詰めた緊張感だけは依然として周囲に滞留している。姿が
見えないから安心だと油断した途端に、息を潜めていた敵は一気に攻撃を開始する。
自然界において、狙う捕食者と狙われる獲物の戦いは、この欠片ほどの隙の伺いが命の
分かれ目になる。
「隊員一号、間違っても警戒を解いたらあかんで」
こういう緊張ムードのときは、何もないからとホッと気を抜いたヤツから襲われる。
B級クリーチャーパニックものの基本だ。
警戒から一分が経過したときだった。
ごくり。
緊迫と緊張に満ちた空気に耐え切れなくなった明石焼きが、噛んでいた禁煙ガムを唾液
と一緒に呑み込んだ。
「…………?」
ほんの刹那の間だったが、明石焼きの唾を呑み込む音に香月たちの意識がそれた。
エモノガスキヲミセタ。
瞬間、波紋の消えた水面から間欠泉の如く水飛沫が立ち上り、潜んでいた巨大な生物が
その姿を現して一同に飛び掛ってきた。
「わにィィィィィィィッッッッッ!???」
香月が襲いかかっきた相手の正体を見て、意味不明の叫び声をあげた。
鰐ではない。
大蛇でもない。
ましてや殺人トマトでも盆踊りなんかでもない。
襲い掛かってきたのは鰐や大蛇を越える大型爬虫類の異形だった。
あえて形容するなら水生型の恐竜か。
これは予想外の大誤算で大ピンチだ。
「どっしぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっっっ」
青年が目を丸くして驚愕する。
「ちいッ」
額の部分を突き出して突進してくる恐竜へ向け、香月がショットガンを連射した。
予想外の相手に不意を突かれようと、度重なる反復練習と幾重にも重ねた実戦経験が、
迎え撃とうとする意識よりも早く、反射的に肉体を動かして迎撃を開始している。
バイオハザードでタイムアタックモードをやりこんだ腕は伊達ではない。
ダァン! ダァン! ダァーン!
散弾銃を発射する大音響が下水道内に鳴り響き、硝煙の異臭が付近に充満する。飛び掛
ってきた竜は至近距離から顔面に散弾を喰らい、蒼黒い粘液を撒き散らし、悲鳴を上げて
のたうち回った。
「やったか!?」
「それは死亡フラグやッ 単に怯ませただけやッ 起き上がってくるでッ」
モノによっては鹿猪熊といった大型野生動物にも通用するショットガンも、4メートル
級の怪物を相手にするは殺傷力が足りない。
あの至近距離で連射したのにも関わらず、相手は鱗に大量の散弾を埋め込んだだけで、
皮膚から下の肉や内臓はほぼ無傷。血潮を撒きはしたが所詮はカスリ傷だ。
「あかんッ やべぇわッ 誰やねんッ 下水道に甲頭竜なんて捨てた馬鹿はッ」
甲頭竜。主に密林の河川に生息しする水竜の一種だ。外見は鰐に似ているが、現存する
鰐の最大種であるナイルクロコダイルよりも二回りは大きく、成竜で平均は8メートル、
最大級で15メートルになる固体も確認されている。肉食性で当然ように人間も襲う。
普段は地下に30メートルから500メートルの洞窟を掘って暗い穴ぐらで生活をし、
そのため目が退化しているのが特徴。また、甲頭竜の名が示す通り、頭蓋骨が独特の進化
を遂げて巨大なコブを作っており、その巨体からくる頭突きは中型トラックをも引っくり
返す硬度と威力を秘めている。
他の神の眷属や異形に比べると現実世界の生物に近いが、鱗と皮が硬く、並の銃器では
倒せない。最低でも対戦車用の鉄鋼弾を用意しないと一撃では無理だろう。
ショットガンなど豆鉄砲程度の威力しか望めない。
まだ若い固体なのか、それとも狭い下水道に環境適応したのか、サイズこそ平均よりも
小ぶりだが、それでも装備不十分の香月達にとっては十分な脅威に他ならない。
「逃げるでッ」
香月は即決断で撤退を指示した。
とてもではないが現状の装備で勝てる相手とは思えない。今の装備で最大攻撃力を誇る
武器はショットガン専用のスラッグ弾だが、これでさえ的確に急所に当てなければ甲頭竜
を屠り去るのは不可能に近い。
ごっついタイガーバズーカーなら何とかならんこともないが、こんな狭い空間で撃てば
反動や爆音による二次被害のほうがヤバイ。
「尻尾巻いて撤退やーーーーーーッッッ」
三人は全速力で逃げ出した。
「なんで密林の奥地にいるはずの甲頭竜が、こんな市街地の下水道に生息してるんやッ」
「知らんがなー」
背後から凶悪な敵意が迫ってくる。軽い脳震盪から復活した甲頭竜が、せっかくの餌を
