目覚めは、珈琲の香りから始まる
第1話 目覚めは、珈琲の香りから始まる
朝の光が、木製の窓枠を優しく叩いている。
俺はゆっくりと目をこすりながら、上半身を起こした。
……あれ?
前世の記憶が、まるで昨日の残業のように鮮やかに蘇る。
東京の広告代理店で働いていた黒崎悠、35歳。毎日終電、休日は寝るだけ。心筋梗塞でぽっくり逝ったはずだ。
なのに今、俺の視界にあるのは、見慣れない天井の梁。
柔らかい羽毛布団の感触。
そして、鼻をくすぐるのは――珈琲豆を焙煎した、甘く深い香り。
「ここ……どこ?」
声を出してみると、若い。20歳くらいの、ちょっと低めの男の声。
慌ててベッドから降り、部屋の隅に置かれた古い鏡の前に立つ。
映っているのは、黒髪の青年。
前世の俺より少し背が高くて、肩幅があって、でも顔立ちはどこか懐かしい。
名前は――ユウ・リーフェ。
この世界の記憶が、頭の中にすーっと流れ込んでくる。
ここは「緑の里」という、のどかな田舎村。
人口三百人くらいの、小さな集落だ。
両親は去年、流行り病で揃って亡くなり、俺は一人でこの小さなカフェ「緑の豆亭」を切り盛りしている。
……まあ、正確には「切り盛りしていた」らしい。転生前の俺は、死ぬ直前までベッドで寝込んでいたらしいから。
ふと、頭の中に優しい女性の声が響いた。
『ユウさん。ようこそ、のんびり世界へ。
あなたには特別な力は与えません。ただ、焦らず、味わって生きてください。
……大きな波がくるまでは、ね?』
女神様? まあ、いいや。
前世で味わえなかった「のんびり」を、存分に味わおうじゃないか。
俺は大きく深呼吸して、部屋を出た。
階段を降りると、1階がカフェの店内だ。
木のカウンター、六席だけの小さなテーブル。
壁には手書きのメニューが貼ってあって、窓際の棚には色とりどりの魔法豆の瓶が並んでいる。
朝の準備を始める。
前世の知識と、この世界の記憶が、ちょうどいい具合に混ざる。
まず、魔法の火を灯す。
指先から小さな炎がぽっと浮かび、焙煎機に火を入れる。
これはこの世界の「生活魔法」。誰でも少しは使える、便利なやつだ。
豆を丁寧に回しながら、香りを確かめる。
中煎り。酸味と甘みのバランスがいい。
前世で淹れていたハンドドリップの感覚をそのままに、湯を注ぐ。
ふわり、と店内に珈琲の香りが広がった。
「はあ……最高だ」
誰もいない店内で、俺は思わず笑った。
残業で死んだ男が、異世界でカフェ店主。
これ以上ないほどの、報われ方じゃないか。
店の看板を「OPEN」にひっくり返すと、すぐに常連さんがやってきた。
「おはよう、ユウくん! 今日もいい香りだねえ」
最初のお客さんは、村の鍛冶屋のおじさん、ガルドさん。
50過ぎの熊みたいな体格なのに、甘党で有名だ。
「モーニングセットで。今日はあの、ふわふわのパンケーキも付けてくれ」
「了解です。今日の豆は『朝霧の森』ですよ。酸味がさっぱりして、ガルドさんの甘いものにぴったりです」
俺は笑いながら、鉄板に生地を流す。
この世界のパンケーキは、魔法の小麦粉を使っているから、ふわふわ具合が異常。
メープルシロップは、裏山の蜂蜜を煮詰めた自家製。
添えるのは、村の畑で取れた新鮮なフルーツ。
ガルドさんは一口食べて、目を細めた。
「うまい……。お前が寝込んでた二週間、村中が寂しかったぞ。
特に、うちの嫁が『ユウくんの珈琲がないと朝が始まらない』って文句ばっかり言ってた」
俺は苦笑いしながら、自分の分の珈琲を淹れる。
前世では、こんな穏やかな会話、朝飯前にもできなかった。
次に来たのは、隣家の少女、リリア。
16歳。栗色の髪を三つ編みにして、いつもエプロンを着けている。
「悠さん、おはようございます! 今日も手伝いに来ました」
彼女は俺の幼なじみで、このカフェの裏方担当。
前世の記憶では「可愛い後輩」みたいな感覚が勝手に浮かぶ。
本人は「私、将来はユウさんの嫁さんになるんですから!」と公言しているらしいが、まあ、のんびり考えよう。
リリアは慣れた手つきで、テーブルを拭き始める。
「ねえ、昨日の夜、森の方で光ってませんでした?