逃がすまいと追いかけてきているのだ。
重い自重のためか追ってくる甲頭竜の移動速度はそうでもない。しかし水の負荷がかか
り、滑り易く足を取られやすい下水道では、香月たちの逃走速度も陸上に比べて遅い。
気を抜けばたちまち追い付かれる。
血に餓えた猛獣に追い付かれたら、その後にどうなるかは言わずもがなだ。
即死でもキツイのに、足から食い千切られてジワジワ失血死なんてたまらない。
「拠点まで逃げ切るッ」
地図を広げながら青年が叫ぶ。地上へ出る最短出口は、最初に入ってきたマンホールし
かない。他のマンホールは総じて侵入者防止用のための鍵がかかっている。
「ぬぉおおおぉおおぉぉおおぉぉっっっっ」
逃げる。逃げ回る。闇雲に逃げる。
「ちょっとッ なんか道おかしくない?」
「ちゃんと地図を見て走ってるんだから道はあってるよッ ……たぶん」
小声で怖いことを付け加える青年。
「いま多分って言った。多分って言っおったーっ」
香月が青年の地図を覗き込むと、案の定、地図が逆さまだ。
こういう緊急事態にナビ役が慌てると、大抵ロクなことがない。
「いいんだよッ こういうのは適当でッ 日本男児はアバウトなのが丁度良いんだッ」
誰がどう見ても外人だけどな。
「いいわけあるかぁッ」
さすがにハリセンで殴る余裕は無い。
「出口から滅茶苦茶離れたやんけッ」
「うっせぇよッ」
「今どこを走ってるじゃッ」
「下水道ですよッ」
「そういう意味やなぁ~いッ」
完璧な夫婦漫才だ。
「あわわわわ、シャレんならん! シャレんならん! ちょ~シャレんならん!」
「このまま全員で逃げてもラチあかないよね!」
「そうやね。かなり遠くに迷い込んだみたいだし、こういう場合の常套手段は……」
香月の提案は誰でも想像できる残酷な提案。
「……囮ですか……」
誰かが追ってくる甲頭竜を引き付け、その隙に片方が逃げ切る。囮役が生き残れるかど
うかは本人の運と能力次第だ。チームの犠牲が最も少なくてすむ捨て身の策だ。
「そこの曲がり角で二手に分かれるで」
「了解」
「じゃ、そ~ゆ~ことで」
さりげなく。
「えいっ」
本当に無駄なくさりげなく、香月の足が走る青年の足をペシッと刈った。
「ぬをわっ」
不意の足払いを喰らい、青年が間抜けな声を上げながら水路に落ちた。
「囮役はよろしくね~っ」
ナチュラルに外道。
「あッ こらッ おまえらッ」
「隊員一号ッ あんたの死は無駄にはしないわ」
「いきなり過去形にして殺すなッ」
「隊員一号先生の次回作に御期待ください」
「そして打ち切るなぁッ」
起き上がって二人に抗議しようとする青年だったが、転んでいるうちに直ぐ目の前まで
甲頭竜が迫ってきていたため、慌ててショットガンのポンプを引いて速射した。
散弾の衝撃で甲頭竜が狼狽している隙に、青年は立ち上がって逃げ出した。
「どのみち自分がやるつもりだったけどッ せめてカッコいい台詞ぐらいは言わせろッ」
すっかり遠くに行ってしまった二人へ青年は泣きそうな声で叫んだ。
『ここはオレに任せて先に行けッ』とか、『オレの屍を超えて行け』という台詞は漢の
浪漫だ。その台詞を吐く絶好の機会を空振りさせた挙句にギャグ変えた二人の罪は重い。
「そっちはまかせたで~っ」
香月が突き当たりのT字路で右に曲がる。つまり左に行けということだ。
「こんちくしょうめ」
青年は左に曲がる。
「ああもうっ」
もう一方で、香月は背後に迫る殺気を存分に浴びながら通信機のスイッチを入れた。
「こちら香月ッ キャンプッ 応答せえッ」
「はーい、こちら明石焼きやー、もぐもぐ」
通信機からのんびりまったりとした応答が帰ってきた。昼食中だったらしい。
「緊急事態や。下水道で甲頭竜に出くわしたッ 捨てられたモノが野生化したのか、それ
とも迷い込んだのかは不明だけど、至急ギルドの自警団に中型竜対策装備を整えて応援を
よこすように頼むッ 今の私らの装備じゃ勝ち目は薄いッ しかも追われとるッ」
さすがにそろそろ横腹が痛くなってきた。
「もぐもぐ、逃げ切れますかー?」
「分からんわッ 何か有効な手だてがあったら教えてくれッ というか、なんか喰うとら
んでアンタも考えやッ」
「もぐもぐ」
三秒ほどの間を置いて、
「今ふと思ったんやー、これは現状に関係があるかどうか分からへんのやけどー」
「何でもいいッ 言ってッ」