おじいちゃんが『また古の魔導書が呼んでる』ってブツブツ言ってましたよ」
……古の魔導書?
俺は一瞬、胸の奥がざわっとした。
でもすぐに、珈琲の香りでそれを追い払う。
「まあ、いいよ。光ってたって、今日のランチはカレーだし。
リリア、玉ねぎ切るの手伝ってくれる?」
「はーい!」
彼女の笑顔を見ていると、なんだか心がほっこりする。
前世の俺なら、こんな会話で「仕事の進捗どう?」とか聞いていただろう。
今はただ、「玉ねぎの切り口がきれいだな」と思うだけ。
午前中は、村人たちが次々とやってきた。
農家のばあちゃんが「今日のハーブティー、頼むよ」と来て、
子供たちが「魔法のクッキー!」と騒いで、
通りすがりの行商人が「この村の珈琲は本当にうまい」と笑顔で去っていく。
俺はただ、カウンターに立って、豆を挽き、火を調整し、笑顔で応対する。
忙しくない。
ただ、ゆったりと、丁寧に。
午後三時。
ピークが過ぎて、店内に二人きりになった時、リリアが小さな声で言った。
「ユウさん……本当に、よくなったの?
あの二週間、すごく心配したんだよ」
俺は彼女の頭を軽く撫でた。
前世では絶対にしなかった仕草だ。
「大丈夫。むしろ、生まれ変わった気分だよ。
これからは、毎日この店で、みんなが笑顔になるものを作りたい」
リリアの頰が、ほんのり赤くなる。
その時、店のドアが小さく鳴った。
入ってきたのは、見知らぬ男。
旅装束で、腰に短剣を下げている。
でも、目が優しい。
「すみません、看板を見て……一休みさせてもらえますか?」
「どうぞ。席はどこでも空いてますよ」
俺はメニューを差し出しながら、内心で少しだけ警戒した。
この村に旅人が来るのは珍しくないが、
男の首元に光る、小さな青い宝石。
それは――この世界の記憶で「王都の紋章」だ。
男は珈琲を一口飲んで、目を丸くした。
「これは……すごい。
王都の高級店でも、こんな味は出せません。
……ところで、店主さん。
最近、この辺りで『光る古書』を見た人はいませんか?」
リリアが俺の袖をそっと引いた。
俺は微笑んだまま、首を振った。
「さあ? うちはカフェですから、珈琲と会話がメインで。
古書は……地下室に埃かぶったのが何冊かあるけど、開けたこともありませんよ」
男は少し残念そうに笑って、
「そうですか。もし何か気づいたら、王都の『青の塔』まで連絡を。
報酬は弾みます」
そして、追加で一つ、クッキーをお土産に買って去っていった。
ドアが閉まった後、リリアが小声で囁いた。
「悠さん、あの人……なんか、危なそうな雰囲気だった」
「うん。でも、危ないのは向こうの世界の話でしょ」
俺は空になったカップを洗いながら、
カウンターの下の引き出しに、そっと鍵をかけた。
引き出しの中には、一冊の古びた本。
表紙に銀の鍵の紋様が刻まれていて、
さっきから、かすかに光を放っている。
……開けるのは、まだ早い。
今日は、夕飯の準備をしよう。
裏庭で取れたトマトと、村のチーズで作る簡単なパスタ。
デザートは、魔法の豆で作ったティラミス。
窓の外では、夕陽が森をオレンジ色に染めている。
森の奥、ほんの少しだけ、何かがまた光った気がした。
でも、俺はただ、
「明日も、いい珈琲を淹れよう」
と呟いた。
のんびり。
焦らず。
味わって。
女神様が言っていた「大きな波」が来るまでは、
この緑の里で、
今日も、明日も、
穏やかな一日を重ねていこう。
――第1話 おわり
(つづく)