「ブルマって、ブルマーって語尾を延ばしたほうが何か心にグッとくるものがあると思う
んやけどー、香月ちゃんはどう思うー?」
「ほんとに関係ねぇぇぇぇぇぇぇッッッ」
とりあえずラチがあかないので通信機を切る。天然モノはこれだから怖い。
「よし、なんとか逃げ切れそうやな。囮を引き受けてくれてありがとう隊員一号ッ そし
てサヨウナラ。私もじきにあなたの後を追うわ」
ここで一呼吸置いて、
「……たぶん百年後ぐらいに」
そんな冗談をかましたあたりだった。
「勝手に殺すんじゃねぇぇぇぇぇっ」
何故か香月の進行方向の先から青年が走ってきた。
「合流してくんなぁぁぁぁぁぁぁぁッッッ」
「ぶちゃらてぃッッッッ」
すれ違いざまに香月の蹴りが青年の顔面に炸裂した。
どうやら道が繋がっていたらしい。
そうなると当然に追跡中の甲頭竜も一緒なわけで。
「ぎょえぇぇえぇぇえぇぇえぇぇえッッッ」
しかも二匹に増えていた。
「なんで増えとんのじゃぁあぁぁあぁぁあッ」
あたりが出たのでもう一本。一難去ったら今度は二難だ。
香月は慌てて方向転換して全速力で逃げた。
「知るかッ 気がついたら二匹になってたんだよッ」
「コンビ打ちだなんて聞いてないわよッ」
「奇遇だなッ 同感だよッ」
この危機的状況でも漫才だけは忘れない。
「もう座標もわかんなくなったで」
「またT字路がきたぞッ」
「なら手は一つしかないわね」
次のT字路を前にして行われる二人の会話。
すこぶる嫌な予感がした。
「二手に分かれて一匹ずつ迎撃する……か」
「それしかないやろ」
「んじゃま」
二人はT字路でそれぞれ左右に分かれる。
「そっちは任せたで」
「隊長こそ」
分散して逃げた香月と青年に反応してか、二匹の甲頭竜も二手に分かれる。
「さあて」
事前に打ち合わせをしたわけでもないのに二人は同時に同じことを口にした。
「狩りの時間だ」
そして数分の逃走劇が展開し、
「まったくっ、もう少しっ、体力っ、つけとけばっ よかったわっ」
全身に汗を噴き出しながら香月は途切れ途切れに愚痴った。
そろそろ体力の限界か、横っ腹を手で押さえてゼーハーと肩で息をしはじめている。
逃げる速度も遅くなり、じわりじわりと甲頭竜との間隔も狭まってきている。
かくん。
「なっ!?」
そのとき香月が足元のゴミに躓いた。
かなり足にきていたようだ。そのまま前のめりに転倒して呻き声を漏らす。
その隙を甲頭竜が見逃すはずはない。
「ぐぁッ」
甲頭竜の突撃を背中から喰らい、香月が交通事故のように吹き飛んだ。
「このぉッ」
転がりながら、負けじと香月はショットガンを連射した。
散弾による無数の水飛沫が上がり、甲頭竜が額に弾丸を受けてよろめく。
「ちっ、乙女のピンチやな」
香月は更にショットガンを乱射して甲頭竜を下がらせ、痛む腰を押さえて立ち上がる。
小柄な体型のおかげで激突による衝撃が少なかったのが幸いだった。大きく吹き飛びは
したものの、下水のクッションもあって骨や内臓へのダメージはそれほどでもない。
「あかん、やばいわ。そろそろ弾も尽きてきた」
香月がガンベルトの薬莢の個数を数えて呟いた。散弾は尽き、残りは切り札のスラッグ
弾のみで、しかも二発分しか残っていない。
射撃に長けているとはいえ散弾は無駄弾が多いせいか、弾薬の減りが予想以上に早い。
「うわっ」
再装填の暇を与えずに甲頭竜が迫ってくる。
「まったく、明石焼きに小説の資料用に買い溜めた武器大全を読ませて正解やったわ」
香月は懐のホルスターからマグナムを抜き、即座に壁を背にして足をふんばった。
「とっておきの奥の手やッ くたばらんかいッ」
耳をつんざく爆音が六度こだました。
一直線に迫る甲頭竜の額に、六連発の44口径マグナム弾が集中して炸裂したのだ。
素では大口径の射撃反動に耐えられない小柄な香月だが、こうして壁を支柱とすること
で衝撃のブレを緩和させれば、彼女本来の射撃の腕が冴え渡る。
世が世ならクレー射撃の金メダルも夢ではない、射撃の名手の本領発揮だ。
さすがの甲頭竜も同じ箇所へのマグナム弾の連発はたまらなかったらしく、額の装甲に
亀裂をはしらせ、青黒い血を撒き散らしながらのたうち回った。
「いまのうちッ」
香月は素早く弾丸を再装填し、逃げる際にダメ押しに六発全てを撃ち込んだ。
「これで何とか逃げ切れれば……」
それから百メートルぐらい走ったのち、
「うはぁッ こりゃ最悪やッ」
落胆の声を上げて香月は急停止した。
行き止まりにぶつかった。
下水道の拡張工事が中断されたままの状態らしく、付近には未使用のままの鉄パイプが
並び、行き止まりの壁には掘りかけた自然の岩盤が露出している。
頭上にはマンホールが見えたが、遠目でも施錠されているのが分かる。逃げ口にはなら
ない。横手の排水口も人が潜れるサイズではない。退路は完全に断たれた。
「うは、見事に追い詰められたわー」
ポタリと彼女の手と額から血が滴った。先ほどの一撃のダメージが目に見えてきた。
「しらべる、とる、アイテム、ってかんじやな」
意味深なことを言いながら、香月は周囲に転がっている物品を物色していた。
「おけ、なんとかなりそうやね」
そのとき、通信機から明石焼きののんびりとした通信が入ってきた。
「香月ちゃーん、まだ生きてるかー? ポリポリ」
まだ喰ってる。しかもスナック菓子に切り替わってる。
「あーなんとか生きとるよー」
香月は呟き、腰のベルトからサバイバルナイフを抜いて鉄パイプへ振り下ろした。
かなりの切れ味の業物なのだろう。鉄パイプはスパンと容易く切断され、斜めの鋭利な
切り口を見せながら二つに分離した。
「なにしとんのん?」
「いいこと♪」
続けて香月ベルトのポーチから糸巻き棒を出した。糸は髪の毛の細さで数キロもの重量
を耐えると言われるアラミド繊維だ。
「明石焼き、ここで問題。狩りにおける鉄則ってなんや?」
突然の問いかけに明石焼きは目を丸くしたが、直ぐにギルドで習った答えを思い出す。
「えっと、索敵→包囲→撹乱→攻撃→捕獲やったかなー」
「正解。まず敵を発見し、退路を断ち、撹乱させ、攻撃し、そして捕獲する。これが狩り
における鉄則や」
より具体的に先を見通すなら、
「あとは獲物の習性を知ること。相手がどんな行動理念を持つか、どんな性癖を持つか、
どんな生態なのか、どこに生息してるのか、それをまず知っておくことが大切やな」
ポタリと香月の手から血が滴った。
「たとえば甲頭竜みたいな地下に住む生物の習性として、血の臭いに敏感なことが第一に
挙げられるわ。研究では鮫なみの嗅覚で五千倍に希釈した血液の臭いも感知したそうや。
ここは上流だから、わたしの血の臭いを嗅いでヤツは必ずやってくる」
「そういうのは目が退化してて、他の器官が進化してる理論やねー」
「せやせや、ウルトラマンにおけるテレスドン率いる地底人の回が代表例やな」
それから香月は太目の鉄パイプを四本ばかり選んで拾った。
「次に甲頭竜は獲物を狩るときに頭突きを使う習性があるわ。これは突撃で相手の骨を砕
いてからゆっくりと捕食するためやねん。ヤツらは鎧で関節が硬いから、他の連中のよう
に獲物に噛み付いて振り回して引き千切るって芸当が出来へんのよ。加えて目が退化して
視力は皆無に等しい。その分だけ耳と鼻は異様に効くんやけどね」
香月は最後に口にしていた肉桂ガムをペッと吐き出した。
「そこを突いて逆転満塁ホームランやで」
明石焼きには相方が何をしようとしているのか分からなかった。
ただ、通信機越しに漠然と罠を仕掛けているということだけは理解できた。
「ほんまもんのプロの狩りってものを魅せてあげるわ」
切り札のスラッグ弾を取り出し、香月は新しい悪戯を思いついた子供のように無邪気に
笑った。
オイツメタゾ。
逆流する水を掻き分けながら甲頭竜は凶暴な目を光らせて獲物へと迫っていく。
全ては予定通りだ。獲物はまんまと行き止まりが待つ一方通行に誘い込まれた。
上流から血の臭いがする。さっき突き飛ばした大きな獲物の血だ。
逃げる足音で分かった。既に獲物二匹は弱っている。さらに行き止まりに追い詰められ
て逃げ場も無い。あとは全力で叩き潰して喰らうだけだ。
頭と前足を傷つけられた怒りもある。逃がしはしない。
血の臭いが強くなる。獲物は目の前だ。
じゃぱん。じゃぱん。じゃぱん。
排水の音とは違う音が聞こえる。足音だ。
ミツケタ。
突撃する。この道は狭い。横に避ける幅も無い。すなわち体当たりが必ず当たる。
ツカマエタ。
全速力で自慢の額を獲物に叩きつける。
ガシャァアァァアアァァアアァンッッ。
壁が落盤を起こすのではないかという衝突音が下水道内に轟いた。
獲物が硬い岩盤の壁と甲頭竜の額に挟まれてグシャリと潰れた。
けたたましい金属音を立て、哀れな犠牲者は簡単に潰れ、砕け、ドサリと倒れこむ。
オヤ?
違和感がした。
この手応えの無さは何だ。
先日に襲った連中とは明らかに異なる感触の違い。
骨格と皮を残して中身が無い。
まるで抜け殻だ。
ぽちゃり。
また水滴が水面に落ちる音と血臭。
違う。
「どあほう☆」
獲物は真上だ。
潰したのは擬態だ。
鉄パイプを組み立ててアラミド繊維で巻いて人型にし、ジャージを着せただけの囮。
甲頭竜の真上。マンホールの縦穴のところに、スクール水着の香月が待ち構えていた。
「もらったぁッッッッ」
香月はこの瞬間を待っていた。
真下に擬態を設置し、その上から血を垂らして誘い込み、こうして擬態に襲い掛かって
隙だらけの頭を曝け出す瞬間を。
香月は鉄パイプの槍を持って一気に飛び降りる。狙いは急所である甲頭竜の脳だ。
ガギィッ。
硬いモノに鋭利な刃物を突き立てる音。
散弾とマグナム弾を幾度も受けてひび割れていた頭蓋骨は、鉄の槍の先端を受け入れ、
潜り込み、そして脳まで残り数ミリのとこで停止した。
やはり小兵。その体重をかけた一撃では、鉄パイプの槍は甲頭竜のブ厚い頭蓋骨を貫通
するに到らなかった。
香月の奇襲を凌ぎきった甲頭竜が、彼女を振り落とそうと身を捩ろうとする。
「そうは問屋が……」
香月は叫びながら鉄パイプの穴へ向けてサバイバルナイフの柄を叩きつける。
「おろすかいッ」
火花が散った。
ガオンッ。
鉄パイプの中で何かが疾走した。
同時に凄まじい爆音が甲頭竜の頭の中で轟いた。次の瞬間には甲頭竜の下顎から何かが
飛び出して下水を弾きながら床を数センチ削り取り、蒸気を散らして停止した。
下水道の石畳に半ば埋まったソレは、むき出しのスラッグ弾だった。
「あっちっちっちっちっ」
鉄パイプを掴んでいた手をプラプラさせて香月が甲頭竜の背中から飛び降りる。
それとともに甲頭竜が横に倒れて仰向けになった。
即死だった。
「マグナム弾にも耐える鉄骨頭も、さすがに頭蓋骨の中から直接銃弾を撃ち込まれたら御
手上げだったみたいやね」
コロリと鉄パイプの口から何かが落ちた。
ガムが貼り付いた空薬莢だった。
香月は鉄の槍の尾にガムという接着剤を貼り付けた弾丸を詰め、突き刺した後に弾丸の
雷管を叩き、そのまま弾丸を相手の頭蓋骨の中に撃ち込んだのだ。
鉄パイプはそのまま銃身の役割を果たし、弾丸は槍の先端から発射され、半ばまで貫い
ていた頭蓋骨を貫通し、脳味噌を掻き回し、ついには顎の下に抜けたのだ。
「出来合いの武器だけに頼らず、回りにあるものを創意工夫して武器化する。これがプロ
の狩りってもんよ」
「おー」
一部始終を通信機で聞いていた明石焼きの感嘆の声。
なんという器用なことをするのか。
この女は一本の鉄パイプを鉄の槍に改造するだけでなく、銃にも改造してしまった。
さすがは物書き志望の雑学王。とても凡俗には発想不可能な荒技だ。
「喜んでいる暇はなさそうや」
念のためにショットガンで止めの一発を撃ち込んでから、香月は仰向けに転がる甲頭竜
の股間を見て険しい顔つきになった。
「………………?」
しばしの沈黙に明石焼きがキョトンとする。
「あかん、こいつ雌や。てことは『つがい』か」
このテの野生動物が同姓同士で活動することは有り得ない。
つまり、このつがいは既に繁殖を開始している。
「卵を産んだらどうなるかってのは、考えるだけで洒落にならんわな」
市街地の真下にある下水道で凶暴な人喰い竜が次々と生まれて、繁殖し、増殖する。
それがどれほど危険な意味を持っているかは明石焼きでも分かる。
「ギルドに連絡しておかなくちゃな」
香月はすぐさま明石焼きを介し、ギルドへ緊急事態の報告を行った。
「あとは隊員一号が雄の方をしとめてくれるだけでなく、卵のある巣を見つけてくれると
ええんやけどな……」
とりあえず、キャラ的に喰われていないことを祈るだけだ。
「ぬぉおおぉおおぉぉおおぉぉおぉぉっっ」
青年はまだ逃げていた。
オタクの割には体力だけは無駄にある。
「これって追い込まれてないっスかぁ?」
甲頭竜は執拗に青年を追いかける。
着かず離れず、しかし確実に追い込む。
この追跡が玄人業になると、逃げている側は無意識のうちに捕食者に誘導される。
誘導先は当然、捕食者にとって有利な領域だ。
「罠に誘い込まれているのは分かってても、このままじゃ飛び込むしかないしっ」
走り続けていると下水道が急に開けた。
通路が途切れて足元が消失する。
「ぬおわっ」
勢い余って青年が真下に落ちる。
そのまま水深のある下水の湖に飛び込み、彼は大慌てで近くの岸に泳ぎ着く。
「ああもうっ、くそったれ」
岸に這い上がった青年が毒づいた。
「下水道の中心部にこんな立派な巣を構築してたのか」
這い上がった場所は巨大な塚だった。
廃材やゴミなどを掻き集めて積み上げた甲頭竜の牙城だ。
広いドーム状の空間に八方の下水路が集中し、下水がナイアガラの滝のように八方から
流れてくる。そこから集まってくるゴミを利用して敵は竜塚を築きあげたのだろう。
竜塚はひとつだけではない。二つか三つは確認できる。その中の一つに白い大きな物体
がいくつか並んでいるのが見えた。
「卵だ……やばいね……」
青年が白い物体の正体を知って舌打ちする。まだ孵化はしていないようだが卵の量が多
い。もし全てが孵ることになれば駆除が難しくなるのは必至だ。
「しっかし随分とリフォームしちゃって」
周囲の景色も酷いものだ。水門の管理をする機器は破壊され、一部が塚の部品にされて
いる。水門はゴミと廃材に塞き止められたせいで本来の排水を維持できず、中央部は水位
を増す一方だ。
こんな状態で大雨でも降れば、市街地全体に下水が溢れて逆流し、伝染病が蔓延するな
ど大変なことになる。
「自分家の棲家の利便だけを考えて、市街地に住む連中の迷惑を考えねぇ様を見るのは、
森林伐採をして自然破壊する人間の業を代弁しているようで気分が悪いね」
他人のフリ見て我がフリ直せだ。
「ああッ 通信機が壊れたッ」
明石焼きに連絡を取ろうとした青年だが、今の着水で通信機がイカれたようだ。
最低限の防水加工は施してあったが、下水の不純物のほうが一枚上手のようだった。
危険の少ない塚の中腹に上がると、遠くでポチャンと着水音がした。
敵も根城に戻ったようだ。
「まずい。持久戦になった」
ショットガンを構えながら青年が呟く。
此処は敵の根城だ。地上では鈍重な甲頭竜も水中ではそこそこ素早い。水中に引きずり
込まれればアウト確定だ。
「援軍を待つのもいいけど、それまで敵が暢気にしているわけないよね」
安全地帯に逃げて篭城する獲物を、そのままにしておくほど野生は低脳ではない。
捕食者として優れる獣ほど高い知性がある。もちろん人間が求める知性のように難しい
数学や難解な文学に優れるという意味ではない。野生における知性とは狩猟を効率的に行
うしたたかさを指す。知性が高い獣ほど獲物を捕らえる技術に長けるのだ。
あの甲頭竜は青年が動かざるえない状況が起こる瞬間を待っている。必ず獲物を得意の
水中に引きずり込む策を仕掛けてくる。かといって迂闊には動けない。
そのまま五分が過ぎ、十分が過ぎた。
「隊員一号ーッ」
水路のひとつから聞き慣れた相棒の声がした。
「隊長ッ」
水路から香月が顔を出す。
「こっちは一匹しとめたでッ そっちは……」
「危ないッ 水路の出口に近づかなッ」
警告を発するよりも早く……
ドッッガァァァァンッ。
新しい獲物の存在を感知した甲頭竜が、香月の真下の壁に全速力の頭突きを食らわせ、
水路の出口付近を大きく揺るがした。
熊が木を揺さぶって頭の蜂の巣を落とす作業と同じだ。不意の地響きに足が疲労して
いた香月はバランスを崩し、湖と化した中央部に落下した。
「いけないっ」
甲頭竜が溺れかける香月に迫るのが見えた。
「近くの岸に這い上がってッ 静かにッ」
青年は唇を自分の歯で噛み切ってから近くに転がっていた消火器を拾い、わざと水飛沫
をたてて湖に飛び込んだ。
ショットガンは背中に担ぐ。水中では手に持っていても無駄な荷物になるだけだ。
「あほっ、隊員一号ッ それは孔明の罠やッ」
香月が叫ぶ。これは敵の誘いだ。あの甲頭竜は彼が彼女を助けに自分の得意領域に侵入
せざるえない状況を作ったのだ。
「うまく陽動に引っかかってくれよ」
青年が消火器のピンを抜いてコックを捻った。
たちまち噴出口から二酸化炭素と窒素が勢い良く噴き出し、消火器はゴボゴボと水中で
気泡を生みながら激しい音を喚き散らした。
突然の異音に甲頭竜の注意が移った。
やがて水流に乗って流れてくる新鮮な血の臭い。
「こっちだ、蜥蜴野郎」
ペッと血の混じった唾液を吐きながら青年が挑発した。
血の臭いに狂乱した甲頭竜が、引き寄せられるように青年に迫ってきた。
「こなくそッ」
青年が突進してくる甲頭竜を狙ってマグナムを全弾発射した。
しかしここは地上ではない。足の届かぬ水深四メートルの湖の真ん中だ。
三発は甲頭竜の額に命中したが、残りの三発は敵を外れて遠くに当たった。
もう弾丸を再装填している暇は無かった。
目前に岩石と見紛うほどの巨大で硬質な額が迫ってきた。
「がふぁッッッッッッッ」
頭突きを真正面から喰らった。胸に強い衝撃。トラックに追突されたかのような激痛。
胸骨と肋骨が軋みを上げる。もちろん敵の突進は止まらない。
そのまま押し流され、挟み込むカタチで、中央部全体が震えるほどのパワーで、青年は
厚い壁に叩きつけられて悶絶した。
胸部を圧迫されて肺の空気が絞り出される。朦朧として目が泳ぐ青年に止めを刺すべく
甲頭竜は彼の足に噛み付いて水中に引きずり込んだ。
このまま一気に溺死させるつもりだ。人間は肺に空気が残っている場合は溺れ死ぬのに
十数分はかかる。だが肺の空気が空の場合は即座に呼吸器に水が溜まり数分で溺死する。
「………………」
絶体絶命。あそこまでダメージを受けたら自力では脱出不可能だ。
香月が今から助けに飛び込んでも間に合わない。それより早く彼は溺れ死ぬ。
勝利を確信して甲頭竜が笑った……気がした。
(笑うのはまだ早いよ)
挑発的な意思が甲頭竜に叩きつけられた。
(うん、そうくると思ってた)
青年が不敵に微笑んでいた。死の淵にいながら何て不遜な態度か。
(図鑑で呼んだお前さんの習性からして、最初に強烈な体当たりで弱らせてから、オレを
水中に引きずり込んで溺死させるだろうと思ってた)
ダカラドウダトイウノダ。
甲頭竜の不愉快そうな意思が青年に伝わった。
ヨメタトコロデナニモカワラヌ。
そうだ。予感が的中しても脱出が不可能な限り、絶体絶命の危機に変わりはない。
わざわざ喰い千切る必要も無く、このまま潜水しているだけで獲物は溺れ死ぬ。
反撃の力も残っていないはずだ。自力での脱出は絶対に不可能だ。それなのに……
(こうすると思ってたから狙ってたんだ)
サングラスが浮力で外れる。
その下にあった青年の目は淀みひとつ無く勝ち誇っていた。
ぞわりと甲頭竜の背筋に悪寒が走った。獣の本能が闇に潜む危険を感じた。
(うん、狙い通りの大当たりだ)
ナニカガクル。
(この水中戦を望んだのはキミだし、文句は無いよね)
青年が両手の人差し指で耳栓をしたと同時だった。
ゴォオォォオォォオオォオオォオオン。
中央部の一角で巨大な水柱が上がった。
「なッ なにッ? 爆発?」
パラパラと香月の頭上に下水の小雨が降ってくる。
それに混じって細かい金属片まで降り注ぐ。
その中の大きな砕片には『消火器』と文字が書かれていた。
浅瀬に沈んでいた消火器が爆発したのだ。
青年が外したと思われたマグナム弾は最初からコレを狙っていたのだ。
「これは水中爆破……ってことはッ」
青年が何を狙っていたかを直感し、香月が青年が沈んだ辺りの水中を見る。
濁った水の中で何か大きな影が激しく暴れていた。甲頭竜の乱舞だ。
ギィャアァァァアアァアアァアスッッッ。
耳障りな絶叫を上げて甲頭竜が水面から飛び出した。滅茶苦茶に暴れている。塚も壁も
お構い無しに様々な場所へ体当たりをかます。完全に混乱していた。
水中は空気中に比べて音の伝達が敏感で独特だ。水中での爆音は地上よりも衝撃の度合
いが凄まじく、この理を利用して爆薬を使って水中深くに棲息する魚を気絶させ、水面に
浮かんだところを捕獲する漁法が現実に存在するほどだ。
それだけに今の水中爆破による音の打撃は、異形の中でもとりわけ聴覚に秀でる甲頭竜
の耳を完膚無きに破壊するのに十分だった。
「ゲホッ……ゴホッ……ケヘッ……最高の水中花火だったね」
青年は香月のいる島に這い上がり、五度ばかり咳き込み、さんざん飲み込んだ汚水を吐
き出した。
「ったく、女子供を身を挺して危機から救って、かつテメエも生き残る。漢の浪漫を貫徹
するのも楽じゃないよ」
自分の悪運には絶対の信頼があるとはいえ、一歩間違えば溺れ死にが待っている危険な
賭けだった。まさに男らしい間一髪の危機脱出だ。
だが、まだ敵を倒したわけではない。かろうじて危機を凌いだだけだ。
「油断したらあかんっ 潜水して逃げたッ 相手は聴覚の回復を待つ気やッ」
「分かってるよ」
聴覚の回復を待つと言っても、今の一撃で敵の鼓膜と三半規管は再起不能のダメージを
受けたはずだ。鼓膜が破れても音は聞こえるが、もう高性能のソナーは使えない。
よほど大きな水音を立てなければ脱出は可能だ。しかしこのまま孵化が近い卵と凶暴化
した甲頭竜を野放しにはしておけない。このまま止めを刺さねばならない。
「とりあえず定時連絡。良い報告と悪い報告、どっち先がええ?」
「良い報告で」
「なら、こっちの塚の中に行方不明の二人がおる」
塚の中を親指で指差して香月。
「生きているのか?」
「かろうじて。でも意識はないな。手足の骨折も酷いみたい。たぶん生まれてくる子供に
生餌を与えるために殺さずにいたんやろな」
これは朗報だ。ただしこれが悲報に変わるまでの時間は刻一刻と迫っている。
「悪い報告は?」
「一匹しとめたけど、おかげさまで残弾は残り一発のみっちゅうとこかな。ここでミスを
したら、援軍来るまで篭城戦確定。そうなるとソコの二名は確実に衰弱死するわ」
「そうか。それならなおさら此処でヤツを狩らないとね」
「そっちの残弾は?」
「同じくショットガンが残り一発」
「……最高やね」
さすがに重傷者二人を抱えて手負いの敵が潜む牙城を強行突破するのは危険だ。
ここは敵の最後の砦だ。無防備な我が子を守る親の本能もある。敵が竜塚付近を離れる
ことは絶対にないだろう。それに依然として奇襲攻撃の面で有利なのは甲頭竜のほうだ。
今も相手は水中で一匹ずつ仕留める機会を回復を待ちつつ伺っている。
「どれっ、誘き出してみるか」
青年は岸辺に立ってジャブジャブと足で水面を掻き回した。
無反応だ。さすがに警戒している。簡単には近寄ってこない。
「今度はあっちが篭城に入ったみたいやね」
「厄介だな。こっちは怪我人だらけで食料も無い。通信機も壊れた。持久戦に持ち込まれ
ると衰弱と消耗の早いこちらが不利だよ」
香月は明石焼きに通信を試みるが、やはり下水の湖に落とされたときに壊れたらしく、
ノイズだらけのレシーバーを前に首を横に振ることとなった。
援軍が到着して巣を発見するまでに遭難者が生きているかは怪しい。
「短期決戦でいくしかないか」
覚悟を決めた顔で青年。
「何をするん?」
「今度、婚約しようか」
「はいィィィィ?」
いきなりの告白に、香月が素っ頓狂な間抜けな声を出した。
「ここは自分に任せて先に行くんだ。キミにこのサングラスを託す」
「ちょ、ちょ、ちょい、ちょい待ちっ」
「これが終わったら故郷に帰ってさ、オフクロの味の肉ジャガでも食べて、隊長の手料理
も食べたい。うん、ついでに店でも開いて田舎でのどかに暮らすのもいいな」
「たっ、たっ、たっ、隊員一号ッッッッ そのッ 自分はッ えとそのッ」
香月が混乱した頭を落ち着かせようとわたわたする。
そして、すぐさまにピンときた。
「こっ、こんなラブでコメな場所にいられるか! わ、わたしは一人で寝るで!」
頭から湯気がでるぐらい真っ赤になって香月が言った瞬間……
二人のすぐ目の前で巨大な水飛沫が上がった。
「まったく」
「ノリの分かるヤツで嬉しいわ」
二人が同時に、野獣の形相でショットガンを持つ右手を上げた。
その銃口の先に、いままさに大口を開けて飛びかかろうとする甲頭竜の姿があった。
「この瞬間を待ってた」
捕食者さえ喰らう最強最悪の狩猟者が捕食者の目前に存在していた。
たったコンマ数秒のチャンスだった。
堅固な鱗を持つ甲頭竜の最も装甲の薄い口内に向かって、ショットガンが火を噴いた。
バァン。
銃声が鳴り、超高速の散弾とスラッグ弾が正確に甲頭竜の脳味噌を吹き飛ばした。
危機一髪からの逆転勝利だった。
「まったくッ 全体的にB級クリーチャー映画のノリで助かったぜ」
「そういうノリでこその、麻生香月探検隊や」
緊張が解けるなり、二人はやれやれと地面に座り込んだ。
「よく今のが死亡フラグの撒き餌だって分かったね」
「あんた程度の考えることなんてお見通しや」
「類は友を呼ぶ」
「類友と書いてポンヨウとは言ったモンや」
「もしかして間に受けた?」
「だったらどうする?」
その一言の後、しばらくの沈黙があった。
香月は頬を染め、青年が視線をそらす。
ほんのりと悪くないムードが漂った後、二人は同時に口を開いた。
「三次元に興味はない」
「キモオタには用はない」
まさに同時タイミング。二人の完全否定の言葉が見事にハモり、
「このロリコンどもめぇぇぇぇぇ!」
「ヨゴレ芸人にだけは言われたくないぞーッッッ!」
三秒後、やっぱり殴り合いになった。
喧嘩するほどなんとやらとは言ったものである。
ちなみに、ここまでフラグを立てておいて、二人の仲が進展するかといえば……
「あんたとはやっとれんわっ!」
「それを言うたらおしまいやーっ!」
実のところ、ンなことはなかったりする。
こんな息ピッタリなドツキ漫才関係もまた、男と女の友好のカタチ。
これは、夢を彷徨う旅人たちの、ある日の物語。
彼女らの【夢の国】におけるこれら冒険の経験が、のちに未知なるカダスを求める者が
招く大いなる騒乱を潰す布石のひとつになるのだが……
それはまだまだ先のお話。